第4話
「どういう、こと?」
その時だった、八神の右隣にふわりとした、表現的にはおかしいが、見えない透明な炎のような揺らぎが浮いているのだ。
わずかだが、人の姿のように見えなくもない。
そうだ、絶対そうだ。体調不良で視界がぼやけているんだ。
陽菜子は自身にそう言い聞かせるように、心の中で反芻しながら八神を見据える。
八神は既にブロック塀に身を貼り付けながら、陽菜子にジェスチャーを送っていた。
どうやら貼り付けと言っているようだが。
「本条はここで待機し、応援の連絡を。俺が奴を逮捕する」
「え? た、逮捕ですか?」
あまり説明をせずに八神は十字路を左に曲がる。
正面から歩いてくるのは、小柄で神経質そうな男性だった。
デニムのジーンズにネルシャツ、髪は無駄に長く手入れがあまりされていない。
八神はその男性の正面へと立ち塞がった。
「すいません、警察の者ですが」
警察手帳を提示しつつ、八神はきっと小柄な男を見据える。
「な、なんですか、警察? ぼくに何の用があるんですか」
「この近くで通り魔殺人と思われる非常に雑でどうでもいいコンプレックス発散目的の、くそださい事件があったんですけどね、何か変なものを見たとか、きもい男性を見たとかあれば教えてほしいと思いまして」
「ださい!? お前、コンプレックスの発散って言ったのか!?」
一瞬で目付きが変わった。
ぐんっと周囲の空気が重くなるのを陽菜子ですら感じる。
( 何この反応? まさか? )
「あれ? 何かをご存じで?」
すっと一歩間合いを詰める。この空気で尚間合いを詰めていく八神の胆力に、陽菜子は呆れるしかない。
「い、いや、警察がそんな風に事件を語っていいのかよ! 今世間を賑わせてるあの連続猟奇殺人事件の犯人かもしれないでしょ!」
「ああ、それはありません。場当たり的な犯行と無秩序型で抑えの利かないガキんちょみたいな精神構造のバカと、洗練されて証拠を残さず秩序型で希代のシリアルキラーのあれは別件ですから」
「ガキみたいな精神構造、だと!?」
「ちょうどお前みたいな」
「この野郎おおおおおおお! バカにバカに、バカにしやがって! みんなキモイとかくさいとか! バカにしやがってえええええ!」
おもちゃを取り上げられた子供のように癇癪を起こしながら、地団太を踏んでいる様に陽菜子は全身に震えが走る。
長い前髪で目立たないが、顔の右半分には青い痣のようなものが広がっていた。
(これが先輩の言っていたコンプレックスってこと? こんなに早く見つけられるものなの!? まだ人違いって可能性もあるから私が慎重にならないと!)
「認めちゃったようなもんかな、中野区通り魔殺人事件の重要参考人としてあなたを逮捕します」
「きいやああああああああああああ!」
寄声を上げて奴が取った行動は、意外なものだった。
ポケットから取り出した折り畳みナイフを自分の首につきつけたのだ。
「し、死ぬぞ! 犯人が死んだら困るのは、け、け、警察だろおおおお!」
「あ、どうぞ」
「「え?」」
不覚にも犯人と同じ言葉を発してしまった陽菜子。
「ちょっと八神先輩! まずいですって」
「お構いなく。人を殺すような真性のゴミくずにこれ以上税金を使う必要はない、エコだろ」
「それはエゴです!って もう、あなたも早くそんな危ないものは捨てて!」
「はっはははは! ほら、ほらどうした、お前ら手錠でお互いを拘束しろ! そうしないと自殺するぞ!」
「早くしろよ、止めねえから。さっさと死ね」
八神の氷のような言葉に、犯人はひどく動揺している。
その時だった。
陽菜子の肌にぞわりとするほどの鳥肌が広がっていく。
( さ、寒い!? )
まだ4月だから寒い日はたまにあるし三寒四温ともいうが、身をすくめたくなるほどの冷気が足元から広がっていく。
陽菜子は思わずこみ上げる怖気に、腰を抜かしかけていた。
さっきまでいたのは、中野の閑静な住宅街にあるどこにでもありそうな十字路。
周囲の木々の葉鳴りの音や鳥たひのさえずりが止まる。
まるで別世界へ来たような、まぎれこんでしまったような強烈な違和感。
「少しだけだ」
八神がそう言い放つと、混乱の中にある容疑者が突如周囲をキョロキョロと慌てた様子で振り返っている。
『 ゆるさない…… 』
女性の声が聞こえる。
低く、恨みのこもった声が。
陽菜子の首筋から冷や汗が滝のように流れ出し、ワイシャツとインナーを濡らしていく。
「だ、誰だ! 誰だよ! きもいんだよ!」
「!」
陽菜子はそのとき、ありえないものを見てしまった。
白く細い腕が容疑者の首へ巻きつくように絡んでいくのが見えたのだ。
そして、その奥には、先ほど対面したあの 篠田美帆の凄惨な顔が浮かび上がっている。
既に陽菜子は腰を抜かし、ただ「あ、あっ……」と恐怖に震えることしかできずにいた。
『 鼻…… かえぜえええ 目をおおおおお! 』
「ひ、ひいいいいい!」
「篠田美帆、君は勇敢な女性だ。だから君が迷うことを俺は望まないし、こんなゴミくず以下の塵のような奴のせいで悪霊になることはもっと望まない。だから」
八神はその白い手に、そして抉られひしゃげ、凄惨なことになっている彼女の頬を優しく撫でる。
「ここは警察官である俺が逮捕する。君は成仏し、次こそ幸せな人生を送ってほしい」
『 ぐっがああああああ! ぐうううう! 』
「辛かったよな痛かったよな、だがこいつを呪い殺せば君はさらに苦しむことになる」
陽菜子はいつの間にか泣いていた。
八神が何をしようとしているかを本能的に理解できたからだ。
ふっと周囲の張り詰めた空気が元に戻った気がした陽菜子。
『 もうさ、なんか馬鹿バカしい…… 』
「よく耐えてくれた……」
八神は悲鳴をあげてうずくまり小便を漏らしている容疑者の男の胸倉を掴んで立たせると、篠田美帆が見ている前で、何度か周囲を確認すると陽菜子に対しいたずらっぽい目をした後、思い切りボディーブローをかましたのだ。
「ぐっごっがああああ! ぐおお、ぐう!」
恐怖から苦痛へ感覚がシフトした容疑者がのたうち回る姿を10秒ほど、ゴミを見る目で眺めた八神は背中を蹴とばして動きを止めると、あっさり手錠をかけたのだった。
「本条、奴の鞄を確認しろ」
「へ? え、えっと、その」
「急げ」
「は、はひぃ!」
転げるように手錠をかけられぐったりした容疑者の隣に落ちていたリュックを開くと、そこには複数の刃物、それにハンマー、そして赤い液体の入った瓶が二つ……
「! これって、もしかして篠田さんの」
「ああ、よかったな。戻ってきたぞ」
陽菜子には見えていなかったが、八神に抱き着き涙を流す篠田美帆の美しい姿があった。
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