第55話 我慢なんてしなくていいんだ


 数日が過ぎても、篤哉の中から悲しみが抜けることはなかった。


 日中誰かと接している時はなんとかなるが、夜一人になると、どうしても静のことが頭に浮かぶ。何日かは夜に枕を濡らすこともあった。


 最近になって、母親が他界した時のことをよく思い出すようになった。神蔵八重……篤哉の母の場合は交通事故だったので、心の準備も何もなく、本当に突然の別れだった。いきなり突き付けられた不条理な事実にただ打ちのめされていたのを、今でも思い出せる。


 大切な人を突然失うのと、予め期限を示されてから失うのは、どちらの方がマシなのだろう。そんな疑問が頭に浮かんできたが、すぐに打ち消した。どちらも辛いに決まっている。どんな形であれ、大切な人と会えなくなるのは悲しい。


 ただ、予め知らされているなら心の準備をする時間がある。訪れる時に備えて、自分の在り方を決める時間があるのは確かだ。


 




『でさー、石ころだからとか言って会う度にガチガチに固まって、ろくに話してくれないんだよねー』


『もしかしてひかりちゃんのことがこわかったりして』


『ちがうもん。ちゃんと笑顔で接してるし。わたし嫌われてるのかなー』


『ていうかさ、ひかりちゃんって昴くんにごめんなさいしたんだよね? それならちょっと気まずくても仕方ないような』


『それはまあそうなんだけどさ。わたしが学校で普通に会話できるのって、考えたら先輩くらいなんだよね』


『あー、それならちゃんとお話したいね』


 週に二、三回する三者通話は、以前までは篤哉の心の拠り所の一つでもあった。今でもそれは変わっていないのだが、ひかりと彩月に静のことを話さなければならないと考えると、気が重い。それに、隠し事をしながら二人と会話するのもなんとなく落ち着かない。


『あっくんどうしたの? もうねむい?』


「へ? あ、いや」


『あつにぃさっきからずっと黙ってる。もしかして仕事で疲れてる?』


「ごめん。そんなことないよ」


 なんとなく聞き役に回っていたら二人に余計な心配をかけてしまった。電話ですらこの調子では、実際に会って話をしたらもっと心配されてしまうかもしれない。かといって、いつまでも伝えないのは二人に悪い。


 二人に伝えることを気が重いと感じるのは、もちろん二人が悲しむ顔を見たくないからだ。辛い思いはさせたくない。でも、もうそれは避けられない。


 会話の隙間を見て、篤哉は二人に切り出した。


「ひかり、彩月。ちょっと二人に話したいことがあるんだけどさ」


 大事な話なので、伝えるならちゃんと面と向かって話したいと思い、久しぶりに三人で会おうと提案した。ひかりも彩月も会えることを喜んでくれたが、やはり篤哉の心は暗い。真っ暗な水の底に沈んでしまっている。自分が流した涙で、浮かぶこともできないくらい深くまで。


 でも、それではだめだ。二人が涙を流した時に、自分はその防波堤になってやらないと。ひかりと彩月の悲しみを受け取めてやれるくらいの強さは持たないと。






 その日の深夜になってから、篤哉は家の外に出た。


 肌を刺すような風。空からはかさかさに乾いた雪。凍りついて死んだような世界は、おあつらえ向きだと思った。


 庭の方に歩いていき、雪の上に仰向けで大の字に寝転がる。降り積もる白い悪魔に負けないように、声を張り上げる。


「なんでだよ! なんでばあちゃんが死ななきゃならないんだよ!」


 叫び声は誰に聞かれることもなく、ただ漆黒の空に吸い込まれていく。


「逝くなよお! 俺を残して逝くなんてずるいんだよばあちゃんは!」


 情けない言葉が次々に放たれる。雪が口の中に入る。目を開けていられない。それなのに涙だけは止まることなく流れてくる。それでも篤哉は、全ての悲しみを吐き出すように空に向かって何度も叫び続けた。


 いくつもの悲しみを空に投げつけ続けて、そのうちそれは、意味すら無いただの野性的な叫びになった。


 声が枯れるまでずっと叫んだ。自分の中から悲しみが全て抜けて、今度は愛しい二人の悲しみを受け止められる男になれるように。


 泣くのはもう、これで最後にするから。強い男になるから。そう思いながら叫び続けた。






 

 2月の頭の土曜日、彩月を連れてひかりの家に向かった。道中の彩月は最初こそテンションが高かったが、篤哉のいつもと違う様子に気付き、そのうち大人しくなった。


「ひかりの家、彩月は初めてだよな」


「うん。楽しみ」


 バスの隣の席で、彩月は控えめに笑った。その顔に申し訳ないと思う気持ちもあったが、伝えた時に感情の落差がありすぎても良くないと思い、なるべく落ち着いた態度を貫いた。


「なんかさ、今日のあっくんって……」


「ああ、ごめんな。俺も彩月と一緒にひかりの家に行くのは楽しみなんだ」


 じぃっと見つめられる。疑心ではなく、ただ真意を測るような視線だったので、笑顔を返して優しく彩月の頭を撫でる。


 あ、と小さく声を上げて、彩月はそのまま黙った。





 ひかりの家に到着すると、ひばりとひかりの母娘が迎えてくれた。辰夫は今日は仕事らしい。篤哉と彩月はひかりの部屋に案内された。


「わあ、すごいマンガの数だ」


「そうかな。普通だと思うよ。あ、興味あるならどれか貸してあげる」


「うん、ありがとう」


「彩月は少女漫画と少年漫画、どっちが好き?」


「んー、少年漫画はあんまり読んだことないからちょっと気になるかも」


 篤哉は二人の様子を観察していた。今日の二人のテンションはいつもより控えめだ。なんとなく感じるものがあるのだろうか。なるべく表情を崩さないように、漫画を手に会話している二人を眺めた。


 すぐにひばりが紅茶とお茶請けを持ってきてくれた。それには三人とも手を付けずに、ただ黙った。


 沈黙に耐えられなくなったのか、少ししてからひかりが口を開いた。


「それで、あつにぃの話っていうのは? まさかまたあの女にちょっかいかけられたとかじゃないでしょうね」


 ひかりが睨んでくる。その視線にいつもの鋭さはなく、張りぼての虚勢だというのがすぐに分かった。


「違うよ。志保にはしばらく会ってない。それとは別の話なんだ」


 落ち着いた、優しい態度を心がけた。二人を刺激しないように。悲しみが少しでも薄れるように。思えば静のことを聞いた時の担当医も、こんな気持ちだったのかもしれない。


 どういう風に伝えるかは、事前に何度かシミュレートして決めていた。いろんなやり方を考えたが、結局は何も飾らずに事実だけを伝えるのが一番ダメージが少ないだろうという考えに落ち着いた。


 二人の見えないところで両の拳を握り、腹に力を入れる。けど、表情だけは崩さないように。


「ばあちゃんのことなんだけどさ。実は病気がかなり重くて、手術をしないと治らないらしい」


 二人が驚いた表情を向ける。自分が医師から聞いた時と同じ表情だ。これからその顔が悲しみの色に染まるのかと思うと、挫けそうになる。なんとか堪えて二人の目を見た。


「でも、ばあちゃんはその手術を断った。成功率の低い難しい手術だったから、怖かったらしい」


「待って、ちょっと待ってよ。あの時あつにぃ病院で言ったよね? お医者さんの話はお金の話だって」


 抗議するひかりの顔は怒っていた。怒っていたが、弱々しい表情だった。


「あの時は俺もそう思った。でも、その後に俺も医者の話を改めて聞いたんだ」


「やだ、聞きたくない!」


 ひかりは篤哉に掴みかかっていた。もうすでに涙目だ。ああ、この子は本当に静のことが好きなんだな。そんなことを今さら思って、胸が締め付けられる。


「手術を断ったことで、ばあちゃんの病気が治ることはなくなった。だから」


「やめてよ!」


「ばあちゃんはもう、あと一ヶ月くらいしかもたないみたいなんだ」


 嘘だ、というひかりの叫びが部屋に響く。真っ昼間の住宅地だからとか近所迷惑だとか、そんなことに構っていられないのだろう。その叫びは心からの叫びだった。


 ひかりは篤哉を睨んだ。今度は怒りの籠った目だ。そのまま怒りに変えて悲しみを外に出してしまえばいい。そんなことを思う。


 やがてひかりの目から涙が一筋、二筋と零れ、整った顔は悲しみでくしゃくしゃになり、ついに篤哉の胸に顔を埋めた。大きな声を出してひかりは泣いた。その声が漏れないように、篤哉は強くひかりの頭を抱く。


 彩月はずっと驚いた表情のまま固まっていたが、ひかりが大声で泣き出したのを見て我慢できなくなったのか、同じようにぽろぽろと涙を零し始めた。


 泣いてはいたが、彩月の表情はあまり変わらなかった。驚いた表情のまま涙を拭うこともなく、ただひかりを見つめている。


 彩月は彩月で思うことがあるだろう。彼女は三年ほど前に父を亡くしているのだ。そう思うと、ひかりの悲しみよりも彩月の悲しみの方が複雑なのかもしれない。


「彩月」


 篤哉が優しく名前を呼ぶと、彩月が顔を向けた。ずっと変わらなかった表情はひかりと同じようにくしゃくしゃになり、声にならない嗚咽を漏らす。


 手を伸ばすと、彩月はゆっくりその手を掴み、篤哉の胸に身を寄せた。その小さな頭もそっと抱き寄せる。


 声を上げて泣くひかりと、声もなく泣く彩月。二人の小さな少女が泣き止むまで、篤哉はじっと目を閉じて、ただ二人を優しく包んでいた。








 一時間か、それとももっと経っただろうか。二人が泣き止んだ頃に、ひかりの部屋が控えめにノックされた。部屋の主は泣き疲れて眠ってしまったので、篤哉が代わりに返事をする。そっとひばりが入ってきた。


「ごめんね、篤哉くん」


 ベッドに寝かせたひかりを見て、ひばりが力なく言う。ひばりも泣いていた。


「いえ、大丈夫です」


 大丈夫なことなんてこの場には一つもないが、そう答えた。


「ひかりのことは、あたしがなんとかするから」


 涙を拭いながら言うひばりに頷く。今日はもうできることはないだろう。後はひばりと辰夫に任せよう。


 そう思って立ち上がろうとして、彩月が顔を上げているのに気づいた。


「ひばりさん。ひかりちゃんのこと、よろしくお願いします」


 彩月の言葉に、ひばりは僅かだが笑みを浮かべた。







 ひかりの家で話をしたのは正解だったな、と帰りのバスの中で篤哉は思った。ひかりは昔から静のことが大好きだし、静もひかりのことは一番可愛がっていたように思う。大好きな人と会えなくなる。その悲しみは自分よりも深いのかもしれない。あれだけ泣いたひかりは初めて見た。


 雪道を走るバスの中で、彩月はずっと篤哉の腕を掴んでいた。ひかりのように泣き疲れて眠ってしまうことはなかったが、ひかりの家からここまで、下を向いて何も話さない。篤哉は何も言わずに彩月の頭を優しく撫でていた。


 いつもの停留所でバスを降りて歩き出そうとすると、彩月が黙ったまま篤哉の手を引いた。


「どうした、彩月」


 なるべく優しい声で言う。彩月は下を向いたままだ。篤哉はしゃがんで彩月に目線を合わせた。


「ごめんね。わたしはがまんしなきゃいけないのに」


 何を言っているのか分からなかった。彩月が我慢しなきゃいけないことなんてどこにもない。


「我慢なんてしなくていいんだ」


「でもっ、わたしよりひかりちゃんの方がずっとつらいのにっ……」


「そんなこと考えてたのか」


 彩月は心の優しい子だ。それと同時に、自分よりも他人のことを考える癖がある。それは彩月の良いところだが、こんな時くらいは素直になって欲しいと思う。


「どっちが辛いとかは関係ないよ。彩月だって辛いのは分かってるから」


 優しく頭を撫でると、彩月の瞳からまた涙が溢れてきた。



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神蔵八重 かみくら やえ


享年38歳。篤哉が高校三年生の時に交通事故により他界。生前は明るく朗らかな人だった。怪我でサッカーを続けられなくなった篤哉に裁縫を教えた人でもある。

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