【第5話】神様の「家族」
千郷にとって、家族とは己の命の次に大事なモノだ。大多数にとってはそうだろうと思ってはいるが、世の中には家族と仲良くない奴だっている。例えば、いつも千郷をからかってくるヤンチャ者の一人は、父親とあまり仲が良くないらしく、時折ヤンチャ者達で話している際に愚痴を漏らしている。まぁこの程度なら可愛い方なのだろう、思春期に入りたての子ども心は親に対して複雑なのだ。
家族と言えば、少し前からクラスではこんな噂が流れていたりする。
「伊織くんとマサくんって、実は兄弟だったりするんじゃない?」
「だけど、どっちかって言うと、親子に見えない? 空気感がさ」
「なんか分かるわ。なんとなくだけど」
相変わらずの伊織とマサを目に、噂好きの女子達はそんな事を囁いていた。
二人を見ていると、どことなく反抗期の息子と父親に思えてくる。そのせいでクラスの中で実は彼等は――的な噂が溢れているのだ。その一例をあげるのなら、実は二人は生き別れの兄弟なんじゃないかとか、人間じゃない何かが小学生に化けているのではないか、とか。
注目の的だから猶更そうなる、こういう時イケメンは大変だ。加えて、噂の一部は事実である。
「そりゃ、みんながいる前で『クソ蛇』とか『青狐』だとか『若作りジジイ』とか『小僧』言い合ったら、そんなウワサも立つわよ」
雅の住処、畳の部屋に座って頭を抱える二人に、千郷は言う。
つい最近まで青二才の意味を知らなかった千郷だったが、今のご時世ネットで調べればなんでも出てくる。伊織はマサの事を老人を罵る若者のように呼ぶし、マサもまた伊織を若者を上から目線で呼ぶ爺さんのような呼び方をする。少し言葉をぶつけ合う事になればしょっちゅうにだ。この前の体育なんて、「ご老体が無理すんじゃねぇよ。どうせ運動なんてできねぇんだから、諦めとけよ」「言うようになったねぇ、小僧。年寄をなめてかかると痛い目にあうよ?」、と。ドッチボール大会のお互いラストの一人という、皆の注目が集まる状況下で堂々と挑発しあっていた。普通、小学生は挑発でそんな事を言わない。雅はそんな事分かっていように。
千郷はずっと思っていた。本当に小学生に混ざる気はあるのかと。まぁないだろう、特に伊織は。ガキの真似事なんてするかと言っていたくらいだ。
「伊織のせいじゃぞ。汝が成りきらぬから、我まで釣られてしまっておるのじゃ」
「意志薄弱か、クソ蛇が。仕方ねぇだろ、若作りしたお前を『マサくん』だなんて呼べるかよ気色悪い」
マサでいいのに。なんて、言わなかったのは千郷の良心だ。
「まぁまぁ。ウワサはウワサだから。誰も正体に気付いている訳じゃないわよ」
「当たり前だ」
しかし、本来根も葉もない噂が実は図星を付いているのだ。伊織が小学六年生をなめていた節もしっかりある。どうせバレりゃしないと、言動までっぽくはしていないのだ。
「だけど、あまり神様ムーブはおこさないほうがいいんじゃない? 小学生はあんた達みたいな事は言わないのよ、普通」
千郷の言葉に、二人は頷いた。
彼等だって正体をバレたくはないのだ。伊織なんて初っ端の自己紹介であれだったが、あれでもだ。
最近の小学生はマセていると父親が酒を飲みながら嘆いていたのを千郷は聞いた事があるが、二人のあれは「マセている」の言葉の管轄内ではない。
彼等は改めて、少し気を付けようと心に決めた。そんな二人の間で、千郷は呆れ半分で微苦笑を浮かべて息を突いた。
と、そんな事があったのが昨日の事。しかし、運は必ずしも神様の味方をする訳ではないようだ。
「これから、皆さんには作文を書いてきていただきたいと思います」
国語の時間、担任が黒板の前で笑みを浮かべながら告げた。そうしてチョークを手にとり、書き出したのは「家族」の二文字だ。
作文としてはよくあるお題だろう。千郷は頬杖を突きながらそれを聞き、特段何か思ったわけではない。しかし、彼女の両横で、イケメン共が微かに動揺したのを感じ取った。
「テーマは『家族』です。皆さんが自分の家族だと思う人達についての作文を、原稿用紙三枚以上、五枚以下で書いてきてください」
「来月初めに行われる授業参観での発表です。皆さん、がんばってくださいね」
書いた作文を授業参観で発表するまぁ、よくある事だろう。親等々が見に来ている中で作文を通じて普段の感謝を伝えさせたいのかなんなのかは知らないが。
(そんな難しいお題ではないわね。だけど……)
千郷は伊織を横目で見やった後に、反対側のマサを見る。浮かべていた表情は違うが、その内心は同じだろう。
(やっぱ、「神様」には難しそうね)
千郷は正真正銘の人間であるため実際は知らないが。この反応を見れば確定だろう。
「君は、ひいおじいちゃんに親の事を教えてって訊いて、まともな返答が返ってくると思うかい? そういう事だよ」
休み時間、マサは机の上で手を組みながらそう言った。
要するに覚えていないという事だろう。そもそも彼の場合、明確な親の存在があるかも危うい。
「何も親だけじゃなくてもいいんじゃない? ほら、家にいたじゃん。あの子。広い意味でとらえればいいんじゃない」
「広義的に、かぁ。うーん……」
悩んでいる彼を遠巻きから眺めている女子達は、なぜ彼が悩んでいるかを察していないようで相変わらずの反応をしていた。
しかし、彼女等の目は同時に伊織にも向いていた。片手で頭を抱え息を吐く様子ですら絵になっているのだ、女子達の目が集まるのも仕方がない。しかし、両横でイケメンに憂いられると千郷としてはやりづらい。
「伊織、あんたも大丈夫なの? 作文」
「大丈夫な訳ねぇだろ」
即答で返され、千郷は「やっぱり?」と苦笑う。
小学生に徹しようと決めた矢先にこれだ。タイミングはいいのやら悪いのやら、神なのに運が悪い。しかし、これに関しては千郷が関与してどうにかなる問題ではないだろう。一先ず、「がんばれ」とだけ言ってやった。
さて、家族というお題は神様には難しいかもしれないが、千郷には簡単だ。何も賞を狙うわけではないのだから、ただ両親について書けばいい。兄弟もペットもいないから必然的に描く事は両親に絞られる。
締め切りまで三週間程。余裕だろう。
授業の時に渡された作文用紙の最初の行に「私の家族」と言う無難なタイトルを書き、続けて次の行に名前を記す。それから別の紙に書くモノの構想とかを踏まえたメモを残して本文を考えた。今日授業内で終わらせてしまえば家で宿題を増やさずに済むのだから、終わらせたかったのだ。
一時間の間、ヤンチャ共の授業中にも関わらないはしゃぎ声とそれを注意する担任を聞き流しながら黙々と書き進める。お陰で千郷の作文は大方完成した。両親がどんな人か、こういう所が良く思っている、こんな時が楽しかったとかそういう事をある地土整えて書き連ねた作品だ。だが、問題は両横だ。伊織に関しては、一文字も書かれていない。
「伊織、タイトルと名前くらいは書いといたら?」
「……嘘でも、アレを家族とは呼びたくねぇ」
小声過ぎて、すぐ隣にいる千郷にもなんとか聞き取れたレベルの返答だった。
小学生の伊織くんの設定としては、あの神社に行ったら境内を掃除している事がある神主さんが父親だ。母親と言う設定のその奥さんは、若い頃は巫女をやっていたみたいだが、今は歳の問題で今は裏方に回っているらしい。
(優しい人達なのに、親設定は嫌なのかしら?)
千郷は首を傾げると、伊織は首を振る。
(アイツ等は俺の巫だ。便宜上親とさせてもらったが、家族と呼ぶつもりはねぇ)
言葉にされず、頭に直接話しかけてきた。マサの所にいた蛇と同じやり方だ、人じゃないからこういう事も出来るのだろうと呑み込んだ。
(だから作文で書きたくないの?)
(書けないんだよ)
そんな言い回しに疑問を募らせたが、伊織はそれ以上何も答えてくれず、チャイムが会話を遮った。
(なんかよく分からないけど、大変そうね)
千郷の着地点はそこだった。
休み時間になると同時に、マサが伊織の隣に立つ。そして、誰にも聞かれないよう、こっそりと彼に「我の事を書けばよいじゃろう?」と耳打ちをした。
「嫌だ」
「そんな即答しなくともいいじゃないか、冷たい子だなぁ」
マサは苦笑いを浮かべ、顔を逸らした伊織を見た。その瞳孔が一瞬だけ蛇の物になっていたが、その場にそんな些細なことに気付いた者はいなかった。
さて、それからというもの伊織の調子が悪くなったように見えたのは千郷の気のせいだろうか。気のせいではないだろう。言動のキレがなく、若干だが上の空だ。
クラス内の人が減った昼休み。伊織は頬杖をついて何もない一点を見つめている。マサが隣に立っているというのに、何一つ反応を見せないのだ。
マサも千郷も何度も話しかけた。それでも返ってくるのはどう考えても話を聞いていない適当な返事だった。考え込んでいるのか何なのか、家族のお題が余程だったのだろう。
「だから僕の事を書けばいいって言ってるのに。僕が何年養父紛いの事をしたと思っているのさ?」
マサが心なしか不服そうに言うが、ろくな反応はない。
千郷とマサは顔を見合わせた。マサはこの状態の訳が分かっているようだが、彼が何か言ってどうにかなるモノでもないようだ。そして千郷にとっても、今この状況で何か仕様があるとは思えなかった。
伊織が家族について書けないのは彼の家族事情の問題だ。いくら子どもでも六年生にもなれば分かる、他人の家族間に一友人は下手に口を出してはいけないのだ。よく分からないのなら、猶更に。
その日、千郷がいつも通りに家に帰ると、丁度母親が夕飯の準備を始めようとしていた頃だった。そして意外なことに、父親がもう家にいたのだ。
この平日にコーヒーを飲みながら夕方のテレビを見ているものだから、千郷は一瞬目を疑った。
「あれ、パパ。今日は早いね」
「うん。今日はかなり早上がり出来たんだよね」
一般会社員の彼だ、いつもは定時通りの五時に退勤し家には六時過ぎ頃に付く。時間はまだ四時半、随分と早く上がれたようだ。そのお陰か、いつもより生き生きとしているように見える。
「そうだ千郷。次の休日遊びに行きたい所とかあるか? つい昨日洗車したんだ、ピカピカだぞ!」
「パパったら、同僚の娘が反抗期に入ったって聞いたみたいでねぇ。今のうちに娘と遊んでおきたいのよ。千郷、付き合ってあげて」
「ちょ、わざわざ言わないでよ……」
何を心配しているのか、母親の暴露に慌てていた。しかし、彼としては本当に「今のうちに」なのだろう。
これも一種の親孝行だろう。小さい頃のように「パパだいすきー」とはならないが、反抗期とやらで嫌いにはなっていない。
「分かった。じゃあパパ、無難に遊園地とかどう?」
「いいね! ははっ、千郷はまだパパを好きでいてくれるのか。安心したぁ」
「好きとは一言も言ってないけど?」
「なっ……!」
安堵の息を突く父親に意地悪をするように言ってやれば、彼は目に見えてショックを受ける。そんな夫を見て、母はエプロンを結びなおしながら笑った。
「もう、パパ。自分で墓穴掘らないの。千郷ももう小さい子じゃないんだから、パパだいすきとは言ってくれないよー」
「うぅ……そうだよなぁ。好きな子もいるんだもんなぁ。そのうち彼氏とか出来て、男連れて結婚の挨拶とか来るのかぁ……」
今にも涙を流しそうな勢いだが、いくらなんでも気が早くはないかと。しかし彼は昔からこうで、ドラマのちょっとした感動シーンでも泣くし、千郷のアルバムを見て感慨に浸って泣く。まぁ、全体的になよっとしたタイプの男なのだ。
「気が早いわね、いつの話よそれ」
「あら、案外もうすぐかもしれないよ? そうだなぁ、ママは法的にアウトな男性以外なら全然オッケーだけど。あ、刺青を入れるような男はやめておきなさいね?」
「そうだな、パパもそんな男が義息になるのは嫌だなぁ」
千郷にとっては遠い未来の話に思えたが、親からすればあっという間に来てしまう未来なのだろう。
(結婚かぁ……)
思い浮かべたとき、同時に最初に伊織に言われた事が頭に浮かぶ。
繋がったって事は、お前はいい女になる素質があるって事だ。仕方ないからお前で妥協してやるよ……と。失礼でムカつく事と、俺の女になるとか言う上から目線もいい所のあのセリフ。だが、今まで伊織をそういう目ではみていなかった。なんか良くわからない何かの因果で関わるようになった男友達、そういう認識だった。
(だけど、あれってつまり、そういう事なのよね)
考えてぽっと顔が赤くなる。
嫌、だとは思わなかった。所々頭にくるような男だったが、もう初対面の時のようなイラつきは感じない。千郷が慣れたというのもあるが、彼の態度も軟化しているだろう。
もしだ。もしも本当に、彼とそういう関係になるとしたら――
千郷はこの事について考えるのをやめた。なんだか気恥ずかしくなってくるから。だから彼女は、自室へと走った。どちらにせよランドセルを置いて明日の準備をしなければいけない。
そんな娘の様子を見て、親が察しない訳がない。二人は娘がもう色恋も分からない小さな子どもではないと実感して、父は娘を渡す日を思い早くも涙目になり、母はそんな彼に対し「今のうちに遊んでもらいなー」と笑うのであった。
そうして千郷は自室でランドセルを投げた。
「なに想像してるのよ私っ!」
叫んで息を切らすと、大きく息を突きベッドに座る。
ずっとマサの事を好きだと思っていたのだから、今更恋愛感情が分からない訳ではない。だが、それとこれは別の話だ。
(まさか、伊織の事を好きって思ってるの? いやいやいやっ、私はずっとマサくんに片思いしてたじゃない。今だって、それなりに。だけど、だけど……あぁ! わかんない! なんなのよ! パパが急にあんな話をするから、訳わかんなくなっちゃじゃないの!)
なんだか、走りに行きたい気分だ。しかしそうもいかず、投げた足だけをバタバタを揺らす。そんな時だった、
「よぉカワイ子ちゃん、どうやらモヤモヤ中みたいだな!」
声も言葉もあまりにも軽い男が、直ぐ目の前にパッと現れたのだ。
一瞬だけ伊織に見えなくもなかったが、一瞬だけだ。急に表れてヘラヘラと笑う男には、狐の耳と七本の尻尾が揺れている。
「っ、だ、誰?」
「おうよ! カワイイ嬢ちゃんに名前を訊かれたら答えるってモンが男よ。俺は紗織さおり、あんま紗織って感じじゃねぇだろー? 俺もそう思う!」
にぱぁっと笑うその紗織とかいう狐は演技じみた立ち回りをして名乗り上げる。
「あんた我が末弟の恋人だろ。ここは一つ、長兄である俺が挨拶をしようと思ってな! 俺ったらすっごい弟想いのいい兄貴っ! どうせ俺の義妹になるんだ、お兄ちゃんって呼んでくれていいんだぜ? 呼んでくれるのか? ありがとー!」
「ま、まだ何も言ってないけど……それに、伊織とはそういう関係じゃ」
「今はそうじゃなくたってよ、そのうちはそうなるだろぉ? 仲良くしようぜ義妹よ。不束な弟だけどよ、って俺より出来はいいか! なんてたって神やってんだから、俺と違ってな! あっちゃーこりゃ一本取られたっ。やるなカワイ子ちゃん!」
「な、何も言ってない」
凄く、なんだか凄くぐいぐいくる。なんなんだこいつ。千郷が若干引いていると、紗織はおっと小さく声を漏らし、静かに目を細めた。
「おいおい、道化を前に笑わねぇのはダメだぜ? 嬢ちゃん」
顔を持ち上げられると、少しだけ伊織に似た顔がはっきりと目に映る。
「お前の、正美とやらとの腐りかけた縁を切ったのは俺だ。感謝してくれよ? 我が末弟は色々考えて戸惑っていたからな、代わりに心優しい『お兄ちゃん』が切ってやったんだ。正式な神じゃなくてもそんくらいは出来るんだぜ」
「だから、笑え。脈絡がないか? なんだっていい。女の子は笑ってるのが一番だぜ」
触れられた指は少し冷たい。ひんやりとした感覚が伝うと共に、千郷の頭に一つの光景が過った。
一つの部屋に様々な姿をした存在が集まっている。その数は二十程にも及び、人に近しい姿を持つ者もいれば、多種多様な獣に近しい姿の者もいる。人と獣の要素がアンバランスに組み合わさったような者すらいた。
そんな彼等の視線と言葉は、こちらに集まっている。しかし、それからは妬みや僻み、批難すらも感じられて決して良いものとは思えない。そんな中、狼の要素を持ち合わせた男の姿をした者が一際大きな声で叫んだ。
『長兄だからって調子に乗るなっ! 我等は認めない!』
『そうだ! お前が後継者に選ばれる事はあってはならない、所詮は形だけ父上と同じなだけだろう?!』
『人の娘の腹から生まれた子など神に相応しくはない』
真正面から向けられた鋭い言葉。しかし、今一心に響かなかった。
――もう、慣れちゃった。
頭に聞こえたその言葉に、千郷は再び顔を上げて紗織を見た。
記憶の主は麻痺して感じないかもしれない。が、千郷はそうではない。批難を集中的に浴びることもなければ、大勢にあんな目を向けられた事もない。
千郷の表情が写り、伊織は微かに目を見開いて触れていた手を引く。
「……まいったなぁ、嬢ちゃんは感じやすい質だったか」
「嫌なモン見せたな。悪い」
紗織は自身の手を握り、一歩後ろに下がった。
「ごほんっ。さぁカワイ子ちゃん! んな事は置いといて本題に入ろう。伊織が世話になっている例だ、この心優しい義兄ちゃんが願いを一つ叶えてやろう! そうだ、嫌いな奴とかいないか? 綺麗さっぱり縁切りしてやるぜ! ムカつくクラスメイトとか、イヤーァな先生とかっ! 穏便且つ後腐れのない素晴らしいぃ方法で切り離してやる!」
「それとも縁結びの方がいいか? だけど恋愛方面だと既に繋がっているからなぁ。そういや雅とも繋がってんだよな、贅沢だなオイ! てことで恋愛方面は為しだ。四角関係はちょっとなぁ? 友人の方なら受けるぞ! さぁどうする?! 好きなのを選べ!」
少し離れたところからまたそんな風に振る舞う。
「紗織は、伊織の兄弟なんだよね?」
「ん? おう、伊織は俺の末弟だぜ! それがどうした?」
千郷は様々な記憶を思い返した。いつだったかたマサに話された子沢山の神様のお話、子孫繫栄を司る神様には沢山の妻がいて、それ相応の数の子供がいた。お陰で尽きるの事のない後継者争い。その中で、お前は相応しくないと非難される長兄と、争いの末に神の座についた末弟。しかもその末弟は、実父ではなく父親代わりの蛇神の元で育てられていた。
先ほど見えた光景。視界に映った集まる兄弟の中で、狐の姿を持つ者は愚か、その要素を持つ者すら一人もいなかった。
「今、国語の授業で家族についての作文書かないといけなくてね。伊織が困ってるのよ。一文字も『嘘でも家族だとは呼びたくない』ってね」
その時千郷は、両親と設定している夫婦の事だと思っていたが、彼が思い浮かべていたのは血の繋がった家族の方だったのだろう。
「そっかぁ。んで? 俺に何をしてほしいんだ?」
「あんた達の間に何があるかは知らないし、他人の、ましてや神様の家族間にどうこう言える立場じゃないけど……ケンカしてるなら、仲直りしなさいよ」
触れてはいけないラインは、千郷には分からない。仲直りしなさいと言われて出来る問題でもないかもしれない。だけど、可能ならして欲しかった。千郷の中に存在する家族というものは、温かくて優しいものだったから。
「はは、そう来たかぁ。そりゃ、難しい要求だな。カワイ子ちゃん」
「兄弟の間にあるのは、同じ父を持つっていう共通点だけなんだ。残念ながら、嬢ちゃんの思うような絆はねぇ。仲直りも何も、最初から喧嘩できるような関係でもないんだ」
そう言う紗織は千郷に背を向けていて、表情を伺えなかった。
「んだけどカワイ子ちゃんがそれを望むのなら、お兄ちゃんも少しガンバちゃおっかなぁー、なぁんて! 出来たら、いいんだけどなぁ……」
弱く漏らされた最後の言葉が、彼の本心だった。
「紗織」
千郷が呼びかけると、彼はハッと顔を上げ、はじけた笑みを見せながら振り向いた。
「ははっ、直ぐ帰ろうって思ってたけど、思わず長話しちゃったな! こりゃ伊織にバレたら睨まれる事待ったなしだ」
あははと笑って手を振ると、紗織は一瞬にして姿を消す。
どうやら、家族についての作文は千郷の思っている以上に難しい物ようだ。
(どうにかしてあげたいけど、出来るものなのかしら……)
何をしても余計なお世話になりそうだ。この場合、どうしたらいいのだろうか。考えたとき、夕飯が出来たようで母の呼ぶ声が聞こえた。
何にせよ腹を満たすのが先だ。
しかし、お腹を満たした所で解決方法が見つかる訳ではない。千郷は悶々としたまま夜を過ごし、朝を迎えた。そうして千郷は決断した。
「てことなの、雅くん。だから、教えてほしいの」
土曜の昼前、千郷は昨日の事諸々含めて雅に話した。自分にどうにか出来る事はあるのかという事も含め、伊織の事を教えてほしいという意味も含めて、千郷は雅の言葉を望む。
聞いた時、雅は驚いたような顔をしていた。
「汝は、そこへの介入を望むか? 隠し未遂をした我が言うのもなんじゃが、それは神の領域での問題じゃ。あまり人の子が入るのはお勧めせんぞ」
「介入っていうか、何も出来ないのならしないし、しないほうがいいのなら何もしない。ただ……伊織は、少なくとも友達ではあるんだから。手助け出来るのならしたいのよ」
家族は仲が良いもの、なんて決めつけは良くないのだろう。千郷は自分の家族しか知らないが、そのくらいは分かっている。だが、悲しくはないか? そんな複雑な想いを抱かなければいけない家族関係なんて、他人のだとしても嫌だった。それに、あの伊織が、落ち込んでいるように見えたから。
雅は彼女のその想いを感じ取り、目を閉じて頷いた。
「よかろう。我もあ奴の養父じゃ、どうにかしてやりたいとは思っておる」
「であれば、まずは一つ話そうか」
雅が話したのは、千郷からすれば遠い昔の話。彼からすれば、つい最近の事だ。
この国が戦火に呑まれ、多くの命が枯れたた少し後。国もちょっとずつ持ち直して来ていた、そんな時だった。
「俺の子だ。世話を頼む」
かつての友は、一匹の子狐を抱えてそんな事を言ってきた。
父と同じ黒い毛並みを持つ子狐は、その腕の中ですやすやと眠っている。雅はそんな彼を目に映し、再び友に視線を移す。
「来縁よ、一体なんの因果じゃ? しかと『神の子』ではあるまいか。姿も汝と同じ狐、毛皮も同じで気質も同じ……汝の血を一番濃く引いた者じゃろう。後継者にするに何も問題はない、汝が神として育てあげればよかろう。そ奴は素質があるぞ」
「だからこそだ」
「多くは言わん。此奴の名は伊織だ。俺の事を訊かれたら、お前の父は子どもを捨てた、最低な父親だと教えろ」
来縁は子狐の雅の胸に押し付け、踵を返す。
「何があっても、俺の背を追わせるな。任せたぞ、雅」
背を向けたままそう告げると、一歩進むと同時に姿を消した。
「全く。死にぞこないに何用か思えば……全く」
雅は受け取った小さな子狐を撫で、部屋の奥に引き返す。
これが、雅が伊織の養父となった訳。ではなぜ、来縁は息子を彼に預けたのか。今まで多く残した子どもは殆ど母親が主になって育てていた。そしてその子ども達は、いずれ引き継がれる父の座を狙って争っている最中だ。
父と同じ黒狐。その神性もしっかりと引き継がれ、一目見てこの存在が子孫繫栄の神である来縁の跡継ぎだと分からせられる。後継者争いの中に彼が姿を現せば、一度争いは収まるだろう。この存在を前にして尚、俺が私がと出しゃばる事は出来まい。一瞬にして、長きにわたったその討論がねじ伏せられるだろう。
だが、来縁はそれをしなかった。
「争いに避けさせたかったか、あるいは……」
独り言をつぶやきながら小さな体を布団の上に乗せると同時に、伊織は目を開く。
「おまえは……? とと様は? とと様が、さっきまで一緒にいたはずなんだ」
不安そうに尋ねてくる子狐のその様は、なんだか道端でずぶ濡れになった捨て犬のようにも見え、雅はその頭を撫でる。
「我は雅じゃ。汝の父に汝の世話を頼まれたのじゃ。まぁ、養父と言った所じゃの」
「伊織よ。よろしく頼むぞ」
少し微笑んで見せると、伊織は戸惑った様子で「うん」と頷いた。なんでとは思っているのだろう。しかし、それは問われなかった。
(最も神の血を受け継いだ結果が、かような運命か……哀れな子じゃ)
(最低な父親だと伝えろ、なんて。我が出来る訳ないと分かっておろうに)
不器用な男に心の中で文句をぼやき、雅はこれからを思考する。
この最も神に近しい存在を、どうにか神の座に就かせず育ててやる。……まぁ、難しい事は後にしよう。まずは、子育てをするところからだ。
まだ人の姿に化ける事も出来ない子狐だ。ご飯を作ってやり、適度に遊んでやり、眠そうにしていれば寝かしつけ、一緒に寝てやる。そうして時には暇つぶしがてら教養も身に着けさせる。かつて目にしていた人間の子守を真似てそれらは行われていた。それは、疑似的ながらも一種の家族の形であっただろう。しかし、蛇は狐には成れないのと同じように、本物の父になってやる事は出来ない。
「なぁ、みやび。とと様は、おれの事がキライなのかな」
一週間も経ったころ、伊織は縁側で座りながら尋ねてきた。
「……うむ。それは何故そう思う?」
「だって、おれはとと様にすてられたんでしょ。それって、キライって事じゃないか」
しょんぼりと耳をたらし、涙目になる。今にも泣きだしそうで、雅はそっと彼を抱えて膝に乗せた。
「捨てられた訳ではあるまい。本当に嫌いならば、そもそも我に預けるような手間はかけんじゃろう。我は、あ奴の旧友であるぞ」
「あ奴は、少なくともお前を想っている。想った結果なのじゃよ。きっとな」
伝えた言葉に濁りはなかった。それだけは、雅にも確信出来た事だったから。
たった今来縁が座するその立場に就かせなければいい。それだけなら、何も父を酷く思わせ嫌わせる必要はない。
「ほんと?」
「あぁ、神は嘘をつかぬのじゃぞ」
涙を溜めた目で見上げてくる子狐は、見るからにか弱かった。
しかし、誤魔化せるのは子どもの内だけだった。知ってしまったのだ。自分がどのような存在で、何の息子として生まれていたかを。
それは、雅が留守にしていた間の事だった。兄弟の一人が彼を見つけ、事を吹き込んだのだ。お前は父に必要とされず捨てられたのだと。兄弟の中で唯一その座への継承権を持たない、神に拒絶された存在なのだと。
結局、来縁の思う通りになったのだろう。彼は兄の言葉を鵜呑みにしたまま自分は疎まれ捨てられたんだと思い、父を嫌った。
「伊織よ、なぜこの我より知らぬ兄の言葉を信ずるのじゃ。本当に疎まれておるのなら、そもそ捨てる場所はここではなかろう」
「よく言う。傍に置かなかった時点で、そりゃ必要としてないって事だろ」
抱えられるほどの大きさだった子狐は中型犬かそこらの大きさくらいにまで育ち、同じ縁側で自身の尻尾に顔を埋めていた。
「俺は、父様にとってどうでもいい存在なんだ。別にいい。どうでもいい……」
拗ねたように呟くと、不貞寝をした。これ以上は聞きたくない、そう言いたげだった。
しかし、これもある意味来縁の望んだ事だ。嫌われていると思い込みながらも、割り切って一匹の狐として生きてくれればそれでいい。神でなくてもいい、明確な肩書はない、神聖さを持つ少し特別な狐として幸せに生きられれば、それでいいだろう。
しかし、雅のその想いも、やがては打ち砕かれた。
「いたぞ……! やはり、正式な後継者は別にいたんだ!」
「おぉ、噂は誠だったか。あんな奴が父上の後を継ぐくらいであれば、此奴を神とした方がいいに決まっている」
「不本意だが、確かに同意せざるを得ないな……どんな奴であれ、アレよりマシに決まっている」
ぞろぞろと集まった様々な存在が、そこにいた伊織を取り囲むように騒ぎ立てた。
唯一、狼は顰めた顔で伊織を見てたが、皆の意見が一致している中声を上げることはせず、息を吐いて末弟に歩み寄る。
「父上が逝去なされた。末弟。今から、貴様が『縁の神』だ」
「拒否は許さぬぞ。これは、我等兄弟皆の意思だ」
狼の鋭い言葉に、伊織は何も答えなかった。成熟した人の男と一切違わぬ肉体で、その場に膝を立て座っている。
彼は何も言わず、代わりに部屋の奥で蜷局を巻いていた大蛇が口を開く。
「勝手に立ち入った上に騒ぎよって……弁えよ、ここは我の神域であるぞ」
鎌首を上げるとその姿を人に近しいものに変え、その眼は人の姿をした狼を見やる。
「雅殿。その事については我等の非だ、謝罪しよう。しかし、父上が亡くなられた今、我等は早急に縁の神を用意しなければならないのだ」
「うむ。来縁が逝ったのは知っておる。確かに、あ奴の代わりになる縁の神は必要じゃろう。しかし、汝等兄弟に既に狐はおろう? 毛は黄色いが、紗織とて十分な素質を持つ『神の子』じゃ。何も伊織に就かせる必要はなかろうが」
「我等兄弟は、アレを神だと認められない。アレを神として我等の上に置くくらいであれば、この末弟を神とした方が良い」
「分からぬの、何がそんなに違うのか。伊織とて生まれは人の娘の腹じゃ、紗織と同じじゃろう。仮に汝等の言い分が正しかろうと、伊織の意思はどうした。まさか神の子たる者が他の意見に耳を傾けぬと?」
「黙れ、神であろうと口出しは許さぬぞ! これは我等兄弟の問題、部外者は黙っててくれ!」
二つの存在が敵対心を露わに言い争った。お互いに譲るつもりはなさそうで、人数の差は明らかだ。
「雅! もういい」
その時、黙り込んでいた伊織が声を上げた。
「いいだろう。お前らの望む通り、俺が『神』になってやる。それでいいんだろ?」
「世話になったな、雅」
伊織は徐に立ち上がり、兄弟の後を付いていく。
結局、事は運命通りに傾き、縁の神は最も父の血を引いた者に引き渡された。
(来縁に知られれば、なんと言われる事やら……)
ここ五十年程ずっとあの子狐と過ごしていたのだから、一人になった空間が余計静かに感じた。
「奴らが何処で伊織の事を知ったのかは分からぬ。来縁はほとんど生まれたての赤子を我に託した、奴等が知る由もなかったはずじゃ。ただ、そうしてまで長兄を神にしたくなかったのじゃろう。まぁ汝が思うような絆ではないのは確かじゃな」
紗織が言っていた事と同じ言葉で締めくくられる。
これは何も神様だけの話ではない。人間の歴史でも似たようなことはあったはずだ。偉い人の跡継ぎ問題の前では兄弟だからこそ敵であり、仲良く共に生きるなんて事は成り立たないのだ。
しかし、それにしてもだ。彼等はなぜ、隠れた伊織を引きずり出してまで長男を神にしたくなかったのか。千郷には全く分からない。
「なんでまた……確かに、紗織は神様って感じはあんましなかったけど」
「うむ、そうじゃの。汝の言う通りじゃ。紗織は、神として生きるには優しすぎる」
雅は彼を優しすぎると言った。それは、千郷が思った神様らしくない訳とはまた違う。だが、それも分かる気がした。
彼のあの演劇じみたの愉快な行動、滑稽なまでなそれは彼の素でないだろう。道化の演技は皆を笑わす為のモノ、それが思いやりであるのなら、雅の言う通り彼は優しすぎる。
「神には一種の残酷さが必要じゃ。望む者全てに救いを与えてはいけぬ。大袈裟に言えば、救える命を見捨てねばならぬ時だってあるのじゃ。その点において、伊織はよくやれる方じゃろう。結ぶべき縁と結ばぬべき縁、切るべき縁と切らぬべき縁、それをよく見ておる。苦悩しない訳ではなかろうがの」
「奴等が行ったのがそれを見抜いての妨害であれば立派なモノじゃ。だがまぁあれは、長兄に対する妬みに過ぎぬ」
雅の言葉は、兄弟の関係を第三者視点で達観した者としての言葉だ。
関わりのある者たちの間に縁があるのであれば、兄弟の間にあるそれは正しく腐れ縁だろう。血の繋りという切っても切れぬ関係を持ち、尚且つ父は一つの神たる存在。いずれその座が誰かに引き渡されると分かった時、「血の縁」の多くは悪縁かの如く腐れる。仮に彼等がただの色好き野狐が残した子であれば、少なくともそんな縁には成り果てなかった。
兄弟の事を思い悲しくなると、ぽんと頭を撫でられる。雅の表情は優しく、それでこそ子を思いやる父親のようだ。
「伊織はの、家族についてはとことん運が悪い奴なのじゃよ。かと言って親と設定しておる神社の者を、伊織が家族であると定義した文を記してしまうと、誠にかような縁が結ばれてしまう可能性がある。そうなると、あの者達は人の道を外れるやもしれぬ。気軽に出来ぬのじゃよ。だから一先ず我の事を書けと言っておるのに、あ奴ときたら意地になって聞かん」
「千郷。汝の思いやりの心は良いモノじゃが、これはあ奴自身の心の問題じゃ。今更兄弟間の縁を良くする事も出来なかろう、何をどうしてやれば良いかなんてモノはないのじゃよ」
言い聞かせるように、千郷に告げる。それは、ほとんど思っていた通りの答えだった。
長年続いた因縁は、千郷が仲直りしなさいと助言した所で良くはならない。そんなのは目に見えて分かっている。
「じゃが、そうじゃの。汝が望むのであれば、本当に手がない訳ではないぞ」
俯いて手を握った千郷を目に、雅は付け足すように口を開く。
「汝に、神の領域に踏み入る覚悟はあるか?」
差し伸べられた手。千郷はその意を理解し、彼の手を取った。そうすると、意思を投げ込んだ水面のように世界が揺らぎ、一つの祠の前に立つ。
茜塗りの祠は、消して大きくはなく、都会で見るビルの間に設けられた小さな神社を思わせるようなモノだ。しかし、足元に広がる浅い水面と雲一つない澄んだ空は、その神聖さを際立てていた。
「祠……?」
「うむ、かつての縁の神であり、子孫繫栄を託された者の墓じゃ」
雅は、閉じられた小さな社の扉を開き、その中にある木彫りの狐を手に取る。
木彫りの狐は千郷の両手程の大きさだ。祠の大きさに丁度良いサイズで、ここが狐の住処のようにも思えた。
「もしかして……この木彫りの中に、伊織のパパがいるの?」
「うむ、よく分かったの。これはあ奴の神体から繰り出した木彫りじゃ、残滓が宿っているのじゃよ。まぁ、呼ばねば起きぬような微弱なモノじゃがの」
雅は千郷に答えると、木彫りに触れながら語り掛ける。
「来縁よ。眠っている所悪いの、少々起きてはくれぬか? 汝の子の事で困っているのじゃよ」
布団に包まって寝ている友を起こすかのような呼びかけだった。答えるようにはめ込まれた鏡からぽうっと白い光が漏れだし、水面の上に降り立った。そうして現れた形は、人の男の姿に立派な狐耳と九本の尻尾を持った、伊織と雰囲気が良く似た黒狐だった。
『……あぁ、雅か。おめえが俺を起こしてくんなんてな』
頭を掻き、そこにいる雅を見やる。その時同時に、千郷の事にも気づいたようだ。
『人の娘……? なんでこんな所にいんだ。俺は隠した覚えはねぇぞ』
「汝が隠した訳ではないから当然じゃの。あとの話はこの娘とするがよい。汝の末子と繋がった者じゃ、健気にもあ奴の憂いを晴らしたいようでの。ここは一つ、父親をしてやれ」
「元より汝の蒔いた種じゃ。自分でどうにかすると良い」
『ちょ、待て雅! チッ、クソ蛇が。こちとら死んでから初めて起きたってのに、全部投げやがって……』
言葉遣いはまんま伊織と同じだった。雅の事をクソ蛇と呼び、どうしたものかと千郷に目を移す。
「え、えっとー。伊織のパパ、なのよね?」
『俺は来縁、お前の言う通り伊織は俺の末の子だ。一先ず話を聞いてやろう。まぁ、さっきの雅の言い分で大方察したがな』
来縁は祠にどかりと腰を下ろす。普通の人間がやれば罰当たりもいいところだろう。
やはり、伊織のお父さんといった感じだ。最初にあった伊織も賽銭箱の上に座って、それはもう癪な態度だった。
彼の態度はさておき、千郷は促されるままに事を語る。いざ話すとなると中々上手くまとめられなかったが、それでも来縁にはしっかりと伝わったようだった。
話している間、彼は目を閉じ静かに千郷の言葉を聞いていた。そうして話終わると、来縁は金色の瞳を彼女に向け、口を開く。
『悪いな、人の娘に気遣わせて』
『だが、放っておけ。お前が首を突っ込むような問題ではねぇ。俺とて伊織が後を継いじまったのは不本意だが、落ち着く所に落ち着いてるなら良しとしてやろう』
偉そうなのも同じだ。脚を組み、千郷に言いつける。
「あんたはそれでいいの?」
『良いも悪いもねぇ、兄弟ってのはそういうモノだ』
あっさりと言い切るが、彼は目を合わせてくれなかった。
残念ながら、千郷には兄弟はいない。だから千郷の思う「兄弟」は一種の理想に過ぎず、「家族」一もつの形に過ぎない。
「……ねぇ、訊いていい。あんたのご利益って、なに? 司っているのは、子孫繫栄だけ?」
なぜこの事を問うたのか。それは、千郷からすれば何となくに過ぎなかっただろう。
『分かっているだろ、俺は「縁の統治者」だ。よって縁に関する一通りは出来る』
「じゃあ家族円満もその内じゃないの? 違う?」
その時の彼女の問いは追及でもあった。実際、来縁は千郷の言う事に対し言葉を詰まらせていた。
『はぁ……分かった分かった。お前の思ってる通りだ。俺は本来、子孫繫栄はそこまで得意じゃねぇ、それが縁結びの延長線とは言えな。だが、求められたモンにならなきゃ神は神としての意味を成せねぇんだよ』
降参を示すように小さく両手を上げた。まるで千郷が真実を知っていて鎌をかけたかのような言い方だが、勘違いしないでほしい。千郷は、何も知らない。
「? 別にそんな事は思ってなかったけど」
首を傾げると、来縁は驚いて跳ね上がるように立ち上がる。
『はぁ!? んな事訊いといて知らなかったってんのか!? 雅に教えてもらったとか、そういう訳でもねぇの?』
「うん。雅くんから聞いた事があるのは、あんたに子供がたくさんいて、後継者争いが尽きなかったって事だけ」
『だったらんな思わせぶりな事訊くんじゃねぇよ……』
「なんか、ごめん」
そんなつもりはなかったが、どうやら確信を突くような事を訊いてしまっていたようだ。しかし、それに関してはわざわざ小学生の言う事を深読みした来縁が悪い気がするが。言わないでおこう。
『まぁいい。バレたもんは仕方がねぇ。俺はもう神じゃねぇ、人の娘一人にバレたところで何も起こらんだろ』
座りなおした来縁は、押さえていた頭を上げ千郷に問う。
『お前の望みは、俺の子達の仲が良くなる事か?』
「と言うより、伊織が家族に対してあんな複雑な想いを持たなきゃいけないってのが嫌なの」
どちらにせよ、難しい話だろう。千郷でもそんな事は察せる。しかし、雅は本当に手がない訳ではないと言っていた。そうしてここに連れてこられたのであれば、兄弟の父である彼に鍵があるのだろう。
『……分かった』
『だが、俺は死んだ身だ。お前のその願いを果たすには、お前の力が必要だ』
来縁は再び立ち上がり、千郷の頬に手を添える。
『お前、処女だよな?』
そうして、ド直球にもそんな、現代でやれば真っ先にセクハラで訴えられそうな事を小学生相手に尋ねた。
「な、な……っ、え、ま、まぁ、そう、だけど……」
しどろもどろになった訳が分からず、来縁は怪訝そうな表情を浮かべた。
『んだよその反応は……念の為確認しただけだろうが』
『まぁ、それなら問題ねぇ。俺の巫女になれ』
少々言い方はややこしかったが、要するにその為の確認だったのだろう。
千郷は知らなかったが、どうやら巫女というのは未婚の女性に限るそうだ。そして、昔の人からすれば未婚はつまり処女である。
何をしたいかは分からなかったが、それが手であるならと頷いた。
『よし、良い子だ』
『お前はその時が来たら俺の巫女として舞え。そうすれば、俺が事を済ませてやろう』
来縁はそう言った。だがちょっと待ってほしい。当たり前のように舞えと言われてもだ、出来る訳がない。何せダンスは授業でやったくらいだ。
「舞えって言われても……私、そういうのやった事ないわよ。巫女舞ってやつでしょ? 見たことはあるわよ。けど、そんな直ぐに出来るようになるものでもないでしょ」
千郷のいう事は最もで、少し練習して人前で披露出来るほどになれるのなら巫女さんも苦労しないだろう。しかし、来縁はそうは思っていないようだ。
『前世との縁も、人を形成する大きな要素だ。お前なら、出来るはずだ』
すっぱりと言い切り、来縁は『喋り過ぎた。俺はまた寝るぞ』と木彫りの中に戻る。
一先ず雅に相談してみるべきだろうか。何だか、とんだ無茶を押し付けられたような気分だ。お前なら出来るなんて便利な言葉を使いやがって。しかし、やってみないと分からないのも確かだろう。
来縁が消えると同時に、どこに行っていたのか雅が戻ってくる。
「うむ。大方思ってた通りじゃの」
「一回戻ろうかの。安心せい、千郷。事は全て上手くいく」
頭に乗せられた手は、健気な少女の気持ちを安心させようとしていた。
神の言葉と言うのは強いモノだ。たったそれだけだが、少し不安がなくなった気がする。
「しかし、妬けてしまうの。どうせなら、また我の巫女にしたかったのじゃがのぉ……来縁の奴、ていよく出し抜きよって」
「まぁよい。舞についても案ずるな、丁度よい講師がおるのでな。一先ず戻るぞ」
来た時と同じように手を繋ぎ、元いた雅の住処に戻る。先ほど彼がいた座布団の上には、いつもの蛇がちょこんと丸まっていた。
――大君、千郷嬢。おかえりなさい。
「あぁ。我が聞いた事、汝にも届いておったじゃろ? ほれ、汝の出番じゃ」
――左様。
蛇はむくりと起き上がり、雅から溢れ出た光のような何かをその身に吸収する。自身の力を移し与えた雅は常識レベルの大蛇の姿と化し、それに対応して蛇は巫女装束を纏った白髪の少女へと変わった。
「千郷嬢。この姿で会うのは、初めてだな」
頭の中に聞こえていたものとはまた違う、クールそうな見た目通りの凛とした声色だ。
「そ、そういうの出来るんだ……」
「無論。蛇の大君の眷属たる者、必要によって形を変えなければならぬ故」
「じゃが、今の我だと我の人型と併用出来ぬモノでのぉ。すまんが、我はしばしこの姿でいるぞ」
並んだら兄妹のようにも見えただろうが、それは出来ないようだ。雅は蛇の姿で女子二人を見守っていた。
(と言うかこのヘビ、メスだったんだ)
「否」
千郷の思考に応じて、蛇少女は首を振った。
「ん?」
「神の使いたる我に性別はない。これは、大君の趣味だ」
「ん……?」
スンとした顔で言われたが、なんだかあまり聞きたくなかった事が聞こえた気がする。
「誤解を招く言い方をするでない。巫女が足らんかったのじゃから仕方ないじゃろう」
「あぁ、そういう事ね。良かった」
何が良かったかは、よく分からないが。
主の遺憾は無視するようで、蛇はそれに対してはノーコメントで千郷への本題に入る。
「千郷嬢。まずは我が手本を見せよう。この動き、しかと覚えよ」
彼女の手にあったのは、千郷がいつだか見た神楽で巫女さんが持っていた鈴だ。身を翻すと、彼女は最初に姿勢に入る。そうして、鈴の一音が響くと同時に、周りの空気間が一変した。
音はなく、ただ彼女が体を動かしているだけだった。その動きは、千郷が昔に見たモノとは違う。しかし、なぜだか千郷の頭にはそれに合わせた音が気が聞こえていた。知らないはずなのに。
(すごい。きれい……)
それから舞と共に流れた数分の時間は、たった数秒の事にように思えた。
全てが終わった後。彼女は姿勢を戻し、千郷に顔を向ける。
「我は、舞だけをした。だが舞には合わせるべき音楽がある」
「千郷嬢は、それが分かったはずだ」
鈴が手渡される。これは、今見せたのをやってみろと言いたいのか。尋ねるように目を向けると、蛇少女はこくりと頷く。
「出来るはずだ。『おちさ』よ」
彼女に呼ばれた初めての呼ばれ方に、千郷は不意に不思議な感覚が過った。
しかし、出来るはずと言われても、どうしても固まってしまう。だって、「千郷」はそれをやった事がないのだ。神様が何を知った上でどう判断したかなんて、人間には関係ない。
鈴を持ったまま固まる千郷。そんな彼女を察して、蛇の姿をした雅は言う。
「……であれば、我等は一回席を外すとしようかの。見られると緊張するじゃろうて。行くぞ」
「御意」
普段とは逆の姿で、二人は部屋の外に出ていく。
(気を使ってくれた、ってことよね)
千郷は手の中の鈴を目に思考する。
こういう時、千郷はいつも気合と根性で乗り切った。例えばそう、保険委員会として全校生徒の前でちょっとした演技をした時もそうだった。
であれば、一先ずは猿真似だ。出来ているかどうかの判定をつける人はいないが、自分の感覚で出来たと思えれば二人に見てもらう勇気もつくだろう。
千郷は目を瞑り意識を集中させる。先程見たあの動きだ。あの動きを真似すればいい。今は誰も見ていない、間違った所で恥にならならないだろう。そう覚悟を決め、動き出す。
一度踏み出してみれば、自然と体が応じた。本人からしても不思議な事だ、齧ったこともないのに、どうしてこんなにも理解しているのだろうか。
――流石だ、おちさ。
舞う千郷の頭に、蛇と同じ声が過った。
――ほほほ、良きかな良きかな。我の巫女じゃ、このくらい出来ねばのぉ。
――はっ、お前のにするには勿体ねぇくらいだ。蛇なんかより俺の傍にいた方がいい。どうだ、良い思いさせてやるぜ?
そんな二つの言葉が、かつて聞いたかのように思い出される。なんだかとても懐かしいような気がして、千郷はその気持ちを受け入れた。
自分の知らぬ何かしらの因果があるのだ。そんな事知ったこっちゃないし、あったとしても今の自分とは関係ない。しかし、あるモノを否定する意味はないだろう。
(何がなんだか分からないけど、とにかく、ある程度は『出来る』みたいね)
体は今ここが終わりだと示し動きを止めた。息を一つ吐くと、先程空気を読んで部屋を外したはずの雅と蛇少女がそこで観客として見ているのに気付いた。
「うむ、良きかな。やはり出来とるではないか、千郷よ」
「申し分ない。神も満足される事だろう。実際、大君は喜んでおられる」
どうやら、あれは千郷にやらせるためのフェイントだったようだ。一回出て行って、舞を始めると同時に気配を消したまま入ってきたのだ。
(全く。これだから神様は……)
そんな如何にも神様らしい事を何の気なしにやってのける彼等に、千郷は小さく笑った。
「これであれば来縁も文句は言うまい」
「後は時を待て。直ぐに事は済むじゃろう、汝は今日の所は帰ってゆっくりするとよいぞ」
「うん、わかった」
千郷は頷く。何だか、お風呂に入って布団で寝たい気分なのだ。
その日、千郷はまた夢を見た。その空間はただ白く、一歩でも歩けば方向感覚を失うだろう。そんな場所にいる千郷の前には、一人の巫女装束の女が正座していた。顔は薄い布で隠されてよく見えないが、緩めの御団子にまとめられた髪は認識できる。
「誰……?」
千郷が問いかけると、巫女は微かに顔を上げる。
「私はお前であり、お前ではない。同時に、お前も私であり私ではないの」
「どういう事よ、それ?」
「縁の神は我が君ではないから、私も正確には説明できない。だが、私とお前には縁の神であろうと切れない縁があるのは確かね」
巫女は歩みを進め千郷の胸をちょんと突いた、ここに縁があるのだと言いたげに。
千郷はなんとなく分かった。彼女の存在が先程の自分が舞う事が出来た訳、言うなれば、前世の自分だと。
「千郷。お前は伊織と、そして雅様と繋がっている。その縁は今に繋がったものではなく、既に繋がっていたモノ。元より私が持ち合わせていた『神縁』なの。少し大人になってそれが露わになった、これはもう、神は『私』を逃してはくれないという事でしょうね」
「神の何になるのか、いずれ選択する時が来る。その時、後悔のないようにしなさいね」
薄く見えた彼女の顏は、目を細めていた。その微笑みの中にある感情が何か、千郷には伝わらなかった。「自分」の事だから、尚の事分からなかったのかもしれない。
目覚めたとき、なんだか不思議な感覚だった。
「神の、何になるか……」
(友達、ってことでいいかな。一先ずは)
将来の事は将来に考えればいいだろう。千郷は布団から出て、顔を洗いに行った。
今日は日曜日。特に用事がなければ、家から出ることもないだろう。しかしなんとなく、今日は出かけなければいけない気になっていた。
だから千郷は、ご飯の後に散歩と称して外に出た。今日は伊織の様子でも見に行こうかと思ったのだ。待てと言われた時が今でなくとも、まぁ友達なんだから遊びに行くくらいは何ら不自然ではないだろう。
しかし、神社まで行って気が付いた。伊織は雅みたいに家のような場所にいる訳ではないため、チャイムを鳴らして「いますかー?」のノリでは訪問できないのだ。彼が住んでいるのはこの神社の社なのだから、どうしてごめんくださいを言えようか。
(お参りでもする……?)
千郷は持っていた小さなカバンから財布を取り出し、一円玉をお賽銭として投げ入れようとする。
そんな時だった。弱く吹いた風と共に、千郷の中にぞわっと感覚が沸きあがる。
それは、酷く歪んだ兄弟の縁だ。最初は真っ直ぐと、血の繋がりがある事によって必然と結ばれた素直な縁。しかし、その縁は兄弟の精神の成熟も待たずに拗れて行った。
認められたいという欲望、期待に応えようとする必死さ。想いは様々あった。その中で最も色濃くあったのは、一番初めに生まれ唯一父と同じ姿を持つ長兄への嫉妬に、優秀な彼と自身を比べた際に生じた劣等感。誰がなんと言う訳でもなくとも察してしまう。父に選ばれるのは、長兄たる彼であろうと。だから、少しでも、彼の上に立っている気になりたかった。粗を探して、長兄より自分が神に相応しいと思いたかった。それは、同じ父を持ち、同じ「神の子」である兄弟だからこそ生じた歪みである。それが発端で、様々な事柄が加わった結果が今の状況だ。
どうしてこうなった? 兄弟の誰かが空に問うた。「どうして」ではない。これは、必然であったのだ。縁が一本の細い糸だとするのなら、多くあれば絡むのが必須だ。
千郷が感じたのは、息が詰まるような思いだった。
縁を作り上げた数多くのそれらが、彼女に助けを求めるように余ってきている。
――来縁様。もし、この子が「神の子」であったのなら、どうか、神様にはさせないでほしいのです。神様と言うのがいかに辛い存在か、貴方を見ていたら分かります。そして、貴方の子ども達が今どうして争っているかも、知っています。せめて、この子にそんな思いはしてほしくないのです。
流れ込んだ記憶の中、美しい黒髪の女は、大きく膨らんだ腹を摩りながら、空いた障子から見える庭園を眺めていた。
その時、女が浮かべた笑みは弱々しく感じて。そんな彼女に言葉をかけられた神様は、「分かった」と彼女の手を強く握りこんだ。
そうして最後の最後に長い兄弟喧嘩に終止符を打つかのように現れたそれは、真の神の子たる存在。しかし、彼には歪んで捻くれ絡んだ縁を浄化する事は出来なかった。それは、彼自身が「どうにもならない」と、そのつもりになってしまっているから。同時に、彼が未熟だからだ。
『だけど、誰も切りはしないんだ』
立ち尽くす千郷に、来縁の声が告げた。
『「血の縁」は立ち切れなくとも、「兄弟」としての縁ならそんな難しくなく切れるぜ? だが、彼奴等は誰もそれをしない。やっぱ、そういうもんだって分かっていても、考えちゃうんだろうな』
それは、少し悲しげな声だった。
千郷には難しい。そんな縁がどうこう言われたところでそうだ。しかし簡単な話、縁は感情で腐ってしまうが、抱く感情は物事一つに対して一つだけではないのだ。
『そんなら、最期にでもお父様らしい事をしてやるってのが筋だろ』
ポンと軽く肩を叩かれた気がして、千郷は振り向く。
黒い尻尾九本が、微かな風に揺られていた。そんな風に釣られるように境内に多くの光の塊が飛び交い、葉が揺れる音と同時に、その場の景色が変わった。
所謂神楽殿だろう。千郷はその中で、かつて見た神楽で巫女が来ていたモノと似た衣装を身にまとっていた。
慣れない服のはずだ。そもそも和装自体七五三で着たくらいなのだから。しかし、なぜだか身になじむような感覚がある。
周りを見れば、そこには戸惑ったような二十三つの存在があった。姿形も様々で、それぞれ多かれ少なかれ獣の要素を持ち合わせていた。彼等は千郷には気づいていないようで、同じく状況を理解していないようだ。
その中に、千郷はすぐさま伊織を見つけ出した。
彼はいつもの大人の姿に狐の耳と尻尾を持った状態で、兄弟から少し離れたところで胡坐をかいていた。我関せずに、当たりの騒がしさに不愉快さが尻尾に現れていた。
「長兄! 貴様また何かしたのか!?」
白髪の狼の要素を持ち合わせた男が、紗織に掴みかかっているのが見えた。
「おいおいそりゃ酷いぜ大河たいが! 俺は何もしてないだろホラ!」
「ほらと言われて分かるモノかっ! 貴様以外の誰がこんな事すると言うのだ、兄弟皆集め、何を企んでいる!?」
「なんも企んじゃねぇって! お前ら揃って俺に疑念の目向けんじゃねぇって、お兄ちゃん本当に何も知らないのっ! なぁ伊織!? お兄ちゃんは無実だよな?」
兄弟から多分こいつだろうと思われている彼は、一人我関せずの伊織に話を振る。しかし、伊織は面倒だという内心を隠そうともせずに返した。
「知るか」
「酷いじゃないか末弟よっ!」
紗織と白狼の大河がそうして言い合っている中、猫の姿をした者がポツリと口にする。
「だけど、兄弟が揃って呼び出されるなんて……もしかして……お父様が……?」
その言葉に、伊織の狐耳がぴくりと動いた。大河も掴みかかっていた手を止め「まさか……」と呟いた。しかし、彼の中でそれは否定された。
「そんな訳あるまい! 父上はとうの昔に逝去されているであろう!」
「けど、じゃなきゃ誰が僕達を集めるっていうんだ! まさか大河次兄がやる訳ないだろ! 三兄も四兄も違う、勿論僕もそんな面倒になりそうな事はしない! 僕達集まった所で喧嘩しかしないだろ!?」
「だから我は長兄がやったのだと言っているのだ!」
「まぁまぁ! 落ち着けって、」
今にも取っ組み合いにまで発展しそうな喧嘩に、紗織が間に入ろうとする。そんな時、紗織の狐耳が反応を示した。
『お、やっと気づいたか』
『ほんじゃ千郷、頼んだぞ』
来縁の姿が見えなくなると同時に、どこからか音楽が流れ込んでくる気配がした。どこかにスピーカーがある訳でもなければ奏者がいる訳でもなく、まるで木の葉の揺らぐ音のように場から溢れ出ていた。
(これ、知っている……)
それは、一つの死を挟んだ先にいる自分が知る物だ。それを分かっている千郷は、彼女が促すままに体を動かした。
「千郷……」
彼等からすれば、音と共に姿が見えた彼女の姿が浮かび上がったように見えただろう。驚いた伊織がその名を呼んだのを皮切りに、兄弟は千郷と呼ばれる彼女の舞を目にした。
伊織は、彼女から目を離すことが出来なかった。まだまだガキで女らしい色気も無い、そんな小さな子どもだと思っていた彼女が見せた舞はなんとも美しく、鈴の音が鳴る度に神の持つ力を齎した。正真正銘縁の神の巫女として、彼女は舞っていたのだ。
感じられたのは、生まれたばかりのまだ子狐だった伊織が動かなくなった母の傍らで蹲っていた時に抱きかかえられた時に感じた、父たる存在の気配と同じ。暖かくて、かつて伊織が一瞬にして好きだと思えたそれだった。
思わず息を呑み、あれほど騒がしく口論していた兄弟は静かにそれに見入っていた。そんな中、大河はゆったりと飛び交う光を手に添え、改めて巫女の姿を目にする。
「本当に……父上が……」
(いや、そんな事は有り得ない。我は、確かに見たのだ)
神として死ぬ直後、父は後継者に対しての遺言は何一つ遺さなかった。ただ一つ、彼が死に目に残した言葉は――
「お前等、俺がここまでしてやったんだ。あんま喧嘩すんじゃねぇよ?」
千郷に膝を付いて礼をした時、かつて聞いたものと同じ言葉が聞こえた。
それは、濡れ烏の色をした九尾の狐……かつての縁の神の本相だ。その姿は皆がはっきりと目にしたが、それは黄金に輝く光の粒子と化し、兄弟の縁に恵みを与える。
伊織は、目に見えたそれに思わず手を伸ばした。父の遺した神性は彼のその手に溶け入り、今ここで正式に引き継がれた。
事を終えた千郷が余韻を感じながら立ち上がる。そこで感じたのは、なんだかとても清らかで、喧騒はなくなっていた。
千郷は肌で感じ取った。これが、縁の浄化であると。「縁の統治者」来縁は、最期に遺った己の残滓を使い、神としての役割を果たしたのだ。
「うむ、実に天晴。良い物を見せてもらったぞ」
その時、何もなかったそこから雅が歩み出てくる。
「雅殿。これは、貴方の仕向けた事か?」
「然り。だが、我は橋渡しをしたまでよ」
「子等よ。健気な人の娘からの想い、来縁より託された願いを無下にするとは言わんな?」
ゆったりとした口調で、しかしその目は自身が格上である事を感じさせていた。
縁は浄化された。後は、本人達の働き次第。新たに縁の神となった伊織は、ろくに関わった事もない兄達を目に何を思っていたのか。それは、誰も分からない。
「ははっ……こう言われちゃなぁ。なぁお前等。俺達、仲直り出来るかな?」
紗織は問うた。それは、彼がずっと願っていた事でもある。
長兄の問いかけを、大河は小さく笑いを飛ばす。
「はっ、仲直りも何もないだろう。元より我等の仲が良かった事など一度もない。……だがまぁ。娘の想いは受け入れよう」
腕を組んで頷くと、末弟と繋がり、尚且つ「父の巫女」であった彼女を横目で見やった。
「だが、娘よ。貴様が我等の兄弟仲を憂いているというのであれば、期待している結果になる保証は出来ん」
大河だけでもない、皆不安だった。これまでずっといがみ合ってきたのに、今更仲良し兄弟になんてなれやしないだろうと。そう思うのも当たり前、千郷だってそう思ってしまう。
「今すぐ仲良しになれなんて言ってないわ。ただ……」
ただ、伊織が落ち込んでいるのを見たくなかっただけだ、なんて。しかし、千郷の視界に伊織本人が写り、彼女は咄嗟に首を振り浮かんでいた言葉を頭から掻き消す。
「伊織の作文が上手い事終わらないと私まで面倒被りそうなのよ! 別に、それ以上の事は考えてないからっ!」
照れ隠しなのか、彼女は大きな声でそう説明した。そんなに必死に否定すると余計変に勘繰られそうなモノだが。
それで色々と察したようで、兄弟は「成程な」と顔を合わせる。
どうやら我等の末弟は最年少ながら中々やる奴みたいだと、そう思っていた。
「ま、なんだっていい! 弟達、これから酒盛りでもしようぜ! 勿論、伊織も来いよな!」
「はいはい。悪酔いすんじゃねぇよ、兄貴」
紗織は、断られる事も想定していた。寧ろその可能性の方を高く見積もっていたのだ。そんな中、弟が発した敬称に、彼は微かに目を見開いた。しかし、それも一瞬の事。彼は笑みを浮かべながら振り向く。
「大河ぁ、言われてんぞぉ!」
「いや、今のは貴様に対する言葉に決まってる。もしくは長弟、貴様だ」
「なんで私なのだ! それなら十弟の方が酒癖は悪っ」
「漏れなく全員に対してだバカ共!」
そんな彼等の様子を見て、千郷は少し安心出来た。
これからどうなるかは分からないが、きっかけは作ってやった。後は彼等次第、今のこれを見る限り、悪い方向には進まない……と思いたい。飽くまでも希望的観測だが。
そんな千郷に、伊織が声をかけてくる。
「千郷、お前も来るか」
「え、私は良いわよ。兄弟水入らずでやってきなさい、何のためにがんばって踊ったって思ってるのよ」
「そうか……」
断ると、伊織は少しシュンとした気がした。が、それはほんの少しの事で、彼は気にする素振りもなく兄に付いていく。
(気のせい、かしら?)
千郷が首を傾げると、隣に来た雅が困り顔で笑った。
「全く、手のかかる奴等じゃのぉ。こうでもしないと素直になれぬか、そういう所は、揃って父に似ておる」
「ふふっ、雅くん、なんだか親戚のおじちゃんって感じ」
「うむ。あながち間違ってはおらぬの」
微笑んだ千郷に答えるように、雅は目を細める。愛おし気に、そして、どこか昔を懐かしんでいるかのように――
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