【第7話】「神の子」の羨望

 遊園地に遊びに行ったその後の夜。上結家の一室では畳の上に三つの布団が敷かれ、兄弟が眠っていた。日は周り夜中の一時、夜中までゲームを遊んでいた長兄と、その相手をしていた末弟はついさっき眠りにつき、身を起こしているのは大河だけとなっていた。

 この親子ごっこはいつまでやるつもりなのか。それは分からない。少なくとも、長兄はまだやりたいと言っている。

 しかし、この身はどうも窮屈だ。

 外に出ると、姿を人間の大人に近しい物に変える。中途半端な変化は本相の耳も尻尾も出てしまっているが、どうせ姿を捉えられる者はそういない。いたとしてもまだ神に近しいとされる幼子が大半、こんな夜中には出歩いていないだろう。

 本相でいるのが一番楽なのは変わりない。だが、その姿でいる事はあまり気乗りしない。


――妾の跡継ぎには相応しくない。


 それは、生まれて直ぐ、初めて聞いた母の声だった。


――「勝利の神」の座に弱者はいらぬ。狐、これは貴様の好きにするが良い。まぁ、狐の姿でない以上、貴様の跡継ぎにも不適応だろうがな。


 母の声は強く、その勝利の女神の肩書に相応しい。そんな彼女はきっぱりと産んだばかりの息子を切り捨てる事を告げ、父の反論すら聞こうとせず颯爽と姿を消した。

 そんな女神が、大河の知る「母」の姿である。


「大河様。お体に障りますよ」

 背後からそう声をかけて来たのは、設定上の母、幸恵だ。

 きっと、今の彼が神の子としての姿でいるからだろう。その態度は敬う相手に対するモノだった。

 そう来るのであれば自身もそれに応じて対応しようと、大河は神の子として言葉を返す。

「案ずるな。我の体は、人の子より丈夫に出来ている」

「そうは言いましても、人の身からすれば心配になってしまいます。中に入ってくださいませ。明日も学校があるのでしょう?」

「……分かった。貴女が言うのなら、そうしよう」

 大河は子どもの姿に化け、家の中に戻ろうとする。踵を返した先、自身の背後に立っていた幸恵が、そっと彼を抱きしめた。

「私は、生まれも育ちも平凡なただの人間です。それでも、設定上は貴方の母です。だから、何かあったら、甘えてきてくれていいのですよ」

「……簡単に言うな」

 彼女の体を軽く押し、家の中に戻る。

 大河は知らない。家族のあるべき姿など分かる訳がない。だが、この世界の誰がそれを知っていようか。まず、この存在と人間とでは感性が違う。その上で、自身の母はどうだった? そもそも、彼女は「母」になるつもりは無かったのかもしれない。彼女が欲していたのは可愛い我が子ではなく勝利の神に相応しい立派な跡取りだ。

 部屋に入ると、既に眠っていたはずの紗織が半身を起こしており、膝に頬杖をついていた。退屈そうに時計を眺めていたが、大河が戻ってきたことに気が付くと表情を明るくする。

「ははっ、急にいなくなるからどうしたもんかと思ったぜ。眠れないならお兄ちゃんの布団にでも入るか? お兄ちゃんはあったけぇぞぉ?」

「戯け、誰が貴様なんかと寝るか」

 来いと言わんばかりに布団を開けた紗織は無視をして、自身の場所に座る。

「紗織。一つ、訊きたい」

「ん? なんだ、なんでも言っててみろー。お兄ちゃん優しいから、なんでも答えちゃうぜ」

 ニコニコと笑う長兄の表情は、本人が自負しているように優しい兄と思えるモノで、尚の事見ていられなかった。

 大河はそんな兄を見ずに、問いかける。

「貴様の母は、どんな奴だった」

「そうだなぁ。それでこそ、幸恵と同じような感じだったかなぁ。知っての通り、俺の母様は人間だったからさ、だからってのもあるんだろうな。優しかったぜ?」

 紗織は思い詰めているように見える長弟を見た。

 昔から、この長弟の感情は分かりにくいように見せかけてかなり分かりやすい。

「なぁ、大河。あんま俺が言ってもムカつくだけかもしれねぇけどよ。母がどうだったかなんてもうどうにもなんねぇんだ、そろそろ吹っ切れろ。お前は生まれ持った力が弱いって理由で母親に切り離された、それ以上何がある? お前は強くなった、それでお前の母様は認めてくれたんか? 認められなかったんだろ。それならもう終わりだ。お前の母様は実力主義者でお前の事なんて見向きもしない。そういう奴なんだよ」

 紗織は彼の母を知っていた。あの日見た冷酷無情とも言える女神、我が子に対し「いらない」とはっきりと言い切った彼女は、紗織の見知ったかつての母や幸恵やとは正反対と言ってもいい。それは、どう足掻けど彼の望む「母」には成り得ないだろう。

 だが、その原因を作っているのは、紗織の存在である。

「貴様、誰のせいだと思っているのだ……っ」

「あぁ、俺のせいだな。知ってるぜ」

 掴みかかって来ないのは、今ここで伊織が寝ているからだろうか。紗織は末弟を起こしていないかを一目確認してから、奥歯を噛んでいる長弟の頬に触れる。

「お前が頑張ってんのは良く知ってる。お兄ちゃん、弟の事はよーく見てるんだぜ? んだけど、そこはもう努力じゃどうにもなんねぇ部類だ。そもそも、最初から良い縁じゃなかったんだ。お前だって知ってるだろ? どう転じても良縁になり得ない、根っから黒い縁なんてもんも少ないが存在する。お前とお前の実母の間にあるのはそれなんだよ」

 かつて目にした、真っ黒な縁。後から淀んだモノではない、傍から黒かった縁だ。しかし、悪縁であったそれは本物の血の縁、切ってやれる物ではない。

「貴様のせいだ。我は、それなりに割り切っていた。貴様が親子ごっこなど提案するから……っ、全部、貴様のせいだ」

 俯いた彼は、自身の長兄に縋りながらその胸を叩いた。力は籠められておらず、いつものような覇気はないし、彼の表情こそこの状態じゃ伺えない。だが、紗織には伝わった。彼の胸の内を満たしている物が何か、大方分かっていた。

「そうだな、俺のせいだ。ごめんな、大河」

 さて、どうしたモノか。紗織はただ過ぎゆく時計の針を眺めながら思考していた。


 次の日。今日は国語の時間に授業参観が入っている。そう、家族の作文だ。そして、伊織達だが、

「上結くんですが、今日は揃って体調が優れず欠席するそうです」

 とまぁ、上結くんが揃ってお休みと来た。

 体調がどうの言われたが、十中八九理由はお察しの通りだろう。

(結局書けなかったのね……)

 まぁ無理もない。多少良くなったと言え、今の状態で「僕は家族が大好きです」なんて内容の作文は書けないだろう。

 伊織の書く作文、少し聞きたかった所だが。仕方がない。

 マサはなんとかしたようだし、こちらを楽しみにしていよう。

「マサくんは、結局どうしたの?」

「うん、ペットの事を書いたよ。蛇がいたでしょ? あの子。あれはペットって言っても間違いじゃないからね」

(ペット扱いでいいんだ……)

 ほんの少しだけ、今ここにいない蛇を同情した。だが、逃げ道はそれくらいだったのだろう。マサ、と言うより雅には家族と呼べる間柄の人はいないようだし。

 そうして肝心の国語の授業の時間になると、何人かの親が顔を出してくる。千郷の母親も直ぐにやって来て、「楽しみにしてるよ」とだけ言って後ろに立った。

 そうして授業始まると、いつもと違ってスーツでしっかりと決めた担任が親御さんに挨拶をして、作文の発表を始めさせる。例の通り出席番号順で、千郷の番は割と序盤だ。

 千郷の作文は無難も無難。多くの者が書いてあるであろうテンプレートに沿ったものだ、大した面白味はない。とはいえ、ほとんどのクラスメイトがそうなっているだろう。たまに変化球でマサのようにペットの事を書くモノもいるが、それくらいだ。

(大体、これも一種の家族サービスよねぇ)

 千郷はそんな事を考えながら、頬杖をついて読み上げられた作文を聞き流す。

 要はこれ、普段言えない感謝の気持ちを伝えさせたいのだ。面と面を切って思っている事は言いづらい、だから文章と授業を返して間接的に伝えさせる為の物だと千郷は解釈している。だがまぁ、これを使って本当に思っている事を伝えられるかどうかは人によるだろうが。

 時間もかからず千郷の出番が回り、教室の前に立つ。後ろで母が小さく手を振ったのを目に、彼女は自身の作文を読み上げた。ごく普通の小学生の作文、特段上手な訳でもなければ特殊な訳でもない、平均的な文章だっただろう。しかし、十分だ。

 千郷にとって、家族と定義される存在は両親しかいない。兄弟もペットもいないのだ、必然とそうなる。そんな両親だが、千郷はそれなりに彼等を好いている。そりゃ多少嫌になる事だってある、父を鬱陶しく感じる事もあるし、母にウザいと思う事だってある。しかしそれらは一時の感情、良くしてくれている彼等を心から嫌う事はないだろう。

 千郷にとっては、それこそ家族だ。

 だからこそ、彼女の作文は「いつもありがとう、そんな二人が大好きで、大事だと思っています」と締めくくられた。娘のそんな発表を聞いた母は満足気で、ほこほことした表情で我が子に拍手を送っていた。

 疎らな拍手の中、マサもクラスメイト達に紛れて手を叩く。

(覚えとらんのぉ……ま、十中八九我にはいないじゃろうが。仮に我に親たる者がいたとしても、存在しておったのはいつ頃の話じゃろうか)

(少しだけ、羨ましいものじゃ)

 そうは思うが、今更それを渇望する事はない。些か年を取り過ぎたのだ。

(じゃが、神に家族を語れなどとな。知らぬとはいえ、酷な事を言うものじゃの)

 続けられる人の子の発表に耳を傾け、雅はゆるやかに目を閉じた。

 ……そうして発表は続き、授業参観も無事完了された。マサも難題の作文を違和感なく誤魔化してクリア出来たからか、終わった後にどこか達成感に満ちた表情をしていたような気がしたのだが、これは千郷の気のせいの可能性もある。

 帰宅の時間になり、今日は伊織のいない帰り道。マサと二人で通学路を歩くのは思い浮かべてみればそう多くはなく、今更にちょっとした緊張を覚える。昨日は一緒に遊園地にまで行ったと言うのに。

 頭の片隅で伊織や彼 の兄弟の事を気にしつつも、話題を出してくれるマサに乗じて会話を進めているうちに、直ぐに別れ道までたどり着く。

「それじゃあ、またねマサくん」

「うん。……あぁそうだ、千郷」

「ん? 何?」

 呼び止められ、千郷は足を止める。何か話忘れたことだろうかと思い尋ねると、彼は小さく苦みも含んだ笑みを浮かべながら告げた。

「大河はちょっと扱いづらい子だけど、悪い子じゃないから。君なら大丈夫だと思うよ」

「……? なんかよく分からないけど、分かったって言っておくね」

 千郷は首を傾げながらも、またなんかあるんだろうなと思うだけで留めておいた。なんとなく気付いてはいたのだ、あの時雅が心配を向けていた先は、主に大河相手であった。

(大河か。正直、いまいちまだ分かってないのよね)

 恐らく、彼はどちらかと言えば伊織と似たタイプだ。それは分かるのだが、それだけだ。

 そんな事を考えて歩いている、その時だった、

「であるから、不要だと言っている!」

「いーやっ必要だね! 話すだけでもすっきりするもんだぜ?」

 聞いた事のある兄弟の言い争いが耳を劈いた。

 先ほどまで誰もいなかった道だが、近寄った事で可視化されたのだろう。千郷の家のすぐ近くで、紗織と大河がいたのだ。

「娘に弱みを見せるつもりはない! 言っておくが貴様にもだ!」

「夜におもっくそ見たぜ! そもそも、ガンん頃も散々見たんだ、何を今更、……って、お! 丁度いい所に嬢ちゃん!」

 気付かれた。千郷は少しびっくりしながらも、小さく手を振り返す。どうしたかと言葉を返す前に、紗織がずいっと迫って手を取ってくる。

「なぁなぁ嬢ちゃん、頼みがあるんだ! 大河の話聞いてやってくんねえか? 俺じゃ意味がないんだ」

「娘、受ける必要はないぞ。貴女が気にする事ではない」

「だけど、嬢ちゃんは健気にも伊織を想って俺達の縁を浄化してくれたんだぜ! 折角仲直り出来たってのに、いつまでもお前にいがまれたくないのっ! お兄ちゃん、お前とも仲良くしたいんだぞ。このままじゃお兄ちゃん寂しいっ! な、嬢ちゃん頼むよぉ。このままじゃまた大河が過去の女に縛られて俺の事嫌いになるー!」

「妙な言い方をするでない! 長兄っ、大体我は貴様を好きだった事は一度も、」

 これまた長くなくなりそうだ。こうなればもう誰かが止めなければ不毛な討論が一生続くだろう。

「はいはいストップストップっ! 不毛よそれ」

 千郷は二人の間に割って入り、一旦距離を取らせる。

「分かった。何のことか分からないから、お望みの対応が出来るとは限らないけど。とりあえず聞くわ。だから大河、話してみて?」

「……分かった。貴女がそう言うのなら」

 快く、という訳ではないが、素直に受け入れてくれた。そうした時どこからか柔い風が吹き、風に流されるように立っている場所が変わった。

 なんだか、古民家を思わせるような一室だった。部屋自体はそこまで広くはなく、黒茶の板の床に真ん中に大きく囲炉裏がある。床に見える目立った物はそれくらいで、他に座布団があるくらいだ。

 ここが何処かは知らないが、恐らく彼の神域なのだろう。雅の時で慣れているから今更驚きはしないが、あの時見たのと比べるとどこか不気味に感じる。

(あんま陽の光が入ってないのね……薄暗い訳よ)

 あそこの別の部屋に繋がっていそうな襖を開けたら少し違うのだろうが、許可も取らずに人様の家の襖を開ける訳にもいかないだろう。

「ここも神域ってやつ?」

「あぁ、そうだ。我の神域だ」

 大河はそう答えると、座布団に腰を下ろす。千郷も囲炉裏を挟んだ向かい側に座り、彼を見た。

 千郷は彼が話すのを待っていた。しかし彼は視線を外し、何かを言いそうで言わず、結局なんの会話も出来ない時間が続く。

 この感じ、少しだけ覚えがある。友達の友達と二人になった時のあの気まずい感じ、正にあれだ。共通で話せる相手が間にいれば会話が出来るのだが、そんな彼がいなくなった途端に話せなくなるあれだ。

 じっとしていられなくて、千郷は立ち上がる。

 千郷自身よく分かっていないが、「感じやすい」と言われた事が何度かある。この場でその性質が活かされるかは賭けになってしまうが、彼が自分から言うつもりでないのなら、やってみる価値はあるだろう。

 彼女は大河の隣に座り、その手を取った。

 思った通りだった。触れ合った手から伝わるモノが、千郷に教えてくれる。そうして見えた光景は、今自身がいるここと同じ部屋。囲炉裏には火がつけられ、寒い冬を暖かくしていた。そこで、小さな子狼が一匹丸くなって寝ている。そんな所に、吹く風と共に九尾の狐が降り立ち、丸まった子の体を鼻先で軽く突いて起こした。

「帰るぞ」

 目を開けた子狼に、九尾の狐はその一言だけを告げる。よく見れば、子狼の顔には泣いた跡が窺えた。

「母上が……我には、価値はないって、言ってました」

 子狼の言う事に、狐は顔を顰めた。

「そりゃ何においての価値だ。神の子としての価値か?」

「はい……神になれぬ神の子には意味がないと。だから我には、価値はないんです」

「そりゃまぁ随分と偏った話だな。つまりじゃあ、お前はこの俺の息子として価値がねぇから、一緒に帰るのが嫌だと?」

 子狼は何も答えなかった。と言うより、答えたくなかったのだろう。なぜなら、子狼の中でそれは「嫌」ではなかった。嫌なのではなく、駄目だと思っていたのだ。

 そんな我が子に、九尾は言う。

「俺は人間に子孫繫栄を任された、これから多くの子を生まなきゃなんねぇ。あと二十は欲しい所だな。だが、いずれ来たる時この地位を譲れるのは一匹だけだ。二十もの数の中、神なれるのは一つだけ……じゃあ俺は、残りの者達を『価値がいない』と捨てるべきか? んな訳ないだろ。そもそもあの狼の言い方は極端なんだ。一々気に留めるな」

「それに、神の子は、『神になる為の子』じゃねぇ、『神が生んだ子』だ。そもそもお前はそれ以前に俺の子だ。お前が俺に付いてくる理由は、そんだけで十分だろ」

 狐は尻尾の一本でひょいと子狼を持ち上げ、背に乗せる。大きな狐の背は高く、子狼は下を見て尻尾を丸め、大人しく真ん中に座った。

 千郷が見たのは、そんな父子の光景だ。

 大河も何を見られたか分かったのだろう。眼を微かに見開き、手を引く。そんな彼の反応は、最初に出会った時の紗織とほとんど同じように見えた。

「……そういう事が出来るのか、貴女は」

「うん。よく分かってないんだけど、そうみたい」

「つまり、紗織の言ってた過去の女って、もしかして大河のママの事?」

「あ、あぁ。まぁ、そうなるな」

 ここ最近、彼を含む兄弟三人は人間から見た親と言う概念がどのようなものかを自らの身で経験した。彼の実母がそんなにも冷酷な女神であるなら、その差を知った時どんな気持ちになるだろうか。そんなの人によるが、少なくとも千郷だったら悲しく思うだろう。触れた彼の手から感じたのも、確かにそうだった。

 長兄の思う通りに動くのは不服だが、こうなればもう話すしかない。あの長兄の思う通りにするのは、些か不服だが。

 人の娘に弱みを見せたくはない。がしかし、もう見られてしまった。それならば同じ事だと、大河は覚悟を決め、ゆっくりと話し出す。

「勝利の女神と言う名称は、貴女も聞いた事があるはずだ。勝つ事を重んじ、強者であり続ける……それが勝利の神。我の、母上だ」

「勝利の神は強くなければならない。当然の事だ。だが、我は産まれた時、母の望むような強者ではなかったのだ。故に、母は我を捨て置き、何処かへ行ってしまった」

「それでも我は、強くなれば母に認めて貰えると思った。だが、駄目だったのだ。我は、生まれた時点で長兄より劣っていた。そんな我が、母上に認められる筋などなかったのだ」

 千郷には、今一理解しがたい事だった。

 産まれた時に持ち合わせたモノで子どもの勝敗を決めてしまうのか? そんなのそれからの成長次第でどうとでもなるだろうに。しかし、神と人の感性は違うモノ。千郷が理解出来なくとも、女神にとってはそうだったのだ。神の考える事など、人が理解出来る訳がない。

「それで、紗織が嫌いになったの?」

 彼女はそれを訊いた訳は、そんな気がしたからだった。

 今思い返してみれば、前に紗織から感じ取った記憶で、最も長兄に敵意を向けているように見えた狼の男は大河だっただろう。そこで見た大河はそれでこそ威嚇をしている狼そのもので、当事者じゃないと言うのに怖いと思ったくらいだ。

 しかし、今千郷の目に映る彼はしゅんと目を伏せて、怖いとは感じない。

「気に食わないのだ。目に見えていた、誰が神に相応しいかなど皆分かっていた。だが彼奴は、そのように振る舞った事など一度もない」

「いっその事、横柄な奴であれば良かったのだ。であれば、我も潔く嫌えた」

 膝の上で握られた拳。そこに込められていた感情は、一体いくつあっただろうか。当事者ではない千郷には計り知れないが、隣で感じ取れたそれらはとても悲痛に思えた。

 手を伸ばし、大河の少し癖のついた白い髪を撫でる。そうすると、彼は驚いた顔で千郷を見た。

「何を言ってあげたらいいかわからないの。だから、これで許して」

 千郷は小さく微苦笑を浮かべた。

「私はね、あんた達兄弟には仲良くしてほしいって思ってる。わだかまりとか色々あるんだろうから、簡単にそうしてとは言えないけど……だけど、あんたも少しでもそう思っているのなら、紗織の想いも受け入れてあげてほしいな」

 あまり無責任な事は言えない。なぜなら千郷は第三者であり、彼の何でもないから。大の男に対して撫でると言う行動も正解とは言い難いかもしれないが、これくらいしか思い付かなかったのだ。

 そっと手を離す。そうした途端、大河は突如姿を本相である白毛の狼に変えた。

「こちらの方が、撫でやすいだろう?」

 千郷に身を寄せるその様子は、正しく大きいワンちゃんだ。要するにもっと撫でてほしいのだろうと、そう解釈した千郷は伏せた彼の毛に手を添える。

(伊織と同じさわり心地……すごい、良い……)

 何だかわしゃわしゃしたくなる。以前伊織の本相の時もだったが、動物の毛皮に触れているだけでとても癒される。しかし、癒されていたのは彼女だけではなかったのだろう。大河は耳を倒し、尻尾を緩やかに揺らしている。

「ふふっ、かわいい……」

 思わず本音が漏れ出てしまった。だが、そのせいで彼はシュっと身を起こして、姿を人の物に戻してしまった。

「今のは忘れてくれ。長兄の要望には答えた、我はもう帰らせてもらう」

「わかったわ……って、あれ。ここが大河の家っていうか、神域じゃないの?」

「……あれだ。今は、幸恵と明宏の家に世話になってるからな。そちらにという事だ」

 微妙な間が、彼の言ったそれらしい説明がとってつけたモノだと証明していた。彼に連れて行ってもらい神域から出ると、そこは上結家の正面で、いつの間にか隣にいる彼は小学生の姿となっていた。

「他人に、ましてや人の娘に話してどうにかなる物ではないと思ったが……感謝しよう。伊織が狙ってなければ、我の我妹子にしたかった所だ」

 目を細めた彼は、心なしかスッキリしているように思えた。

 これは彼の気持ちの問題、これ以上は何も出来ないだろう。だが、それでも少し役立てたのなら何よりだ。何より、なのだが……今の彼の言葉には一つだけちっとも分からない単語があり、千郷はきょとんと首を傾げた。

「わぎもこ……?」

 漢字すら思い当たらない発音で、千郷はスマホを出して検索をかける。そうして出てきた文字列に、千郷の顔がかぁっと赤くなる。そうして彼女は、「もうっ」と声を漏らしながらまたスマホをポケットに突っ込んだのだった。

 その日の夜、寝ようとする千郷の下に紗織がぱっと現れた。

「今日はありがとなぁ~、嬢ちゃん。お陰で大河とももう少し仲良くなれそうだぜ!」

「まぁ、本当に話を聞いてあげただけだから、ほとんど何もしてないけどね」

 謙遜ではなく、本当にそうなのだ。しかし、そのただ話を聞いてあげたと言う事自体が大きいのだろう。

「ははっ、それでいいんだ。アイツな、性根は結構甘えん坊なんだぜ? んだけど、相手が居なかったんだ。俺としてはお兄ちゃんに甘えてきてほしいモンだが……んまぁ、難しいだろうからよ。嬢ちゃんが丁度良かったんだ」

 千郷の隣に座り、紗織は笑いながら足を放る。

「ほんと、感謝してるんだぜ? 俺の念願は、嬢ちゃんのお陰で叶ったんだ」

 頭にぽんと手を置いてきた彼の表情を見てみれば、それは正に「兄の表情」で。千郷は大河の言っていた、いっそ横柄であれば良かったと言う言葉を思い返す。

「優しさも、場合によっては酷なのね……」

「はは、そうだなぁ。ま、ぶっちゃけよ。子どもを捨て置いた母親の言葉で苦しむくらいなら、俺の優しさで苦しんでくれた方が良いだろ?」

 兄の表情のまま発せられたその言葉。千郷は一度顔を逸らしていたが、思わず彼を二度見してしまった。

「ははっ。だって、嫌だろ? 俺だけがずーっと唯一の『お兄ちゃん』なのに、優しい俺より冷たい母親の方と家族でいたい、なんてよ」

「それにさ、弟集めて俺ばっかり叩きやがってよ。全く怒ってない訳じゃねぇんだぜ?」

「あ、あぁ。そう、なのね。うん……あんま、ふれないでおくね?」

 ここは触らぬ神に祟りなしだ。触っているようなものだが、兄弟間のそれに頼まれてもいないのに首を突っ込む物ではないだろう。

 紗織はその後直ぐに帰っていった。今日もまた上結家で寝るのだろうと彼を見送り、千郷も布団に横になった。

 彼等兄弟が打ち解け、千郷の思う兄弟の形になるのにはもう少し時間がいるだろう。もしかしたら、それは千郷の生きている間ではないかもしれないが。

(縁がどうこうってのは、よく分からないけど。きっともう大丈夫なはず)

(兄弟かぁ……少し、羨ましいな。あんな風に複雑な関係なのはいやだけど。お兄ちゃんとか、いたらどんな感じだったんだろ)

 天井を眺め、千郷は考えていた。そうやって考えている内に意識は薄れ、やがてぐっすりと眠りについたのだった。



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