第56話 がんばって描く


 ひかりと彩月に静のことを話してから一週間ほどが経った。この一週間は三者通話もしていないが、二人とメールでのやり取りはしていた。


 ひかりは三日ほど学校を休んだそうだ。その間はひばりと辰夫がひかりを支えてやっていたのだろう。その時にひかりの傍にいてやれなかったことが悔しい。でも、家族の絆がこの世で一番強いのだ。だから、きっとこれでいい。


 彩月とは二、三回電話で話をしたが、声は明るかった。しかしそれは、普段のトーンと比べれば違いがはっきり分かるレベルの空元気だ。それに対して特に何か言ったりはしなかった。心配かけまいとする健気な心に水を差すのはナンセンスだと思った。


 冬はまだ終わらない。相変わらず北風と雪が暴虐の限りを尽くしている。街と人の心から熱を奪っていく。せめて大切な人は自分の手で温められるように生きたい。そんなことを思いながら、与えられた役目を日々こなしていった。


 




 仮免許も無事取れてようやく本免許取得が見えてきた2月の半ば。三人で静に会いに行こうとひかりから提案があった。篤哉も彩月ももちろん二つ返事で同意した。二人の精神状態は気になるところだったが、もう静に会える機会もあと何回あるかわからない。悔いを残さないようにしたい。


 静に何かしてやれることはないだろうかと、少し前から篤哉は考えていた。最期という言葉は使いたくないが、その日は刻々と迫っている。


 終わりが訪れる前に静に伝えたい。何を伝えたいかと問われるとはっきり言葉にできないが、たぶんそれは、自分が今まで当たり前のように静から与えられてきた愛情に対する、感謝の気持ちではないかと思った。






「こんにちはー。あつにぃー。彩月ー」


 インターホンの代わりに、ひかりの明るい声が玄関から居間に飛び込んでくる。家で待っていた篤哉と彩月はすぐに玄関へ出た。


「ひさびさのひかりちゃんだー」


「彩月ー、会いたかったー」


 挨拶と一緒に抱擁を交わす二人。その光景を見られただけで心が温かくなる。


「元気そうだな、ひかり」


「まあね」


 不敵な笑みに、つられて笑顔になる。


「今日はよろしくお願いします、辰夫叔父さん」


「そろそろ免許取れるんだろう? 篤哉くんが免許を取ったら今度はこちらがお世話になる番だからね」


 辰夫からも珍しく軽口が出てきた。和やかな空気だ。


「あ、そろそろ出た方がいいんじゃないかな。時間決まってるんだよね?」


「おっと、そうだった。それじゃ三人とも、車に乗って」


 そうして辰夫の車に乗り込み、病院へと出発した。


 車の中でも和やかな会話は続いた。四人とも笑っていたし、楽しそうだった。たとえそれが作り物の笑顔であったとしても、それでいいと思った。


 静の面会時間は以前よりも短くなっていた。体力的に無理そうだと医者が判断した時は面会自体ができなくなる日もあった。静は確実に衰弱している。もう時間はあまりないかもしれない。




 送ってくれた辰夫にお礼を言って、三人で静の病室を目指す。ひかりも彩月も篤哉の手をしっかりと握り、少し緊張した表情だ。


 ノックをすると、女性の声で返事があった。静の声ではなく、付き添ってくれている看護師の声だった。


「それではわたしは失礼させて頂きますので、何かありましたらナースコールでお知らせくださいね」


 丁寧にお辞儀をして看護師が出ていく。病室には篤哉たち三人と、ベッドの静が残された。


「元気か、ばあちゃん」


 横たわったままこちらを向く静。少し痩せてしまったが、目にはまだ光が宿っている気がした。


「よく来たね、三人とも」


 静は優しい笑顔で笑った。ひかりと彩月がベッドに駆け寄って静の手を握る。篤哉も込み上げてくるものはあったが、平静を装った。


「また外見てたのか」


 篤哉の言葉に頷いて、静は再び窓の外に目を向けた。


「あの中庭の木って何の木なの? 桜の木なんだろ?」


「さあねえ。お前の母親にでも訊いてみたらどうだい」


 篤哉の母親は既に亡くなっている。もちろん静はそのことを承知の上で言ったはずだ。普段から毒舌な静だったが、この場でその冗談は流石に相応しくないと思った。


「おばあちゃん、何か飲みたいものある? わたし買ってくるけど」


 ひかりが話題を変えるように切り出すが、静は優しく答えた。


「ああ、今は喉は渇いていないんだ。それよりもっと顔を見せておくれ。ほら、彩月ちゃんも」


 言われた通りにひかりと彩月は静のベッドの椅子に腰かける。


 やはり静は弱っている。身体だけでなく心まで。もうあのふてぶてしい言葉は聞けないのかと、篤哉は俯く。


 現実が追いかけてくる。あとひと月ほどしたら、もう永遠に静とこうして会話をすることができなくなる。あまりにも短い、無慈悲な現実だ。

 


 


 しばらく他愛のない会話をしていたが、やがて面会時間の終わりが来た。静の傍を離れる時は、ひかりも彩月も涙目だった。その二人の手を優しく握る。


「また来るよ、ばあちゃん」


 別れの挨拶を口にすると、静がまた優しく笑って頷いた。


 静の病室を出て帰る時、ちょうど看護師とすれ違ったので中庭の木のことを訊いてみた。桜の木だというのは知っていたが、種類までは知らないと言われた。








 病院を出たところで、三人はなんとなく立ち止まった。


 このままひかりを家まで送る予定だったが、久しぶりに三人集まったのにそこでお別れになってしまうのもなんだか寂しい。かといって、一緒にいれば今のこの沈んだ空気がどうにかなるかというと、それも怪しい。


 なんとか明るくなれるような前向きな話題を考えていたが、頭に浮かんでくるのは静のことばかりだった。


 ここ最近はずっと頭を離れない。残り少ない時間の中で、何か自分にできることはないのだろうか。


 眉間にシワを寄せて考える篤哉を見て、彩月が心配そうに声をかける。


「ねえ、あっくん大丈夫?」


「え、ああ……考え事してた」


「考え事っておばあちゃんのこと?」


「うん。母さんに訊けってどういう意味なのかなあって」


 少しだけ不安そうな二人の頭を優しく撫でる。考え事をすると周りが見えなくなるのは篤哉の悪い癖だ。


「訊けって言われても、八重伯母さん今は天国だもんねえ」


 しみじみと言ったひかりの言葉に、篤哉は固まった。そして思わず笑ってしまった。なんでこんななぞなぞのようなことを言ったんだと静を問い詰めたくなった。考えていたことが少しずつ頭の中で繋がっていくのを感じた。


「えーなになに。なんであっくん笑ってるの?」


「あーえっと……。立ち話もなんだし、どこか店に入って話そうか」


「そういえばお昼まだだよね。ファミレスでも行く? それともうち来る?」


 ひかりに言われて彩月と顔を見合わせる。彩月の顔にはひかりの家に行きたいと書いてあった。


「ひかりの家にお邪魔しよう。平気か?」


 ひかりが頷いて鞄からスマホを取り出す。家に電話を入れるのだろう。


 今日はまだ三人でいられる。そのことが嬉しい。今はあまり呑気なことを考えている場合でもないが、どうしてもそんなことを思ってしまう。


「大丈夫だって。むしろ泊まっていきなさいってママが言ってた」


 電話を終えたひかりが嬉しそうに言った。それを聞いて彩月もすぐに明るい表情になった。


「泊まっていきたい気持ちはあるんだけど、明日は普通に仕事だしなあ」


「話っておばあちゃんのことなんでしょ? だったら選択肢は一つだよね?」


「あっくん、明日はお休みしよう」


 二人から言われて明日のことを考える。明日は日曜日なので店も忙しくなる。そんな日に休んでしまうのは気が引けてしまう。それに、今年に入ってから急に仕事を休む日が増えたような気がする。


 でも、静のことでひかりと彩月と意思の疎通を図るのは重要なことだし、何より二人と一緒にいられるというのが篤哉にとっては大きい。


 今度は篤哉が鞄からスマホを取り出したのを見て、二人の表情がまた明るくなった。








 篤哉の休暇申請も無事通って昼食も確保した三人は、ひかりの家に向かった。


「お帰りひかり」


「ただいまパパ。すぐに部屋に行くから」


「ああ、わかった。篤哉くんと彩月ちゃんもごゆっくり」


「あと、今日は二人ともわたしの部屋に泊まるから」


「ああ、わかっ……ええ!?」


 辰夫に挨拶をして、ひかりの後に続いて二階に上がる。驚いた表情の辰夫の隣ではひばりが笑っていた。




 ひかりの部屋で三人で昼食を食べて、ひと息ついた。二人が促すようにじっと見つめていたので、篤哉は考えていたことを二人に話し始めた。


「前に見舞いに行った時にさ、ばあちゃんに桜の花の色を訊かれたことがあるんだ。その時はどういう意図があるのか分からなかったんだけどさ」


 二人は真剣な眼差しで聞いてくれている。そんな二人の瞳を見つめながら篤哉は続ける。


「ばあちゃんはもう、桜が咲く頃まで生きられない。だから、桜に執着があるんじゃないかなって思うんだ」


 ひかりと彩月は一瞬悲しそうな表情をして俯いた。でも、すぐに顔を上げた。


「で、最近窓の外を見てることが多かったのも、あそこから見える中庭の木が桜の木だからなのかな、と」


 部屋の中は静かだったが、たまに外で遊ぶ子供の声が聞こえてきた。この部屋の空気とは違ってずいぶん楽しそうな声だった。


 しばらく静かな時間が流れた。外から聞こえてくる子供の声や、その母親らしい声。通った車が雪を踏み潰す音。そんな環境音が、この部屋の現実感を引き立てていた。悲しくても現実なんだと、そう言っているようだった。


 苦しくても悲しくても、自分たちはこれを受け入れなければならない。受け入れて、前に進まなければ。


 やがて、彩月が口を開いた。


「わたし、おばあちゃんに桜を見せてあげたい」


 篤哉もひかりも彩月を見た。やっぱり彩月は優しい子だ。


「どうやって見せるかが問題だなあ」


 優しい声で篤哉が言う。ひかりは黙って何かを考えているようだ。


「絵を描くよ。桜の絵。がんばって描く」


 その健気な言葉に、胸の奥から込み上げてくる。言い表せない気持ちが一気に駆け上がってくる。もう泣かないとあの夜に決めたのに、涙が零れてしまいそうだ。


「いいなあ、それ。ばあちゃんもきっと喜ぶ」


 なんとか堪えて、同意を示した。


「どうせならさ」


 ずっと黙っていたひかりも口を開いた。


「紙芝居にしようよ。ハッピーエンドのやつ。わたしお話書くから」


 ひかりの言葉で、ついに目に涙が滲んできた。自分は弱い男だな、と思いながら、涙を見られないように二人の頭を抱き寄せた。


「わっ……あっくん?」


「珍しい……あつにぃから抱きしめてくれるなんて」


 二人は文句も言わずに身体を寄せてくれた。胸に湧いてくる感謝とも喜びとも言えない熱い気持ちが、行き場を求めて身体の中で燻っていた。





 言い様のない気持ちが落ち着いた頃に、二人の頭を解放した。なんとなく二人は物足りなそうだ。


「でもさ、あの中庭の木ってどんな桜が咲くんだろうね。あっくん帰りに看護師さんに訊いてたよね?」


「うん。看護師さんは知らないみたいだったけど、もうなんの桜かは分かったよ」


「そうなの?」


「ばあちゃんに言われた通り、母さんに訊いてみたんだ」


「もう、もったいぶらないで早く教えてよ」


 ひかりと彩月の期待の眼差しに、篤哉はゆっくりと口を開く。


「あれはたぶん、八重桜だよ」



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