第25話 戸河里



 八神の目には湿度の高そうな黒い霧が蠢いているような、まるで毒ガスの雲の中に放り込まれたような状況が見えていた。


 ゾウさんがベースの滑り台ではあるが、やけに塗装が禿げており色が褪せている。


 ここに……あの子の遺体が―― そう思ったとき、何かが流れ込んでくる。


 資料で見たあの能代真雪の全身の皮が剥がされた、まるで筋肉の細部を学ぶための人体模型にも似たあの姿が視界の奥へ刺すような痛みとともに現れれる。


 思わず右目に生じた痛みに顔をしかめた八神。


 だが、それだけでは終わらない。


 断末魔の悲鳴、呻き、叫び、口唇と頬がなくなったことで発せられる独特の悲鳴。


 そして八神は彼女が味わった絶望を垣間見る。


 目の前に現れたのは、全身が映る姿見。

 つまり鏡によって変わり果てた自分の姿を見せられていた。 

 強制的に。

 そのために、あえて鎮痛剤を大量に投与され、眼球が乾かないように点眼され、生命維持のために抗生物質や生食を点滴され……


 モデルとして多くの人を魅了し、憧れの対象となっていた美貌や脚線美、男たちが妄想してやまないその肢体は、狩猟で狩られた獲物のように皮を剥がれた状態にされている。


 目の前にある絶望が、自身の姿であると認識させるために、奴が、犯人が囁く。


 『 君の絶望を見せておくれ。君の絶望は何色かな? そしたら一緒にいられるよね 』


 能代真雪の霊体とコンタクトが取れたわけではなかった。

 

 強烈な絶望と怒り、そして憎しみの残滓が見せたビジョン。


 「はぁはぁはぁ……」

 思わず膝をついて荒い息をする八神を、陽菜子が支える。

「せ、先輩!? 大丈夫です、私がいますから」


「すまない……少しだけだが、見えた。奴は、奴は、若い男だ。見た目はかなり整った容姿の男に思えた。顔がぼんやりとしているがそれは分かる」

 女に声をかければ、大体がついていくような、そういうタイプだと八神は感覚で理解した。


 ネチャ……ニチャ…… グチャリ…… ヴェチャァ……


 「え!?」

 本条陽菜子でさえ気づく異変。


 唐突に周囲の気温が下がり始めていた。

 陽菜子の吐く息が既に白い。


 本能が危機を察し、思考が猛烈に回転し始めていくのを八神は自覚した。


 「護符を手にして俺の傍から離れるな」

「は、はい」


 白鷺美冬が手渡してくれた護符を大事に握りしめながら陽菜子は八神の腕にしがみついた。


 ハァァァァ…… フゥウウウ…… 


 湿度の高い呼吸音が迫ってくるのを感じる。


 陽菜子が腕にくっついていることに八神は安堵と闘争心が刺激される。

 己の右腕が、とても熱い。

 今はその熱さが、生き残るための力になると本能が叫ぶ。


 ジュルルルルル…… ズズウウウウ……


 (何の音だ!? 何かを啜るような、咀嚼音にも似た……まさか!)


 滑り台から何か黒いものが流れ出している。

 ドロリとした何か。

 八神は瞬時にそれが血のようなものだと分かったが、陽菜子は震えながらも逃げ出さずにしがみついてくれている。


 ベチャリ! ドチャァ!


 すぐ近くに何かが落ちるような音が響く。

 「っ!」 陽菜子にまで聴こえているということは、相当にやばい存在だろう。


 (まだだ、まだ! もう少しだけ奴の正体を確かめなくてはならない!)


 二人に迫るのは、ぶよぶよの皮のたるんだ人型をしたナニカ。


 大仰に大振りに皮のたるんだ血だらけの腕を振り回しながら……

 『 キャハハハハハハ! グヒイイイイイイ! 』


 歓喜の叫びをあげている。


 臓腑を鷲掴みにしてくるような地の底から響くような声。


 ( 俺はこの声を覚えている。 そうだ、あの日のことを忘れたことなど一日だってない! 

 奴は、奴は!)


 「戸河里ぃいいいいいいいい! てめえかああああああ!」


 八神の左手から白い力が迸る。

 血だらけのたるんだ皮の人影、その首が白い手で握られる。


『 ぐっひょ! ぎゅひひひひひぃ! 』


 右腕から感じる陽菜子の体温が心を繋ぎとめてくれる。

 そして、流れ込む優しくて暖かい気。


 それが八神の心を憎悪と激怒の奔流から現実を認識させる。


 「 戸河里! どこにいる!」


 八神の問いに、奴が答えることはなかった。


 建物中のガラスが割れるような轟音が鼓膜を震わせた後……二人が恐る恐る目を開けてみる。


 「きゃああああ!」


 そこには白と赤黒さ混ざり合った塊が滑り台に引っかかっている。それはまるで、美術館の展示品かのように全身の皮が飾られた状態になっていた。

 

 「あいつは! あの野郎は! 能代真雪さんの皮を着てやがったのか!」


 発見されていない被害者の体の一部。


 能代真雪のものと思われる剥がされた皮膚が見つかった瞬間でもあった。

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