第44話 霊障
7月初旬~
広々としたダイニングテーブルの上には何も置かれておらず、ただ刺しゅう入りのテーブルクロスが敷かれているのみだった。
席についているのは4人家族で、それぞれがうつむきながらキッチンから漏れる明かりのみで薄暗い中に佇んでいる。
「パパ、おうち出るんでしょ? 早く出ようよ。もうやだよこんな家」
バン! バン! バンバンバン!
近くの白い壁から人の手で叩かれたような音が室内に響く。
そのあまりのタイミングのよさに、母親が思わずびくっと悲鳴をあげる。
「あ、あなた、真由ちゃんも言ってますから……」」
まるで力尽きたかのように母親の言葉が止まる。
真由と呼ばれた妹の隣にいた小柄な兄は、ずっと恐怖のためか震え泣き続けている。
「や、や、そうだ約束があったんだ。で、出ないとだな、約束なら仕方がないから……
で、で、ででー、でーでーでーでー」
まるで壊れたテープレコーダーのように単調な音を繰り返し始めた父の顔を見た真由が悲鳴をあげる。
白目を剥き、何もない空中へ向かって「でーでーでーでー」
繰り返すのみだ。
ずずずず……ずずず…… 何かが這い寄る音がする。
ヒソヒソヒソヒソ……どこかで複数人がひそひそ話をしているような音が耳の傍を通り過ぎたような気配があった。
母親はもう立っていられず、へたりこんで耳を塞ぐ。
兄は泣き出し、そして真由は必死に泣くまいと唇を噛みしめながら改めて父を見る。
黒い霧のような何かが首の周りに纏わりついており、周囲の壁からは10数本の手がにょっきりと生えている。
あまりの非現実的な状況に、真由はただ見つめるしかできなかった。
そんな真由の元には、子供ぐらいの大きさの黒い霧が手を伸ばしている。
あああああ ぐうううああああ
うめき声、嘆きの声、そんなものが家に響いている。
真由は突如思った。
こんなに怖い家なのに、なんで私たち家族は普通に帰ってきてしまうのだろう。
せっかく学校や仕事には行けるのに、出て行こうとすると必ずこうなる。
そして今日は少しだけ違った。夜の10時になろうという時間なのに……
ピンポーン
ピンポーン
呼び鈴が鳴り続けている。
◇
霞ヶ関合同庁舎
「よお島田じゃないか、久しぶりだな」
「大和田か、そっちこそなんかやつれたんじゃないか?」
警察庁 島田警視がすれ違ったのは、大学時代の同級生である、経済産業省 産業振興課の課長職にある大和田健三だった。
しばしの雑談の後、大和田はどこか言いにくそうにある提案をしてきた。
「なあ実は相談したいことがあるんだ。その警視庁にあるんだろ? そのあっち系の捜査を助けるみたいな部署が」
「ああ、官僚機構には一部情報開示をしているからな、まあ隠すことでもないが、どうした?」
「そのだな、俺の家で起きてることをちょっと相談するのに、一般のだと色々とな問題が起きたときに困るんだよ」
言い難そうに渋るのは大和田らしくないと島田は不思議に思う。大学時代は舌鋒鋭くディベートが得意で優秀な学生だった。
それを察した島田は経産省のイベント警備に関する問題で大和田を利用できると考え、助け船を出すことにした。
「今日の19:30にこの店の個室で待ってる。お前の相談に乗れそうな奴を連れていく」
島田は財布からその店の案内カードを手渡す。
「あ、ああ、時間通りに行くようにする。悪いな島田」
「いいさ」
大和田と分かれた島田は、すぐに霊事課課長へと連絡を取った。
◇
「なんでそんなにやる気なんですか?」
「ふっ警察庁の島田警備副局長から直々のお誘いなのだ、ということでお前も来い」
「接待なんて結界班の綺麗どころを連れて行けばいいじゃないですか」
「おい、そういう発言するとこのご時世じゃ首が飛びかねんぞ? それに今日は取り調べの支援業務が終わったんだろう? 定時まで報告書書いたら早めに上がってここに行け、30分前には到着していろ、いいな?」
「普段からそういうやる気見せてくださいよまったく」
課長室から出てくる八神をからかうのは、最近ではすっかり本条陽菜子の役目になりつつある。
「また課長に噛みついたんですか?」
「めんどくせえ、課長の接待のお供をしろってよ」
陽菜子も驚いたようで、差し入れのバームクーヘンを口に運びながら「あらまあ」と言った。
「ああ、本条君、君もよかったら同席しないか? キャリア同士の繋がりも重要な時はあると思うよ」
ちょうど課長室からお茶のおかわりを入れにいこうとしていた課長が、陽菜子を見つけて声をかける。
「私は警察庁のキャリア研修のレポートがあるんで、今日はちょっと残業していきますね」
「まあそういうことなら仕方がない。たしかに綺麗どころがいたほうが喜ぶかもしれないな、白鷺さーん! 白鷺さんいる? え? 鑑識班のお祓い? あれまだ続いてたっけ?」
「いつもこれぐらいやる気を出してくれればいいものを」
「そうだ先輩、FBI研修の時に参考にしていたシリアルキラー関連の書籍とかってありますか?」
「シリアルキラー関連だったら、基本に帰ってロバート・K・レスラーのFBI心理分析官を読んでみたらどうだ? 座学で心理学的な分析などを読み込むのもいいが、全体像を掴むというかシリアルキラーの大枠を掴むのに適しているな」
「なるほど! よし、探してみよう」
八神はデスクの一番奥にしまってあった、文庫本になっているその本を引っ張り出す。
何度か読み込み、嫌悪し、戦慄し、そして憎悪した対象、シリアルキラー。
「本条、俺のお古でいいならこれやるよ」
「ええ!? いいんですか!? うわあ、表紙きっしょ!」
想定した以上に喜んでくれている様子に、思わず心の中に溜まっていた怒りが浄化されていくのを感じる。
こうして八神は集合の5分前に会合というか飲み会接待の居酒屋に到着した。
普段職場の同僚たちに誘われて行くような庶民レベルの居酒屋とは違い、入口から内装品や造りのレベルが違うことが分かる。
薄暗い雰囲気ながら、格調高く値段もそれなりになりそうな予感がする。
「八神、遅いじゃないか早くしろ」
課長が手招きした個室へ入ると、まだ当人たちは到着していないようだ。
「あの課長、ここってかなり高いんじゃ? 俺金ないっすよ」
「ふふふ、安心しろ。ここは経費で落ちるようにしてある。お前は支払いなんぞ気にせず、相談に乗ってやれ」
「課長だって相談のれるでしょう」
「私はそういうのは苦手でな、知ってるだろう私の得意分野が偏っていることを」
「まあそうですけど」
「やあ、時間はギリギリだったかね」
そこには背広姿の40代の男が二人、個室へ案内されてきた。
「これは島田警備副局長!」
「おい、敬礼はやめたまえ今はオフだよ」
つられて敬礼をしそうになった八神は島田に促されるまま席に戻る。
「紹介しておくよ、経産省の大和田君だ。今日は君たちに相談があるってことで俺が間を繋いだってわけだ」
「御足労かけました、経産省の大和田です」
横柄な態度じゃどうしようと思っていたが、そういうタイプではないのだろう。
多少安堵した八神は課長に促されるまま、自己紹介をする。
「警視庁 情報支援室 八神恭史郎警部補です」」
「おい八神、そっちじゃない、正式名称でいいんだここは」
「…… 警視庁 霊事局霊事課 八神恭史郎警部補です」
大和田が真剣な目で八神を見つめている。
値踏みというよりも、信頼に足る人間かを見極めようとしている、といったような気がした。
「とりあえず飲み物でも」
卒がない山田課長が飲み物や料理の手配をし、ある程度そろったところで改めて話が始まる。
八神は手にしたジンジャーエールを一口飲むと、大和田の相談を聞く覚悟を決めた。
大和田は物憂げにビールのグラスを見つめていたが、意を決したように語りだした。
”「実は、最近買った新築の家なんですが、家で変なことが立て続けに起こってるんです。
夜中に廊下を誰か歩いているような気配がしと思ったら、急に壁を誰かがバンバンと叩く、冷蔵庫の物が朝起きたら外へぶちまけられているとか。
他にも、浴室の壁に泥のついた手形がいくつもついていたり、寝ていると金縛りにあって首を絞められたり……
こんなの誰かに言っても信じてもらえないだろうから、黙って耐えるしかなかったんです」
”
大和田が憔悴し半ばあきらめたように言い放った。
課長が質問をする。
「大和田課長、今までに経験した怪異といいますか、異変、違和感、分かる範囲で教えてください」
八神は既にノートPCを取り出して異変内容をまとめ始めている。
「えっと、夜中に天井なのか屋根なのかをずりずりと何かが這う音が聴こえたり、家のどこかで人が大勢で話をしているような声がしたり、これは娘が言っていることなんですが壁から手が出てきて、掴んでこようとする、とか、あとは……引っ越しを話題にするとすぐに壁を叩く音が……」
八神はあまりの怪異の多さに、納得がいった気がした。
会った時から大和田の首には黒く長く、そして細く骨ばった指のようなものが絡みついている。
これは経験上非常に良くない。
恐らく、この体験談の中には勘違いも含まれてはいるだろうが多すぎる。
「大和田さんを含めて、ご家族の体調や精神に異変は起きていませんか?」
「みんな怖くて怯えています。妻は体調を崩しやすくなっていて慢性的な頭痛に悩まされてます。
娘はいつも人のいない壁を見て怯え、長男のほうは怒りっぽくなって精神的に不安定に」
実害が出ており、霊障も深刻だ。
「どうして私たちがこんな目に合わなきゃいけないんでしょう。妻は土地が悪かった、事故物件だったと嘆いてます」
事故物件。
たしかにその可能性は高い。
だが八神が気になっていたのは、別のことだった。
「大和田さん、一つ聞いてもいいですか?」
「はい、分かることでしたら」
「あなたが遭遇した怪異を語るとき、どうしてそんなにうれしそうなんですか?」
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