中編
早くも長かった夏休みも終わり、これから文化祭や修学旅行と楽しいイベントが盛りだくさん。
「夏休みが終わって気緩んでんじゃねぇだろうな?今日はお前らに文化祭の出し物についての話し合いをしてもらう。それじゃあ実行委員、後は頼んだぜ」
赤坂が教卓の横に置かれた椅子へと腰掛けると、学級委員でもあり文化祭実行委員でもある樹が前に出て教卓に両手を乗せて指揮をとる。
「じゃあ早速アイデアある人は、積極的に挙手してってね〜」
「はい!」
早速パラパラと四、五人が挙手をする。
「はい、じゃあそこ」
「お化け屋敷なんてどうだ?来た奴みんなビビらせてやろうぜ」
「まずはお化け屋敷っと」
樹は出された案を黒板に板書していく。
「メイド喫茶とかどう?」
「いいねメイド喫茶!そういえば、去年私たちのクラスお化け屋敷だったから、絶対メイド喫茶の方がいいよ」
メイド喫茶というワードが出た瞬間、一部の女子たちが多少の盛り上がりを見せる。
「メイド喫茶人気だね〜。他に何か案ある人?」
挙手をしていた人の大半がメイド喫茶だったのか、一本も手が挙がらない。
こうなると早くもお化け屋敷かメイド喫茶かで決めることになるが、お化け屋敷は女子からは不評なため、必然的にメイド喫茶になりそうだ。
「・・・・・はい」
一番前の廊下側に座っていたメガネをかけた内気そうな女子生徒が恐る恐るといった様子で手を挙げる。
「吉祥寺さんが意見するなんて珍しいね」
「はっはい・・・・・すみません」
決して悪い意味で言ったのではないが、思わず謝らせてしまったことに、樹は急いで謝罪する。
「ごめんごめん、そんなつもりで言ったんじゃないよ。吉祥寺さんの意見も聞かせてくれる?」
「はい。わ、私は、劇がいいなと思いますっ」
「劇か、うちの学校ではあまり見たことないからいいかもね。どんな劇がやってみたいとかあったりする?」
すると吉祥寺は机の中から一冊のノートを取り出す。
「じっ実は私、小説を書いているというか、既存の物語をアレンジして作り変えるのが好きなんです。一番よくできたのが桃太郎なので、桃太郎をできたらやってみたいなって」
「桃太郎って小学生かよ」
そんな男子の一言に吉祥寺はシュンと体を縮こませる。
「アレンジだって言ってるだろ。それにお前のお化け屋敷の案より、俺は断然劇の方がいいと思うね」
樹の男前なフォローが吉祥寺の瞳を輝かせていることに、本人は全く気がついていない。
「なんだよ、お化け屋敷そんなにダメか?」
「ダメっていうか、他二つに比べるとやりたい人が少ないからな。てことで、メイド喫茶か劇のどちらか一つに決めようと思うんだけど、ここは実行委員兼学級委員も頑張っている俺に選択権をくれないかい?」
そんな樹の提案に割と女子も含めてクラスのみんなはすんなりと了承した。可愛い衣装が着たい女子たちにとっては、劇でそれが叶うのならどっちでもいいということだろう。男子にいたっては何でもいいという姿勢の者が多数いる。
「それじゃあ俺たちのクラスは演劇をやるということで、吉祥寺さんは後日、俺にアレンジ版桃太郎の原稿を見せてね」
「はいっ」
二年D組の文化祭の出し物は演劇に決まり、クラス内で多少の拍手が起きている中、普段は目立たない男子生徒が何の前触れもなしに立ち上がり、みんなの視線を一点に集める。
「あのさ、出し物が演劇っていうのはいいんだけど、桃太郎じゃないのにできない?」
「急にどうしたんだよ旬。お前が意見するなんて珍しいな」
「まぁ」
「んで、桃太郎が嫌ってのは何でなんだ?」
「嫌ってわけじゃないんだけど、よくない気がして」
「内容を見てからでも全然いいと思うけどな。それじゃダメなのか?」
旬はなぜ桃太郎をやりたくないのか、その理由を話すわけにはいかないため、今現在用いれる言葉だけでは樹含めてみんなを納得させることはできない。
「そうだね。ごめん変なこと言って」
旬は再び席に着席する。
「いいって、お前が変わってるのは親友の俺が一番知ってるからさ」
樹の入れてくれたフォローのおかげで、クラス内に温かな笑いが起きた。
時間は少し遡り、吉祥寺さんから桃太郎というワードが出た直後。
「桃太郎?」
桃太郎というワードが聞こえた瞬間、旬は思わず小さく声に出してしまう。幸い、旬の声は茜にしか届いていなかったらしく、旬の囁きに茜だけが反応する。
「どうかしたの?」
「いや、何でも————」
そう言いかけたところで、言葉を止めた。
クラスの反応から、桃太郎の演劇をやることになってしまう未来が想像できてしまったから。
「桃太郎って聞いたことない?」
「ないわね」
即答する茜。
「それがどうかしたの?」
「簡潔に話すと、桃太郎っていうのは童話なんだ。桃太郎って名前の少年が、仲間を連れて鬼を退治しに行く話」
それを聞いた茜の表情が一瞬固まる。
「だから君にとってこの話は、鬼役をやるとしても桃太郎とその仲間役をやるとしても、快く思わないでしょ?」
「まぁ、確かによくは思えないわね。だけど、いわゆる作り話よね?」
「うん」
「なら、気にする必要なんてない。実際の鬼たちは世界を守る活躍をしていると父さんが言っていたから退治されるなんてことはあり得ないわ」
茜は優しい笑顔を旬へと向けた。
放課後の帰り道、樹と旬は、家にアレンジ版桃太郎の原稿を取りに帰った吉祥寺を待つため、ファミレスへと立ち寄り向かいあって会話をしている。
「ボクまで来る必要あった?」
「二人だけって気まずいだろ?まぁ原稿見るの明日でもよかったんだけど、吉祥寺さんが早く見せたいらしくてさ、まぁ俺も早く見たいし。それに、お前には聞きたいこともあったからな」
「何?」
「朝のホームルームの時の話だよ」
旬は露骨に前髪で隠れて見えないが、目を樹から逸らす。
「なんで桃太郎嫌なんだよ?」
「嫌っていうか、よくないって思っただけ」
「だからなんで?」
「今朝はそう思ったってだけで、今は桃太郎に賛成してるから気にしないで」
例え仲のいい樹だからといって、茜の秘密を打ち明けていい理由にはならない。
「気にすんなって言ってもな〜」
樹は眉間にシワを寄せて、オレンジジュースの入ったコップを口へと運ぶ。
「まぁあまり深くは詮索しねぇけど、今日の旬、めっちゃ目立ってたぞ」
怪しむような表情から揶揄うような笑みに変化する。
「知ってる」
丁度その時、ファミレスのドアを開ける時の鈴の音が店内に響き渡り、息を切らせた吉祥寺が旬たちの下に歩いてきた。
「お待たせしてすみません」
「全然待ってないから大丈夫だよ〜。原稿見てもいい?」
「は、はい」
肩にかけていた小さな袋から、B4サイズほどの幾つも重なった紙を取り出して、両手で樹へと差し出す。
「おっとその前に、旬俺の横来た方がいいだろ?」
「だね」
旬は向かい合って座っていた位置から樹の隣の席へと移動し、吉祥寺が元々旬が座っていた場所へと腰掛ける。
「とりあえず、ドリンクは頼んであるから好きなの取って来ていいからね」
「はい、ありがとうございます。それじゃあちょっと行って来ますね」
吉祥寺は自分の分のドリンクを取りに行くため席を立った。
「それじゃあ早速読ませてもらうとしようかな」
「ボクはいいよ」
「何のためについて来たんだよ?」
「樹が無理矢理連れて来たんでしょ」
「そりゃあお前、仲良くない男女二人きりなんて気まずすぎるしよ」
見た目の割に、こういう面で情けのない樹に対して旬は少しだけため息をつく。
「吉祥寺さんからしたら、男二人の方が気まずいと思うけどね。天界さんとか八代木さんも誘った方が良かった気もする」
「まぁとにかく、来ちゃったもんは仕方ないんだし、旬も読んでけよ」
「吉祥寺さんに許可取れたらね」
そうこうしている間に、コップいっぱいにカルピスウォーターを汲んだ吉祥寺が戻って来た。
「それじゃあ、少し長いとは思いますけど、読んでみてください」
「オッケー。俺が読んだ後こいつにも読んでもらっても大丈夫?」
「ぜひお願いします!お二人から意見がもらえたらとても嬉しいですから」
そう言い、普段は一切見せることのない純粋で可愛らしい小動物のような笑みを樹と旬へと向けて来た。
「っ⁉︎」
「樹?」
「・・・・・・・・」
「樹どうした?」
「あ?・・・・・今の見て何とも思わなかったのか?」
吉祥寺の笑みを受けた樹がダメージを負っていることなど知らない旬が不思議そうな表情で問いかけるが、問いかけを受けた樹もまた、今のを受けてなぜ平気なのか理解できないと言った表情で旬に呆れた視線を向ける。
「はぁ、まぁお前は天界さんだもんな」
「何のことだよ」
「今は分からなくていいんじゃん?それよりもそろそろ読ませてもらおうかな」
「お願いします」
深く頭を下げる吉祥寺を樹の視線が追いかける。樹は、頬が少し赤く染まったまま吉祥寺作・アレンジ版桃太郎の原稿に目を通し始めた。
始まりはごく普通。お爺さんが山へ柴刈りに、お婆さんが川へ洗濯に行き、桃がどんぶらこどんぶらこと流れてくるところから始まっていく。その後、成長した桃太郎が順調に猿・犬・キジを仲間にしていくところまでは原作通り。しかしここから吉祥寺風アレンジが加わっていた。始めは鬼をばったばったと倒していた桃太郎だったが、次第に鬼たちにも人間と同じ心があることに気がつき、桃太郎は鬼たちを倒すのではなく、仲間になることを望み始める。けれど、どうしても分かり合えない鬼はいて、頭である鬼を仕方なく退治することになってしまう。頭を失った鬼たちは複雑な気持ちは残るものの、桃太郎と一緒にこれからの苦難を共に乗り越えていくことを決意する。そうして無用な血が流れずに済む結果になったのだが、鬼ヶ島に踏み入った生物は、時と共に鬼になってしまうらしく、これから鬼たちを引っ張っていかなければならない立場の桃太郎は、共に旅をして来た仲間である猿・犬・キジを人間の待つ世界へと送り届け、お爺さんとお婆さんに永遠の別れを告げた後、桃太郎は鬼ヶ島で次第に鬼となっていくというお話。
悲しい話ではあるが、人間側も鬼側も両者が納得する内容となっていた。
樹の後に旬もアレンジ版桃太郎を読ませてもらい、この内容ならむしろ茜も楽しめるのではないかと理解する。
「今日はありがとうございました。演劇用に長さなどを調節してまたお見せできればと思ってますのでよろしくお願いします」
「その桃太郎めっちゃくちゃ良かったから、絶対演劇成功させてやろうね」
「は、はい。それではまた明日」
そう言って、吉祥寺は樹たちとは逆方向に歩いて行った。
「俺たちも帰るとするか」
「そうだね。そういえばさ樹」
「ん?」
「さっきなんであんなに動揺してたの?」
樹は少し貯めた後、その時の光景を思い出してのほほんとした緩んだ表情で語り出す。
「そりゃあさ、あんな顔見せられたら撃ち抜かれないわけないだろ。普段は見せないくせに、本当にずるいってもう・・・・・はぁ」
「天界さんの時は撃たれてないみたいだったけど?」
「まぁキレイだとは思ったけどよ、あん時撃ち抜かれたのは俺じゃなくてお前だろ?」
その返しは予想していなかった旬が不覚にも動揺してしまう。
「い、いや、ボクはそんなことない」
「またまた〜、まぁ何にせよ、吉祥寺さんは俺のタイプなんだろうな。しばらくはあの笑顔が頭から離れそうにねぇや」
そんな浮かれる樹を見て、旬はどこかホッとした感情を抱いていた。
「ボクはそもそも小学校に行ってないから、その時の樹のことは分からないんだけど、仲良くなったばかりの樹は今のクラスのボクみたいだったよね」
「旬が転校してくる前は今みたくムードメーカーだったんだけどな。旬が来てからは、今とは逆の立場だったよな。まぁ高校は中学とは離れたとこ選んだし、過去の俺たちを知ってる奴は俺たち以外にいないんだけどよ」
「今思えば、樹がああなってたのはボクのせいなんだよね」
テンションが明らかに下がっていく旬の背中をポンっと叩く樹の表情には、過去の暗さの影など一ミリもない。
「過去のことだからあんまり深く捉えんなよな。でもまぁ始まりはそうかもな、幼稚園で俺と旬の親が知り合ってから俺はやりたくもないボクシングを習わされるはめになってさ、気がつくとこんなに強くなってたよ。その強さが原因で中学一年の冬にちょっとした怒りを我慢できずに、クラスの奴を必要以上に痛めつけちまったからな、その前みたくみんなに接することはできなくなった。そんで俺は二年になるまで停学処分、直後に旬が転校して来た」
「ボクを恨んだことはある?」
「いいや、全くねぇな」
樹は迷うことなく即答した。
「幼稚園の頃知り合ったっつっても、そん時は親同士が仲良かっただけで、中学になるまで俺が一方的に旬のことを知ってただけだからな。だって旬、俺と転校初日にした挨拶のこと覚えてるか?」
旬はどこか恥ずかしそうに少し笑みをこぼした。
「うん、覚えてる」
「初めましてって言ったんだぜ?めんどくさそうに、だけどどこかワクワクしながらさ、もう俺おかしくてよ、絶対俺のこと思い出させてやるって思ってたら気がつくと俺たちは親友になってた」
樹はお腹を抱えるような笑いを見せた後、微笑ましく口元を緩ませる。
「旬のことは本当に恨んだことは一度もないぜ。俺が小学生の頃、こっそり親に連れられて旬の様子を見学しに行ってた話は前にしたことあったよな?」
「うん」
「俺の親はその様子を見て次第にボクシングを習わせるのをやめさせてくれたんだよ。きっと恐怖したんだろうな。俺もまだ小さかったし怖い気持ちもあったけど、俺と同い年にこんなすげぇ奴がいるんだって憧れてたんだぜ。だからさ、旬は俺の憧れなんだよ。今も昔もこれから先もずっとな」
そんなことをまじまじと言われては、いくら男同士といえども視線を逸さずにはいられない。
「だからまぁ、マジでお前が体育祭前にすげぇ走りを見せてくれた時は心の底から嬉しかったんだよ。ただまぁ、その後俺を巻き込んだのは要らなかったけどな」
「あの時は、樹が一番適任だったんだよ」
「まぁ結果的に中学の二の舞にならなくてよかったぜ。てことで、俺はもうボクシングを披露するつもりはねぇけど、旬にはこれからも期待させてもらうからな」
「まぁ、気が向いたらね」
複雑な過去がある旬にとっては、この先に実力を発揮する機会があるかは分からないが、樹に嬉しかったと言われて悪い気はしなかったので、ここは前向きに検討する意味合いを込めての言葉を発した。
数週間後の放課後、各クラスの文化祭実行委員たちが一クラスに集められ、当日の使用可能な場所や割り当てられる予算、当日の動きやその他主な注意事項などを改めて確認する場が設けられていた。
二年D組の実行委員である樹は、旬と茜、緑たちが帰った後、一人窓際一番前の席に座り、実行委員を引き受けてしまったことに多少の後悔を覚えていた。
「はぁ〜」
「どうしたの樹くん?ため息なんかついちゃってさ」
「ケントくん。いやまぁ、放課後のこういう集まりって少しめんどくさく思えちゃってさ」
今日は少し元気のない樹に対して爽やかスマイル全開で接するケント。
「まぁ俺も、早く帰りたいっちゃ早く帰りたいんだけどさ、こうして他学年の女子も拝めるし案外嫌いじゃないんだよね〜」
「相変わらずだね」
「まぁね。あっそうだ!それよりさ、樹くんたちのクラス演劇やるって聞いたんだけどほんと?」
「うん。クラスの女子で小説が書ける子がいてさ、今劇の脚本書いてもらってるとこなんだよ」
ケントは一瞬驚いたような表情を見せた後、何かを企んむようなニヤッとした笑みを浮かべる。
「実はさ、俺たちのクラスも演劇にしようかっていう話が出てるんだよね。おっと勘違いしないでよ、D組を真似したとかそういうことじゃないから。たださ、一ついいこと思いついちゃったかもしれない」
「いいこと?」
「ちょいちょい耳貸してみ」
樹は先ほどからニヤニヤが絶えないケントを警戒しつつ、耳を貸す。
そうして聞かされた提案は、実現すれば過去に例を見ない面白い案なのだが、前例がないだけに学校側が認めてくれるかは厳しいライン。
「確かにやってみたさはあるけど、認めてくれるか?」
「もうそこは当たって砕けろ、でしょ!」
そう言って、生徒会長が話を進めている中、ケントは空気も読まず勢いよく手を挙げる。
「なんだ?」
「どうしても確認しておきたいことがありましてですね」
「それは俺の話を止めてまでも言わなければいけないことなのか?」
「いやまぁ、そう言われると今じゃなくても良かった気も、しなくもなくもなくもなくも・・・・・」
メガネのレンズ越しに伝わってくる生徒会長の目力に気圧されそうになるケントだが、女子が見ている手前引き下がるわけにもいかない。
「まぁいい、言ってみろ」
「は、はい。実は今回の文化祭を使って明輝学園に新しい風を吹き込みたいと思ってます」
「ほぉ」
「新しい風は言いすぎたかもしれませんが、過去にやったことがないことをできればなと」
カッコをつけて革命児になる的な意味合いを込めて発した言葉を、ケントは早くも言い直す。
金髪、高身長、超イケメンでコミュ力お化けのケントでも、冷酷なオーラを纏った生徒会長を前にすると尻込みしてしまう。
「それで、その内容とは?」
「俺たち二年C組とD組の二クラスは偶然にも演劇をやりたいと思ってまして、どうせやるなら合同演劇なんてどうでしょう?という提案です」
「要するに、二クラスで一つの劇を完成させると?」
「そういうことです」
生徒会長は少しの間腕を組んで思考する。
「この場には先生方もいるが、文化祭において最終的な決定権を有しているのは俺だ。よって俺の審議がその実現の可能か否かを決定する」
ケントの意見を受けた生徒会長は眉間にシワを寄せ、渋い反応を見せたが、周囲にいた生徒はこんなチャラ男からまさか合同演劇なんて案が飛び出すなんて、と言った具合で驚きの眼差しと小さく拍手を送る者までいる。
「正直その提案は片方が楽をしたいからという捉え方をされても仕方のないものだ。文化祭は明輝学園の伝統を外部へと発信して魅力を深める行事の一つでもある」
確かに、いくら真面目に取り組もうとする生徒がいても合同で一つの物を仕上げるには、サボる者も当然出てくるだろう。
「だが、文化とは常に変化し成長していくもの。お前たち二クラスの作り上げるその演劇が、明輝学園に新たな文化を築いていく可能性を信じてみることにしよう」
「ということは?」
ケントが目を輝かせて、食い気味に確認する。
「認めよう。ただし、一クラスで作り上げるクオリティと大差がなかったり、レベルの低いものであれば、来年のお前たち文化祭実行委員の二人が所属するクラスの出し物は認めない方針でいく。そしてその俺の意思は次の生徒会長へとしっかり引き継がせてもらう」
それはあまりに大きいリスクでは?と問いたくなるくらいの生徒会長が出した結論。しかし、それだけ樹とケントのクラスに期待してくれていることの裏返しでもある。
ケントと樹は、それが分からないほどのバカではない。
「絶対、すごいもの作り上げてやりますよ!なぁ樹くんっ」
「任せてください」
「ああ、頼もしい限りだ」
次の日、朝のホームルームの時間を使って、樹とケントは昨日のことについての説明をCとD、それぞれのクラスにしていく。
「今C組には話してきたけど、俺たちのクラスはケントくんのクラスと合同で演劇をすることになったからよろしく」
「はあーい、ケントでぇす。多分俺のこと知ってくれてる人も知らない人も結構いると思うけど、とにかく、今樹くんが言ってくれたように俺たちのクラスと一緒に桃太郎を作り上げていこう!」
朝からケントのテンションについていけていないD組では、やたらとケントが目立ってしまう。
「脚本担当の吉祥寺さん?」
「は、はい」
「よろしくねっ」
「よ、よろしくお願いします」
内気な吉祥寺に爽やかスマイルを全開放するケント。吉祥寺はケントのスマイルを受けて思わず顔を伏せてしまった。
そんな二人のやりとりを見てモヤモヤする樹は、流れを自分のペースへと切り替える。
「ケントくん、もういいから」
「ん?・・・・・あーなるほどね、大丈夫だよ樹くん。俺、応援するからさ」
無駄に感の鋭いケントが樹を更に翻弄していく。普段クラスではムードメーカーな樹が流されているだけの姿は、クラスメイトたちには新鮮に映るだろう。
「マジでそういうのやめてくれって」
「あーはいはい。俺は遠くで見守るだけで我慢するよ」
「はぁ、じゃあそれでお願い」
一先ず二人の間で繰り広げられていた会話は終わり、脱線していた話を元に戻す。
「とりあえず、衣装や舞台セッティングは人手も増えるから問題ないとして問題は・・・・・」
「内容ですね・・・・・」
ボソッと吉祥寺が呟く。
「だね。吉祥寺さんのアレンジ版桃太郎は、二クラス分の人手があればもっと深く物語の感動や面白さを表現できると思うんだ。だからさ、違和感がない程度に鬼や途中で出会う人物とかを少しだけ付け加えることはできたりする?」
「実は、この間見せた原稿は何度か自分で修正を入れたもので、消してしまったキャラクターとかもいるんです。だから一緒に直していただけるのなら、問題はありません」
一緒にという単語が響いたのか、真剣に話す吉祥寺を見て樹の頬は少し赤く染められる。
「お、オッケー。なら、一緒にいいものを作って見せよう!」
「はいっ」
「あのさぁ、ちょっと質問したいんだけど」
すると、一人のクラスメイトが手を挙げる。
「どうした笹野?」
「いやぁさ、配役とかってどうするの?それに衣装の予算とか」
女子にとって衣装のクオリティは最も重要な案件だ。
「予算なら問題ないぜ。二クラス分の予算が提供されることになるからな。それと配役については、登場するキャラクターが固まったら決める形になると思うから、それに関してもあまり時間はかからないと思う。だよね吉祥寺さん?」
「はい。登場人物の決定だけなら三日くらいで決められると思います」
「全然本番まで余裕があるな」
それを聞いてクラスの女子たちは納得した様子を見せる。男子に関しても、他クラスとの合同作業ということで妙にテンションが上がっている様子だ。
「てことで、合同演劇絶対成功させようぜ!」
初めて文化祭を経験する茜にとっては通常の出し物は経験できないが、成功すればそれ以上に思い出に残る文化祭になることは間違いない。
三日後の五限の総合の時間に、D組へとC組の生徒全員を招いて吉祥寺アレンジ版桃太郎の配役を決める会が開かれていた。
「基本的には立候補制で被ったらオーディションで最終的に配役を決めたいと思うんだけど、立候補したい役があったらどんどん挙手してくれ〜。あっそれと、誰かを推薦するのもいいぞ」
二クラスの文化祭実行委員である樹とケントは桃太郎の配役を黒板に記し、まずは一度全員の意見に耳に傾ける姿勢を見せる。
黒板には約三十ほどの役名が記載されており、役名がないものだとしても、背景の木を動かす役であったりとか、舞台のシーンにおけるセッティング変え担当、照明や出演役者の衣装直しなどのアシスタント役が必要となってくる。そのため、C組、D組合わせて約五十人ほどいる生徒全員に当日は重要な役割が振り分けられる。
「推薦したい人がいるんだけどいいかな?」
そう言ってまず始めに挙手をしたのは、夏とは違った方向性での女子のリーダー的存在であり、男女からの人気もアツい笹野。
「おっ、推薦かぁいいね。誰を推薦すんだ?」
「鬼の姫役に天界さんを推薦するよ」
修正後のアレンジ版桃太郎では、樹が初めて原稿を見せてもらった時には登場していなかった鬼の姫が登場している。鬼の姫は、作中でも人間と鬼との架け橋となる重要な存在であり、かつ、最終的に鬼ヶ島に残った桃太郎と結ばれる本作のヒロインでもある。
圧倒的な美を誇る茜をヒロインに推薦するのは、一部を除けば全員が納得するものだろう。その一部というのは、いじめっ子夏率いる少数のグループの女子。現に今も、茜が推薦されたことに分かりやすく舌打ちをしている。
まぁけれど、誰一人夏を気にする人もいないので何の意味も成さない行為だ。
「マジでベストアンサー」
「俺も茜ちゃんが鬼姫やるのは大賛成だな、みんなもそれでいい?」
早くもケントが仕切り出す。
「ケントくんさ、天界さんと仲良かったっけ?」
「いいや。ただ、女の子を名前呼びするのは俺のポリシーみたいなものなんだよねっ」
茜の鬼姫役に反対する生徒はいなく、むしろみんなが賛成票を投じている。
「天界さんは大丈夫そ?」
樹が念のため茜にも確認を入れる。
「私は特に問題ないわ」
「よしっ、それじゃあ次行こっか次!」
それからケントと樹の進行により、ほとんどの役が決定し、残すは主役の桃太郎の役のみとなった。
「それじゃあラスト、桃太郎やりたい人は挙手しよう!はい!」
進行役のケントが流れるようにそのまま桃太郎役へと立候補する。
他にも残る生徒たちの中でちらほらと手が挙がってはいるが、やはりみんなイケメンには弱いのか挙げた手が次々と降り始めた。
「ちょいちょいみんな、遠慮なんかしなくていいんだよ?このままじゃ俺が桃太郎になっちゃうけどいいの?」
「まぁケントくんなら仕方ないよなぁ」
「だな」
「ていうかケントくんと天界さんって何かお似合いじゃない」
当然、超イケメンと超絶美女が主演とヒロイン役を演じることに舞い上がるが、旬の気持ちを理解する樹としては素直にいつもの笑顔を作ることができないでいた。
しかし一方のケントは、みんなに持ち上げられて満更でもない様子。
「旬・・・・・」
樹はボソッと小さな声で旬の名前を一度呼ぶが、当然聞こえない。
教室ではいつもと変わらない様子だが、樹にしてみれば今はただの強がりにしか見えなかった。
「あれっ、ていうか影宮くんのことは誰も推薦しないんだね?」
旬の素顔を知っているケントが不思議そうな表情で突然そんなことを口にする。
「えっなんで影宮?」
「ね、影宮くんってスタイルはいいけど、かっこよくは、ないしね」
旬のことを何も知らないクラスメイトが発した言葉に対して、樹と茜、緑はとてももどかしく嫌な気分を味合わされる。
「あれっ俺何かまずいこと言っちゃたかなぁ〜」
「何それひど〜いケント」
ケントのテンションに同調するC組の一部の女子たち。
「ケントくんさ、それ以上は見過ごせないけどいい?」
樹の突き刺すような冷たい視線がケントの体を一瞬強張らせる。
「いやっ、え?何が?怖いって樹くんっ。リラックスリラックス」
「はぁ、旬!本当にいいんだな?立候補しなくても」
「樹。ボクは裏方に回るよ」
「そうか。それじゃあ桃太郎役はケントくんで決まりってことで、明日からみんなよろしく頼んだよ」
今日の授業は五限で終了となり、明日の放課後から演劇練習がスタートすることとなる。
授業が終わり、この後は帰りのホームルームのためC組の生徒がゾロゾロと教室を出ていく。
すると、ケントが旬の下へと近づき耳元で何かを囁いた後、静かに教室を出て行った。
「ねぇ」
「何?」
「貴方はなぜ桃太郎をやろうとしないの?」
「なぜって・・・・・」
茜から飛び出た突然の質問により、旬は思わず動揺してしまう。
「私は色んなことが初めてでとても楽しい。今回の演劇だってヒロインができることになってとてもワクワクしてるわ。だけど、できるなら桃太郎は貴方にやって欲しかった」
まさかそんな言葉が茜から出てくるとは思ってもなかった旬は、先ほどまで周りの視線ばかりを気にしていた自分を猛烈にぶっ飛ばしてやりたい感情に襲われた。
「ご、ごめ———」
「まぁ、今更言ったところでだけど」
この瞬間、明確に旬の内に後悔の二文字が刻まれた。
「旬。どうして桃太郎役立候補しなかったんだよ?」
旬の下に寄ってきた樹には概ねの予想はついているが、質問せずにはいられなかった。
「うるさい」
旬は机に顔を伏せてしまった。
「まったく」
放課後、人気のない廊下にケントと旬、二人の姿があった。
「話って何?」
「一応さっきのはさ、俺なりの助け舟だったんだけどね〜。なのに君はそれを拒絶した。悪いけど俺、遠慮なんてする気ないよ」
「何の話?」
「とぼけなくたっていいさ、君好きなんだろ?茜ちゃんのこと」
旬の瞳は思わず大きく開かれる。
「分かりやすいね君」
「好きか、は分からない」
「またまた〜」
「ボクは今まで誰かにそういう感情を持ったことがないから、本当に分からないんだ」
「まぁ今はそういうことにしといてあげるよ。だけど俺は好きだよ、茜ちゃんのこと。祭りで君といるところを見て勝ち目ないかなとも思ったけど、無意識のうちに惚れちゃってたみたいなんだよね」
いつものようにニヤニヤと笑みを浮かべながら話すケントだが、瞳は笑っておらずとても真剣だった。
「俺、文化祭が終わったら告るけどいいよね?まぁ影宮くんに許可取るのもおかしな話か・・・・・とにかく俺、君に負ける気はないから」
ケントは言いたいことだけ言うと、そのまま旬の前から姿を消してしまった。
「ボクが天界さんをどう思っているか、か・・・・・」
次の日の放課後からまずはその人物のキャラクター像をみんなに知ってもらい、吉祥寺の脚本が完成してからは本格的なセリフ練習と役作り、舞台セットや衣装作りが進行して行った。
そして文化祭当日まで残り二週間を切った日曜日。緑と吉祥寺含めたC組とD組の女子数名は、茜の家に遊びに行く予定となっていた。
「狭い部屋だけどどうぞ上がって」
茜の家は、ごく普通のアパートの一部屋。
ゼツと二人で暮らすには快適な広さであり、女子七人が入るには、動き回らなければ問題のない広さ。
「お邪魔します」
「天界さんって高嶺の花って感じするじゃん?だから普通の人なんだって分かってなんか安心したよ」
豪邸にでも住んでいるようなイメージを抱かれていたのか、笹野がそんなことを口にする。
「分からなくもないです。茜ちゃん勉強はあれですけど、その他のことは完璧ですからね。お家にお呼ばれするまではお嬢様かと思ってましたから」
「父さんも普通の人だし、私も普通の女子よ」
いささか不自然な言い方ではあるが、茜の発言に対して軽く笑顔が生まれる。
「そういえばお父さんはお仕事ですか?」
「えーっと・・・・・今日は休みで、今は夕食の買い出しに行ってるの」
「そうなんですね」
「あ、あの、私なんかが本当に天界さんのお家にお邪魔させてもらってもいいのでしょうか?」
一人まだ玄関にいる吉祥寺が靴を脱ごうともせず、不安な表情を浮かべている。
リビングに他のみんなを通した茜が残された吉祥寺の下まで来る。
「私は吉祥寺さんと友達になれたらと思ってるわ」
「わっ私も、天界さんとお友達になりたいです」
「それじゃあみんなのところに行きましょう」
そうして吉祥寺も含めた七名全員がリビングへと集まり、早速文化祭に向けた衣装作りを始めることとした。
今日、茜の家に集まった理由は、もちろん女子会の意味も込めてのものだが、女子会をしながら演劇の衣装作りも進めていくため。ジャンケンで負けた茜の家に集まることとなった。
しばらく趣味や放課後の過ごし方などを話題に会話に花を咲かせていたが、次第に話題は恋愛関係へとシフトしていく。しかし丁度その時、玄関のドアがガチャリと開く音がリビングに響いた。
「父さんね」
「思ってたよりも早かったわね。何と言うか、話題のタイミングが・・・・・」
これから更に盛り上がろうとしていた時にゼツが帰宅して来たため、笹野が少し気まずそうな表情を浮かべる。
そうしてリビングの扉が開かれると、人間の姿に化けたゼツのスタイルの良さに思わず茜以外の女子全員の口が半開きになってしまった。
「お邪魔してます」
しかしすぐに我に戻りみんな礼儀良く挨拶をする。
「い、いらっしゃい・・・・・茜の友達?」
ゼツは事前に何も聞かされていなかったため、目の前に広がる光景に思わず呆気に取られてしまった。
「父さん。彼女たちは学校の友達で、今日は文化祭のためにみんなで準備をしようってことになってるの」
「そ、そうなのか。前もって言ってくれれば、もてなしの準備もできたんだがな」
咄嗟のことでゼツは全身に大量の冷や汗をかいてしまっている。そんなゼツに、更なる追い討ちがかかる。
「全然お構いなく。それよりも天界さんのお父さんって、いい意味で人間離れしてるスタイルですね」
不意に放たれた笹野の一言に、茜とゼツの心臓が大きく振動する。
「は、はは。俺も一応天界さんなんだが、面白い子じゃないか茜」
「え、ええ」
「まあ、ゆっくりしていきなさい」
そう言ってゼツはどこかおぼつかない足取りで台所の方へと向かって行った。
「そうそう、さっきの話の続きなんだけどさ、ぶっちゃけ天界さんって好きな人とかできたの?」
その時、台所の方からガンっという音が聞こえ、茜たちが視線を向けると、机の角に小指をぶつけて痛がるゼツの姿があった。
「好きな人・・・・・」
「あっ、それで言うとさ、ケントのやつ絶対天界さん狙いだよねぇ」
「あっ分かる分かる。桃太郎やりたかったのだって、絶対天界さん狙いだよ」
ケントの話を持ち出したC組の女子たちが急にキャッキャッウフフと騒ぎ始める。
「茜ちゃんは飯田くんのことどう思います?」
「どう思うって言われても、彼のことよく知らないし、今は眼中にもないわね」
茜の発言を聞いてがっかりした様子を見せるC組の女子たち。それほど茜とケントのペアはお似合いに見えるということだろう。
「それなら、影宮くんはどうです?」
「イタっ」
とその瞬間、衣装に針を通していた茜の指に、その針が突き刺さり少し血が出てしまう。
「茜ちゃん、大丈夫ですか!」
咄嗟のことで少し焦り気味の緑を茜は優しく落ち着かせる。
「これくらい大丈夫よ。だから気にしないで」
「どうしてそこで影宮くんの名前が?」
一番最初に疑問の声を上げたのは、意外な人物吉祥寺だった。
「すっすみません。つい気になってしまって・・・・・」
「そうね。吉祥寺さんの言う通りどうして影宮くんが出てくるの?」
「そういえば配役を決める時も影宮くんの名前が上がってたよね?」
「影宮って、D組の前髪で顔隠してる男子でしょ?」
「そうそう。正直天界さんと影宮くんじゃ言っちゃ悪いけど、釣り合ってなくない?」
そんな笹野の発言に対して、ちょっと怒り気味の緑が「そんなことないです!」と発して、空気が少しだけ凍りついた。
「ごっごめんなさい!」
「いいや、私こそごめんね。だけど純粋に普段全く目立ってないからさ、目立ってる天界さんと比べたらそう思っちゃって」
「ですね。けれど、影宮くんの素顔を見れば驚きますよ」
「えっ何それ、めっちゃ気になるんだけど〜」
「ふふっ、自分で確かめてみてください」
そう言って、少しいたずらっ子な一面を見せる緑。
そんな緑がふと先ほど針が刺さった茜の指に視線を向けると、もう血は止まっいた。
「もう血止まったんですか?」
「ま、まぁ小さい傷だから」
茜はそう言ったが、針でできた傷はものの数秒で治っていた。
鬼の治癒力は人間の何千倍にも及ぶため、人間では命に関わる大怪我でも、鬼にとってはかすり傷程度なのである。
あまりの止血の速さに緑以外にもその場にいる女子たちの視線を集めてしまったが、針程度の小さな傷なら上手く言い訳できれば誤魔化せる。
「一先ず良かったです。それで茜ちゃん、影宮くんと何かありましたか?」
先ほどと同じ旬が出てくる質問だが、先ほどとは少し質問の内容が異なる。
すると台所の方から次は、食器のガシャンという大きな音がリビングへと響き渡った。
「配役決めの日からどこか二人、ぎくしゃくしている感じがするんです」
「もともとそれほど仲が良かったわけでもないわ。だけど・・・・・どうしてだが自ら私の隣に来ることを拒んだ影宮くんに対して、怒りを感じているのよ」
「それって桃太郎の役を決めた時の話?」
笹野が茜の表情をしっかりと確認しながら聞き返す。
「そう」
その瞬間、茜本人が気づいていない本当の気持ちに、吉祥寺と茜以外の女子たちは気がついてしまった。しかし、自らの怒りの原因を本気で分からないでいる茜の様子を見て、誰一人本当のことを伝えることはできなかった。
そして、その話を密かに聞いていたゼツは、茜とは違った怒りを、茜が怒りを向ける見えない誰かに対して抱いていた。
文化祭当日まで残り一週間。
しかし、そんな時に事件は起きた。
「ちょっと、誰よ・・・・・こんなことしたの」
演劇で使う衣装や舞台セットなどは、当日三日前までに全て体育館に運び入れる予定であったため、その日までは全て教室の空いてるスペースを利用して置いてある状況だった。
そして、そんな衣装や舞台セットが一夜の内に何者かの手によってズタズタのボロボロにされてしまったのだ。
C組とD組の生徒全員が協力して放課後遅くまで残り作業したり、友達同士で家に集まり作業を進めたりと、みんな各自で頑張っていた成果が一瞬の内に全て壊されてしまった。
「みんなおっは———」
いつものように元気よく挨拶をしようとしたケントであったが、目の前に広がった残酷な光景を目の当たりにして言葉を失う。
「え?うそ・・・・・何、これ?」
「分かんねぇよ。てか、旬見てねぇか?」
「いや、見てないけど」
「あいつもう学校には来てるはずなのに、一体どこ行ったんだよ。それに何だよこのメッセージ」
樹は一度自身の携帯の画面に視線を落とし、ケントも樹の携帯の画面を覗き込む。
「もしかして————」
「いや、それはない。絶対にありえない」
ケントが口を開く前に樹の言葉がその先を封じる。
「これはあんまりです。いくらなんでも酷すぎます」
樹たちの下に緑と茜が近づいて来た。
「正直、直すのは厳しそうだよね」
「私、犯人に心当たりがあるわ」
茜の発言を聞いていた周りにいた生徒全員が茜に視線を向ける。
茜の声は廊下に響くほど大きく、かなりの怒りを抱いている。
大切な友達と一生懸命準備してきたものがこうも容易く壊されたのだ、怒らない筈がない。
「一体誰です?」
すると茜は教室の黒板側のドアにもたれかかっていた夏たち三人組に対して指をさす。
「え?桜木さんですか?」
「は?私?マジで不愉快なんですけど。わざわざこんなめんどくさいこと私がするわけないでしょ、あんた頭わいてんじゃないの?」
しかし、最近では大人しくしていた桜木夏だが、これまで何人もの生徒をいじめて来た実績があるため、周囲の刺すような視線を一斉に浴びせられる。
「私じゃねぇよ!私じゃ———————はぁ、あーあマジでうぜぇ。何で分かったんだよ天界?」
「俺、ああいう女子はマジで苦手だわ」
「チャラ男は黙ってろよ。で?どうなんだよ天界」
「貴方だけが、この光景を見て笑ってたからよ」
「は?それだけかよ、はっはっは。マジ爆笑、お腹痛いんですけど〜」
そう言ってお腹を抱えて笑い出した夏を見た他の生徒たちは、怒りよりも恐怖が勝っている様子で徐々に後退っていく。
「私がこれまで何のためにいじめを辞めて大人しくしていたと思ってんの?全部お前ら全員苦しませるためだよ!私みたいな恵まれた人間に恥をかかせたあんたもあんただけど、私のことをずっと鬱陶しく思ってるクラスの連中にもほんとうんざりしてたんだよね。私がいるところでは猫被っちゃって、いないところでは悪口ばっかり。まぁ私が嫌われてるのは仕方ないけど、それを私が許すかは別問題でしょ?社会的な力もあって、暴力的な力も持ってる私に怖いものなんてないんだよ!」
ヒステリックになっていく夏を、ただただ眺める生徒たち。
茜も今は夏の言葉に耳を傾けている。
「だけど実行したのは私じゃない。私はお願いしただけ。だからさ、文句がある人は直接私の兄貴に言いに行きなよ。まぁ言ったところでボコボコにされて終わりだけどね」
夏の言う暴力的な力とは学校で一番強いとされる兄、桜木海のこと。社会的な力とは数々の汚職に手を染めてはそれらを揉み消してきた政治家である父のこと。
「きゃあ!」
その時、階段を転げ落ちるように全速力で一人の女子生徒が降りて来た。
「だ、誰か先生呼んで来て、早く!」
「今度は一体何事?」
先ほどまでは気がつかなかったが、上の階から机の激しくぶつかり合う音や聞き覚えのある声が樹と茜の耳に微かに届いた。
そんな青ざめる樹の表情を見たケントが不安そうに樹に問いかける。
「樹くん?」
「ケントくん。悪いけど、ここは任せていいかな?」
「あっえ?うん。いいけど、急にどうしたの?」
「ここよりもまずいことが上の階で起きてるんだ」
そう言って樹は先生を呼びにいくフリも見せず、全速力で階段を駆け上がり上の階に向かう。
そんな樹を追いかけて走り出す茜と緑。
三階に樹がつくと、三年C組の扉が勢いよく外側へとぶっ飛び、それと同時に中から長身の男子生徒が廊下へと吹っ飛んで来た。
「クッソ、いつまで寝てんだ起きろお前ら!」
「海、もうこいつやべぇってマジで」
「いいからぶっ殺せ!」
海の命令を受けて、教室内の地べたに寝そべっていた数名の男子生徒が背後から旬に飛びかかる。
旬はそんな連中にお構いなしに顔面やみぞおち、喉へと的確に蹴りや拳を打ち込み、再び床へと倒れ込ませる。
「クッソ、何なんだよお前・・・・・俺らがお前に何したってんだ」
「何しただと?」
旬は制服のポケットからキラキラとひかる銀色のピアスを指で摘んで見せる。
「これって、先輩のものでしょ?この前教室に来てた時右耳に同じものつけてたよね?」
「お前、あん時超絶美人の隣にいたクソ陰キャ野郎か。へぇ〜、お前みたいなやつでもクラスの出し物傷つけられたくらいでマジギレすんのな、くっ!」
旬は容赦なく壁に背中を預け、床に座り込む海の腹部へと強烈な蹴りを入れる。
「それとも、惚れた女でもいたのか?それでそんなにキレてんのか?ああ?グフッ!」
次に旬は自らの拳を海の血が付着するほどの強さで顔面に叩き込む。
そしてしまいには海の上に馬乗りになり、容赦なく次々と旬の拳が海の顔面へと振り下ろされていく。その度に天井のライトが反射するほどピカピカだった廊下に血が飛び散っていく。
「やめろ、旬」
樹にとってもこんな旬は初めて見る。だが、喧嘩をすればこれぐらいのことはできる力を持っていることも知っていた。
樹の小さく囁かれた第一声は、旬には届かない。
「旬!」
樹の腹の底から発せられた馬鹿でかい声に、旬を含めた周囲で固まっていた連中が視線を向ける。
「もういい旬。お前の気持ちは分かる。だけど、それ以上はダメだ」
旬の拳は勢いを潜めて、馬乗りになっていた状態から立ち上がる。
一方で海の方は完璧に意識を失っていた。
「うそ、でしょ・・・・・兄貴、ちょっと兄貴!」
信じられないといった表情を浮かべた夏が、既に意識のない海の下へと駆け寄り、そして旬を睨みつける。
「あんたこんなことしてただで済むと思ってんの?」
「悪いけどそれはボクのセリフだ。君の父親の汚職問題、君たち兄弟がこれまでしてきたいじめの証拠を集めさせてもらってる」
「何、それってどういう————」
「君は知らなくていいことだよ」
旬の前髪の隙間から覗く冷酷な視線が、夏に恐怖を感じさせる。
しばらくして騒ぎを聞きつけた先生たち数名が駆けつけて、血だらけの海は速攻病院へと搬送され、両拳血まみれになった旬は職員室へと連行された。
その後、二年C組とD組が桜木海にされた嫌がらせのせいで旬が桜木海に暴力を振るった事実を加味し、旬は文化祭が終わる期間の約二週間の停学処分となった。
事件から二日後。大々的にニュースで元国会議員であり、今回の選挙にも出馬している海と夏の父である桜木昌信の悪行などが報道されてしまうだけではなく、子どもである海と夏の犯罪行為やいじめ動画などの証拠も社会的に明らかにされてしまった。結果、海と夏に関しては明輝学園を退学という措置が講じられた。
文化祭が四日後に迫った日の夜十一時。樹は旬に電話をかけていた。
「停学になった気分はどうだ?親友」
『変なこと言うかもしれないけど、少しスッキリしたよ。ずっと溜まってたストレスを一気に解放した気分だ』
樹は旬が本気でキレる姿を初めて見て思わず度肝を抜かれてしまったが、旬から思わぬ返答が返って来たことにより、家の自室で一人、声を上げて笑ってしまう。
『そんなにおかしかった?』
「ごめんごめん。あまりにも予想外なセリフが旬から飛び出したからさ、ついな」
『だけど停学明けが少し怖いよ』
「まぁ旬は今まで目立たない生徒ってイメージだったもんな。それが鬼の如く暴力を振るってる姿を見たら誰だって態度は変わるかもな。実際クラスでも桜木兄弟が退学したことに感謝してる奴もいれば、旬のことをそのぉ、よくない言い方をしてる奴もいる」
旬の噂は二年D組だけでなく二年生全体、更には三年生にも広がっていくことだろう。
しかし噂というものは大抵が長続きしないものであり、旬本人が二週間も不在となれば、旬が学校に戻る頃には誰も口にしなくなっている可能性も大いにある。
「まぁでもあんま気にすんなよ。何で旬があんなことしたのか大抵の奴らは分かってると思うし、それにみんな壊された衣装とかセットとか直すのに忙しすぎてすぐに忘れると思うぜ」
そうなってくれれば、旬にとっては願ったり叶ったりだ。
『当日までに直せるの?』
「正直厳しいけど、頑張るしかないだろ。あっそうだ、旬に聞きたいことがあんだけどさ、何で桜木先輩が犯人だって分かったんだ?」
『樹にあの先輩殴らせた日あったよね?』
「ああ」
『その時耳につけてたピアスと同じものが教室内に落ちてたんだ。それでしばらくして登校して来た桜木海の片方の耳にしかピアスがついてないことに気がついて確信した。やったのはこいつだってね』
「そういうことなら、すぐにそのこと俺に教えてくれてもよかったんじゃないか?あんなぱっと見意味不明なメッセージ送るよりさ。そしたら、旬だけに責任背負わせずにすんだかもしれないし」
樹は事件の日の朝、旬からただ一言「悪い」とだけメッセージが送られて来ていた。
樹は教室の荒れ果てた現場を目にして、旬からのこのメッセージは、旬が教室の状況を見て何かを思ったことによるメッセージだと理解していた。
『ごめん樹。自分でもまさかあんな感情的になるなんて思ってなくて、あの時はあの一言が最善だと思ったんだよ』
「要するにあれだろ?怒りに任せて文化祭を放棄する自分を許してくれ的な意味だったんだろ?」
『実際迷惑かけちゃったし、あのメッセージは間違ってなかったけどね』
「アホか!親友おいて一人で突っ走ったことに俺は怒ってんだよ、それ忘れんな」
本気で怒ってるわけではないが、頼ってくれなかったという寂しさは抱いている。
「それで、旬があんなにキレるとこなんて初めて見たけど、一番大きな要因はやっぱ天界さん?」
電話越しの旬は肯定もせず否定もしない。ただただ無言が流れてくるだけ。
しかし、長年付き合って来た樹は何かを感じ取ったらしい。
「なるほどな。流石に気づいただろ」
『信じられないけど、認めるしかないみたいだね』
「おっ、ようやく認めたな〜。まぁだからって俺がどうする問題でもないんだけどよ、親友として親友の初恋を精一杯応援してやるから停学明けたら胸張ってアタックしろよ!」
『ボクなりに頑張ってみるよ』
「おう、頑張れ」
樹は揶揄うわけではなく、本気で応援している気持ちを込めた一言を旬へと送った。
「まぁ、だけどちょっとニュースの件はやりすぎな気もしたけどな。あれやったの五月さんだろ?話には聞いてたけど、実際に凄さを見たのは初めてだよ」
『五月さんに助けてもらったのはこれで二回目だ。一度目は、父と母が死んだ後にボクを助けて育ててくれたこと、この恩は一生通して返していかないとね』
「ほんとすごいよな、旬みたいな難しい子供を一人で育てちまうなんてさ。確かあの人、昔は凄腕のハッカーだったんだっけ?」
旬の叔母であり、育ての親でもある群雲五月は、かつてある闇組織で犯罪行為を繰り返していた凄腕のハッカーだった。どんな情報であれ命令されれば必ず見つけ出し盗み出すことができる。それが例え国家秘密であったとしても。
その闇組織では、ハッカーと称された存在が三名在籍しており、三名とも既に脱退済みだが五月はまだ他二名との関わりを持っている。そのため、旬から桜木家族の処理を頼まれていた五月は、その二名と協力して桜木の闇を盗み出し、盗み出した情報を世の中へと発信した。
『凄腕なのは今もだけどね』
「確かに。まぁとりあえず元気そうでよかったよ。それじゃあまた停学明けにな」
『また』
そうして樹から電話をプツリと切った。
次の日の放課後、二年D組のクラス内ではちょっとした揉め事が起きていた。
樹とケントが黒板の前に立ち、みんなに指示を出している。
「今日から体育館に運び込めることになってるけど、まずは直さなくちゃいけない」
「だね。てことで早速役割分担しちゃおっか。とりあえず、衣装直しは女子がしてくれると助かるんだけど」
ケントがC組D組の女子に己の瞳でひたすらに訴えかける。当然女子の中にはいい顔をする人は誰一人としていないが、仕方がないため了承してくれる。
ということで衣装担当は女子に決定し、残された男子は必然的にセット直しとなる。
しかし、衣装は家に持ち帰れば直しが可能だが、セットとなると大きさが大きさなため学校でしか直すことができない。正直、使えるところまで修復するのも不可能に近い状況。
そうして作業に取り掛かり始めた中、男子の一部から旬を話題とする会話が聞こえる。
「いや〜マジで、影宮の暴力事件のせいで危うく俺たちの演劇まで中止にされそうだったよな?」
「マジでそれな!ムカつくのは分かるけどよぉ、演劇中止とかになってたらいい迷惑だったよほんとにハハハハハ」
「てかアイツ、根暗なふりして実は不良とか、漫画の読みすぎだっつーの」
すると、三人の会話を聞いていたケントが薄く笑顔を保ちつつ、険しい表情を含ませて近づく。
「それを言って君たちに何か得があるのかい?俺は影宮くんはカッコいいと思うよ。まぁ確かに暴力はやりすぎだとは思うけどさ、君たちは例え暴力を振るうことが許されてたとしても、影宮くんみたく立ち向かう勇気はないよね?」
「そんなこと————」
「あるよ。桜木兄弟がいなくなった途端、虚勢をはってる時点でその程度ってこと」
既にケントから優しさの笑みは消えており、睨んでいるわけではないが、ただただ真顔の圧が三人を襲う。
目がパッチリとしているだけに、すごい目力だ。
「わ、悪かったって、もう作業に戻ってもいいかな」
「うん!」
しかし、突如いつものキラキラスマイルに戻ったことにより、威圧された三人はしばらくの間呆気に取られていた。
その様子を見届けた樹、緑、茜は、その後自分たちは動くことなく作業に戻った。
ケントは、旬が怒った一番の原因を理解しているため、旬の気持ちに強く寄り添える。それと同時に、先日自分の気持ちに正直になれない旬を見下した自分が恥ずかしくて情けない感情に襲われていた。
放課後は生徒が学校に残れるのは最大でも午後八時までなので、女子たちは任された衣装を自宅へと持ち帰った。
茜も女子であり、衣装直しを任された生徒の一人なので、ゼツが夕食後の洗い物をしている食器の音を聞きながら、リビングでひたすら縫い物をしている。
「さっきから一生懸命に何かしてると思ったが、もうすぐ文化祭だな。確か茜のクラスは演劇やるんだよな?」
「そうなんだけどさ、ちょっと色々あってもしかしたら中止になるかも」
その理由を知らないゼツは、一度洗い物の手を止めて茜の下に近寄る。
「おい、中止ってのはどういうこった?もしかして当日までに準備が間に合わねぇとか、そういうことか?」
「そうよ」
「この前聞いた時は順調だって言ってたじゃねぇかよ」
「少し色々あって、準備して来たものが壊れたっていうか、壊されちゃったのよ」
「一体誰だ、んなことしたのは」
娘の晴れ舞台を台無しにされたことに、牙を剥き出し人の姿から逸脱するゼツに対して、茜はそれどころではないと冷静に対応する。
「父さんが怒ってくれる必要はないわ。もう怒ってくれた人がいるから」
愛おしそうに話す茜。
「ほぉ、やるじゃねぇかよそいつ」
「だけど、犯人をボコボコにしちゃって今は停学になってるけどね」
それを聞いたゼツは愉快そうに笑い転げる。
「はっはっは、面白れぇ人間もいたもんだな。茜、今度機会があったらそいつを家に連れて来てくれねぇか?」
「え?・・・・・その人、男子だけどいいの?まぁだけど、父さんに体育祭の日に話した人と同じ人なんだけどね」
「いいや、やっぱりいい。絶対連れてくるんじゃねぇ」
あまりに早いゼツの手のひら返しに多少呆れつつも、少し止まってしまった手を茜は再び動かす。
「茜よ、学校にいくぞ」
「なぜ?」
「衣装は無理だが、その他なら力になれるかもしれねぇ」
ゼツはそう言うと、人間の皮を脱ぎ鬼の姿を露わにする。
「手を貸せ、鬼の体は霊体だから認識される心配はねぇぜ。それに、俺に触れてる茜も周りには見えなくなるから安心しろ。んじゃいっちょ行くか」
茜の手を握ったゼツは、自宅から学校まで一キロほどある距離を、ひとっ飛びで横断した。
その後学校へと潜り込み、茜に連れられ二年D組まで案内される。
「ここよ。置けない分は隣のC組の教室に置いてあるわ」
「なるほどな。衣装はなんとか間に合うかもしれねぇが、こいつらはそうもいかなさそうだな」
「正直、半分の生徒は諦めてる状態よ」
茜は表情にこそ出しはしないが、親であるゼツには茜の落ち込んでいる気持ちが手に取るように見透かせる。
可愛い娘の悲しむ表情は一刻も早く消し去ってやりたい。ゼツは茜の頭に大きな手のひらを優しく置き、大きな牙を剥き出しにニヤッと笑う。
「任せろ」
そう言った直後、ゼツの地響きのような雄叫びが響き渡る。
「な、何⁉︎」
すると、ゼツの雄叫びに呼応するようにあちこちから似たような雄叫びがやまびこのように返って来た。
「速いな」
学校の壁をすり抜けて、続々と鬼の姿をした者たちがゼツの下へと集合する。その数、約十体。
「ジーマ。お前も来てくれたのか」
「当たり前です。可愛い生徒のピンチに理事長である僕が駆け付けないわけにはいきませんからね」
ジーマは、明輝学園の理事長でありゼツの友。普段は人間の皮を被っているが、鬼の姿となって駆け付けてくれた。
その他にも、人間界で暮らす鬼たちがゼツの呼びかけに応じてくれた。
「茜。ここは父さんたちに任せてお前は家に戻れ」
「ありがとう、父さん」
たったの一言だが、茜はゼツにとても感謝していた。
初めての文化祭を成功させたいという気持ちももちろんあるが、自分の目の前であんな真剣に怒ってくれた旬の姿を見て、旬のためにもなんとしてでも成功させたいという気持ちが茜の中にはあった。
「おう!」
茜はその後自宅に戻って衣装直しに取り掛かり、ゼツは仲間の鬼たちと演劇桃太郎のセットの修復に取り掛かった。
「・・・・・どゆこと?」
次の日の朝、既に登校していたC組とD組の数名の生徒たちが廊下へと演劇のセットを運び出している様子を見て、状況が掴めていないケントが呆気に取られた表情を浮かべる。
「ちょっと樹くんさ、これどういうこと?」
「おはようケントくん、セットを体育館に運んでるんだよ。ケントくんも手伝ってくれない?」
「もちろん手伝うけどさ・・・・・何?なんで直ってるの?・・・・・え?昨日まで間に合わないくらいボロボロだったよね?」
樹に困った様子はなく、ホッとした表情の中にどこか申し訳なさそうな表情も含ませて話す。
「実はさ、天界さんのお父さん物作り関係の仕事してるらしくて、昨日の夜赤坂ティに許可取って直してくれたらしいんだよね」
当然無断侵入だが、わざわざそれを赤坂本人に確かめようとする生徒はいないだろう。
するとケントは驚いた表情を見せた後、その表情を爽やかスマイルへと変えて樹の背後に広がる教室内の光景に視線を向けた。
「へぇ〜。それで、その茜ちゃんはまだ来てないの?」
「もうすぐ来るんじゃねぇの。ていうか、ケントくんには天界さんは落とせないよ」
「俺ほどのイケメンが釣り合わないって?確かに茜ちゃんは今まで見て来たどの女性よりも魅力的だけど、告白もまだなのにその言い方は酷くない?」
「釣り合う釣り合わないの話じゃないんだよな。今、天界さんの気持ちが誰に向いてるのか知ってる?」
旬の気持ちを知った今、樹にとってケントの存在は正直迷惑。しかし、邪険にしてしまうわけにもいかない。茜の気持ちも薄々勘付いている樹だからこそ、自信を持って言える言葉。
「影宮くんだろ?」
そして茜のことをよく見ているケントもまた、そのことに気がついている。
「だけどさ、茜ちゃんの影宮くんに対する気持ちって、気になる程度のものでしょ?それなら全然俺にも勝ち目はあるじゃん?」
「本当にそう思うか?」
「え?」
「本当に旬のこと気になってる程度だと思ってるのか?まぁ、俺にケントくんの気持ちをどうこう言う権利なんてないけどさ、辛い選択をわざわざ自分でする必要はないと思うぜ」
確信はない。ただ、ケントよりも近くで二人のことを見ている樹の言葉は、希望を抱いていたケントの心にズッシリと突き刺さった。
その後掴むことができた二回のリハーサルを裏方含めて各自が真剣にこなし、いよいよ文化祭当日を迎える。
迎えた文化祭当日。
文化祭は計三日間開催され、その中でアレンジ版桃太郎の演劇は計六回公演される。
本番前は、みんなリハーサルとは違った人に見られているという緊張に襲われながらも、リハーサル以上の力を出して演技に取り組んでいた。
結果、桃太郎は大盛況で中には涙を流しながら拍手を送ってくれるお客さんもおり、脚本を担当した吉祥寺の人生においても大きな一歩となった。
演劇の後は、役者が客席と客席の間の通路を歩くなんてサービスや教室内でのチェキ会なども行い、やはりと言うべきか演劇を鑑賞したお客さんのほとんどが茜との撮影を希望していた。チェキ会における売上の七割が茜でうち二割がケント、一割がその他生徒。
樹は、旬が桃太郎をやっていれば、茜と同じくらいの売上を出せたと嘆いていた。
ともかく合同演劇は大成功。明輝学園の歴史においてこれまでにない盛り上がりを見せた出し物だった。滅多に笑顔を見せない生徒会長も、二年C組とD組の二クラスに多少の笑顔と称賛を送った。
みんなが全力で休む暇のない文化祭を終えた三日目の放課後、学校の近くにある焼肉屋の大部屋を貸し切り、二クラス合同の打ち上げが開かれていた。
座敷タイプの大部屋で、演劇で親睦を深めたことによりクラスの壁など関係なく、各自が好きな位置に座っている。
真ん中に座っていたケントが立ち上がり、手に持ったジンジャエールを掲げる。
「みんなお疲れっ、今日はたくさん食べて思う存分楽しもう!」
ケントの掛け声を合図に、そこら中からコツンっコツンっというガラスのコップがぶつかり合う音が鳴り、鉄板の上に肉を乗せた時のジューという音と煙、香りが立ち上がる。
「吉祥寺さんのおかげで大成功だね」
「い、いえ。最上くんのお手伝いがあってこそです。私、誰かに自分が書いている小説を見せるのは初めてでしたから、始めはとても緊張しました。けど、あんなに多くのお客さんに喜んでもらえてとても嬉しかったです。ありがとうございました」
吉祥寺と対面で座っている樹は、真正面で向けられる感謝の気持ちと包み込みたくなる可愛らしい笑顔にキュっと胸が締め付けられる。
「あのさ、吉祥寺さん」
「はい」
「あ———」
言葉を発しようとした瞬間、あまりに空気の読めないケントが樹の名前を呼びながら近づいて来た。
「樹く〜ん。楽しんでる?」
「ケントくんは、聞くまでもないみたいだな」
「まぁね、そういえば影宮くんに声はかけてないの?」
「一応かけたんだけどな、来る気はないみたい」
「ふぅ〜ん。それじゃあさ、ちょっと茜ちゃん借りてもいい?」
そんな茜の近くにいた樹、緑、吉祥寺が視線を向けると、まるで初めて味わったかのような、それはそれは幸せそうな表情を浮かべながら焼肉を堪能していた。
みんなの視線に気づいた茜は、少し恥ずかしそうに軽く頬を赤く染めた。
「何?」
「茜ちゃん、ちょっと話したいことがあるんだ。少しだけ時間もらえる?」
そんな様子を吉祥寺はポカンとした様子で眺めているのに対して、緑と樹は何かを察して気まずそうな表情を浮かべている。
しかし、樹はケントを止める様子はなく、ケントと茜が部屋から出ていくところを多少心配そうに見つめていた。
「樹くん、あれってもしかして・・・・・もしかしてですか?」
「そうだな。どうやら俺が思ってた以上に本気らしい」
そう言って、樹は旬へと電話をかける。
「旬。来るも来ないもお前の自由だけどな、これだけは知らせとく。天界さん今、ケントくんに告白されてるぞ」
そう言うと、電話越しでガラスが割れたようなガシャリという音が聞こえた後、目の前の吉祥寺が呆気に取られた表情を浮かべている。
「一先ず店の住所送っといたから、後は好きにしろ」
樹は旬の返答を待たずして通話を切った。
「えっ、え?」
慌てた様子の吉祥寺を一先ず落ち着かせる樹。
「大丈夫。あの二人は何があってもそういう関係にはならないから」
直後樹の携帯に旬からのメッセージが届く。
内容はただ一言「今行く」とだけ返って来た。
「素直なんだか、素直じゃないんだか。ほんと不器用な奴だよな」
樹は小さく呟いた。
人気がない廊下で二人きりになったケントと茜。茜は状況が理解できずに不思議そうな表情を浮かべているが、ケントは柄にもなく緊張していた。
これまで誰かを真剣に好きになった経験があまりないケントだからこそ、一目惚れという出来事を今まで受け入れられないでいたが、惚れてしまったと認めた今、例え断られることが分かっていたとしても僅かな希望に賭けてみたい。そんな思いが今のケントの中には渦巻いていた。
「急に連れ出してごめんね。驚いたでしょ?」
「少しだけ。それで、私に話って何?」
誰かと恋愛を真剣にして来なかったケントは、どんどん高鳴る胸の鼓動に少しだけ心地の悪さを感じていた。
「こういうのって焦らしても伝わらないと思うから率直に言うけどさ、実は俺、茜ちゃんのことマジで好きみたいなんだよね」
「・・・・・それはつまり、恋愛的な意味でってこと?」
「自分でもビックリなんだけど、茜ちゃんに恋しちゃったんだ」
「そう・・・・・」
茜の中には驚きと困惑があった。
普通男女構わず、誰かに告白されれば多少は嬉しさを感じるものだが、当然茜はこれまでに一度も恋愛をしたことがなく、しかも人間界に来るまでには恋愛というものすら知らずにいた。
そして茜は今、密かに旬へと想いを寄せている。しかしその想いの名が「恋」ということをまだ知らない。
そのため、人を好いて好かれるように努力するようになった茜であるが、鬼と人間のハーフである自分へLOVEという愛を向けてくる人間がいたことに驚き、そしてどうしてかケントの告白に応えたくないという感情が働いていることに対しての困惑を抱いている。
「私、その・・・・・何と言ったらいいのか」
目の前で明らかに困った様子を浮かべている茜を見て、ケントは小さくため息をつく。
このため息は、決して返事を急かしているとかの意味のものではなく、何かを悟った時に不意に出てしまったもの。
「あのさ、一つだけ聞かせてくれない?」
「何?」
「俺の告白を受けて、茜ちゃんの中に嬉しいっていう気持ちはある?」
もはや聞くまでもなく答えは出ている。
しかし、この質問に対して嬉しいという答えが聞ければケントはそれで満足だった。
「・・・・・貴方を、傷つけない答えが見つからないわ」
茜にも人間と同じ心がある。茜自身も自分と同じ心を人間が持っていることを分かっている。いるからこそ、告白を断ればケントが悲しむこと、質問の答えを出せば傷つけてしまうことを分かっている。
「あ〜あ、完敗かぁ」
ケントはしゃがみ込み廊下の片方の壁へと背中を預けると、悲しみを含みつつもニコッとした多少引きつった笑顔を作る。
「完敗って何?」
「いーや、こっちの話。俺さ、顔カッコいいし、背高いし、勉強もスポーツもできるし女の子にモテモテだしでこれまで人生辛いことなんてなかったんだけどさ、こんな胸が裂けそうな辛さは初めてだよ。失恋はいいものじゃないね」
「私はこれまで恋愛的な意味で誰かを好きになったことがない。だけど貴方に告白された時、他の誰かの顔が浮かびそうになったの」
「浮かびそうになった?浮かんだの間違いじゃなくて?」
「何が言いたいの?」
「今もずっと胸の中にいる人がいるんじゃない?頭から離れない人がいるんじゃないの?その人のことを想うと幸せな気持ちになるっていうかさ、まぁ、俺もつい最近そういう経験をしたからあまり上手くは説明できないんだけど」
ケントの話を聞いていた茜の表情がだんだん柔らかくなり、軽く頬が赤く染められる。
「悔しいけど、それが恋愛で言うところの好きってことなんじゃない?」
すると茜の表情は先ほどまでとは打って変わり、ケントの告白を受けた時以上の驚きに満ちた顔をしている。
「気づいたみたいだね」
ケントは悲しい気持ちを必死に隠し、優しく茜に微笑みかける。
「行ってきなよ。気持ちに気づいた今、もう止まることなんてできないでしょ?」
「ごめんなさい。ありがとう」
そう言って茜は走り出した。
その場に一人残ったケントは、上に向けていた顔を下へと向けてうずくまる。
「・・・・・はぁ・・・・・好きだったな〜」
誰もいない廊下で一人うずくまるケントの姿は、見た人から見れば情けなく映るだろう。しかし、それが恋愛というものであり人間である。誰かに見られるわけではないが、自身の涙を見せないのは、ケントの些細な抵抗。
大部屋に戻ってきた茜は少し焦った様子で樹へと旬の家の住所を聞く。
「旬に会いに行くの?」
「ええ。どうしても今、伝えておきたいことがあるの」
樹は、旬の家の場所を教えた後、旬の家からここの焼肉屋までの最短ルートを記した紙を茜に手渡す。
「これは?」
「旬。今ここに向かってるからその道の通りに行けば、途中で出くわすと思うぜ」
全てを見透かしたようなそんな樹の対応に少しドキッとする。
「ありがとう。じゃあ行ってくるわ」
「頑張ってください。茜ちゃん」
茜は緑が旬のことを好きだったことを知っている。しかし、緑がかけてくれた応援の言葉には未練なんて感情は一切含まれてなく、ただただ友である茜を本気で応援してくれている言葉だった。
急がなくても旬が逃げることはない。けれど、自分の中にある明確に名を持ったこの気持ちを、早く旬に伝えたいという思いが茜を駆け足にさせていた。
旬は樹から連絡を受けて「今行く」というメッセージを送った後すぐに家を飛び出し、携帯を片手に送られてきた住所の場所まで最短ルートで向かっていた。
「告白ってなんだよ・・・・・どうしてこんなにも不安に思うんだ?」
親にすら抱いたことのない初めての感情・・・・・誰かを愛するという感情。
愛に喜びや幸せがあるなら、悲しみや不安も付き纏う。
恋愛に理屈など存在しないが、初めて芽生えたその感情に旬は、ただただ困惑している。
家を飛び出したのだって不安から来る無意識によるものだ。茜がケントに告白されていると聞かされて居ても立っても居られなくなってしまい、気がつけば樹にメッセージを送り茜の下へと駆けていた。
行ってどうするかなど、当然考えてもいない。行って、ケントの告白に割り込む?そして自分のこの想いを伝えればいいのか?茜の気持ちは分からないのに、勢いだけで伝えてしまって本当にいいのか?伝えたところで自分は茜とどうなりたいのか?初めて貰ったこの愛に、もっと慎重に向き合った方がいいのではないか?と、ひたすらに動かす足と連動して頭の中へと様々な疑念が渦巻いていく。
すると、打ち上げが開かれている焼肉屋まで後二百メートルくらいになったところで旬の足がピタリと止まった。
旬が今いる場所は、居酒屋やその他の飲食店、ネットカフェやビジネスホテルが多く立ち並んでいるとても栄えた街並みであり、旬が足を止めた場所は、ラーメン屋の建物と既に営業が終了している不動産屋の建物の間の細い道が視界に入る位置。
道と言えるかは分からないが、人一人が通れるくらいのとても細く暗い通路。
その通路の中央辺りに、男が一人旬に背を向けてしゃがみ込み、何かをむしゃむしゃとほうばっている。
旬は始め、ホームレスかと思ったが、どうやら違う。
通路は確かに暗く、男のシンボルしか分からないほどだが、その暗闇でも分かるほどドス黒い何かが男がむさぼる度に左右にある建物の壁に飛びはね、ちょくちょく見える男の腕の手の指先から肘の関節あたりまでがその色で染まっている。
そしてよく見ると、男がむさぼっているその何かが、次第に横たわる人であることが認識できた。
「っ⁉︎」
先ほどまで心を乱していた不安をかき消してしまうほどの恐怖が、心の底から込み上げてきた。
旬が後退りその場から離れようとしたその時、後退る際に引いた足音に反応した暗闇に包まれた目の前の男の動きがピタリと止まった。
すると、そんな男の姿を次第に月明かりが照らし始め、男は照らされると同時に音のした方向へとゆっくりとふり返る。
「はぁ・・・はぁ・・・はぁ」
恐怖で呼吸が乱れていく。
ふり返った男の口元は大量の液体で真っ赤に染められており、ニヤッと笑った際に見えた鋭い牙からその赤い液体がポタポタと滴り落ちている。
意識全体が恐怖に吸い込まれそうになっていたその時、突然横から旬を呼ぶ声がした。
「影宮くん」
そこには、必死になって会いに行こうとしていた女性の姿があった。
「天界さ—————グフッ」
旬が一瞬、茜の方へと視線をずらした瞬間、旬の胸は貫かれた。
「お前もすっごくうまそうだぁ」
「カハッ」
口の中に大量の液体が溢れて鉄の味がする。
「影宮くん!」
茜の焦った声が掠れゆく意識の中耳に届く。
その光景を見た周囲の人たちからは一斉に悲鳴が上がり、その場にいた大勢の人たちは一目散に逃げ出した。
「その手を退けて!」
茜は旬の下にすぐさま近づくと、鋭く伸ばした自身の爪を旬の胸を貫いた腕目掛けて振り下ろす。
血で染まったその腕は旬の胸に突き刺さったまま切断され、その瞬間、男の顔から笑顔が消える。
「酷いことするなぁ——————お嬢?」
「うそ・・・・・・影宮くん?」
既に旬には意識はなく、じんわりと旬を中心として血の水溜りができていく。
「貴方がしたことは許されない行為。私が必ず消してあげるから覚悟していて」
「そんなお嬢、許してください。その人間がお嬢の大切な存在だとは知らなかったのです」
どうやら男の正体は人間の姿に化けていた鬼のようで、茜に気づいてからは終始何かに怯えた様子を見せる。
「今は消えて」
今は一刻も早く旬の命を救わなければいけない。しかし、ここまでの傷を負ってしまうと、医者にはどうすることもできない。
茜は旬を優しく抱え上げると人間離れした跳躍を見せ、そこら中に立っている建物を足場にしてゼツのいる自宅へと向かった。
バリンッと、リビングの窓ガラスが割られ、見知らぬ血だらけの男を抱えた茜が飛び込んで来た。
「おい、なんてことしやがる?普通にドアから入ってくりゃあいいじゃねぇか」
「と、父さん・・・・・助けて」
娘の腕に抱えられている男の正体が気になるが、今まで見せたことのない娘の焦った表情を見て只事ではないことを理解する。
「父さんしか頼れないの・・・・・お願いだから、影宮くんを助けて」
「大丈夫、落ち着け茜。とりあえずそいつを俺の部屋まで連れてくぞ」
そうして旬をゼツの部屋へと運び込み、部屋の中央にあった長机にビニールシートを敷き、その上へとゆっくり乗せる。
「茜。俺ならこいつを助けてやることができるが、その前にひとつ質問だ」
「何?」
「お前にとってこの男の命はどんだけ大切だ?こいつのために自分を犠牲にしろと言われたら、お前は犠牲になれるか?」
茜は瞳に滲んだ涙を拭い、真剣な眼差しをゼツへと向ける。
「必要なら犠牲にだってなるわ。彼のためなら私は命だって捨てる覚悟はできている」
「なるほどな。お前は、人間の世界で何よりも大切な存在を見つけることができたんだな」
そう言うと、ゼツはこの深刻な状況には似合わないほっこりとした笑顔を茜へと向ける。
以前から茜が言っていた気になる存在が旬であることをゼツに思わぬ形で知らせることになった上、状況に適さない笑顔を浮かべたゼツに対して、茜の理解は追いついていなかった。
「脈がほぼなくなってきやがった。んじゃ早速始めるか」
ゼツは自らの片腕を旬の真上へと差し出すと、反対側の手の鋭く尖った爪を差し出した腕へと突き刺す。
「ちょっと、何をしているの!」
「よく聞け茜。こいつはもう人間としては生きられなくなる」
「それってどういう————」
「こいつは俺たちと同じ鬼になる。ここまでの傷は鬼の回復力じゃねぇと治らねぇからな。俺の血を与えることで鬼にさせる」
旬が助かることを悟り一先ず胸を撫で下ろすが、更なる不安が茜を襲う。
「それじゃあ、治ったとしても彼はもう人間界では暮らせないの?」
「前にも言ったが、人間界で暮らしている鬼は山ほどいる。複雑な気持だが、お前の惚れた男を鬼ヶ島に連れてく真似はしねぇから安心しろ」
図星を突かれてしまった茜からは不安の表情が既になく、少し頬を染めた後軽く俯いた。
「だけどこれだけは忘れんな。通常鬼になるにはお前みたく長年に渡って鬼の妖気を浴びる必要があるんだ」
「妖気を浴びる?つまり、私が鬼とのハーフになったのは、鬼ヶ島で暮らしていたせい?」
「そういうこった。さらに長く鬼ヶ島にいれば何十何百年後かに完璧な鬼と化す。だがな、鬼の血を体内に取り込んだ者は例外だ。見て分かると思うが既にこいつの傷は完全に塞がっている」
ゼツの目の前に横たわる旬の胸に開いた傷はいつの間にか消えており、顔の血色も元に戻っている。
「つまり、もう鬼になっちまったのさ。それでだ、鬼の血を与えて鬼となった場合、そいつはいつしか理性を無くした人喰いの化け物となっちまう」
「止める方法はないの?」
「分からねぇな。過去にも二、三度暴走した鬼がいたが、そいつらは全員仲間の鬼に討たれて死んじまった」
「私が化け物なんかにはさせない。今はどうすればいいかも分からないけど、絶対私が影宮くんを救って見せるわ」
「そうか、まぁ何にせよまだまだ先の話だ。一先ず命は救えたんだ、今はそれを喜べ。それと、仮は返したぜ」
ゼツが最後に言った言葉は明らかに旬に対して向けられたものだった。
「仮は返したって何?」
「そいつだろ?こないだ言ってた演劇の出し物をめちゃくちゃにした犯人をボコボコにしたって言うのは」
「気づいてたの」
「お前の反応を見りゃあなんとなくな。何年親やってると思ってんだよ。まぁそれが理由で助けたわけでもねぇが・・・・・とにかく、助かってよかったな」
再び優しい笑顔を茜へと向けると、ゼツは静かにリビングへと戻って行った。
「ありがとう、父さん」
茜は最大の敬意と感謝を込めて、閉じられた扉へと深く頭を下げた。
茜はしばらくゼツの部屋で眠っている旬と静かな二人きりの時間を過ごした後、旬をリビングにあるソファへと移動させる。
「彼を襲ったのは鬼だった」
「だろうな、あの傷は人間にはつけられねぇ。それで、どんな鬼だった?」
「鬼ヶ島にいた頃、何度か見たことがある鬼だった。青白い髪に真っ白な肌、特徴的だったからよく覚えてるわ」
「なるほど、白鬼の野郎か」
「白鬼?」
ゼツは割れた窓から既に暗くなった空を眺めながら話しだす。
「ああ、鬼の中じゃ珍しい白色をしてたこともあって仲間内ではそう呼ばれていた。前々からいい話を聞かない奴だったな。俺が白鬼に任せた仕事は主に食糧採集だったんだが、あいつは鬼ヶ島の規則を堂々と無視しやがったんだ、何度も何度もな。茜も知ってるだろ?俺たち鬼が食べていいのは悪き魂を宿す悪人だけだってことをよぉ」
「ええ、知ってるわ」
「あいつは善悪関係なしに人間を襲い、しまいには俺たちみんなの食糧となる人間を独り占めしていやがったんだ。それを知った俺は白鬼を食糧担当から外し、別のやつを充てることにした。そして白鬼には別の仕事を与えて、今回の違反を見逃してやる代わりに鬼ヶ島に貢献することを約束させたはずだったんだがな。あっさりと破られちまったみたいだ」
通常、鬼ヶ島を離れる理由は二つ。食糧採集のためか、ゼツと茜のように人間界で暮らすためか。
しかし白鬼に関してはどちらにしろゼツとの約束を破ったことになってしまうため、普通なら鬼ヶ島を離れる理由がない。
だが、食糧である人間の年齢や性別、善か悪の魂を持ってるかで多少の味が変わってくる。鬼の中の絶対ルールとして、人間と争い合うつもりはないため、悪き魂を持つ悪人しか食糧にしてはならないというものがあるが、白鬼は人間の味の違いにハマってしまってしまい抜け出せなくなってしまったのだ。
「しゃあねぇが、始末するしかなさそうだな。茜、今回はお前に決めさせてやる。俺がやるかお前がやるか」
茜は少し考える仕草を見せたが、すぐに結論が出る。
「私がやる」
「なら任せたぞ、必ず始末して来い」
そう言うとゼツは口を大きく開けて、雄叫びを上げるかのような構えをとる。
しかし、開かれた口からは音は発せられずにただただ無音。
茜には一体ゼツが何をしているのかが分かっていないため、いきなりおかしな行動を取ったゼツに対して少し引き気味の視線を向ける。
ゼツは決してふざけているわけではない。今行っていることは、体内から外界へと音波を発して標的の位置を探る作業。
「見つけた。また次の獲物を見つけたみてぇだな」
「場所は?」
「ここだ」
ゼツは茜の額に自分の額を当てて、信号のようなものを送る。
「近いわね。じゃあ行ってくる」
「気をつけてな」
「私は強い。何と言ったって歴代最強と謳われる鬼の娘だからね」
茜は割れた窓から暗闇に飛び込み、姿を消した。
街行く人が差した傘に当たる雨音、湿った雨の臭い、肌を伝う冷たい雫。唐突に降ってきた雨にうたれた茜は、びしょ濡れになりながら自身の足元に血だらけになって横たわる一体の鬼を冷酷な目つきで見下ろしていた。
「貴方は私の大切な存在を傷つけた—————貴方が消える理由なんて、それで充分」
「お・・・お嬢、どうか・・・・・お許しください————」
白鬼は息を引きとった。
「ふぅ—————」
茜は己に伝わるあらゆる感覚を研ぎ澄ませて雨にうたれながら空を仰ぐ。
白鬼とはほとんど面識はなかったとはいえ、仲間であったことには変わりはない。
決して後悔しているわけではないが、怒りに任せて仲間の命を奪ってしまったことに対して胸が痛んでいた。
「さようなら」
鬼が死ねば、体全体が平らくしぼんだ後、灰のように舞って消えていく。
茜は徐々にしぼみ始める白鬼に向かって一言別れの挨拶を送った。
「うぅ・・・・・ここは一体?」
旬が目を覚ましたのは四日後のことだった。
旬は目を覚ますと第一に、自分の体に起きている異変に気がついた。
「何、これ?」
旬は鋭い爪を持ち、赤く染まった自身の手と足を見て軽いパニック状態に陥ってしまう。
「思い出せない。天界さんに会いに行こうとしたあたりから記憶がない。一体ボクの体に何が起きたんだ?・・・・・分からない」
旬は寝ていたソファから起き上がり、目の前に置いてあった一メートルほどの鏡に映された自身の変わり果てた姿に、思わず心臓が止まりそうになった。
「はぁはぁはぁ、うっ!」
突然頭痛が走り、白鬼に胸を貫かれた時の映像がフラッシュバックする。
「っ!傷は?・・・・・ない。ボクは死んだのか?」
「いいえ生き返ったわ」
旬が目を覚ましたことに気がついた茜がリビングの扉を開けて姿を見せた。そしてその背後にはゼツの姿もある。
「どうして天界さんが?・・・・・ひょっとしてここは天界さんの家?」
「そうよ。死にかけていた貴方を私の家まで運んだの」
「やっぱりボクは———あれは夢じゃなかったのか」
旬が自身の胸を押さえながら話す姿を見て、これから説明しなければならないことを躊躇してしまいそうになる茜。おそらく旬は既に察してはいる。しかし、鬼にさせてしまったなど、そう簡単に口にできることではない。
「ええ。貴方に謝らなければならないことがあるの」
「君が謝ることなんて何一つないよ」
「けれど私は、貴方のことをその—————鬼にしてしまった」
「謝るのはむしろボクの方だ。君に辛い決断をさせてしまった。驚きはしたけど、天界さんは命の恩人だよ。ありがとう助けてくれて」
そんな旬の言葉を受けて、茜の瞳に小さな涙が浮かんだ。
旬が寝ていたこの四日間、もう出る涙が残らないくらいたくさん泣いた。茜の他にも悲しみ涙を流している人はいるだろう。
丁度停学期間と重なっていたこともあり学校に今回の件は知らせていないが、旬の身近な樹、緑、五月には大方の事情を伝えておいた。
「んんっ!感動の再会に浸っているとこ悪りぃが、父である俺からもお前には言っておかなくちゃいけねぇことがある」
旬はゼツが父親であると察していたため、ゼツの口から父というワードが飛び出ても然程驚きはしない。しかし、改めて口に出されて言われると、なんとも言えない緊張が旬を襲う。
「俺の血で鬼になったお前は、いずれ理性の効かない化け物になっちまう可能性があるんだ。だから俺と一つ約束してくれねぇか」
「約束ですか?」
「簡単な約束だ。ずっと茜の側にいてやってくれ」
ゼツの言葉に矛盾が発生していることに気がついた旬は、少し困ったような表情を浮かべてゼツへと質問する。
「だけど、ボクが理性のない化け物になってしまったら、危険じゃないですか?」
「安心しろ、絶対になるわけじゃねぇ。あくまでも可能性の話だ。だから約束しろ、絶対に茜のことを一人にさせるなよ。男と男の約束だからな」
そう言われてもそう簡単に安心することなどできないが、側にいることが許されるのならずっと茜の側にいたいと本気で思っている旬は、ゼツから差し出された手を握り返す。
「約束します」
「よしっ、正直可愛い娘に男は近づかせたくはねぇが、お前なら信用してもよさそうだ。そんで名前は何ていうんだ?」
「影宮旬です」
「それじゃあ旬、頼んだぜ」
この時旬に向けられたゼツの覚悟を決めたような瞳が、旬にはゼツが何かを焦っているようにも見えた。
「それじゃあボクは家に帰るよ。五月さんも心配してるだろうし」
そう言うと旬はソファから立ち上がり玄関へと向かおうとする。
「まさかその姿で帰るのか?通常鬼ってのは霊体だが、お前には茜と同じで人間の血も流れてんだ。そのまま外に出たら、町中大騒ぎだろうな」
ゼツの言葉を受けて、玄関へと向かおうとしていた足を止める。
「確かに、五月さんに鬼の姿で会うわけにはいかない」
「お前の体は今、鬼の血に順応しようとしているため鬼の姿へと変化しちまってるが、純粋な鬼にはなってない以上、人化と言うよりは姿だけを元に戻すと言った方が正しいな。それじゃあ俺へと背中を向けて立て」
ゼツは、旬の背中に大きな手のひらを当てる。
「今から俺の妖力でお前の内にある血液を含めた人間としての部分を刺激する。刺激されたお前の中の人間の核は、人間としての姿を思い出すだろうよ。だがな、鬼になっちまった事実は変わらねぇ、お前の体内には俺の血が永遠と流れ続けるからな」
「もう覚悟はできてます」
「いい根性だ。それじゃいくぞっ」
ゼツは背中に当てた手のひらから旬の体内に妖力を流し込んでいき、人間としての血液を刺激していく。
「くっ!」
「熱いだろうが我慢しろ。後少しだ」
旬の額に鋭く生えていた二本の角が姿を潜めて、頭のてっぺんから徐々に肌色を取り戻していく。
「よっしゃあ、見た目は完全に戻ったな」
彫刻のように綺麗な顔を取り戻した旬を見た茜の心臓がトクンッと小さく音を立てる。
「あん時はあまり分からなかったが、旬。お前相当イケメンじゃねぇーか」
「・・・・・よく言われます」
そう言って旬は軽く笑みを浮かべたが、それを見ていた茜の頬が赤く染められる。
「かぁー、ほら、さっさと帰れ。親御さんも心配してんだろ?ほら」
突然の急かすようなゼツの態度に旬は慌て気味になりながらも、玄関へと向かい、ゼツの使っている靴の一足を貸してもらう。
「助けてくれて本当に感謝してます。天界さ————茜にもね」
ゼツも一応は天界さんのため、かなり恥ずかしそうにだが旬は初めて茜のことを名前で呼んだ。
最後に旬が放った一言により、不意をつかれた茜は沸騰しそうなほどに顔を赤らめる。
「えっ———」
「ほら早く出てけっ。じゃあな、気をつけて帰れよ」
「はい」
二人の間に挟まれていたゼツは気まずさと、娘のこんな姿を見ることに我慢できなくなったあまり、旬を急いで扉の外へ追いやると素早く扉を閉めた。
「クッソ〜あの野郎。可愛い茜にこんな顔させやがって〜」
ゼツは心の声をボソッと漏らすように小さく囁いた。
ゼツは旬のことを茜の側にいることを認めてはいるが、やはりどうしても親として娘の心を他人の男に奪わせることに抵抗がある。
だがもう手遅れである。
茜の表情を見れば分かる通り、女子が頬を赤らめとろけた表情を浮かべる理由は、『恋』をしてしまっているから。
ゼツは親として娘の恋を応援してやりたい気持ちもあるからこそ、覚悟を決めなければならない。しかし、悲しいものは悲しいのだ。おそらくこればっかりは時間が解決してくれる問題ではない。
旬が家の扉を開けると、部屋中が真っ暗でリビングすら電気が付いていない。
家中の明かりを消すのは、寝る時か出かけるときくらいだ。しかし、旬がリビングの明かりをつけると、台所の横にある机に腕を枕代わりにして顔を沈めて椅子に腰掛ける五月の姿があった。
「五月さん?」
「んん?・・・・・旬くん?」
旬の名前を呼んだ五月は、眠たそうにして薄らと開けていた瞼を見開き、瞳が次第に潤んでいく。
「よかった・・・・・本当によかった」
五月さんは立ち上がり旬の下へ近づくと、包み込むようにして力強く抱きしめる。
五月の体は小さく小刻みに震えており、抱きしめる力を強くする度に涙が次々と溢れ出て止まらない。
「あんたが大怪我して意識がなくなったって聞いた時、私がどんな気持ちだったか分かるかい?すぐにでも駆けつけたいくらい気が気じゃなかったよ」
「五月さん—————」
誰かにこうして抱きしめられたのはいつ以来だろう?と旬はふと思った。
抱きしめられた、そんな記憶は旬の中にはなかった。旬は比較的かなり小さい頃の記憶までも覚えている。
両親には一度たりとも褒められたことも心配されたことも悲しんでもらったこともない。
だからこの親代わりである五月に対しても今までとくに何とも思ってはこなかったし、大切に思われているとも思ってはいなかった。
しかし今、旬は五月から伝わる温かさを感じている。そして、どことなく安心感のようなものも感じている。
「あんたは私のことなんてどうでもよかったかもしれないけど、私はずっと親のつもりだったよ。今まで子供と接する機会がなかった私は、旬をこれまで育ててきたけど、どう接すればいいのかが分からなかった。それは今も同じだけど、旬が楽しそうにしている時や辛そうにしている時は、一緒に楽しんであげたかったし、寄り添ってあげたかった。だけどこれまで、私も旬の両親と同じであんたに何の愛情も与えてあげられなかったね」
五月は抱きしめた旬を離そうとはせずにそのままひたすらに自分の想いを旬へと伝える。
「正直、始めは引き取らなきゃよかったと思うこともあったし、愛情なんてこれっぽっちも感じなかったけど、今回旬のことを失うかもしれないと思った時、どうしようもなく私にとって旬が大切な存在だってことに気づいたんだよ」
旬は今、茜への『恋』する感情で愛情について学び始めたばかり。こうして誰かに心温まる愛情を伝えられたのは初めてだ。
無意識に旬の瞳に一滴の涙が浮かぶ。
「・・・・・」
「これから私は、旬としっかり向き合って親としてできることを精一杯していこうと思う。だから、私を旬のお母さんにしてくれないかな?・・・・・血は繋がってないけど、親になることを許してほしい」
一滴だけ姿を見せた涙が頬を伝って流れ落ちると、これまで溜め込んでいた涙が一気に押し寄せるように旬の目からポロポロと涙がこぼれてきた。
「ボクは誰にも愛せてもらえてないと思っていたし、それでも構わないと思ってた。だけど、不思議なくらいに涙が止まらない・・・・・」
五月は抱きしめていた手を離し、旬の顔に視線を向ける。
「今日は私も旬も思う存分泣いてさ、明日から笑顔でいこうよ」
「五月さんは、ボクのことを愛しているの?」
「愛している、愛してるさ。私の命よりも大切な存在だよ」
「そっか・・・・・」
旬は心の底からの柔らかい笑顔を作る。
「突然だけどさボク、初めて好きな子ができたんだ。母さん」
五月は母として認められたことに再び溢れ出る涙を抑えられない。
「ほんとっ、突然だね」
そうして二人して涙を流しながら笑顔を作るというおかしな空間が出来上がった。
この日、旬は初めて誰かの前で子供になれた。
二週間ぶりの登校日。旬は教室の扉の前で扉を開けるのを躊躇っていた。
普段大人しい奴が暴力事件を起こしたのだ。容赦のない一方的な暴力を振るって。
極力目立たないように過ごしてきた旬にとって、注目の的になるのはストレスでしかない。しかし、これも全てあそこで怒りを我慢できなかった己の未熟さゆえ。
「ふぅ・・・・・」
覚悟を決めて扉を開けると、少なからず今までとは違うみんなの視線がちらほらとは飛んできたものの、特に何かを言ってくるとか絡んでくるようなことはない。
旬がスタスタと歩いて窓際にある自分の席まで行くと、そこには既に樹が座っていた。
「そこボクの席なんだけど」
「久しぶりの登校一人じゃ寂しいと思ってさ、こうして待っててやったんだぜ」
「寂しくはないけど、少し不安だった。でもみんな案外気にしてないみたいだ」
樹は呆れたようにため息をつく。
「はぁ・・・・・俺の苦労を知ってほしいもんだ。誰のおかげでみんなお前に絡んでこないと思ってんだ?俺のおかげだぞ。みんなを説得してお前が悪くないってことも分かってもらったし、喧嘩の強さも誤魔化しておいた」
旬がいなかったこの二週間で、樹は旬が悪くないことをクラスメイトのみんなにしっかりと説明し、納得してもらった上、喧嘩の強さに関しては、昔樹と一緒にボクシングを習ってたことがあると嘘と真実を交えて説明していた。
二年D組には特別頭がキレる奴もいないため、案外すんなりと納得してくれた。
「何にせよ、無事に帰ってきてくれてよかったよ」
樹は立ち上がり旬の肩に手を置くと、旬にしか聞こえない声量でそう小さく囁いた。
「ああ」
男同士の再会を邪魔しまいと茜と緑と吉祥寺の三人が吉祥寺の席に集まって話をしていたが、樹が自分の席へと戻る様子を確認した緑が茜と一緒に旬の下へと近寄る。
「怪我はもう大丈夫ですか?」
「うん。茜に、助けてもらったから」
下の名前で呼んだことに驚いた緑は、目をパチクリと一度見開いた後、下唇を噛み締める。
「そ、そうなんですね。本当によかったです」
応援はすると決めたものの、緑の言葉からはどこか悔しさが滲み出ていた。
それはそのはず、例えフラれていたとしても、一度抱いた恋心はそう簡単に消すことなどできない。徐々に時間をかけて消していくしかないのだ。
「それじゃあ、ホームルームが始まりますからもう行くですね。茜ちゃんもまた後で」
「ええ」
緑の違和感に気がついた茜だったが、特に理由を聞こうとはしなかった。なぜなら、緑の気持ちを知っているため、予想はついていたから。茜と、名前で呼ばれて嬉しかったということは、他の人がそう呼ばれるのを聞いて嫌だと思うということでもある。恋愛初心者の茜でもそれくらいは分かっていた。
旬の久しぶりの登校日は早くも帰りのホームルームを終えて放課後を迎えていた。
「久しぶりにみんなで帰るか」
「そうだね」
樹の言うみんなとは緑、茜、旬、樹のメンツのこと。
丁度帰り支度を終えていた茜と緑にも声をかけて久しぶりに四人で一緒に帰ることに。
「そういえば後二週間くらいで期末試験だな。毎年この時期になってくると、勉強むずいし今回もテストのレベル高ぇんだろうな」
「ですね。他の学校と比べてもうちの学校は内容が難しいみたいですよ。今回も覚悟が必要ですね」
普段あまりいい成績とは言えない樹と緑は今回こそはいい成績を取ると意気込んでいる様子。しかし、意気込むのはいいがそれが行動には移らない。現に今、試験まであと二週間だと言うのに全くのノー勉なのである。
しかし成績だけで言うのなら、旬の方が悪い。旬の順位は、茜と出会う前は毎回クラスで最下位争いをするほど悪く、出会ってからは少しやる気を見せ始め、学年全体の中間あたりに位置している。
「旬も何て言うか停学明け早々試験だなんてついてねぇよな」
「まぁでも、ボクにとってはいつもの授業と何も変わらないよ。半分くらい解いて後は寝てればいいだけだから」
樹は知ってる。旬に解けない問題は存在しないことを。少なくとも、今まで見てきた旬は、サボって問題を解こうとしないことはあったけど、実際解いて間違えたことなど一度もない。
「お前は気楽でいいよな」
もう直行われる期末試験について話をしながら旬たち四人が教室から出ようとしたその時、旬と樹にとっては何度も聞き覚えのある女子生徒の声が教室内に響いた。
「影宮旬はいるかしら?いるなら出てきてちょうだい」
教室の前の出入り口を塞ぐようにして立つその女子生徒は、一年の第一回目の定期試験からずっと学年一位を取り続けている天才である。
明輝学園の試験内容は、大学生ですら簡単には解けない問題が含まれているが、この女子生徒は毎回全科目含めて十点ほどしか落としていないのだ。
「夢北じゃねぇか。そういやあいつも同じ高校だったけな、今の今まで忘れてたぜ。にしても外見はあんなに変わったのに中身は昔のまんまだな」
「あの人って確か、学年一位の夢北さんですよね?」
「夢北?」
同じクラスではない茜が夢北のことを認識していなくても無理はない。何度か視界には入っているだろうが、知らない人がいちいち入り込んだことなど気がつかない。
「んまぁ、ぶっちゃけ言うと俺らの元中学のクラスメイトで、旬に惚れてるんだわ」
それを聞いた茜の視線はすぐさま旬へと向けられた。
「昔の話だよ。中学の頃に何度か告白されたことがあったってだけ、だけど全部断った」
「あん時もはやストーカーみたいだったよな」
樹は笑いながらそう話すが、当時は笑い事ではなかった。
たいして仲良いわけでもないのに、旬が行くところにはどこでもついていき、昼食の時は毎回自身の手作り弁当をあげていた。しかも、週に一度は旬の家の前で待ち伏せするなどの行為にも及んでいた。
夢北花火は旬が目立つことを嫌い、顔を前髪で隠すようになった元凶とも言える。
「マジで今では頭も良くてあんなに美人になっちゃいるけど、昔は髪ボサボサで丸メガネをかけた、これぞ陰キャって感じだったんだけどな」
しかし今では髪は黒髪のまんまだが、ストレートに腰あたりまで伸ばされており、ツヤツヤしている。メガネも外しコンタクトにしたことでパッチリとした二重の目が姿を現し、濃くも薄くもない唇と高すぎず低すぎない鼻とが絶妙にマッチングし、キレイに整った顔をしている。
「影宮くん。いるなら早く来てちょうだい」
それに話し方はあまり変わっていないが、自信の現れか、昔よりも口調がかなり強くなっている。
樹は仕方がないと言った表情を浮かべて旬の背中を軽く押す。
旬にとって夢北は関わりたくない人物であるため、夢北の下へ向かう足取りは相当重たい。
「久しぶりだね。夢北さん」
「ええ、久しぶり・・・・・直ぐに会いに行きたかったんだけど中々勇気が出なくて会いに行けなかったの」
この時旬は、心の中で『一生会いに来なくてよかったのに』と思った。
「でも、影宮くんが暴力沙汰を起こしたと聞いて、停学が明けたら私が影宮くんの乱れた心の支えになれればと思って来たのよ」
旬が暴力事件を起こしたのは茜のことを想ったことによる怒りが理由であり、夢北の支えなど必要ない。
確かに外見はかなり変わったが、昔と何も変わっていない中身に吐き気さえ覚える。
「あのさ、ボクは大丈夫だから。もうこれっきりにしてもらえるかな?」
すると、夢北はキョトンとした表情で信じられないようなことを口にし出す。
「何言ってるの?中学の頃、私が告白した時に約束したじゃない。高校で三年間学年一位を取り続ければ付き合ってあげるって、まさか約束破る気じゃないでしょうね?」
「そんな約束————」
それは中学二年の春、旬が転校して来てすぐの頃の話。
突然髪の乱れた不気味な女に告白された旬は、これまでにも何人もの女子生徒から告白を受けて来たが全て断っていたため、当然その時の告白も断った。
しかしそれからが恐怖の始まりだった。約半年にも及ぶ不吉なストーカー行為が繰り返されるようになったのだ。
当時の旬は誰一人信用していなかったため、誰かに頼ろうとは決してしなかった。ただ、近くで見ていた樹だけが本当のことを知っていた。
そしてある日、旬はストーカー女にある提案をしたのだ。それは、これからの試験でずっと学年一位を取り続けること。それができれば付き合うという約束を。
中学時代の夢北花火は学年最下位のバカであったため、ちょっとした意地悪で無理難題を突きつけたのだ。しかし夢北はそんな旬の提案に目を輝かせて承諾した。
それから夢北は自分の外見磨きの他に猛勉強をしたのだ。その努力は狂気に満ちているが、並の神経でできることではない。
「確かにそんなことを言ったかもしれないけど、ボクは一言も高校三年間なんてことは言ってないよ」
「大学では順位が出ないことが多いみたいだし、あの時の私にしてみれば今の状況は奇跡みたいなものよ。後一年、私が一位を守り続ければ、影宮くんは私のものになる。こればかりは絶対に譲れない」
もうめちゃくちゃだ。そう吐き出したくなる気持ちをグッと抑えて旬は一つの決断をする。
「今回の期末試験。君は一位を取れない」
「どうして?」
「ボクには勝てないから。断言するよ、今回のテストでボクは全ての科目で満点を取る」
そんな旬の言葉は、ただの絵空事としか捉えなかった夢北の頬が少し上がる。
「悪いけど影宮くんの成績は私が一番知ってるんだよ?全科目満点?そんなことできるわけない」
「悪いけど、これまでの試験でボクが解けなかった問題は一つもない」
「そこまで言うなら、もし一点でも落としたら後一年なんて待たないで、直ぐに私の彼氏になってもらうけど、それでもいいの?」
「構わない」
「へぇ〜すごい自信。変わったのは私だけじゃなかったんだね。もしかして好きな人でもいたりして?」
そう言うと、口元はニコッとさせながら睨むような目つきをして二年D組をぐるりと見回す。
「それじゃあまたね。今回の試験楽しみにしてるから」
一時的にだが、一先ず嵐は過ぎ去った。
「何て言われた?」
中学時代に夢北と何があったのか知っているだけに、いつもの揶揄うような口調ではなく真剣な表情で聞いてくる樹。
「まぁ、前と同じようなことだよ」
「夢北もしつこいよな。同じ高校だって知った時は恐怖を感じたけどよ、特に中学の時みたく接触はして来なかったし油断してたぜ」
「夢北さんって、そんなに怖い人何ですか?」
事情を知らない緑が不思議そうな表情を浮かべている。
「怖いな。旬が顔を隠すようになった原因に間違いなく大きく関係してるからな」
「そ、そうなんですか」
夢北は頭も良く運動も人並み以上にできる上、旬以外の生徒には明るく適度な距離を保ちながら親身になって接しているため多くの生徒からの信頼を得ている。そのため、普段の夢北からは想像もつかない一面を樹に聞かされた緑は、信じられないと言った表情を浮かべている。
「ということは、彼女はまだ影宮くんのことを好きなの?」
旬ではなく、樹に茜は質問する。
「だと思うぜ。じゃなきゃわざわざクラスまでこないだろ?」
「それもそうね・・・・・」
どこか落ち着かない様子の茜。
「だけどもう夢北さんに付きまとわれることはないよ。それにボクは彼女のことなんて見てないし」
チラッと旬の視線が茜へと向けられて直ぐに外すが、もう一度茜へと視線を運んでいる。そんな動作が何度か繰り返され、それを見ていた樹が何か違和感を感じた。
「なぁ旬。お前なんか天界さんに言いたいことでもあんだろ?」
「え?あ、え?・・・・・いや、別にないけど」
明らかに動揺している旬が嘘をついていることなど直ぐに樹は見抜いたが、親友の色恋沙汰にあれやこれやと口を出すわけにもいかないため、これ以上聞き返すような真似はしない。
「そっか。よしっそれじゃあ気を取り直して、どこか寄り道して帰るか」
その後、旬たち四人は帰り道にあったコンビニでアイスクリームと肉まんを購入した後、近くにあった公園で辺りが夕焼け色に染まる時間まで談笑にふけるのだった。
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