第33話 駆け込み寺はお休みです
朝起きて、顔を洗う。朝食を準備して、それを胃袋に放り込んで家を出る。
雪道をひたすら歩き、たまに転びそうになりながら仕事場へ。
仕事が終わると夕食の買い物をして家に帰る。夕飯を一人分だけ用意して、残ったものは明日の朝食に。
風呂を済ませて居間でぼーっとする。縫い物を進めたり、掃除をしたりして時間を潰す。時間が来たら布団へ入って眠りに就く。
単調でつまらない繰り返し作業だ。
自分の生活はこんなに味気ないものだったのかと改めて思い知らされる。
ーーーー
「なんだか覇気がないなあ……」
「確かに元気がないですね。少し心配です」
「神蔵さん……」
淡々と作業をこなす篤哉を、仕事仲間の三人は心配そうに見守っていた。
篤哉が仕事でミスをしたりすることはなかったが、いつもよりも口数が少なく、時々遠くを見つめたりしているのが気になった。
「クリスマスイブからずっとあの調子ですね。悩み事があるのでしょうか。折山さん、佐倉さん、彼から何か聞いていませんか?」
「すみません、わたしは何も……」
「わたしも聞いてないです。けど、なんとなーく恋煩いなんじゃないかなーと」
美里の言葉に、三人はなんとなく押し黙る。
篤哉が恋をしているのではないかと聞いて、三人ともそれぞれが思い当たる人間を想像していた。
自分の思い当たる人間と篤哉が恋をしているとして、それは認められることなのか、簡単に口に出していいことなのか、判断に迷っていた。
「……あの。もし神蔵さんが恋をしているのだとしたら、わたしは応援してあげたいです。たとえ相手が誰であっても」
気の弱い愛が珍しく主張したことに店長と美里は驚いた。
すぐに美里が同意する。
「わたしも応援するよ。篤哉くんは弟みたいなものだからね。ただ、事情はたぶん簡単ではないと思うんだよねえ」
この三人の中で唯一美里だけが彩月とひかり、両方が篤哉を慕っていることを知っている。その内の片方としか結ばれないことを考えると、第三者の美里ですら胸が押し潰されそうになるほど切なくなる。
「本来ルール的にはアウトに近いのですが……」
「店長、それは言いっこなしですよ。篤哉くんだってわかってます」
「神蔵さんは真面目で誠実な人です。そんな人が禁忌を犯そうとしているなら、きっとたくさん悩んでいると思います」
「そうですね。僕もそれは理解しています。ただ、子を持つ親の立場で考えると……」
そうしてまた三人は黙った。
やがて、棚の商品の数を数えている篤哉を見ながら店長が言う。
「仕事に戻りましょうか」
努めて微笑む店長に、美里と愛も笑顔を返した。
ーーーー
単調な仕事が終わって家へと向かう。心地よい疲れや達成感などはない。神蔵篤哉という人間に課せられたノルマをこなしているだけだ。
ただ、最近店長や美里、愛がやたらと気を遣ってくれることに少し戸惑っていた。
自分でも自覚はあった。クリスマスイブからずっと、いや、ひかりや彩月にキスされた日からずっと、その日のあの瞬間が頭から離れずにいた。
あの光景を思い出すと、それまで二人と過ごした日々も一緒にフラッシュバックして、身体の中心が熱くなる。
周囲から見たら腑抜けたやつと思われるだろう。呆れられているかもしれない。
キスを受け入れたのを今さら後悔はしていないが、自分の心がどんどん弱くなっている気がして、焦りのようなものを感じていた。
家に帰ってから一人で夕飯を食べる。ひかりや彩月と一緒に食べた夕飯は美味しいと思えたが、一人の夕飯は味も感じられない。
無意識にそれだけは考えないようにしていたが、ついに篤哉は認めてしまう。
二人がいた時間は楽しかった。幸せだった。
ああ、自分は寂しいんだ、二人に会いたいんだ。
無味乾燥な自分の生活に華やかな彩りを与えてくれた二人と、もっと一緒に居たいんだと。
それは紛れもなく慕情であり、二人への恋心だ。
「俺はついに踏み入れちゃいけない道に進もうとしているのかあ」
独り言が空しく響く。
じっとしていると溶けて無くなってしまいそうだったので、家の掃除をして身体を動かすことにした。
「って洗剤がねえ。一昨日使いきったの忘れてた」
洗剤が売っている店でここから一番近いのはこの天津川に唯一存在するコンビニで、歩いて30分かからない程度の距離だ。身体を動かそうとしていた篤哉にはちょうどいい。それに気分転換にもなる。
コートを羽織って家を出た。
冬の夜というのは死の世界だ。
凍てつく空気が生物の存在を許さず、虫も動物も人間も好んで外を出歩いたりはしない。
防寒対策はしっかりしてきたが、それでも寒いと口から出てしまう。
しかし、歩いていれば身体が温まっていくので、20分も歩く頃には既に寒さはそれほど気にならなくなっていた。
コンビニで目的の洗剤を買う。スーパーで買うよりも割高だったがそれは仕方がない。
外に出て、ふと彩月のアパートがコンビニの近くだったことを思い出す。
なんとなく帰り道は彩月の家の方から帰ってみることにした。
別に訪ねようと思ったわけではない。こんな夜分に訪問したら迷惑でしかないだろう。ただ、もし彩月が家の外にいたら声をかけてみようと篤哉は思っていた。
帰り道は行きよりも足取りは軽かった。それはたぶん、彩月に会える可能性が少しでもあると無意識に考えていたからだと自覚していた。
彩月の家が近づくにつれて歩くスピードは上がっていく。自分はそんなに彩月に会いたいのかと苦笑した。
「いや、これじゃまるでストーカーだな。もっと自然に、偶然通りがかった感じを意識して……」
その思考自体がストーカーのそれだということすら思い至らないほど、今の篤哉は浮かれていた。彩月の顔を見れるかもしれない、それだけが頭にあった。
彩月のアパートの部屋の前には、予想外というか予想通りというか、彩月の姿があった。それを見て篤哉は嬉しくなる。しかしその隣には神菜の姿もあったので、表情を引き締め直す。
二人は何か話しているようだ。何の話かは聞こえないが嬉しそうな表情をしている。
声をかけようと一歩踏み出そうとしたところで、二人の部屋の扉が開く。
おかしい。彩月も神菜も外にいるというのに、なぜ扉が勝手に開くのだろう。篤哉は一瞬混乱した。
そして、直後に納得してしまった。
二人の部屋から、知らない男性が出てきた。
男性が出てくると、彩月と神菜が親しげに声をかける。男性も笑顔で応え、荷物を持とうとしたらしい彩月に何か優しく語りかけている。そしてそんな二人を神菜が見守る。
幸せそうな光景に見えた。少なくとも三人とも笑っていた。
彩月が笑っていることは、篤哉にとっては歓迎すべきことであるはずだ。幸せになって欲しいと思っていたはずだ。
なのに、篤哉は笑えなかった。
あの空間に自分はいない。必要ない。三人で完成してしまっている。それがわかってしまって、急に自分の存在意義が薄くなったように感じる。
そうか、自分は必要ないんだ。自分がいなくても彩月は笑える。それならそれでいい。彩月が笑えるなら、自分はいなくてもいい。
気づけば走り出していた。ただ真っ直ぐに自分の家を目指して。この場にいることに心が耐えられなかった。
後ろで彩月の声が聞こえた気がした。でも振り返らなかった。
家に帰って着替えもせずに畳に倒れ込む。
家を出なければ良かったと後悔した。彩月と神菜が前に進んだことを喜んでやれない自分に失望した。
買った洗剤を帰り道のどこかで落としたことなんて、最早どうでもよかった。
しばらくそのまま動けなかった。あろうことか涙すら滲んできて、自分が情けなくて仕方がなかった。
そのまま寝てしまいそうになるが、スマホのバイブ音に意識を戻される。
スマホはひかりと彩月からメールを受信していた。
『あっくん明日から休みだよね! 遊びに行ってもいい? from彩月』
『明日あつにぃの家に行くけど何か買って来てほしいものある? fromひかり』
メールを見て、涙がまた流れてきた。
自分は卑怯で情けなくてちっぽけで。とても二人の傍に居ていい人間とは思えない。
メール画面を開き、文字を打つ。送信をタップ。
それだけこなして、篤哉の意識は途切れた。
『誠に勝手ではございますが、しばらく駆け込み寺はお休みです』
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