探偵さんの手帳

藤井由加

煙の立っていないところに火はない。

 僕は初対面の人に対して口が利けないせいで、助手に迷惑をかけてばかりだ。申し訳ない。申し訳ないから、この手記を残すことにした。きっと、いつか君のためになる。僕たちが大変お世話になったご婦人との出会いの事件から始めよう。


 君の言う通り、僕は人の話をよく聞く。少なくとも君よりは注意深く耳を傾けていた。耳だけじゃない。会話とは、理性を総動員して行うべきものでもある。ちょっとした非言語的な仕草や、コンテキストとの接続を考えた時に初めて気付きうる、目に見えないし、耳にも届かない、五感で捉えられないものにも頭を向けるべきなんだ。


 まず、あの件は浮気事件ではなかった。それは君も覚えているだろう。もちろん失踪事件でもなかった。1週間、依頼人の旦那さんが家に帰ってきていたことをご婦人が気付かなかっただけ。早とちりだった。もちろん僕は旦那さんが夜遅くに家に帰ってきていて、朝早くに会社へ出発していたという詳細までは知らなかったけれど。


 あの事件は始めから浮気事件ではなかった。僕が言いたいのは、ご婦人は必ずしも僕たちに [浮気] の調査を頼みに来たわけではなかったということだ。僕の記憶が正しければ、彼女は最初、「夫を探して欲しい。」とだけ言っていた。 [浮気] の有無よりも、旦那さんの消息の方が重要だったのだ。恐らくそこを履き違えてしまったところから、君の空回りが始まった。


 少し脱線するが、僕がコーヒーを淹れにキッチンへ向かったときのご婦人の様子を覚えてるかい。恐らく覚えてないだろうから、当時の状況を詳しく整理しておこう。


 まず、君が対話の中で「コーヒーでもお淹れしましょうか?」とご婦人に尋ねた。そして「お願いするわね。」と彼女が答えた。そこで僕が椅子から立ち上がってキッチンに向かうところで、彼女は戸惑いの様子を見せた。


 その戸惑いの原因は恐らく、君ではなく僕がキッチンに向かったからだ。コーヒーを淹れましょうかとご婦人に尋ねたのは君だった。だからキッチンに向かうのは君であったと彼女が思い込むのも自然なことかもしれない。もしかしたら彼女は、女性がお茶汲みをするべきというジェンダー観を持っていたのかもしれない。もしくは、彼女は君がキッチンでコーヒーを淹れている間に、僕との1対1の会話ができると期待していたのかもしれない。その根拠に彼女は、君が質問を再開した時にも戸惑い続けている。


 このように相手の頭の中の再現を試みるのが探偵の基本だ。


 さあ、次に君とご婦人の会話の内容について精査していこう。


「では幾らか質問します。旦那さんは普段、何のお仕事をされてるんですか?」

「一般商社の営業課で働いてるわね。とくに面白くないわよ。よくいる普通の冴えないサラリーマンなんだから。」

「この件を警察には相談されましたか?」

「するわけないじゃない。浮気調査なんて税金でするものじゃないわ。」

「なるほど、依頼人さんは旦那さんの浮気を疑っているんですね。では、何か浮気を疑う根拠とか、旦那さんの浮気の相手などに心当たりはありますか?」

「そんなの無いわ!これっぽちも、思いつかないわよ!あの人は会社でのことなんて私に微塵も話してくれないもの!」

「会社に泊まっているだけ、という可能性は無いですか?」

「残業して夜遅くに帰ってくることは今までにもあったわよ!でも会社に泊まるなら泊まるって連絡するべきだわ!1週間も泊まらせる会社も会社よ!そんな会社、今すぐにでも辞めさせなきゃ!」

「ま、まってください!まだ浮気で無いと決まったわけじゃありません!」

「・・・それもそうね。でも、浮気でないことを祈るわ。」


 これは僕の記憶に頼った会話の再現になる。録音の文字起こしではない。言うまでもなく「!」はその発話者の緊張の高さを示しているのだが、ご婦人激昂するのは [情報共有の欠如] に言及しているときだ。逆に [浮気] の可能性に言及しているときには比較的に落ち着いている。浮気と聞いて落ち着いていないのは君だけだ。


 この会話について確認するべきポイントはもう1つある。ご婦人にとって重要なのは [情報共有の欠如] という状態そのものに対してであって、その異常が解消されること自体が目的であった、ということだ。何かを知りたいから僕たちを頼りに来たのではなく、 [情報共有の欠如] をなんとか解消してもらうためにご婦人は僕たちを頼りに来たのだ。


その根拠にご婦人は「会社でのことなんて私に微塵も話してくれない」旦那さんのことを、「とくに面白くないわよ。よくいる普通の冴えないサラリーマンなんだから。」と決めつけて評価している。彼女は旦那さんの会社での様子を全く知らないわけだが、知ったところで「面白くない」だろうと決めつけている。興味が無いのだ。


 [情報共有の欠如] は [夫の不在] という状態に結びついた途端に不安の源となり、僕たちを頼りに来る動機として立ち上がった。旦那さんはもしかしたらどこかで死んでいるのかもしれないし、会社に居残って仕事をしているのかもしれないし、浮気相手の家に泊まっているのかもしれない。1つ目の可能性には君もご婦人も言及していない。2つ目の可能性に対しては怒りの反応を返していた。むしろ、2つ目よりも3つ目の可能性が事実であった方がマシであると言わんばかりの反応だ。


 もちろん浮気されることを望んでいるわけではないだろう。その根拠に、彼女自身は「浮気でないことを祈」っている。だが、会社に泊まっている可能性が持ち出されていたときには電話をかけて仕事を辞めさせる勢いの能動的な行動を示唆したのに対して、浮気に対しては受動的な [祈り] という行為を選択している。事件の真相が浮気であったならば、彼女はそれを受け止めるつもりでいるのだ。彼女の不安の源が [情報共有の欠如] と [夫の不在] だからである。それが解ければ一旦はいいのだ。


 仮に旦那さんが浮気をしているとして、連絡もなく1週間も連続で家に帰らなくなるのはリスキーすぎて無理がある。性別を問わず、悪いことをするときにはそれを隠そうとする心理が働く。1度密会をすればしばらく日を開けて、関係を疑われうる接点を減らしていこうとするのが普通だろう。そうでなくとも1週間も家を空ける言い訳くらいはするはずだ。しかしご婦人は、旦那さんから如何なるメッセージも受け取っていない。


 ただ、もし旦那さんが悪びれもせずに浮気をするような屑であったとして、その可能性を否定できる根拠はない。ご婦人は会社でのことに限らず、家の外での彼のことを一切知らされていないのだから。


 火のないところに煙は立たないと言うが、煙の立っていないところに火はない。


 逆に火のあるところには煙が立ち、煙の立っているところには火がある。


 特定の情報を伝えない心理には2つの原因が考えられる。1つは隠すために伝えないという場合。もう1つは伝える意味があまりないから伝えないだけという場合である。例えば、僕は初対面の人にいきなり自分のこれまでの人生を語るようなことはしない。相手はそんな話に興味は無いからだ。別に面白くもないし。


 旦那さんがご婦人に対して何か後ろめたいことを隠しているのか、特に伝える必要性がないから何の情報も伝えていないだけなのか。そのどちらかを断定する根拠はなかった。


 僕が思うに、あれはご婦人が旦那さんに何か一言、「大丈夫?」などと送信してみれば片が付いた事件だったと思う。なぜならメッセージを送っていなかったのは旦那さんだけではなく、ご婦人もそうだったからだ。


 いわゆる [聞かれていないから答えてこなかった] だけ。僕らを頼りに来る前に、「大丈夫?」などと一言、メッセージを送ってあげれば済んだ話だっただろう。大事なことだから2回書いた。


 浮気だったにしろ、会社に泊まり続きだったにしろ、旦那さんの無事は確認できたはずだ。僕らの出る幕はなかったはずだ。そう考えると非常にばかばかしく思えてこないだろうか。


 世の中には、煙を観測していないのに火があることを勘違いする人がいる。この時のご婦人もそれであったということだ。推理というものは、煙に対応する火を見つける作業と同じだ。煙が発生していないところに僕の頭は働きようがない。


 また、真っ暗な場では煙を見ることはできない。そして思考の場は最初、真っ暗だ。煙を見つけるには、その視界を照らしてやる必要がある。ご婦人はそれを怠っていただけ。君が動く必要は無かった。そういう事件だったんだ。


 謎は隠されていなかった。こちらが知ろうとしていなかっただけ。そのことに気付けるかどうかが鍵の事件だった。というわけだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

探偵さんの手帳 藤井由加 @fujiiyukadayo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ