【第8話】恨みと愛情と、空虚

 千郷のクラスには、なんとイケメンが四人もいる。クラスにとっては既にお馴染みの宮兼マサに、突然やってきた転校生の上結伊織。そして更にその後にこれまた何の前触れもなしにやってきた、三つ子である伊織の兄の上結紗織と上結大河。系統が違うイケメンが四人もいることにより、他クラスの女子からすれば羨ましい事この上ない。

「あーあ、そっちのクラスはいいよねぇ。イケメンが四人もいてさ! 三つ子なら、一人くらいこっちに来てくれたって良かったのに」

 ある日の昼休み、隣のクラスの女子がそう嘆いた。それは片方クラスにいるどの女子も思っている事だろう。元よりマサがいていいなぁとなっていたのに、そこに更に三人も追加されたら、それはもう、羨ましさ倍増だ。

 しかし、当たりクラスと言われるそこに属している女子は、机に頬杖をついて微苦笑を浮かべる。

「はは、確かに目の保養にはなる。だけどねぇ……」

 彼女は横目で噂されているその張本人達を見やる。そう、とても顔が良い四人をだ。しかしその四人は……、

「千郷、今日の放課後僕の家に遊びに来ない? 今回は、二人きりでさ」

「あー、マサまた千郷ちゃん狙おうとしてるぅ! んじゃあよ、たまには義兄ちゃんと二人で遊ぶか? 退屈はさせねぇぜ!」

「貴様と二人にするくらいならおれの方が良い。また、貴女に遊びに来てほしい」

「全員ダメに決まってんだろ! 何度も言うが、こいつを連れ回したいのなら俺も連れてけ、それが条件だ」

「だけど、まだ正式に契った訳ではないだろう? それなら僕っていう選択肢は残ってる訳だ。何がダメなんだい?」

「はいはい分かった分かった! そんな事でケンカしないっ。皆でね? 皆で遊びましょ」

 四人は、石原千郷にぞっこんなのだ。

 どっかのアニメかなんかで見たことのある如何にもな逆ハーレム構図に、羨ましがっていた彼女も苦笑いを浮かべる。

「こりゃ入れないねぇ」

「でしょ? しかもほら、前転校した本堂さん、実はその前に石原さんにちょっかい出したみたいで、実はマサくんが実家の権力で手回ししたんじゃないかってウワサがあるの!」

「あぁそれどっかで聞いたぁ。首突っ込まないのがいいねぇ」

「やっぱイケメンは鑑賞するに限るよー」

 と、コソコソと話す女子達の言葉。クラス内はそれなりにうるさく、千郷には聞こえなかったが、人間ではない当の本人達にはしっかりと聞こえている。

(おい、実家の権力って聞こえたぞ。雅お前、何て設定にしてんだよ)

 伊織は声にはせず、半場呆れた表情をマサに向ける。マサは首を振り、思念のみで言葉を伝えた。

(我は何も言っとらん。ただ、親が行事に顔を出さぬ事を仕事で忙しいと説明したからの、勝手に色々補完されとるんじゃ)

(そう言えば、以前「宮兼グループ」と言うのを見た)

(それぜってぇそこの令息だと思われてるやつぅ! 実際よ、意識しただろ?)

 大河と紗織の目がマサに向かう。

(うむ、否定はせん。と言うより、その財団自体が我が信徒の関係者の子孫じゃ)

(それはもう信徒じゃねぇだろ……)

(信徒であれば我ももう少し力を持ててるからの)

 ジト目になる伊織に、マサは苦笑を浮かべた。

 と、これらの会話は音として聞こえず、千郷はそんな彼等の仕草のみ確認できた。

「猫の集会見てる気分だわ……」

 千郷がぼそりと呟いた。が、この中にネコ科の者はいないのだが。狐が二匹に狼一匹、あとは蛇と、過半数がイヌ科だ。

 それはどうでもいいとして、彼等が何を話しているかは伝わってこないという事はわざわざ自分に聞かせるような内容でもないのだろう。気にする事ではない。

 千郷は自分の席に戻ろうと彼等から離れた。その時、間髪開けずに手を掴まれ、見ればその手は伊織のモノだった。

「なに? なんか話でもあった?」

 問いながら彼の表情を確認してみると、なぜだか彼自身も驚いた表情をしていた。千郷が首を傾げると、彼はパッと手を放す。

「あ、いや。すまん反射だ、気にするな」

「あっそ?」

 一体どんな反射だと言うのかとは思うが、思うだけに留め席に戻る。席に戻ったら戻ったで、近くの席の女子がずいっと椅子を寄せてきた。

「ねぇ千郷ちゃん。ぶっちゃけ、誰が一番好きなの?」

「やっぱマサくん? だけど最近一番距離が近いのは伊織くんだよね!」

「だけど最近、紗織くんと大河くんともいい感じじゃない? 実際、誰が本命なのよぉ?」

 ニタニヤやしながら千郷を肘で突き、恋バナを持ちかけるクラスメイト。いつもは番犬かと思うほどに伊織が常に横にいるのだ、彼が傍にいない今がチャンスなのだろう。

「そ、そういうのじゃないわよ! ただの友達だから」

「ほーん。ほんとの所はどうなんでしょうかねぇ?」

「教えてよぉ、誰にも言わないから!」

「それ結果的に皆に知れ渡るやつ! 絶対言わないからっ」

「「「えぇー!」」」

 そんな年頃の女子らしさ満載の会話を、男四人は耳をひそめて聞いている。

「けど、千郷ちゃんずっとマサくんが好きだって言ってたじゃん?」

「ま、まぁそうだけど」

(ほれ、聞いたか今の。結局のぉ、我のようなのが今時はモテるんじゃぞ)

(それは前の話だろうが、問題は今だ今。大体お前はキャラ作ってんじゃねぇか)

 どや顔をするマサに、伊織はケッと毒を吐く。

「だけど、伊織くんが来てからよく一緒にいるじゃんね。千郷ちゃんも満更じゃなさそうだし……ぶっちゃっけ、あぁいうのも結構アリなんでしょ?」

「だから、違うってのぉ!」

(ははっ、照れてる嬢ちゃんカワイイな! いいなぁ。俺も狙っちゃおっかなぁー)

(やれるもんならやってみやがれクソ兄貴)

 威嚇をするが、紗織にはこれっぽっちも効いている気配がない。胆力が強いのだ。

「だけど、私の勘で言えば、大河くんが一番いいと思うの。ほら、誠実そうじゃん? 紗織くんもいいんだけど、なんか、軽そうだし……」

「まぁそれも分からなくはないけど……って、そういうのじゃなくてね?」

(んなっ。俺、軽い男って思われてる……!?)

(ふっ、貴様はそう思われるに決まってる。普段がアレなのだぞ)

 今回ばかりは演技ではなく本気でショックを受けていそうな紗織に、女子から誠実そうだと評価された大河は小さく嗤う。

「えー、私はその二人だったら、紗織くんの方が良いと思う! たぶんね、あの感じは実は軽くはないのよ。千郷ちゃんほら、ツンデレな所があるじゃん。紗織くんぐらいグイグイくる人じゃないと、つり合いとれないよ」

「大河くん、奥手って感じするもんねぇ。草食系? いや、ちょっと違うな。だけどそんな感じだしねぇ」

 最早千郷は置いて、三人で「千郷ちゃんには誰が良いか」を語りだす。

 大河はその草食系という言葉がどういう比喩から来た表現なのかを知らないが、その言葉で示されるのが不服なのは確かだ。何故なら彼は実際、狼なのだから。

(あははっ! 狼なのに草食系ってっ、まぁ確かに? 狼なら肉喰えよぉ! 甘味ばっか食ってないでよぉ、ファミレスで飯食わないでパフェ三皿平らげるのはどうかと思うぜ?)

(貴様っ、今言う事ではないであろう! 大体あれは、たまたま甘いものが食べたい気分であっただけで、)

(だとしても、ぶっちゃけあれは俺も引いたぞ。兄貴。甘いモン喰いたい気分でも三皿はねぇわ)

(そう言えば汝、昔我の所に遊びに来た時、砂糖の壺を隠れて舐めておったよな。頭突っ込んで抜けなくなって、結果内側から破壊しおってのぉ。あれは驚いたのじゃ)

 過去の恥ずかしい事をこうも堂々と言われてはバツが悪い。恥ずかしそうに震える大河に、紗織とマサは愉快そうにニヤニヤとしている。

 こちらもこちらで勝手に盛り上がりそうな所で、千郷の声が聞こえ、彼等の耳がピクリと反応を示す。

「あのね、一応、ね? 友達だから……誰がどうとか、決められないから……」

 教科書で顔の半分を隠しているが、その顔は確かにぽぽっと赤くなっていた。

 そんな彼女を目に、女子達は目を輝かせる。

「春ですなぁ、羨まし!」

「乙女ゲーかっ!」

「少女マンガか!」

 そんな突っ込みをされる程、彼女の反応は初心で初々しかったのだ。

 そうして、そんな彼女を見た四人だが――

(伊織よ。戯れではなく本気で、我はあれを隠したいと思うのじゃが良いかの?)

(俺も少し考えちゃうなぁ。義妹ってのもいいけど、やっぱ俺が娶りてぇわ)

(貴様の手出しが許されるのであれば、手を付けられる前に我が貰い受ける)

(全員ダメに決まってんだろ野郎共が! ガキに手ぇだそうとすんな!)

 心の何かをばっちりと射抜かれていた。

 見守ると言っていた紗織まで、冗談ではなくそんな事を言い出した次第だ。

(ほほほ、若いのぉ。幼子に手を出してはいけぬと、その考えこそ青いわ)

(ははっ、確かにどうせ囲うってんなら早いうちだよなぁ。そっちの方が安全だしよ。あれ、そういや伊織って何歳だっけ? 大戦後だったよな?)

(お前、戦後生まれだったのか……つい最近なのだな)

 と、もう何歳だが本人も覚えてない奴等が揃ってそんな事を言い合いだした。人間の中でも昔の人と今の人の思考が違う事は多々あるが、これも正にそれだろう。

(お前らがジジイなだけだ!)

 二つの場所で男と女がそれぞれで盛り上がっていると、休み時間終了も間近になり、校庭でサッカーをしていたヤンチャ軍団が戻ってくる。千郷に集まっていた女子達は「男子もう戻って来ちゃった」と残念そうにぼやきながら一斉に解散し、それぞれの席に戻った。

 四人もそろそろかと解散し、伊織とマサも席に座る。しかし、マサはそこで未だ顔色が戻らない千郷一旦触れず、伊織に伝える。

(前も言ったが、誠に手出しされたく無ければ隠した方がよい。繋がりがあれど契ってない以上誰のものではない。古来の神は汝が知るより利己的な奴が多い、まだ誰の物でもない野花を気に入れば直ぐに摘むじゃろう。我はこれでも大人しい方なのじゃ)

(それに、皆が手に入れた物を「愛でる」とは限らん。何も我は考えなしに隠せと言っている訳ではないぞ、伊織)

 呼び掛けたその声は、真剣なトーンだった。

 神が持つのは人とは違う倫理観だ。古くから存在しているからこそ、どれ程利己的な神が多いかを知っていた。隠してしまうという考えもまた多くの場合で利己的になるモノだが、知っているからこそ彼はそう言っていたのだ。

 しかし、伊織は顔を顰める。

(なめんな。んな事しなくても守れる。それに、千郷がそこらの神に攫われたとして、不都合なのは俺だけじゃねぇだろ)

(老いぼれに武力の期待はしないでほしいがの)

 要するに、お前も守れと言いたいのだろうか。彼はマサとして肩をすくめるが、否と言わなかった。

(武力の期待はしてねぇ。お前、下手に力使ったら消えるだろうが)

(ほほほ、馬鹿にしよって。まぁ否定はせぬ)

 会話の区切りもいい所で、千郷が不満そうに言った。

「あんた達、話すなら口で話しなさいよ。気になるじゃない」

「ごめんね、あんま君に聞かせる話じゃないからさ」

「あぁ。気にするな」

 だとしても、自身を挟んだ両隣で明らかに何かしらの会話をされたら気になるモノだ。自分の事を話されているとは思っていない千郷は、突いた頬を少しだけ膨らませていた。

 さて、あの女子は千郷の状況を乙女ゲームや少女マンガと比喩したが、実際彼女の現状はそのようなモノだろう。本人だってそう思っている。

(だけど、不思議よね……つい最近まで、神様が実在するなんて思っていなかったし)

 間違われては困るが、彼女は一般的な女子小学生。新年やたまたま神社に赴く機会があった時にお参りをするが、それは何もそこにいるとされる神様を本当に信じている訳でもなく、一種の願掛け。勝つとカツの語呂でかつ丼を食べるのと同じ事だ。伊織と出会ったあの時だって、そのくらいの気持ちだった。

 だと言うのに急にあんな展開になるなんて。お参りしたら伊織と名乗る狐の神が突然「俺と繋がったから俺の女になれ(要約)」と言われ、片思いしているマサくんが実は蛇神だった、なんて、少し前の自分に話したら笑うだろう。

 しかし、神と言うのは案外人間に近しい。そりゃ感性やら家族関係やらの異なる部分は大きいが、全てを超越しお高い所に留まって澄ましているような存在ではなかった。大事な人を失ったら辛いし、家族だと思う者に拒絶されたら悲しくなる、そんな風にして複雑な感情を抱く事もある。この数か月、千郷はそんな事を知った。

 そのお陰で彼女はすっかりと油断していたのだ。神様は、怖い物ではないと。

 その日の帰り道、いつものように伊織とマサ、紗織と大河と一緒に下校する。伊織だけは他の三人の同行を拒否して千郷の家の前まで一緒にくるが、それも含めいつも通りの下校だ。

「千郷。気をつけろよ」

 別れ際、伊織は毎度のようにそう言う。もう家に付いたと言うのに、何に気をつけろと言うのだろうか。そんあ事を思いながらも、彼女はただ「分かってるわよ」と返答した。

 そんないつも通りの学校生活が五日間続けば、次の二日は休みだ。宿題は金曜の夜に早々に終わらせ、二日間をゆっくり過ごせるように用意した。そうして寝る前の少しの時間、千郷はスマホをいじり出す。

 呟きサイトでは相変わらずどうでもいい事から有益な情報までつらつらと流れてくるが、千郷のアカウントで見れるのは限られている。何故なら、このアカウントは父と母にも共有されているものであり、何をいいねしたり拡散したりしたかは一発でバレてしまう。ごくたまーにだが父が自身のアカウントと間違え共有アカウントの方で可愛い女の子の写真をいいねしてしまい、母に問い詰められているのを見るのだ。

 とはいえ、千郷はやましいものを見る訳ではない。お気に入りの雑貨ブランドの新作情報やらを見ている。いいねをすればこれが欲しいという意思表示になり、運が良ければ買ってもらえたりするのだ。

(だけど、最近おこづかいもたまって来たし。何か買いたいなぁ)

 そんな事を考えながら、フォローをしているアカウントのホーム画面を開く。すると、その一番上に、千郷の好きなこいぬのポチくんシリーズの新作、ポチくんパスケースが表示される。

 ポチくんという柴犬のデフォルメキャラのマスコットには、背面に交通系のカード等を入れられる部分がある。ちょこんとお座りして首を傾げているそのポチくんは、多くのファンの心を射止めるに違いないだろう。

(なにこれ、かわいい……!)

 実際、千郷の心も射止められていた。

 これは欲しい。買い案件だ。にそう決めた千郷は直ぐ部屋から飛び出て、リビングでテレビを見ている母親に言う。

「ママ!」

「はいはい、ポチくんね。明日買いにいこっか」

 母親は話が早くて助かる。その一方で父親だが、

「うぅ、なんで俺は明日も仕事なんだぁ……」

 とまぁ、こんな調子。ひとまずは無視をした。

 千郷は「うん!」と元気よく返事をして、明日を楽しみに眠りに付いた。

 そうして次の日、母と二人で電車に乗り、お店のある所に向かう。電車に乗るのは十分ほどでさほど遠い場所ではなく、正美と仲良く出来ていた頃によく一緒に買い物に行っていた場所でもある。

 駅の外に出ると、直ぐ近くにコンビニがあった。母はそれを見て、何か用事を思い出したらしい。

「あ、千郷。ママ、ついでにコンビニで一番くじがあるか見てきていい? シフォンロールちゃんの奴、確か今日からだったんだよね」

「あぁ、分かった。じゃあ私、この辺で待ってるね」

 母はお目当ての物を探しにコンビニに入り、千郷はその外で待つことにした。スマホを取り出し、念のためお目当てのポチくんが売り切れていないかを確認しようとした時、

「娘。占いに興味はあるか」

 不意に、年老いたお爺さんの声が聞こえた。

(ん? 今のって、私?)

 軽く声の方向を見てみれば、お爺さんは確かに千郷を目にしていた。緑色の和装がきっちりとした印象の、顎鬚を生やした頑固そうなお爺さんだ。少なくとも、この都会の町並みには似合わないが。

 千郷はそんな老人を不審に思いつつも、彼の問いに答えてしまう。

「ま、まぁ。ぼちぼちです、けど……」

(答えちゃった。けど、これ完全に不審者よね……だけど、ママの傍に行けば、変な事にはならないわよね)

 千郷は「母が待っているので」とコンビニの中に入ろうとする。母がいれば怪しい壺やらブレスレットやらの押し売りはされないだろう。今から買い物に行きたいのにそれは勘弁だ。今からでも遅くない、逃げようと。

 しかし、それが上手い事出来たのは、彼が普通の老人だったらだ。

 手首を掴んだ枯れた手に、その見た目にそぐわない程の力が籠められる。千郷は痛みに顔を顰め、周りに助けを求めようと人々がいた場所を見るが、その場には人っ子一人もいない。試しにコンビニの中を見てみるが、先程まであった母の姿が見えなかった。

(これ、覚えがある……まさか……!)

「あぁ、やはりそうだ。贄に相応しい、巫女の体」

 その目に恐怖を覚え思わず縮こまる。しかし、ここで怯えたらダメだと、千郷は自身を奮い立たせた。

「や、やめて! 何をするつもりかは分からないけど、離しなさいよっ!」

「気丈な娘。悪くない。悪くない。蛇と狐が囲った巫女。その転身。この身を再構築するのに相応しい」

 その時、千郷の目には老人が緑色の龍に映った。狩った獲物を見る、野生的な鋭い眼光……それは、まだ大人になりきらない女子に恐怖を与えるには十分すぎるものだった。

 嵐のような強い風が吹き、千郷は短い悲鳴をあげて目を瞑る。眼を開けると、そこは古びた小屋の中だった。そこで彼女は、布団の上に横になっていた。

 体を起こして直ぐに見えた窓の外には、水辺がある。あれはだろうか。勢いよく流れる水は綺麗だ。

 隣を見やれば、そこには先ほどの老人が胡坐をかいて座っている。

「あ、あんた……私に、何か用? というか、誰よ」

「吾輩、龍神だ。名は……覚えとらん。あぁ。そうだ。そうだ。『川流れの守護者』、これがある」

「それは名前じゃなくて肩書じゃないの。それで、何の用なのよ」

 改めてそれを尋ねる。最悪、名前は知らなくとも何とかなるが、要件が分からなければどうしようもない。手法は少々アレだが、もしかしたら本当に困っていて助けを求めてきた可能性だってあるのだ。

「用? 用か。なんであったか……あぁ、思い出した。思い出した。贄だ。吾輩は、贄を欲した。其方だ。其方が贄だ」

 一瞬にしてどこか虚ろに感じるようになった目が向けられ、ゾッとくる。

 そう言えば、先程自身の身を再構築するとかなんとか言っていたか。千郷の頭の中に、最悪の想定が浮かんだ。

「それじゃああんたは、私を、食べるの?」

 彼女の声は震えていた。無理もないだろう。一般的な少女であれば泣いていても可笑しくない。正気を保てている時点で、彼女の精神は強いと言えるだろう。

「食べる? 食べる……。あぁ、どうしてたか。吾輩は、贄をどうしていたか。覚えとらん。覚えとらん。どうすれば良かったか……」

 龍神は目を伏せた。壊れたおもちゃのように同じ言葉を繰り返す彼に不気味さを感じた千郷は、そっと目を逸らし次を尋ねる。

「それじゃあ、最初に言ってた占いって? あんた、占いが出来るの?」

「占い。あぁ、思い出した。川の流れだ。川の流れを予言した。雨が降る事を教えた。雨を降らせた事、止ませた事もあった。懐かしや。懐かしや」

 そう言えばと、千郷は思い出す。日本にいる龍神は、多くが水神であると。いつだったか旅行先で龍神が祀られる神社に行ったとき、うんちく好きの父が言っていた。

 龍神は穏やかに目を細めていた。昔懐かしい記憶を思い出したのだろう。しかし、油断は出来ない。

 怖い。その気持ちが抑えられなかった。彼女自身気付いていないが、彼女の体は小さくも震えていたのだ。

 それは恐らく、本能からの恐怖だっただろう。目の前の未知なる相手を前に、人間である彼女の本能は「無力である」と悟っていた。きっと、彼が千郷を食べようと思えば、一瞬にして命が噛み砕かれるだろう。

「すごいじゃない。やっぱ神様って、そういう事が出来るのね」

 だから千郷は、なるべく彼の逆鱗に触れぬよう、言葉を慎重に選んだ。

 褒めておけばいいだろうなんて、単純な考えだ。しかし、間違っても怒らせてはいけない。

「凄い? そうか。そうか……吾輩は、凄いのか。久方ぶりだ。称賛とは。最後、言い渡されたのは、いつだったか」

「巫女よ。贄よ。ご飯を用意しよう。人の子には、いるものであろ?」

 龍神は突然そんな事を言い出すと、ゆっくりと腰を上げようとするが、上手い事立てないようだ。千郷はなんとなく見てられなくなって、彼を止める。

「いい! とりあえずいいからそういうの!」

「一先ず、どうしたら帰してくれる? ここって、その、龍神様の神域でしょ?」

「不可。贄は、帰せぬ」

「贄があれば、力が戻る。きっとそうだ。きっとそうだ。使い方は覚えとらんが、どうにかなる」

 龍神の手が、千郷の顎に触れる。そうして軽く顔を持ち上げられると、千郷の目には彼の瞳が真っ直ぐと写される。

「蛇が寵愛せし巫女、狐が贔屓した娘……其方があれば、吾輩はきっと、返り咲ける」

 龍は覇気のない声で、「きっと」と繰り返した。

 怖かった。しかし同時に、酷く心が張り裂けそうな想いだった。触れられた指先から伝わる何かが、千郷にそう思わせていた。悲しさだけではない。伝わるそれには、千郷の感じるような恐怖があった。

(どう、しよう……これ、やっぱり、食べられちゃうのかな……)

(うぅ……さすがに、無理よ。怖い……)

 千郷は強く目を瞑った。そうすると、伊織に言われた「気をつけろ」の言葉が思いされる。

(そういう事だったのね、あれ……だったらもっとハッキリ言いなさいよ。気を付けろだけじゃ分からないわよ……っ)

 しかし、千郷は泣かなかった。ここで泣いたら負けな気がしたから。

 きっと、どこかに打開策があるはずだ。探そう。もしかしたら、伊織達が助けてくれるかもしれない。しかし、確証のない助けを待つくらいであれば自分で動いた方が良い。

 隙を見て動き出そう。千郷は外に流れている川を見て、小さく頷いた。


 一方その頃。上結家には三兄弟と、そのお友達のマサくんが遊びに来ていた。

「しかし汝等、随分と馴染んでいるようじゃのぉ」

 マサの姿でこの口調で喋られると妙な違和感があるが、直ぐそばにいる人間の幸恵は特段気にしている様子は無かった。

「あぁ。てか兄貴、いつまでやるつもりだ、この家族ごっこ」

「んー? んまぁ、適当に頃合い見て? 結構居心地いいんよなぁここ。ほら、大河とかよ。見てみろよ」

 紗織が目で示したのは、開けられた襖の向こうの部屋でテレビを見ている幸恵の膝に乗っている、狼姿の大河だ。形こそ本相だがサイズは小犬程であり、膝に乗る為に調節したのだろう。撫でられてグルルと喉を鳴らして、ついでに尻尾も揺らしている彼だが、つい先程遊びにきたマサに一切気が付いていない。

「うむ、良い事じゃ。じゃが、あれでは狼ではなく小犬じゃのぉ。どれ、いっちょからかいに行くかの」

 マサは意地悪く笑い、彼女の横で屈む。

「その子、幸恵さんのワンちゃんですか? 可愛いですね」

 爽やかな笑みで幸恵に声をかけると、その膝でふにゃふにゃしていた大河がハッと顔を上げる。

「雅殿、いつの間に……! ち、違うぞ。これは、我が進んでやったのではなく、幸恵がしたいと言うから仕方なくであってだな」

「ははっ、うんうん。そうだねそうだねぇ。可愛いねぇ」

「雅殿!」

 膝の上でキャンと吠える。いそいそとそこから降りると、小学生の姿に変わり、愉快そうに笑う長兄を恨めしそうに睨んだ。

「紗織、雅殿が来るなら一言声をかけてくれたって良かったではないか」

「だってよぉ、お前が気持ちよさそーにしてたから、邪魔すんのは悪いかなーって!」

「貴様わざとだろ! 分かってやってるだろ!?」

「モチのロン!」

 本当にこれっぽっちも誤魔化す気のない、清々しい笑顔。

「貴様……! 今日と言う今日は許さんっ、表に出ろ!」

「あははっ、手合わせか? お兄ちゃん負ける気がしないなぁ!」

 本相である狼の姿で唸る大河、それに答え紗織も七尾の黄狐姿になる。

「お前等神社の前で殴り合うんじゃねぇぞ、やるなら少し離れた所でやれ」

 伊織はそんな兄二匹を面倒くさそうにあしらった。が、その時、本相に戻った二匹の耳がピクリと動き、動きを止める。

「……待て待て。おいこりゃ、どういう事だ。伊織、戻れ! 本相だ!」

「はぁ? 突然何なんだよ。俺も喧嘩に混じれってか?」

「違う。お前の方が鋭いはずだ」

 紗織だけではなく大河までにもそう言われ、伊織は「何なんだよ……」とぼやきながら本相に戻る。尻尾はまだ一尾しかないが、普通とは比べ物にならない程に巨大で立派な狐の姿だ。かくしてその姿になった途端、伊織はある事に気が付き、顔を顰める。

 そんな様子からマサも勘付き、瞳孔が縦長に細くなる。

「うむ。こりゃ、してやられたの」

「ッチ……探すぞ。誰だが知らねぇが、いい度胸してやがる」

 狐姿の伊織は間髪入れずに宙を駆ける。

「ちょい伊織っ! 単独で行くなって、相手が何の神かもわかんねぇんだぜ!」

 紗織が止めた時には、既に姿を消していた。

 きっと彼は焦ってもいたのだろう。それは、若さ故でもある。

「若いと言うか何と言うか。血気盛んだな」

「安心せい。汝等が本相になりようやっと気づける相手という事は、恐らくそ奴は我の同輩、死にぞこないじゃ。若き神である伊織が対峙して勝てぬという事はない」

「じゃが……一人で行かせていい理由にはならんの。汝等、行くぞ。手は多いに越した事はない」

 マサが変えた姿は、本相ではなく大人の姿だった。

 伊織は力を辿って探している事だろう。二匹は駆け足で宙を駆け、雅は彼等の後を追いながら歩いていた。

(全く、若いのぉ……よくまぁかように走れるモノじゃ)

 雅はこの事態を楽観視していた訳でははないが、焦ってはいなかった。予測していた事態が来ただけ。彼がこうして落ち着いているのも、年の功だろう。

(しかし。同輩で我以外にまだ生きてる奴がおったとは……脅しで言った事が誠になるとは。言霊かの。それにしても、一体誰じゃ? 我以外、皆死んでいたはずじゃが……)

 雅は思い返していた。大昔、かつて共に酒を飲んだ同輩との記憶。今じゃ薄れてきちんとは覚えていないが、友であった同輩の事はしっかりと記憶している。

 神話に名がある訳ではない、人々の縋る気持ちから産まれた神々。かつての人間にとって、世界はあまりにも未知で不可思議で、それを操る存在がいると思わねばやっていけなかった。そんな風に人々の不安を託されたのが、雅の同輩達。時代と共に敢え無く消えて行った、かつての友だ。

 微弱になった力ではそれが何であったか把握出来ない、最早それは神のモノであるかも危うく感じてしまう程だ。しかし、辿って行った先には伊織達の姿が見えた。

 人が交う都会の町並みの中、巨大な狐二匹と狼という組み合わせは非常に浮いており、かなし目立つ。しかし、神である彼等を目に出来ているのは、物を言えぬ赤子くらいだっただろう。母に抱えられた赤子が「ぅあ」と声を上げ小さな手で彼等を示すが、母には見える訳もなく「どうしたのー? なにかあったのかなぁ?」と慣れたように相手をしていた。

 人々の中に降り立ち、伊織に問う。

「伊織よ。あったか?」

「近くのはずだ。だが、切れ目が見つからねぇ」

 彼の言う通り、この辺りに神域に繋がる切れ目があるはずだ。しかし、肝心の切れ目が全く見えない。それは、力が弱く境界線が薄いからだろう。

(近くに来ても弱いとな……となれば、やはり……)

「汝等。恐らく、相手の目的は千郷の巫女たる力じゃ。生きる為の力を、巫女の贄で養いたいのじゃろう」

「贄って……まさか、食うつもなんじゃねえだろうな?」

 伊織は心配そうに顔を歪ませた。

 まだ死んではいないと分かるが、それも時間の問題かもしれない。

「さぁの、贄の使い方など神による。じゃがまぁ、可能性が無いとは言えぬ」

 雅は見た事がある。「贄を貰った、これが中々に美味い」とにこやかに笑いながらその肉を食している友がいた。その一方で、「良い男だったから婿にしたのですわ!」と、贄である男に晴れ着を着させてはしゃいでいた友もいた、それでこそ来縁もその質だ。数いる嫁の中でいる二人の人の娘は、最初は贄として捧げられた者だった。

 しかし、死にかけで力も衰えた神がどう動くかなど分からない。

(まだ理性があれば良いのじゃが……)

 雅は意識を集中させながら、三匹と共に切れ目を探した。微かに感じる力は覚えがあるような気がしたが、自分が衰えたせいか、将又持ち主が弱っているせいか、それが何かは思い当たらなかった。

 必死になって辺りを駆けまわる伊織。意識を集中させながも、心配が勝り気が気でないようだ。自分なら出来ると過信し、その自信がひょんな事で裏切られ焦ってしまう……そんな彼から感じたのは、若さだった。


 あるタイミングで、龍神が眠りに付いた。硬い床で横になる老人の絵面は見ていて心配になってしまい、とりあえずと自身に使われていたいた毛布を掛けた。本当は床ではなく布団の上に移動させたかったが、非力な少女にそんな事が出来る訳がない。

(まぁ、神様だから多少は大丈夫……なのかしら? おじいちゃんがこんな床で寝て、腰が痛くなりそうだけど……)

 そんな事が気になりながらも千郷は外に出る。流れる川は幅がそこまでなく、むしろ狭い方だと言えるだろう。都会っ子である千郷からすれば、こんな自然の中に流れている川はとても新鮮だ。

 見る感じ、どうやら川は山から続いているようだ。ほんの少し触れてみると、それはとても冷たい。

「夏なら、気持ちよさそうね……」

 呟きながら顔を上げると、その先に肌の焼けた男児達が無邪気に遊んでいるのが見えた。驚く間もなく、その姿は煙に巻かれるように消える。

(これも、その感じるだかなんだかのやつ……? だけど、声も聞こえないし、直ぐに消えちゃった)

 試しに川辺にある岩に触れた。すると、その岩の上に座る女児が見えた。飛んできた水しぶきを顔に浴び、立ち上がって怒り出すのが見えると、同じくして見えなくなる。

「なんだか、いつもと違う見え方……」

 不思議に思うが、今はそれどころではないと思い出す。

(川の向こうに行く? だけど、向こうにもなにかあるように見えないし……ぬれちゃう)

 この中を歩けば、靴の中に水が入って妙に気持ち悪くなるのは目に見える。それに、今履いている靴下は、ポチくんシリーズでお気に入りなのだ。

(だけど、そうとは言ってられないわよね……くつしただったら、ダメになっても買ってもらえるかな)

(……うん。まぁ、やってみるが吉よね)

 千郷は川の中に足を入れる。その途端に、靴と靴下だけは脱げばよかったのではと気付き若干の後悔をしつつ、一歩を進んだ。

 そんな時、どこからかゴゴゴと音が聞こえる。

「ん。何……?」

 音の方向を見て、千郷は目を見開いた。山から勢いよく押し掛けてくる水流、何故こんなにも突然に? 考えてる暇はない。しかし、千郷の反射神経は、流れる水と比べるとどうしても劣ってしまう。それに、人間は水の中で上手く動けないのだ。

 避けられないと悟り構えた時、不意に体に浮遊感が過る。見れば、自身の数倍の大きさの龍が、その手で千郷を掴んで飛んでいたのだ。

 落ちてきた水は一気に地上に溢れ返されるが、地に付いた途端夢幻のように消える。そうして再び平穏に戻った川辺に降ろされ、千郷はその龍を見た。

「ご、ごめん。ありがとう」

 きっと助けてくれたのだろう。頭を下げて礼を言うが、龍は目を開いたまま固まり、何も言わない。

「えっと。大丈夫?」

「……駄目だ。近づくな。川には入るな」

「吾輩は言っている。ずっと、そう言っていた。そのはずだ。そのはずだ。吾輩は制御できない。……出来ない? 何故出来ない。吾輩はその為に産まれた」

「何故だ。何故出来ぬ。出来たはずだ。水の流れは、占えたはずだ。思い出せない。思い出せない……」

 龍は老人の姿になり、頭を抱えた。平坦な言葉は混乱にも似て、彼は思い出せないと繰り返す。

 同じ言葉を朦朧と繰り返されると、恐怖を感じてしまう。千郷は慌てて彼の体を摩り、声をかける。

「とりあえず落ち着いて。ね? ほら、思い出せなくても問題ないから……」

「あぁ。思い出した。ご飯だ。作ってやろうと思ったのだ」

 調子を取り戻したのか、不意に顔を上げるとそんな事を言い出して小屋に引き返そうとする。しかし、その途中で思い出したかのように足を止め、また口を開いた。

「あぁそうだ。魚がない。切らしていた。危ない、危ない。捕りに行こう。待っていろ。生きの良いのを捕ってこよう。釣りは得意だ」

 彼は龍の姿に化けて飛ぼうとする。が、上手く飛べなかったようで地面に落下してしまった。

「あぁ! もういいから! 何もしなくていいから、お腹すいたら自分でどうにかして食べるから。家にいなさい!」

「うむ。そうしよう。そうしよう。なら、茶を淹れよう」

「私がやっておくから! ね? だから、座ってて……」

 何だか、ボケてしまった老人を介護している気分だ。もしかして、全国の認知症介護をしている人はこんな感じなのか。千郷はそんな事を知る訳がないが、なんとなくそんな気がした。

(どうしよう。神様も認知症になるの? これってそういう事? それなら、ワンチャン誘導出来るかしら……)

 千郷は台所のような場所に立ち、家庭科の授業でやった事を思い出す。確か、教科書にお茶の入れ方が書いてあったのだ。幸い急須と茶葉はあるようで、これなら用意できそうだ。

 上手く出来たかは分からない。しかし、授業で習った通りにやったから大丈夫なはずだ。

「はい、お茶。熱いから気をつけなさいね」

「あぁ。ありがとう、ありがとう」

 龍神は湯呑に口をつけ、ゆっくりと一口を飲む。

「美味い。上手だ、上手だ。娘よ。きっと、其方は良い嫁になれる」

「そう? これでいい嫁になれるならどの女子もそうよ。だけど、ありがとね」

 千郷は、なるべく優しい声色で答えた。

 もしこの龍神が認知症ならば、それに対する接し方をしなければいけないだろう。千郷は必死にこの前テレビで見た介護についての情報を思い返していた。

 それを抜きにしても、神なんて刺激していい物じゃない。何をしでかすか分からないのだから。

「其方、濡れている」

「あぁ、まぁ。さっき川に入ったから……そうだ。くつしたとか、あそこで乾かしているけど良かった?」

「構わない、構わない。なんだか、懐かしい気分だ」

 目を細める龍神は、今の所穏やかだ。

「思い出した。思い出した。吾輩にも、巫女がいた。こうして茶を淹れ、村の子等の話をしてくれた。優しい子だった。温かくて、いい娘だった」

 老人の昔話だろうか。千郷は彼の様子を見ながら、その話を聞く。

「あの子は、川に呑まれ死んだ。吾輩のせいだ。皆、そう言った。そんな訳がない。あの子は、吾輩の唯一の巫女だった。殺す訳がない。そんな訳がない」

 その一言を噛みしめるように告げ、彼は奥歯を食いしばる。

「あぁ、そうだ。皆死んだ。呑まれた。吾輩が呑んだ。違う、違う。吾輩ではない。吾輩ではない……!」

 空気が変わった事に、当然千郷も気が付いた。不味いと後ずさるが、壁に背がぶつかるだけだった。

「そうだ、そうだ……思い出した……あ奴等は、あ奴等は……っ! 吾輩はあんなにも、あんなにも尽くしてやった。だと言うのに、恩を仇で返しよった。吾輩のせいではない。氾濫も、大雨も、自然が勝手にやった事。吾輩のせいではない!」

 その怒りは、その場にいない誰かに向けられている。しかし、彼が当たる対象は、千郷しかいない。

「ちょ、落ち着きなさいよ! そんな事私に言われても困るわ! そもそも水害が全部あんたのせいだなんて思ってないもの!」

 千郷はそう言った。しかし、龍神には届かない。

「巫女よ、贄よ! 其方は、神を信ずるか? 神は、信じてもらわなければ力を持てぬ。同じ事。同じ事。疑えば疑うほど、神は無力になる。知らぬか。吾輩が川を制御できぬのは、あ奴等のせいだ! 恨めし。恨めし。全て吾輩のせいだ。吾輩が悪いのだ!」

 彼は叫んでいた。その陰は黒く塗り潰され、龍が吠える。

 強い風が吹き荒れ、小屋が飛ばされる。そんな強風に千郷の身が立っていられる訳がなく、力を入れた足は敢え無く地を離れる。

(やばい、死ぬ。この高さから落ちたら死ぬ……!)

 落下を悟った時、千郷に成す術は無かった。

 ただひたすらに強く目を瞑った時、りんと聞き覚えのある鈴の音が耳に届く。そうして次の瞬間に、落下の勢いが浮遊感に代わり、もふっとした何かの上に落ちた。

 目を開いた時、自身は狐姿の伊織の背に乗っていた。

「……? 伊織!」

「悪かった。少し、他の神をなめていた」

 見れば空から七尾の紗織と狼の大河が現れ、その一歩後から雅がやって来る。

「なぁんか入ってすぐクライマックスだな。感情が荒ぶったお陰で切れ目が浮かんだって訳か、こりゃまぁ、千郷が死ななくて良かったぜ」

「あぁ。良かった……」

 一先ず、どこは安堵すべき部分だったのだろう。しかし、正気を失った龍神はそこにいて、はぁはぁと息を切らしていた。

 そんな龍神を目に、雅は目を丸くした。

「ほう。誰かと思えば、臥流がりゅうか。まさか汝が生きておったとは。驚きじゃ。じゃがまぁ。それじゃ、生きていないのも同然じゃのぉ……」

 小さく笑うと、威嚇をしている伊織を横目に手を差し出しだす。

「伊織、力を貸せ。ここは一つ、年長者として我が責を成そう」

「嫌だね、とりあえず俺に一発殴らせろ。じゃなきゃ気がすまねぇ」

 彼の答えは間髪入れられず、即答もいい所だった。

「ほほほ、こ奴め。嫌な所ばかり来縁に似よって」

 雅の文句ありげな言葉は一切無視し、伊織は千郷を大河に預けると真っ直ぐと龍神に向かう。剥かれた牙は龍の首を噛みつけ、龍神は走った痛みで咆哮を上げる。

 伊織の神としての力が、怒気を隠そうともせず溢れ出る。そうして前足で宙を蹴ると、再びそれに飛び掛かった。

「おうおう、随分とまぁ元気だなぁ俺の弟は。龍神とどんぱちなんて普通考えねぇぞぉ?」

「若さだろうか。だが、この場において我が出ぬというのもプライドが許さん」

 大河もまた一歩後を引くような事を最初呟いたが、一気に角度が変わり、千郷を紗織に渡す。そうしたら直ぐに、彼は龍神に突っ込んでいく。

「お前も対外血気が多いなぁ! えぇー。だったらお兄ちゃんもカッコいい所見せたぁい! 雅、千郷任せるわっ!」

 紗織はひょいと千郷を投げた。難なく雅が受け止めてくれたから良かったが、今のは絶対危なかった。

「ちょっと紗織! なんで投げるのよ怖いじゃないの!」

 文句を言ってみるが、もう届いていないだろう。ノリノリで弟に混じり、龍神に襲い掛かる。牙や爪だけではない。千郷にはよく分からない、魔法にも見える何かを使っているのも見えた。紗織から出た無数の球体が場を飛び交い、大河の周りで金色に輝く何かが剣の形をとり、それぞれがそれらを嗾けると同時に、伊織が放った同じ色の力が龍神の体を打つ。

 しかし、龍神は反撃をしない。否、出来なかったと言うべきか。これじゃあ老人虐めだ。

「全く、喧嘩っ早い小僧じゃの」

 雅は呆れたように微苦笑を浮かべた。ふわりと地に降り立つと、乾いた靴下と靴を千郷に履かせてやってから地面に降ろしてやる。そして彼は一歩前に出て、言葉を放った。

「汝等、止まれ」

 その一言で、伊織達の動きが止まった。

 それは、雅が放ったその言葉が、神としての物であったからだ。

 悠々と歩き、龍神の前に立つ。若者に殴られ堪えているそれに手を伸ばすと、雅は口のなかで呪文らしきものを唱える。すると、その言葉に合わせ龍神の体から黒く変化した煙のようなモノが溢れ、雅の手に入る。やがて煙が薄れ完全になくなった時、彼は手を握った。

 龍の肉体は目に見えて小さくなり、力が抜けたようにどさりと地に落ちる。

「い、今の黒いの、なんだったの?」

「簡潔に言えば、『恨み』じゃ」

 雅は手を払い、友を見やる。その目はどこか寂しそうで、かつての記憶を懐かしんでいた。

「こ奴が執着したのは、生きる事ではない。自身を捨てたかつての信徒に怒り、恨みに囚われ生き続けておったのじゃろう。証拠に、今の力はこ奴の『神性』ではない。心から生じた魔じゃ」

「安心せい、千郷。もう汝に危害を加えようとはせんじゃろう」

 雅はぽんと千郷の頭を撫でてやり、笑みを見せる。

 そんな時、龍神の体が微かに動き、彼の口が震えながら動いた。

「その力……来縁か?」

 それは、老いて枯れ、弱った声だった。

「はぁ? ちげっ」

 否定しようとした伊織を、雅が横眼で制止させた。否定するなと言わんその目に気が付き、伊織は咄嗟に言葉を取りやめ、静かに尻尾の先で千郷を引き寄せる。

「来縁か。そうか。そうか……あぁ、分かった。千火せんかもおるだろ? あとは……雅か? すまない。眼が見えないのだ」

「しかし、妙な組み合わせだな。狐と狼は、そりが合わぬと記憶しておる、が……」

「可笑しいな、思い出せぬ。友は、あとどれ程生きている?」

 臥流の問いに、雅が口を開く。

「残念ながら、もう我だけじゃ」

「あぁ、そうか。そうか。残念だ。だが、それなら、吾輩は一人にならないな……」

 彼の尻尾の先が雅の足に触れる。緑色のやや尖った鱗は人の肌には痛いが、気になる程ではない。

「蛇よ。雅よ。其方も、逝くか? 友等が、何処にいるか分からないが。ここではない。一人は、寂しい」

 臥流は徐に顔を上げ、景色を写せなくなった虚ろな目でかの友を見やる。

「……悪いが、それは出来ん。我は生きたいのじゃ、時が赦すまではの。それに、狐に託された子が未だ青い小僧での。これじゃあ死にたくとも死ねぬ」

「安心せい。我は、少なくとも一人ではない」

 雅の答えに、彼は弱く笑った。最早、その体を動かす気力もなく、指先一つも動かそうとせずに。

「そうか。そうか」

「では、先に逝こう。吾輩は、疲れたのだ……だが。また何処かで、皆で宴をしたいな」

「待っているぞ。吾輩は、待っている」

 龍はそう告げ、残された微力な力を溢れ返させる。もう、体内に留めておく体力もないのだろう。

「あぁ。そうじゃの。しばし待たせるかもしれんが、まぁ、気長に待っておれ」

 雅が彼の手に触れ、最期の言葉をかけた。

 臥流の体は光輝く神性に戻り、肉体を解く。溢れた力が宙に溶け入るその前に、雅がそれを受け取り、ここにまた、一つの龍神が消え去った。

「……すまぬの。同輩が迷惑をかけた。千郷、怖がらせた詫びに今度甘味を奢ってやろう」

「おごってくれるのは嬉しいけど……だけど、別に迷惑だとは思ってないから。確かに、少し怖かったけど……」

 その時、足元がぐらつく。

「おぉっ、そっか! これアイツの神域か!」

「壊れるのか、そりゃそうか。千郷、掴まってろ」

 どこの掴まれと言うのか、それを問う前にひょいと背に乗せられ、切れ目に向かって走り出す。

 神域が崩れきるその前に全員が無事そこから飛び出し、都会の地に降り立つ。

「ふぅいー、何とかなったぜぇ。千郷に何事も無くて良かったぜ」

「その通りだ……だが。雅殿は、大丈夫か?」

 心配の目を向けられたが、雅はころころと笑う。

「案ずるな、見送るのは慣れた事じゃ。今は千郷を救い出せた事を喜べよ、汝等」

「あと、伊織はもう少し気を付けた方が良いな。縄張りを張っても無視されたら意味がないからの」

 伊織は彼のごもっともな言葉に小さく舌打ちをしたが、否定出来る事ではないからか反論は見せない。

「千郷」

「ん?」

 呼ばれた千郷が振り向くと、伊織は狐耳を持つ大人の人の姿に化けた。

 彼の長い指が前髪を避けると、顔が近づき――

「……ここまですりゃ、手出ししようとする奴はいねぇだろ」

 そうして、何をされたかを理解し、千郷の顔が赤くなっていく。

「なっ、な……! ちょ、ま……」

 当たり前だろう。彼女はうら若き乙女。しかも、おでこになんて。千郷が赤くなると、釣られて伊織の顏もかぁっとなる。

「おい、そんな反応、するなって。俺まで恥ずかしくなるだろ……!」

「だ、だったらするんじゃないわよ! わ、私だって、はっ、恥ずかしいのよ! き、き、キスとか、パパとしかした事ないわよ!」

 照れ隠しなのか、千郷が豪快に突っ込む。こんな町中だが、今の千郷も周囲には認知されておらず、その光景に足を止める者はいない。ただ、彼の身内がニマニマと眺めていた。

「ちげぇよ! 額が一番目に入るから都合がいいんだよ! そんくらい分かれガキか!」

「なんの話よそれ!? 神様事情はよく分からないって言ってるでしょ、一から説明しなさい!」

「またどこの誰だか分からん奴に横取りされそうにならないように俺のモンだって印を付けたんだよ悪いか! お守りだけじゃあ効力薄かったから追加したんだよ!」

「そういう事するんだったら許可を取りなさいよ許可をぉ! と、特にキスとかっ、私、初めてなんだからね!?」

「ガキが! キスくらいはしたことあれよっ!」

 ギャアギャアと言い合われる照れ隠しの大声。

「ほほほ、若いのぉ」

「邪魔は出来ないな。帰るぞ長兄」

「うぇー、もっと見てたいのにぃ!」

 兄の首根っこを噛み、ずりずりと引きづって行く。そうして先に帰った彼等を見送り、雅は目を細める。

 その目に映った青々しい春は、とても暖かく見えて。雅もまた、姿を消したのだった。

 それから少しして、一通り言い争った二人は息を切らし、突如に冷静になる。

「とりあえずだ。これから先、神には気を付けろ。俺もそうしとくから」

「そ、そうね。今日は助けに来てくれて、ありがとね」

 せめてもの愛嬌として、不器用にも微笑みながら礼を言った。

「あぁ」

 伊織が姿を消すと同時に、自身の周りの空気が変わった気がした。

 自分の知る現実に戻ったのだと、千郷はその肌で感じとった。先ほどのコンビニの前、時計を確認すると、ここに立ってから既に二時間が経過していた。

(逆に、二時間しか経ってなかったのね……良かったけど、あれが二時間か)

 そう思いため息をついて、彼女はハッとする。

(そうだ、ママ……! 絶対心配かけてる!)

 急いでスマホを取り出し、ママと書かれた連絡先に電話をかける。居場所と事の顛末、を神様要素を除いて上手い事誤魔化した物を伝えると、駆け付けた母が我が子の姿を目に安堵のため息をつくと同時に、酷く怒った事は言うまでもないだろう。

「ほんっとうに。心配したんだから……千郷! 知らないおじさんに声をかけられても返事をしない事。いいね?」

「う、うん。気を付ける……」

 母には、おじさんに声をかけられよく分からない所に連れていかれたけど、たまたま駆け付けたお兄さんが助けてくれたと説明した。つまり母にとっては、娘が誘拐未遂にあったという認識になっているのだろう。実際はその相手がどちらも神様だっただけであって、あれは誘拐未遂と言えば誘拐未遂だ。

「だけど、ママも離れたりしてごめんなさい。貴女がまだ子どもだって、忘れていたの……怖かったよね。ごめんね」

 怖かったのは、母も一緒だろう。ただコンビニに入った数分間、戻った時には娘はおらず、電話をかけたら電波が繋がらないとアナウンスされる……それは、どれ程の恐怖だろうか。

 良かった。千郷は心の底からそう思えた。そうして彼女は、今更泣いた。過ぎた恐怖に震え、年相応に涙を流したのだった。

 そんな彼女を目に、家に戻った伊織は目を伏せる。

「やっぱり。神と繋がるのは、人の娘にとっては良くない事なのか……」

 呟いた彼に、紗織は一瞬だけきょとんと眼を開き、小さく微笑む。

「縁の神が縁を信じないでどうすんよ? 心配すんな。普通に生きてても、人の子の人生は怖い事だらけだ」

「我が思うに、神があれほど加護して尚手を出そうと思えるのは、天津神くらいであろう。だが、天津神が特定の人間一人に執心する事は基本ない」

「ははっ、キスまでしてたもんなぁ。『恋愛祈願の神』がキスして加護与えるなんて、ロマンチックぅ!」

 おちょくるように身を揺らして笑うと、伊織はそんな兄にジト目を向ける。

「おい、誰が恋愛祈願の神だコラ。その方面の縁結びを主にした記憶はねぇ」

「あぁ、そう言えばこの神社、恋愛祈願が主になってたな。絵馬にハート型があった。可愛かった」

 大河が思い出したかのように言う。しかし、なんと伊織がその事を知らなかった。

「んなっ、そういうのはやめろって言ったのに……! 幸恵! やったのはどっちだ!?」

 隣の部屋で洗濯物を畳んでいる幸恵に問い詰めると、彼女は背を向けたまま答える。

「旦那ですー」

「明宏かぁ……帰ってきたら一回文句言ってやる」

 と、実の所考案者は幸恵なのだが。実際、それを実行したのは明宏の方だ。嘘は言っていない。その時丁度、境内の掃除をしていた明宏は、くしゃみを一つして「花粉かなぁ……」と呟いていたのだった。



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