第54話 ピンクじゃないの?



 医師の話を聞いた翌日。篤哉は仕事を休み、再び病院を訪れていた。


 病室のベッドで眠る静の顔を、ただぼーっと見つめる。


 肺に悪性の腫瘍があって、その除去手術を断って。もうあと二ヶ月も生きられなくて。


 安らかな寝顔を見ていると、その全部が嘘なんじゃないかと思える。篤哉はまだ事実を受け入れられていない。そのままベッドの傍の椅子に座って寝顔を見つめていた。





 しばらくして空気の入れ替えをしようと窓を開けると、冷たく澄んだ空気が流れ込んできた。空気が冷えると頭も少し冷静になる。


 自分の中の何かが、事実を受け入れろと言っている。でも、それを認めてしまったらもう、まるで諦めたみたいになってしまう。それはいやだ。


 窓の外を見ながら、とりとめのない考えが浮かんでは消える。どうしようもない現状と静を失いたくない心情と、その二つがせめぎ合って心がぐちゃぐちゃになる。考えるのは辛い。もう思考を放棄したくなる。


 でも、思考を棄てるのはきっと駄目だ。それだけは理解できる。だから、心が痛めつけられても考えることを辞めてはいけない。


 窓を閉める時、ここからだと病院の中庭が見渡せることに気づいた。そこそこの広さがある中庭の中央には、葉の散ってしまった巨木がそびえ立っている。


 そういえば静は窓の外を見ていることが度々あった。あの木を見ていたのだろうか。じっと観察してみても、ただの大きな枯れ木にしか見えない。


「なんだ、来てたのかい」


 不意に声かけられて振り返る。静が仏頂面でこちらを見ていた。


「あ、ごめん。寒かったか?」


「いいや。そんなことはないよ」


 いつもより元気がないのは寝起きのせいだ。篤哉はそう思うことにした。


 とりあえずの話題として、無難なものを選ぶ。


「俺さ、今月から教習所に通い始めたんだ。車の免許取るつもり」


「そうかい。ま、車は無いと不便だからねえ」


「本当はもう少し早く取りに行けば良かったんだけどね」


 すぐに会話は途切れた。次の話題が浮かばないまま、ただ時間が流れる。本当は別に訊きたいことがあったが、なかなか切り出せないでいた。静の気持ち、思っていることを聞きたい。でも、そんなことを訊いたら静に余計な心労を与えてしまうかもしれない。


 篤哉が迷っていると、静が口を開いた。


「何か訊きたいことがあるんだろう。言ってみな」


 少しだけ目尻を下げて篤哉を見つめる。


 無理をさせてしまうかもしれない。けど、訊かなければ後悔すると思った。


「どうして手術断ったの?」


 静がにんまりと笑った。たぶん、自分の想定していた通りの質問だったからだろう。


「怖かったからさ」


「怖いって……でも、やらなきゃ治らないんだぞ?」


「成功する確率は三割。失敗したらお陀仏だ。そんな分の悪い賭けをする気にはどうしてもなれなくてね」


 それは当人しか感じることのできない恐怖なのだろう。外からいくら何かを言ったとしても、手術を、それも成功率の低いものを提示された人の気持ちを完全に理解することは、きっと不可能だ。


「挽回のチャンスを棒に振ってみっともなく生きてきたわけだが、それもそろそろ終わりだね。篤哉の嫁くらいは見たかったんだがねえ」


 寂しそうに笑う静。心が、心臓が締め付けられる。自分がもう少し早く嫁を見つけていれば。嫁ではなくても、せめてちゃんとした彼女くらいいれば。篤哉は自分の行動の遅さを呪う。


「今まで黙っててすまなかった、篤哉」


 生まれて初めて静から謝罪をされたかもしれない。しかし、篤哉にはなんの感動もなく、沸いてくるのはただやるせない思いとどうしようもない悲しみだけだ。


「お前たちに余計な心配をかけたくなかった。惨めな自分を見られたくなかった。あたしは弱いんだ」


 弱くなんかない。自分にとっての静はいつだって偉大な存在であり、尊敬する人だった。だけど、でも。それでももう少し早く真実を聞かせてくれれば。手術を断った時に説得できていれば。


 どうにもならない後悔がいくつも生まれては消えていく。そうして後悔していないと、自分というものを保てそうになかった。


 いつの間にか涙が流れていた。そんなつもりじゃなかったのに。今日はただ静の話を聞いて、それから普段通りの会話をしたかっただけなのに。


 篤哉はただ下を向いて涙を溢し、静は黙ってそれを見つめていた。





 ひとしきり泣いた篤哉は、もう一つ気になったことを訪ねてみた。


「あのさ、ばあちゃんよく窓の外見てたろ。あの木ってなんかあるの?」


 窓から見える中庭の木を指差す。静の返答は答えとは言えないものだった。


「篤哉、桜の花の色って知ってるかい?」







 静の病室を後にして、教習所に寄ってから帰る。こんな時に教習所に通うのもなんだか億劫だ。でも、静はきっと篤哉が教習所をサボったら雷を落とすだろう。だから、なるべくいつも通りにしようと思った。


 帰り道はものすごい雪だった。5m先がもう見えなくなるほどの、視界を覆い尽くす雪、雪、雪。それに加えて夜だったので、まるで雪山かどこかで遭難でもした気分だった。下手したら帰り道でビバークなんて可能性もあるな。なんて思いながら慎重に進む。


 念のため持ってきた懐中電灯で夜道を照らしながら進んで行くと、道の途中に人工的な光と何か作業する人間の姿が見えた。近寄ってみると、五郎とその息子の史郎だった。どうやら納屋かどこかの外れてしまった板を取り付けているらしい。声をかけて、篤哉も手伝うことにした。


「すまねえな、あつ坊」


 金づちで戸板を打ち付けながら五郎が言う。ライトで照らしながら戸板を押さえていた史郎も視線で礼をしてくれた。二人に言葉をかけて、篤哉も戸板を押さえた。





 無事に作業が終わった後、篤哉は五郎の家でお茶をご馳走になった。居間に備わっている昔ながらの囲炉裏に手をかざす五郎に、篤哉は言った。


「じいさんが人間で良かった」


「あん? そりゃどういう意味だ」


「ほら、去年のクリスマスの日に会っただろ。その時はもう冬だったのに半袖のシャツ一枚だったからさ。本当に人間なのか不安になって」


 今日の五郎はしっかりと着込んでいた。氷点下の寒さではそれも当たり前のことなのだが、五郎はどことなく人間離れしているイメージがある。


「昔だったら半袖で飛び出していたかもなあ。ま、年には勝てねえってこった」


 そんなことを言って大口を開けて笑う。“昔だったらやってたんかい”と篤哉は心の中でツッコミを入れた。


「で?」


「ん?」


「顔に書いてあるぞ。言わなきゃならないことがあるって」


 静といい、どうして考えてることが分かるのだろう。そんなに自分は分かりやすいのだろうか。


 静の幼なじみで、静とは五十年以上の付き合いになる五郎。子供の頃から静にただならぬ感情を抱いていた彼は、事実を知ったらどう思うだろうか。


「しずちゃんのことか」


 ここまでくると、もはやエスパーだ。やはり五郎は人間ではなかったのではないかと疑念が湧いてくる。


 どうやって伝えようか迷ったが、やはり単刀直入に言うことにした。


「あと二ヶ月ももたないかも、って」


 それまで笑顔だった五郎の顔が、分かりやすく悲しみに染まる。その顔を見ていられなくて、思わず篤哉も目を反らしてしまう。


 そこからは二人とも言葉を発することはなかった。ただ囲炉裏の火の中で、炭が弾ける音だけがしていた。






 帰り際、一言だけ五郎に言うことにした。押し付けがましいかとも思ったが、それは今の篤哉の純粋な気持ちだった。


「じいさん、長生きしてくれよ」


 最後の最後で、五郎の目から涙が流れてきた。




ーーーー




 翌日はいつも通り出勤した。隠す意味もあまりないと思ったので、店長や美里、愛には静のことを全て話した。その上でなるべく普段通りに仕事に取り組む。仕事仲間たちも、そんな篤哉を見ていつも通りに接してくれた。


「桜の花の色? ピンクじゃないの?」


「えっと、種類や咲き方によって微妙に変わるんじゃないでしょうか」


「うーん……微妙な違いを考慮したら膨大な数になりそうだなあ」


 “桜の花の色って知ってるかい”。病室での静の言葉を美里や愛にも話すと、桜の種類を色々と教えられた。それはそれで勉強にはなったが、なんとなく静の求めているものではない気がした。


「その窓から見える木というのが桜の木なのではないでしょうか?」


 三人の会話に店長も入ってきた。


「その木の種類を調べれば、詳しい色が分かるかもしれませんね」


「なるほど、確かにばあちゃんは窓の外見てること多かったし……」


「店長は流石ですねえ。じゃあこれから病院で聞き込み捜査だね、篤哉くん」


「こんな夜に行っても迷惑でしょうよ……」


 静はなぜ今になって桜の花の色を訊いてきたのか。花のことには詳しくない篤哉より、静の方が絶対的に知識があるというのに。


 三人の仕事仲間たちと会話しながらも、篤哉の頭からは、静の言葉がずっと離れなかった。


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