第10話

 「さてついたわけだが」

「胸がドキドキする。早くあのドアを開けなきゃ」


「とりあえず向かうぞ」

 二人は小走りで階段を登りきると、悪臭が立ち込める202号室の前に立つ。

 あふれ出した燃えるゴミや不燃物、中には子供用のキャラクターが描かれた靴がゴミの下敷きになっていた。


 「子供?」

 陽菜子は既に何度も呼び鈴を鳴らしている。

 「すいませえええん!」


 ドアを叩き、大声で、よく通る声で呼びかける。

 反応はなく、ただ陽菜子の声がこの淀んだ空気が立ち込めるこの界隈に響きわたっている。


 ふと、八神があのマンションを振り返ったときだった。

 黒い影が揺らめき、すっと202号室の前に現れたのだ。


 『 ひゃ……い はぁ……け……を おご……が…… ひゃ……はぁい、あおが、いふぅしゃぶふぅ……』


 田沼光一の様子から、まったく敵意を感じなかった。

 必死に伝えようとしている言葉を改めてじっくりと聞いていたが頭蓋骨の骨折と歪み、さらに舌が一部千切れているため、明瞭度が著しく低下している。

 そのとき、田沼光一は言葉で訴えながらも、アパートの廊下に転がっていた子供用の靴を指さす。何度も何度も


 『 ごぉえ! ごぉえ! 』


 「! もしかして、子どもが!?」

『おう! おご……がぁ! ひゃぅああぃ !』


 八神は折れて骨の突き出た田沼の手をとると、意識を集中し始める。


 「せ、先輩? もしかしてそこに た、田沼さんが……!? こ、怖いけど、こわいよお!」

 危険な行為ではあるが、田沼は危害をくわえるそぶりは微塵もなく涙を流しながら思い残したことを訴えていた。

 八神の中にビジョンが数場面 浮かんだ。


 同じマンションのドアチャイムを押すビジョン。

 中から出てきたのは、髭もそらずにだるそうに出てくる同年代の男性だった。


 差し入れの何かを渡し、話をしながら励ましているように感じる。


 すると男性が泣き出し田沼が肩を叩きながら優しい言葉をかけていた。


 過去のビジョンが早回しのようにすっと状況を説明するかのように流れ出す。


 ――広告代理店にて、腕利きだった映像編集者だったが些細なトラブルで口論となって業界出禁の嫌がらせを受けてしまった過去があるようだった。


 田沼はそんな彼を見過ごせず、何度か通って面倒を見ていた。


 そのために、ここに通っていたのだろう。


 ここでぐらりと 視界が揺れた。


 ひどく動揺しているのが、八神にも血流のようにその感情が流れ込んできた。


 ここでのまれてしまっていいのか、一瞬迷ったがそのまま核心たる思いを受け止めようと覚悟する。


 それは、あのアパートの一室だった。202号室。


 田沼は何度も、手が真っ赤になるのも構わずに叩きづけた。

 

 怒り、焦燥? それに、激しい、後悔と、使命感?


 そこに憎しみはほとんど感じられなかった。


 一瞬だけドアが開いたが、吐き捨てられるような罵声に茫然となる田沼。


 そのような場面が何度か続き、田沼が近くの交差点の横断歩道をスマホでどこかに電話をかけようと渡っていたときに……


 激しい衝撃と痛みが八神の心にまでバックラッシュを与えてきた。

 死者のイメージを垣間見るとき、こうして死の瞬間の痛みを感じてしまうことがある。


 これがトラウマになって霊視ができなくなる霊能者も多い。


 だが八神は、呼吸を乱しながらも現実へ戻ってくる。


 「大丈夫ですか先輩!?」

「問題ない……」


 すっと立ち上がって乱れた衣服を直すと、八神はじっとあの202号室を見つめた。


 田沼光一の霊が、あのビジョンと同じようにドアを叩き始める。

 必死に訴えながら、そしてその思いは陽菜子へと伝播していく。

 「答えて! 今なら助けられるから!」

 

 田沼光一の思いが、二人に見えない糸で繋がり何かをなそうとしている。

 八神は鍵が周辺に隠されていないかを確認するため、郵便受けや比較的綺麗なゴミを漁って突破口を開こうと必死だ。


 陽菜子は唐突に202号室のドアをノックする。田沼のように、激しくドアが壊れるのではないかと思うほどに。


「開けて! お願いです! 警察です! 助けにきたの! 声を聞かせて! 音でもいいの! 絶対に助けるから!」


 その時だった、あの首が折れた田沼がすっと陽菜子の隣に立った。

 「!?」


 八神が陽菜子を引き寄せて守らなければと思ったが、陽菜子は田沼の曲がった首に視線をあわせた。見えてはいないのだろうが、何かを感じたのかもしれない。


 田沼は、動かない首の代わりに全身でお辞儀のように頷いて返答すると、すっとドアの中へと消えて行った。


 「本条!?」

 「先輩は部下が勝手な行動したって報告してください。ぶち破ってでも!」

「おい」


 そう声をかけるや否や、カチャリ と鍵が開いたのだった。

 (田沼が中から開けたとでもいうのか!?)

 

 開錠するや否や、陽菜子はドアを開けて中へと土足で踏み込んだ。


 「本条ってうっ!」


 中の惨状に、思わず八神は鼻を押さえる。

 凄まじい悪臭の中、陽菜子は積み上げられたコンビニ袋に埋もれるようにしていた姿に衝撃を受けた。


 やせ細り生気を失った子供が、恐らく女の子がぐったりと横たわっている。


 「大丈夫だからね、助けるからね! 先輩! 救急車を!」

「お、おう!」


 八神が手配をする中、外へ連れ出したその幼い女の子に陽菜子は自分の上着でくるみ抱きしめていた。

「遅くなってごめんね! もう大丈夫だからね」

「お、おねえ、ちゃん……」


 陽菜子は泣きながら、悪臭とゴミと汚物で汚れたその女の子を抱きしめる。

 

 八神が陽菜子を誘導しながら救急車を手配した後、通りで待ちながら水分だけでも与えようと近くの自販機を見つけた時。


 すっと道をふさぐ影が2つ。

 「あんちゃんたち、そのガキを連れていかれたら困るんだわ、そいつの母親がたくさんお薬代未払いでよなぁ、あとは分かるだろう?」


 チンピラ風と、がたいが良い男が二人。

 見るからに堅気ではなく反社臭がぷんぷんしていた。


 八神は警察手帳を見せながら女の子を抱える陽菜子の前に進み出る。


 「警察だ。衰弱した子供を緊急保護した、邪魔するなら公務執行妨害でしょっぴぐぞ」


 「ほお、あんちゃんかっこいいねえ! そっちのお嬢ちゃんも、ぎゃははは! 正義感振り回しちゃってたまんないねえ」

 兄貴分の男が紫色のシャツに金のネックレスをしたチンピラコーディネートで圧をかけ、もう一人が腰から折り畳みナイフを手に取った。


「ついでに銃刀法違反だ」


 もどかしさに耐えていた陽菜子は、遠くから救急車のサイレンが聴こえてきたことにビクッと体が反応した。


 その瞬間、八神の姿が目の前から消えた。と思った瞬間、ナイフを持った男が胸を、鳩尾を抑えて呻いて倒れこむ。八神のボディーブローが鳩尾を抉るように撃ち込まれていた。


「いけ!本条! その子が最優先だ!」

「はい!」


 兄貴分もナイフを手に阻もうとするのを、八神が間に入ってジャブを奴の鼻づらにヒットさせる。

「ぐっへぇ! くそがあああああ!」


 陽菜子はぐったりとする女の子を抱き抱え走った。


 (お願いします! 先輩を助けて、この子を助けて!)


 「ちっ! こいつ本物かよお! 下っ端は脅せば帰るんじゃなかったのかよ!」


 呻く子分に舌打ちをしながらチンピラは、挑発的な掛け声をしながらナイフを振り回してきた。


 「おらっ! ごらああああ! てめええええ! くそがあああああ!」


 喚きながらナイフを振り回すチンピラは、案の定既に息が上がってきている。


 八神は距離を取りつつ、ステップでかわしながら時間を稼ぐ。

 だが、八神は自身の判断が誤っていたことを痛烈に後悔することになった。

 

「はぁはぁはぁぜぇぜぇ! うぜええええええ! ぶっ殺す!」


 チンピラは腰に手を回すと、あるものを取り出したのだ。


 「 トカレフ TT-30 そんな骨董品を」

「うるせえええええ! 死ねやあああああああ!」


 (こいつ射撃訓練してるな!)


 構え方が素人ではない。東南アジアあたりで射撃の訓練を受けたのだろう。

 稀に頭は悪いが、殺しのテクニックだけがうまい奴らがいる。

 こいつもその類だろう。

 さきほどのナイフ裁きを見ても、人を何度か刺したことのある黒い底冷えのする殺意が感じられており奴の周囲には腐った手が複数絡みついている。


 「うおっ! なんだあああ!」


 その時だった。チンピラが手足をばたつかせながら、逃げの姿勢に入っている。


  田沼光一だった。

 彼が八神をかばうようにチンピラに覆いかぶさっていく。


 『 うううあああああい! ばおうううううううんああああ! 』


   まもるんだ


 彼の魂の声が、叫びが八神に響く。


 この人は、こうなってまで誰かを守ろうとしている。


 その思いが八神の決意に火をつけた。

 奴の右側から回り込むとトカレフTT-30を握る奴の右腕を掴んで捩じり、そして関節を真逆に決めた。


 「ぎゃああああああ! いでえええええええええあああああ!」


 八神はそのまま、容赦なく、何の躊躇もなく、奴の右腕をへし折った。

 関節が肘から逆に曲がっている。

 「ぐぎゃっ!」

 そのあまりの激痛にチンピラは気絶してしまう。


 「ありがとう田沼光一さん。あなたのおかげで助かりました、そしてあの子も」


 田沼光一は、ほろりと涙を流しながら何度も頷いて、そしてゆっくりと消えていく。

 八神は、すっと彼に対し、敬礼をささげるのだった。

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