【第4話】女子の諍い
一連の事態が落ち着き、千郷は今日も元気に小学生生活を送っている。相変わらず、マサと伊織が両隣で牽制しあっているが。千郷の日常は平穏なモンだった。
そう、
「千郷。あんた、抜け駆けするなんて卑怯じゃない? 席が隣だからって、生意気なんじゃないの?」
クラスのリーダー核女子に、目を付けられる前は。
ここで一つ、女子社会にあるカースト制度という物を紹介しておこう。女というのは大人も子どもも闇深いモノで、学校や会社にもピラミッド型の身分制度が暗に存在する。例えばどうだ、休み時間にニ・三人で集まって自由帳に絵を描いている彼女等は、カースト上位の所謂「おしゃれ系女子」から下位扱いされている。別にそこに目立った虐めやらの問題がなくともだ、女子というのは面倒なモノで、同じ女子を敵対視しているのだ。こんなにも仲良さげにキャッキャウフフやっているのに。
ちなみに、千郷はどちらかといえば上位の部類ではあるが、それでこそお絵描き女子達を下には思っていないし、なんなら彼女等とは仲がいい方だ。上位だろうか下位だろうが関係なく、仲良くなれる子とは仲良くしている。そこには女子と男子で別け隔てがある訳でもなく誘われれば男子に混じってサッカーだってするし、女子達とウィンドウショッピングにだって行く。かと言って常に誰かとつるんでいる訳でもない、まぁ、こうと言い難い立ち位置なのだ。特段上位に嫌われている訳でも何でもない彼女が、なぜこうして睨まれているかと言えば……それはもう勿論男関連な訳で。
千郷がよく絡んでいるマサと伊織は、どちらも顔がいい。そう、年頃の女子は面食いなのだ。そしてなぜだか女子の間では、そんなモテる男に手を出してはいけないという暗黙のルールがある。手を出していいのは、今千郷に詰め寄っているこの本堂正美のみだろう。実質的に、女子を統治しているのは彼女であり、彼女の気を損ねたらクラスでの居心地が悪くなる。しかし、彼女は虐めこそしない。彼女がしてくるのが、虐めには満たない程度の嫌がらせだ。だからこそ質が悪いって物、起こるのは「態度が他と比べて少し冷たい」レベルの、教師も対応に困るいざこざなのだから。それが女子のカースト制度という物だ。
さて、これらを踏まえた上もう一度。千郷は、かなり面倒な事になってしまっている。
体育の授業前、早めに体育館に移動した千郷は体育館裏に呼ばれ、その正美と取り巻き女子二名に囲まれていた。
「抜け駆けって……別に伊織の事はなんとも思ってないわよ。マサくんは皆に優しいじゃないの」
千郷の言う事はどちらも事実だ。伊織は繋がりがどうこう言っているし、マサはあの一件から千郷の事をちゃん付けではなく「千郷」と呼ぶようになったが、彼女等に詰められるような関係にはなっていない。千郷からしては、正美に睨まれる覚えはないのだ。
まぁ、それは千郷視点での話なのだが。
「んな事言って、色目使ってるのは分かってるのよ?」
「使ってない、言いがかりはよして。あまりしつこいと先生に言いつけるからね」
しかし、千郷はここでしおらしくなるような女ではなく、そう言い捨てると取り巻き達を退けて体育館に戻ろうとする。すると、丁度伊織がこちらに歩いてきて、ばったりと出会ってしまう。
「千郷、先に行くんじゃねぇよ。こっちは着替え中に絡まれて時間取られてんだ、少しは待ってろ」
不満げに眉をひそめた伊織。不機嫌さはあまり感じないが、相変わらず距離が近い。
「なぁんであんたと一緒に移動しないといけないのよ。ほら、とっとと行った行った」
「どうせお前も同じ場所じゃねぇか。一緒に行くぞ」
千郷の言う事など聞かず、強制的に手を引いて行く。
それが火に油を注ぐようなマネになっているなどつゆ知らずに。
どこからどう見たって、千郷が伊織に近づいているのではなく、寧ろその逆だろう。マサだってそうだ。千郷が寄り付いている訳ではない。しかし、そんな事は関係ないのだ。
なぜなら、彼女等は思春期に入りたてのまだ心が幼い小学六年生。昔、どこかの漫画のフレーズで大人でもない子どもでもないというモノがあったような気がするが、十二歳など所詮は我儘な子どもなのだから。
その日の体育はバレーボールだった。続き授業の一環で、バレーの最終日となる今日は試合の日だ。グループは男女混合だが、振り分けは身体能力等を踏まえ担任が作ったらしい。三十名のクラスメイトは丁度五チームに分けられこれで簡易的な試合をするようだ。奇しくも、千郷と正美は同じグループに入っている。
作戦会議の時間が設けられ、体育館のそれぞれで六人ずつ集まって話し合う。
(うわ、あんな事あった後に正美ちゃんと同じか……ま、授業だし仕方ないか)
取り巻きは一緒におらず、正美以外は特段何とも思わない相手だった。正美は仲のいい女子友達と何やら話した後、グループを集めて作戦会議を始めた。
しかし、なんだろうか。全体的に、正美は意図的に千郷を話から外しているように感じる。
テキパキと全体の構成を考える彼女は、リーダーとしては相応しい振る舞いに思えるが……どう考えたって、千郷を意識に入れていない。
「正美ちゃん、私は?」
「うーん。ま、適当にやっといて」
なぜだろうか。その投げやりが、妙にムカついた。が、千郷も子どもではない。呑み込んで「分かった」と返答した。
しかし、正美がどれだけ千郷を煙たがれどバレーはチーム戦だ。目立った仲間外れは出来ない。が、しかしだ。
千郷にパスを回してこない。そう、とにかく千郷にボールを触らせないように立ち振る舞うのだ。明らかに千郷が対応すべきボールも、彼女が阻止する。お陰で思いっきりぶつかって後ろに転んでしまった。
「ご、ごめんね千郷。大丈夫だった?」
そう、心配したような素振りで尋ねてくる正美。
(一見、ただの出しゃばりだけど……)
転んで痛む腰をさすりながら立ち上がる。しかし、千郷からすれば嫌がらせをしたがっているようにしか見えなかった。
正美は、意図的に千郷が上手く参加できないようにしている。しかもこの感じ、相手側の一部メンツもそれに加担している雰囲気だ。加担していると思われる者は皆、彼女の一味であり先程集まって話していた奴等だ。
そうなれば千郷も察する事が出来る。この女、示し合わせているのだ。ただ単に仲良しで集まっているのかと思ったモノだが。全く、女子の結束力はこういう時嫌なモノだ。仲のいい奴等はあえて分けて組を作る計らいが知らぬ所でこんな風に悪用されるとは、先生も気の毒なモノだ。とは言え、六人チームのたった一人ずつに息を掛けた所で、全てが正美の思うように動く訳ではないのだが。
それにしても、手の込んだ嫌がらせだ。千郷が鈍感だったら嫌がらせとも気が付かないだろう。
(やるならもっと分かりやすい嫌がらせにしなさいよ……消しゴム隠すとか……面倒な事になったわね、こりゃ)
千郷にあったのは、怒りではなく呆れだった。
それでも正美の活躍で勝利を重ね、最後の試合相手は同じくまだ負けていないマサのグループだ。
「お、次の相手には千郷がいるのか。ふふ、よろしくね」
体操着というのはお世辞にもカッコいい服では無いはずなのにこうも絵になるのだから、やはり顔が良い事は最強だ。
まぁ、彼は運動音痴なのだが。それでも彼がチームのリーダーで尚且つ無敗なのは、チームメイトの伊織が強いのに加え、彼を前にすると女子が揃いも揃ってかわい子ぶって弱いふりをするからなのだが。先程の女子のわざとらしいサーブミスは、まぁ分かりやすかった。
「おいマサ、わざと勝たせようなんて真似すんじゃねぇよ」
「伊織こそね」
千郷は頭を掻きながら、ちらりと正美の様子を窺う。やはり、あんなことを言ってくるだけあってその眼に好意が見え透いていた。そして今回も、女子の中に一名正美の一味が混じっている。
試合が始まり、それぞれの配置に付く。正美は今回も地味な嫌がらせを見せてくると思いきや、今回に限っては何もしなかった。それもそのはず、好きな人の目の前で意地悪さを見せるような馬鹿な真似はしない。
絶妙に頭を使っていてムカつく。が、まぁ良いだろう。何もして来ないのならそれに越した事はないのだから。
その試合は、意外にもいい勝負を出来ていた。マサの運動音痴は相変わらずだが、伊織がそれをしっかりとカバーしている。
マサはともかく伊織に負けるのはなんか癪で、しかも先程の試合までの鬱憤もあったお陰でその試合で千郷は大層活躍した。だが最終的には向こうのチームに点を取られ、今回の授業内トーナメントではマサチームの優勝となった。
優勝だからと言って特段何かある訳では無いが、体操の後にマサチームの六名が前に呼ばれ、可愛らしいデザインの表彰状のような物が手渡された。そうして皆が拍手を送り、授業終了だ。
「納得いかねぇ……何で一番足引っ張ったおめぇがリーダーなんだよ」
「投票で決まったんだから仕方ないじゃない。ねぇ千郷、僕はこれでも頑張ったんだよ」
教室へ移動中、相変わらず彼等は千郷を挟んで歩いていた。移動教室の度に千郷の両脇にイケメン二人がいるのだ、すっかり「いつもの三人」扱いになっている。
「そうねぇ。マサくんは頑張ってたと思うよ」
「ふふ、ありがとう。千郷も、最後の試合はよく活躍してたじゃない。いい動きだったよ」
「あぁ、それは同意だ。悪かなかったぞ。ただ……」
腕を組んでこくりと頷くが、なぜか最後に言葉を濁された。
何を伝えたいのか分からず、千郷は彼を見て、マサに目を移す。するとどうだ、マサまで微苦笑を浮かべた。一体何なのだ。
「うん。まぁ、これは後ではなそっか。千郷、次の授業に遅れないようにね」
それだけ伝えると、二人で教室に戻る。男子は教室で、女子は同じ階にある何の用途かよく分からない空き教室で着替える事になっているのだ。千郷はそのままその教室に行き、早いとこ着替えてしまおうと体操袋を置いた机に向かう。
「あれ……」
向かったのだが、そこに千郷の体操袋がなく、不思議に思って辺りを探してみれば、机の中にぎゅうぎゅうに詰め込まれているではないか。
視線を上に上げれば、薄ら笑いの正美とその取り巻きがヒソヒソと薄ら笑っているのが見える。
(わ、出たこういうの……ま、ゴミ箱に入れないだけ良心的ね)
どうせやるならゴミ箱に入れればいい物を。こんな隠しているとも言い難い場所に入れるなんて、本当に地味な割に表情は大層な嫌がらせを成したいじめっ子のそれで。
この感じ、鬼の首を取ったようとかいう言葉も使えそうだ。虐められるのは真っ平ごめんだが、この程度の事でダメージを追うと思われているのだろうか。それはそれで不服である。そんな繊細ではないのだ。
とは言え、正美も虐めの加害者にはなりたくないのだろう。上手い事ギリギリのラインを狙おうとしているのか、その日は同じような地味な嫌がらせが続いた。
それでこそ、今だってそう。彼女等は何時ものように楽し気に話しているのだが、その中から「ウザイ~」だかそういう言葉が混じっているのが聞こえ、よく聞けばそれは自分の事を言っているようにも思える内容だ。しかし、恐らくそれを言及した所で気のせいだよと笑われて終わりだろう。そう、直接千郷の名前は出していないのだから。
給食では千郷の分をわざと少なめによそったり、給食中に隣の班から聞こえる話が千郷の苦手な愚痴話だったりとあった。間違いなく正美は千郷がその手の話が苦手な事を知っている。これでもそれなりに仲は良い方だったのだ、ある程度の好き嫌いは知られているし、愚痴が苦手な事は話した事がある。正美も昨日までそんな話はせず、飽きもせずにケーポップとやらのアイドルの話をキャッキャとしていた訳だ。わざとだとしか思えない。
がしかし、これ等もまた言った所で「偶然だ」「あんたの気のせいだ」と返されて終わりだろう。つくづく、嫌がらせのチョイスが質悪い。強いて言うのなら、先程の体操袋に関しては気のせいという言い訳は出来ないだろうが。なんやかんや理由を付けて交わされるのが目に見えている。
この程度を先生に言いつけた所でだ、困らせるだけだろう。
(めんどくさぁ)
焼き鮭は美味しいが、どうも状況で気が重くなる。千郷は繊細な女子ではないが、これが続くかと思うと流石にだ。お陰で大好物があまり美味しく感じない。
「おい、千郷」
そんな時、突然伊織が呼びかけて来て「何よ」と返す。
「縁切りも、御利益の範囲内だ」
たったその一言を告げると、伊織は配膳を片付ける為に立ち上がった。
それは、出来るアピールだろうかと。千郷は疑問に思いつつも、少しだけ気を持ち直したのだ。
昼休み、図書室とかに行っても良かったのだが色々と考えて面倒になって、結局自席に座ってぼーっとしていた。と言うより、半分は睡眠だ。
(あー。これから、どうしよ)
考えていたのは正美の事だった。仲直りという訳にもいかないだろう、彼女と喧嘩をしたわけではない。彼女は千郷がイケメン二人と仲良くつるんでいるのが気にくわないのだから。
じゃあ、二人と関わらなければ正美は満足してくれるのか。そんな簡単な話ではない、席が隣なのだ。それに、絡んでくるのは基本的に向こうからだ。
そもそも、仮にこの二人に関わらずにいたとしてもだ。正美がそれではい終わりとなるとは思えない。千郷は彼女の友達として傍にいたから知っている。実際、終わらない。
(そういえば、伊織が来てから、正美ちゃんあまり話してくれなくなってたな)
思えばそれが警告だったのだ。聞こえてないのかな、今は気分じゃないのかなと呑気に考えていたが、気にくわなかったのだ。転校生の伊織は千郷ばかりに構っている。そして同時に、マサも千郷に寄って行った。正美からして、これ程面白くない状況はない。
(友情って……)
「お、珍しいじゃねぇか石原ぁ! 落ち込んでるって、もしかしてフラれた? え? フラれた?! 誰に誰に? 教えてよぉ!」
考える千郷に、いつものヤンチャの一人がちょっかいかけて来た。
分かりやすく煽ってくるそのわざとらしいウザい表情。暇だから構ってほしいだけの分かりやすいガキだ。見て分からないだろうか、千郷は今乗ってやるような気分ではない。
「はぁぁぁ……あんたって奴は。ほんっと、空気読めないわね……」
「……? あれ、マジで元気なかった系? なんだ、つまんねぇの」
どうやらただぼーっとしているだけだと思っていたのだろう。反応が悪い事に気づくと、つまらなそうに頬杖を付く。
「分かったのなら向こう行った。あんたに付き合う気分じゃないの」
「ちぇー」
全く、ヤンチャ共はどう足掻いたってガキだ、女子同士の問題など気付きやしない。いつになったら落ち着いた大人になるのだろうか。
しかし、バカの相手もたまには悪くない。構ってほしいだけの魂胆が見え見えで、ムカつくがこれでも可愛らしい方なのだ。なんだか、少し気持ちが軽くなった気がする。
(伊織とマサくんが近くにいれば、ちょっかい出してこないのね)
少し客観視出来るようになった思考で、隣で頬杖を付いている伊織を見た。
(わっ。伊織すっごい不機嫌……こりゃ近寄れないわね)
自分の事で精一杯で気が付かなかったが、伊織から見覚えのある不機嫌オーラが出ている。そして、マサからも同じモノを感じた。
マサは近くに来た男子達とにこやかに会話をしているが、その内側が平穏ではない。伊織のとは違って分かりづらく、千郷以外は気付いていなさそうだが。千郷には分かった。いつもの笑顔がなんか怖い。
(ぅえ、マサくんまで。なんか、え? 私の知らない間に何があったの)
「伊織、伊織。何、あんたまたマサくんと喧嘩したの?」
小声で問うと、伊織は「あぁ?」と柄の悪い声を漏らし、彼女に目をやる。
「んな事じゃねぇよ。はぁ……」
「おい、マサ」
溜息を突き、座ったままマサを呼び掛ける。
マサは話していた言葉を止め、小さく伊織に振り向いた。
「うん。分かった」
その返答の瞬間、パッと周りの人間の姿が消える。何もなくただ一瞬で、異空間に飛ばされたような感じだ。
そして、両隣にいるマサと伊織はそれぞれ大人の形をしていた。
「まずは問おうか。千郷よ、我等に話しておくべき事はないか?」
大蛇の尾を引き摺り、一歩を詰め寄る。それに続けるように伊織も腕を組んだまま千郷を見やった。
実際、あるにはある。しかしだ。ここで彼等に告げ口するのは違う気がする。だって、卑怯ではないか? どうにかしてと言えば助けてくれるかもしれない。だが違う。ここで「神様」を頼るのは、違う気がした。
「特にないけど……」
だから千郷は否定した。しかし、神様相手に嘘は通じなかったようだ。
「うむ、飽く迄も我等は頼らぬと申すか。まぁ、そうとは思っておった。汝は強いおなごじゃの。じゃが千郷よ。雄はおなごに頼られると喜ぶモノじゃぞ。特に伊織のような奴はの」
「おい、言い方どうにかならんかったのかよ……だがまぁ。今の状況が不愉快なのには変わりねぇな。祟りの一つや二つ起こしてやってもいい」
「それも良かろう」
普段当たり前のようにそこにいるからあまりそうは感じないが、彼等は列記とした神様なのだ。その気になれば祟りとやらも起こせるのだろう。真面目な顔でサラリと言うが、このままだと大事に成り兼ねない。
「ちょ……! 祟りってそんな大袈裟ね! ただちょっとしたケンカよ」
「あぁ言うのはイジメってんだ」
どのタイミングで知ったのか、何をされていたかは大方分かっているようだ。伊織の眉間にしわが寄っていた。
しかし、千郷は意地でも認めたくなかった。あれは虐めではない、嫌がらせの範囲内だと思いたかった。
「そこまでじゃないわよ、何をそんなに本気になるの。私でどうにか出来る問題だから、とにかく二人は手出ししないで! それに、明日には正美ちゃんも気がすんでいるかもしれないじゃない。それならいじめにはならないわ」
明日も明後日も、継続的に続くようであれば千郷だって考える。だが、事はまだ今日のたった数時間の話だ。たったそれだけ少し嫌な事をされただけで弱音なんて吐いていられない。
だが、彼等は引くと言う事を知らないようだ。
「頑固じゃのぉ。祟り言うてもしにゃぁせん。この先一ヶ月間の運を削ぐか、小遣いを減らすくらいなら良かろう? そもそも、この老いぼれにはそのくらいしか出来ぬしの」
「はっ。そうだな、流石に殺すのは因果にそぐわねぇ。あの娘は本来五年後に良縁に恵まれるが……ま、切った所で世に害はでねぇだろ」
当たり前のように正美を祟ろうとしている彼等を、千郷は慌てて止めに入る。
「だーかーらっ、いらないって! 大袈裟なのよスケールが! やるにしても熱を出すくらいにしてっ!」
「うむ。それは範囲外じゃの……じゃが、これも運を弄れば叶うやもしれぬ。伊織よ、ここは我の出番じゃな」
「本気にしないでよ! いらないって言ってんの!」
千郷は連続で叫んだ事で息を切らし、再び二人に言いつける。
「こんな事で人を祟らないで。これは、私の問題だから。何もしなくていい」
彼女は必至になってこの程度だと意地を張っていた。なぜかと問われれば、本人も分かっていないだろう。
本人が強く拒絶したからだろう。彼女は自力で神域から出て行ったようで、パッと姿を消した。
「ガキが……良縁も腐れば悪縁だってのに。何をあんなに意地になるってんだ」
「うむ。友情も考えモノじゃの」
彼等の意見は同じだった。ただ、本人が断った場合は手出し無用というものだろう。
ただ、彼女が強がりな女であるのと同じように、彼等も黙って手を引くような男ではないのだ。
千郷の言う通り、虐めというのは被害者に継続的に肉体的もしくは精神的苦痛を与える事と定義されている。明日も明後日もこうなら、千郷だって考える。しかし、たった一日のことでどうしてそう断言できようか。
「ね、千郷。ちょっと向こうで話さない?」
であるから、これは虐めではない。正美は、正真正銘の友達なのだから。
入学したての一年生の頃、正美は初めて席替えをした時に隣になった子だった。今でも覚えている、彼女が元気よくおはようと言ってくれた事を。
その時の千郷は少し臆病で、今と違って人と積極的に関われるような子ではなかったのだ。そんな明るい正美に影響されて今の千郷がいる。正美は、小学生になって最初の友達とも言えるのだ。
「なに、正美ちゃん」
「いや、もうすぐ私の誕生日じゃん? だから、千郷に買ってほしいのがあるの」
確か、彼女の誕生日は六月だ。まだ少し先ではあるが、もうすぐといえばすぐかもしれない。
そんな彼女が言ったほしいものというのは、ボールペンだった。彼女の好きなキャラが描かれたグッズの一つで、これを誕生日プレゼントとして買ってきてほしいとの事。
彼女からこうしてプレゼントをリクエストされる事は今までも多くあった。今回もそれだ。
(なんだ、いつものやつじゃない……身構えて損した)
「わかった。じゃ、休み明けにね」
「ありがと。ついでだし、明日一緒に買い物いこ」
ボールペン一本買うだけであれば、明日自分一人で買いに行けばいいのだが。しかし、正美とショッピングモールで遊ぶのはずっと前からやっている事だ。
(普通、あんな事あったタイミングで誘うか……?)
疑問に思いながらも、断りはしなかった。正美は、遊びの誘いを断ると不機嫌になるのだ。最初から了承した方が面倒ではない。
「うん。いいよ」
約束をして教室に戻ると、いつの間にか伊織とマサも席に戻っていた。彼らは何も言ってこなかったため、千郷も特に何か話さずに席に座り、次の授業の準備を始めた。
午後の授業はごく普通の座学であり、その後は何事もなく学校を終え、千郷は今日持って帰る分の教科書を詰め込んだランドセルを背負う。
「帰るぞ」
それとほぼ同時に、伊織が手を引いた。突然の事で驚いてしまうが、伊織の行動が唐突なのはよくある事だ。千郷は「はいはい」と慣れたようにそのまま歩いた。
「千郷。今度また僕の家に遊びに来ない? 今度は普通に歌を教えてあげるからさ」
「言っとくが、千郷を連れていくなら俺もついてくからな。それが条件だ」
「それも良い。久しぶりに、琴の方でも見てあっげよっか?」
「よりによって琴を選ぶんじゃねぇよ……笛なら考えてやる」
大方小学生の会話ではないが、幸い聞こえる範囲に人はいなく、それに違和感を持つ者はいない。
「なに、伊織もマサくんも楽器できるの? すごいわね」
「雅楽は必要な教養だからね。伊織ったら、琴の系統だけてんでダメでねぇ。少しはマシになってるといいけど」
「俺自身がやる事なんざ滅多にないんだからいいだろうがよ。んな事より、千郷に舞を教えるべきだ」
「巫女舞は僕が教えられるもんじゃないけど……あ、だけど教師の心当たりはあるよ」
話が勝手に進められそうだと気付き、千郷は会話に割り込んだ。
「なんか、話がやる前提になってない? やらないからね?」
この二人は、一体千郷を何にしたいのだろうか。ダンスはしたことがないが、多分苦手だろうと、本人が思っているのだ。
「千郷なら練習すればすぐ出来るようになるよ」
そんなマサの確証もない言葉で後押しはされないが。
「マサくん、それよりも歌は教えてほしい」
「うん、それは勿論。じゃあ僕の家においで。伊織も一緒でもいいからね」
「言われなくともそのつもりだ」
保護者面なのか彼氏面なのか、何にせよ千郷はそれに対しては何も言わなかった。実際、いた方が楽しいだろうし。
「明日か?」
「そうだね、明日は休みだし。丁度いいじゃない」
二人は千郷を置いて話を進めようとした。だが、千郷には先約がある。
「ごめん、明日は用事があるの」
正直に言えば、今日のすぐ後に正美とショッピングに行きたいかと言われれば微妙だが。しかし約束は約束だ。
正美と、なんて言えば彼等はまだ何かしでかそうとするかもしれない。だからあえてそこはぼかした。
「そっか」
マサからも伊織からもそれ以上の追及はされずに、そのまま道を分かれた。
しかし――
「ははっ、奇遇だね。千郷」
「あぁ。本当に奇遇だ」
この二人は、千郷が思っている以上に粘着質なのかもしれない。
近所の小学生たちがよく遊びに行くこのショッピングモール。広さ自体は大きいわけではないが、ゲームセンターもあってそれなりに遊べる場所だ。であるから、こうして休日遊びに行ったら偶然バッタリ……なんていうのは珍しくはない。まぁ、そこまでよく起こるもんでもないが。だが、これはどう考えてもわざとらし過ぎる。二人そろって奇遇だとアピールしているが。よもやそれを信じるわけがないだろう。一緒にいる正美達は、イケメン二人に見惚れているようで気づいていなさそうだ。
子供のはしゃぎ声とそれを咎める親の声、その他多くのざわめきの中、イケメン小学生二人にジト目を向けていたのは千郷だけだった。
「なんでいるのよ……」
「なんでって、そりゃね? 買い物に決まってるじゃない。伊織が読んでる漫画の最新刊が出たみたいだからさ、付き合ってあげてるの」
「あぁ、そうだ。マサが暇してるみたいだからな、誘ってやった」
なんて言っているが、おそらく取ってつけた理由だろう。証拠に、一瞬だけ伊織が何か言いたげにマサを見ていた。
「丁度いい。俺等も邪魔するぞ」
ごく自然に、一緒についてくる。これじゃあ全く隠す気がないじゃないかと。千郷は正美の顔を伺う。
「あ、ちょ……正美ちゃん、大丈夫?」
「私達は構わないよ! ね、みんな」
「うんうん!」
「むしろ大歓迎って感じ!」
まぁ、ここでダメと言うわけがないだろう。分かっていた。
この二人は、何かと強引で困る。だが、それからまた少し店を回っている間、千郷は少しだけ思い直した。
二人が入ってきてくれた事は、千郷にとって都合がよかったのだ。今や正美達の会話の主はケーポップとやらで付いていけないし、そうでなくともよく一緒に遊ぶ割になんとなく仲間外れ感があり、楽しいかと問われると正直微妙だ。いつものチームの中にたまに入る二軍的な存在なのだから、そりゃそうだと言われればそうなのだが。その中に伊織とマサがいるだけで、大分居心地がよくなった……気がする。
正美達が好きなアイドルグループの話で盛り上がっている中、話についていけない千郷は伊織とマサとで話した。時折正美が話に入れようと話題を振ってくるが、結果的に伊織にぶった切られ、実質的には二つに分断されている状態だった。
正美はなんだか気にくわなそうだったが、言葉には出さずにいた。
そうして遊んでいるうちにお昼時になり、皆でフードコート内で売られているクレープを食べる事になった。クレープはどう考えたってご飯ではないが、親もいない事だしたまにはいいだろうとそれぞれが好きな味をチョイスして、空いているソファー席に座った。
「千郷。クレープ好きなの?」
「まぁ、そうね。好きな方よ」
「よく分からねぇな。甘いだけじゃねぇか」
「その甘いのがいいんじゃないの、伊織は分かってないねぇ」
「何言ってんだよ。お前も甘いの得意じゃなかっただろうが、覚えてるぞ」
伊織はおかずクレープを食べながら悪態をついた。それに対してマサは「バレたかぁ」と笑う。
「もう、なにやってんのよ二人共……」
近くから敵意を感じながら、千郷は二人を見て微苦笑を浮かべる。
伊織達が混ざってくれたお陰で多少やりやすくなったが、比例して正美の一味からの視線が痛くなった。そりゃまぁ、そうなるだろう。しかしこの女共、分かりやすいことに伊織かマサが振り向くとその敵意を引っ込め可愛い子ぶる。まぁなんとも、分かりやすい。
マサは食べたクレープのゴミをゴミ箱に入れ、口を開く。
「だけど、たまたまここに遊びに来てて良かったなぁ。今日、本当は千郷と遊びたくて誘ってたんだけど、先約って正美ちゃん達だったんだね」
「千郷と……?」
正美が怪訝そうに問いかけた。余程その情報が不意打ちだったのだろう、今回ばかりは隠せていない。
「うん。伊織と千郷とで、僕の家に遊びに来ないかって。断られた時は残念だったけど、伊織が漫画買いに行きたいとか言い出してくれてほんと良かったよ。……ね?」
「ねぇ正美ちゃん。千郷への要は済んだ? だったら、僕達が連れてっていいかな?」
マサは追い打ちをかけるように続けた。それは、いつも通りの爽やかな笑みだったが、千郷にはどうもその裏がおぞましく思え、間に入ろうと体を動かしたがすかさず伊織の手で軽く阻止された。
「う、うん。いいよ」
「ありがとうね。じゃ、また明後日学校でね。ほら、伊織も挨拶する」
「わーってるよ。じゃあな」
行くぞと呼ばれ、千郷はいろいろと言いたげな視線を感じながら手を引かれた。
正美達から離れ連れられたのは、ショッピングモールのすぐ外にあるのカフェだった。有名はなコーヒー店とだけあって若い男女が多くいて、コーヒー片手にパソコンをする大学生の姿も見える。小学生の三人は多少浮いているように思えるが、当然伊織とマサは気にしていなかった。
レジで注文したのは、伊織もマサもブラックのコーヒーだった。店員からは女の子を前に格好つけたがっていると思われていただろう。しかし、彼等はごく平然とブラックを飲んでいる。
「二人はさ、少しは小学生になりきろうって気はないの?」
「僕はなりきってるじゃない? 甘いものが得意じゃない子どもだっているさ」
「誰が好き好んでガキの真似事するかよ」
とは言うが、今の光景は傍から見れば子どもが大人の真似事をしているモノだろうが。
千郷は机に頬杖を突き、そんな彼等を見つめる。
「もう、そんな見ないでよ。照れちゃうな」
「ジジイが何言ってんだ。千郷、何か言いたい事でもあんのか?」
「いや。ほんと、罪な顔面よね」
本当にただ思った事だった。なまじっか二人の顔面が良いお陰で、友達に妬まれているのだ。とは言え二人が悪い訳ではないのだが。
(女の友情は男がらみですぐ壊れるって、ママ言ってたしな)
母親の知恵袋から教わった情報では、確かにそんな物がある。それを思い返しながら、イチゴミルクを飲んでいると、伊織の視線を感じる。
何か言いたいことがあるのだろうが、本人が言うまでは触れないでおこうと思った矢先、伊織が口を開く。
「あまり言いたくはねぇが。正美は、お前を友達だとは思ってねぇぞ」
「……は?」
ぽかんと言葉を返した。
あまり信じたくない事が聞こえたような気がする。伺うような視線を伊織に向ければ、真剣にこちらを見ていた彼と目が合う。
「良縁にしては濁っているが、悪縁にしては綺麗な……お前らの間にあるのは、場合によってはどちらにでもなる、今時珍しきゃねぇ面倒な縁だ」
「その上でよく聞け。お前らの場合、それは悪い方の腐れ縁だ。お前にとっちゃ入学して出来た最初の友達だろうな。だが、向こうからすりゃ気まぐれに世話を焼いたら懐いてきたから面倒を見続けて、上手い事使ってやってる存在だ。お前がこれを友情と定義したいのなら好きにすりゃいいが、俺はそうは思わないね」
理解しがたいが、頭はハッキリとその意味を吞み込んでいた。
今までの正美との付き合いが思い返された。
誕生日に欲しいと言われたものを言われたままにプレゼントしてあげて、さて、自分がもらったことはあっただろうか。彼女の言う友達の輪に、本当に入れてもらえていたのだろうか……薄々、気付いてはいたのだ。
「仮にそうだとしても、なんであんたが知ってるのよ」
「『縁の神』だからだよ」
平然と答えた彼の目は、確かに人のモノではなかったように思えた。
「……ま、んな事はどうでもいい。千郷、付いて来い」
「どこに行くの?」
「昨日話したろ。マサん家だよ」
「うん。先約が終わったんだから、今度は僕達に付き合ってよね」
その時、千郷はそれなりに落ち込んでいた。気づかないフリをしていた事実を、デタラメを言っているんだろうと笑えない相手に突きつけられてしまったから。一瞬にして大打撃を与えられたようなモノで、半場強引な神様の手を払う気力がなかったのだ。
ここからマサの家までどのくらい歩くのだろうか。そう思った矢先に瞬時に場所が飛んで、そこは既に三度目に見る家の中だった。
足元にはあの蛇がいて、三人の姿を見るや否やシュルルと舌を出す。
――傷心した乙女を連れ入るとは。大君、隠するおつもりで?
「千郷が怯えかねん事を言うでない、来縁じゃないのだからそんな事はせん」
「……? 待てコラ! 今の情報初耳だぞどういう事だ!?」
「安心せい、奴は幼女趣味はなかった。隠したのはある程度成熟したおなごじゃ」
「別に幼女趣味だった事を心配している訳じゃねぇよ!」
「うむ、言いたいことは分かるぞ伊織よ。じゃが、我等世代だとそこらの判定も甘かったのじゃよ」
彼等が何を話しているのか分からず、千郷はひそかにしゃがんで蛇に問う。
「なに、どういう事?」
――神の界隈では、神隠しは禁止事項とされている。許可すれば忽ち無法地帯となる故に。
――だが、いお坊の父君たる来縁殿は、種族問わず気に入ったおなごを隠した上で娶る事はザラにあった。大君の同輩にはよくある事だ。
「ダメな事なのに?」
――自分勝手なのは、神が神たる所以。
なんだか納得いかないが。神の傍にいる者が言うのなら間違いないだろう。実際、千郷はこうして半分強制的に連れてこられたのだから。
しゃがんだまま伊織とマサに顔を向けると、彼等はまだ言い争っている。と言うより、伊織が一方的に噛みついているのだが。
「まぁいい、俺には関係ない話だ」
最終的にその一言で収着した。その中でマサは微かに視線を逸らすように動かしたが、特段何かを返す訳ではなく、「うむ」と頷いた。
「千郷よ、そこで楽にするとよい。我等は、汝の為になる事をしてやりたいのじゃ」
「う、うん」
拒否をする理由もなく、千郷は言われたままに楽な体制で座る。畳はそれなりに固いが、座布団のおかげで気にはならない。
(私のためになる事って、なにするつもりなんだろ?)
そういえば、琴とかの楽器ができると言っていた。もしかして演奏でもしてくれるのだろうか。思った途端、小学生の伊織が目を瞑り、弱い光の渦に包まれた。ほんの一瞬彼の姿が隠された後に、そこに澄まして座っていたのは、千郷の座高よりも大きな背格好の大狐だった。
「特別サービスだ、感謝しろ」
狐姿のフンと笑うと、首につけられた鈴がちりんと鳴る。
髪色と同じく濁りない黒で美しい毛並みは、見るからにさわり心地が良さそうで。モフモフという擬音が視界に見えそうなほどだ。
伊織は小さく鈴の音を鳴らしながら千郷の傍により、彼女の体を包むように横になる。触れ合った体に伝わるモフモフはかなりの癒しだ。
「伊織、あんた、本当に狐だったのね……」
膝の上に乗せられた尻尾を思う存分にわしゃわしゃと触れ、頬を緩ませる。
いい。とてもいい。動物は癒しだとよく言うが、まさにそれだ。人間にはないこのモフモフが、触れていて何よりも心地いい。そのお陰でなんだか眠くなってくる。
「てか、黒なのね。青狐って呼ばれてたのに」
何気ない感想を漏らすと、マサが笑う。
「うむ。汝は青二才という言葉は知らぬのか?」
「あおにさい? なにそれ?」
「んな言葉ガキが覚えるもんじゃねえよ」
伊織の大きな尻尾が、彼女の膝をペシンと軽く叩いた。
「雅。俺が本相なってやったんだから、お前もそうするのが筋ってもんじゃねぇか?」
「知っての通り、我は蛇じゃ。鱗ではおなごを喜ばせられぬのでの」
マサはほほほと笑い、その姿を大人の雅へと戻す。
「無駄に大きい蛇より、こっちの方がよいじゃろう? なぁ、千郷よ」
雅は優雅に微笑み、千郷の頬を撫でた。それは女を堕とそうとする男の行為そのモノだろう。伊織は狐の顔だというのにも関わらず分かりやすく顔をしかめ、その手を尻尾で叩いた。先ほどと違い、容赦の欠片も見当たらない勢いで。
「昔っから思ってたがお前も体外女たらしだなっ!」
「ほんの戯れじゃろうて。全く、老体には優しくせんか」
思いっきり叩かれた手のひらを摩りながらぼやく。見た目が若いから猶更冗談に聞こえるが、実際老体なのだ。
「千郷、こいつの甘言は信じない方がいい。蛇は戯言ばかり吐きやがる」
「酷い風評被害じゃな。嘘は一つも言っとらんのにのぉ」
なんて言いながらその手は懲りずに千郷の頭を撫でていた。が、伊織からしてこれはオッケーみたいだ。
しかし、こうして撫でられるのは千郷として良くない。嫌なのでなく、純粋に気恥ずかしいのだ。
「撫でないでよ、恥ずかしいじゃない……」
「何、子は子らしく守られているがよい。よく言うじゃろ、七つまでは神の内じゃ」
千郷は知っていたが、よくは言わないと思う。それよりなにより、千郷は十二歳だ。
「私もう十二なんですけど」
意識が大人になり始める年頃の乙女からすれば、七歳と同じ扱いをされるのは多少不服のようだ。文句の一つでも言うが、雅相手に意味は成さない。
「それは誤差の範囲内じゃ。のぅ、伊織よ?」
「ま、そうだな。ガキはガキだ」
二人してそう言い切って、千郷は全く遺憾だと膨れる。
しかし、そんな気持ちも段々と湧き上がってくる眠気には勝てずに散乱した。うとうとしながら小さく欠伸をすると、横になりたがる意識に従い伊織にもたれかかった。
「おっきい犬飼うの、夢なのよね」
なんて、寝ているに等しいぽやっとした声で呟き、間もなく眠りに入る。
千郷が子ども扱いされると不服なのと同じように、伊織からして大きい犬と同義されるのは遺憾だったようだ。
「誰が犬だ、誰がぁ……」
「狐はイヌ科じゃからのぉ」
雅は笑った。その後に、スヤスヤと眠る千郷を目に映した。強がりで多少大人ぶりたい部分もあるようだが、寝顔はまだまだ子どもらしい。
それは、神を前に無防備極まりない姿だった。
「今も昔も、子は簡単に眠るのぉ。全盛期の我であれば隠したぞ」
「だとしても、俺は意地でも阻止するけどな」
「知っておる。しっかりと印を持たせおって、狐の縄張り意識は見上げたものじゃ。汝こそ触れられたくないのなら隠せばよい話じゃろうに」
細められた瞳には、ポケットからはみ出たキーホルダーが見えていた。根付紐に繋がる小さな鈴、飾られたふわふわとしたモノは狐の尻尾を連想させる。探せばどこにでも売っていそうな可愛らしいキーホルダー、しかし、そこには確かに、人の目には捉えられぬ「気」があった。
「ガキに興味はねぇんだよ」
伊織はフイと顔を逸らしたが、尻尾の先は優しく眠る子をあやしていた。それでも彼の眼は真っ直ぐと雅を見ており、まるで近寄るなと牽制しているかのようだ。
「……分からぬの。であれば猶更、隠せばよいじゃろうに」
「おなごであれば、七つと言わずとも初潮を迎えておらぬ内はまだ神に近しかろう。掴み易い所にいるうちに攫ってしまえばよい。現世との繋がりを断ち切り記憶をもなくしてしまえば、それはもう汝だけの花じゃ。安全圏で囲い、時を待てばよい」
「汝は、なぜそれをせぬ?」
これは戯れでも何でもない、疑問だ。ゆらりと細められた目には、人らしいモノが見当たらない。
気に入ったのなら隠して自分だけの存在にしてしまえばいい――その感性は人間には理解しがたいだろう。しかし、いくら見てくれで同じ形をとる事が出来ようと、それは人とは違う。元より違う生物だというのに、神と人の倫理観が同じな訳がないだろう。ほんの少しでも被害者を減らす為に、人に同調した規則がある。それだけだ。
「それは、なんか嫌だ」
「そうか。であれば、頑張って守るがよいぞ」
雅の言葉を、伊織はふんと笑い飛ばす。
そんな神様の会話を他所に、千郷は呑気に眠っていた。
本当であれば、彼女と正美の間にある縁を切れば早い話。だが本人が望まぬ縁切りはしてはいけない。きっと、友達だと思われていなかったことを知っても尚、彼女は頑なにそれを望まないだろう。
そうなればこうしてやる他ない。人間は寝るのが最大のストレス発散なのだ。
千郷はぬくもりを感じながら目を覚ました。やけにすっきりとした目覚めで、小さな声を漏らしながら起き上がると、隣の伊織も一緒に昼寝していた事に気が付いた。
やはり、こうしてみると大きな犬のようだ。反対側を見やると、雅が胡坐をかいて何やら古い本を読んでいる。
「おはよう千郷、よく眠れたか?」
「雅くん。うん、なんか、お昼寝とか久しぶりにしたわ」
「うむ、良い事じゃ」
本を閉じ床に置くと、雅は伸ばした手を伊織の毛並みに沿って撫でる。
「汝を寝かしつけている内に自身をも眠くなってしまったようでの。この通り、伊織もぐっすりじゃ。今のうちに撫でておくとよいぞ、伊織は中々本相を見せたがらぬのでの」
「そうなのね……」
「では我は、伊織が寝ている間に汝を堪能しようかのぉ」
モフモフを堪能していると、不意に背後から引き寄せられ彼の胸に背が付く。膝に座るような形でだっこされ、千郷は顔を赤くした。
「ちまっこい体じゃ。かわゆいのぉ、子猫のようじゃ」
「はぁ……汝も、瞬く間に大きくなってしまうのかの。子の成熟は待ち遠しいが、惜しくもある。伊織とて撫でたら喜ぶような愛らしい時代はあったのじゃ。それがあんな生意気に育って、我は少し寂しいのじゃ。じゃから、汝の成長はゆっくりで良いぞ。何せ我には悠久の時がある」
まだ小さな子どもの手を取り慈しむ。そこには小さな子にするかのような可愛がりに混じって、女を愛でる手つきも感じられた。女を愛でる男の手など千郷が知る由もないが、なんとなくそれを感じたのだ。
「汝が成熟したその時には、我を望んでくれぬか?」
耳元で問われたその声で、千郷の頭がポッと熱くなりほぼ限界値を超えた。仮にも片思いをしていた相手の大人になった声だ、純情な乙女には十分な要素だった。
「あ、あぁ、そ、その時になったら、か、考えるわ」
「ほほほ、初心じゃの。良いぞ、我は初物も好きな方じゃ」
千郷の返答にご満悦に笑う雅。それから間髪入れず、伊織の尻尾が彼の太ももをバチンと弾いた。
「誰に許可取って手ぇ出そうとしてんだ、クソジジイが」
「なんじゃ、起きてしもうたか……アプローチくらいよかろうに。確かにこ奴は汝と繋がっておるが、まだ本人が汝を選んで契った訳ではなかろう? であれば、まだ我にも機会はある」
膝に乗せた千郷をぎゅっと抱き、そのまま撫でる。
「我とてこ奴を気に入っておるのじゃ。横取りされたくなければ、汝が頑張ればよかろう。な、千郷?」
「私に話ふらないでほしい……」
切実に、今なんと答えても二人が喧嘩する未来しか見えないのだ。
困っている千郷に、伊織は「相手しなくていい」と呆れたように言う。
「んな事より千郷、手を放せ」
伊織の横目には、尻尾の根っこを掴んだままの千郷の手があった。ずっと握っていた事を言われて気付いた千郷は、ついなんだか恥ずかしく思いながら手を離した。
離すと途端に伊織は人の姿に化け、「やっと戻れた」と呟く。本来の姿はあの狐の姿だろうに、少し不思議だ。
さて、そうしてお昼寝をした後は、昨日話した通り雅に歌を教えてもらった。とはいえ、相変わらずの音痴はすぐには治らないだろうが。だけど、ほんの少しだけ音程が取れるようになった気がする。
「うむ、そこそこ良くなったではないか。よく頑張ったぞ」
「あぁ。大分マシになったな、少なくとも経ではねぇ」
試しに、音楽のテストでやった歌をもう一度二人を前にして歌ってみると、そんな評価をもらえた。
伊織のセリフは褒めているか微妙だが、それでも満更でもない。そんな事をしていたら時は夕方になり、そろそろ帰らなければいけない時だ。
「私、そろそろ帰らなきゃ。門限こえちゃう」
「そうか。じゃあ俺も帰る」
スマホが示した時間を見ていそいそと立ち上がる。続けて伊織も立ち上がり、小学生の姿へと化けた。
「行くぞ、千郷。送ってやる」
「はいはい。じゃあ、またね雅くん」
「あぁ、またの。千郷、伊織」
軽く手を上げ二人を見送る。いつも学校の帰り道と同じように、彼等の姿は風に消し去られる煙のように見えなくなった。
外見だけはどこにでもある一軒家である雅の家を出て、千郷は付いてくる伊織と一緒に自宅に向かう。学校からの帰宅も時もいつもそうだから、もう慣れたモノだが。
「じゃあ、また学校で」
「おう。またな」
千郷が無事家に帰ったのを見ると、伊織も自身の住処に引き返した。
上結伊織の実家という設定の續結神社に隣接する民家には、神社を切り盛りする若い夫婦が住んでいる。この上結家が「伊織くん」の家という設定にしているのだ。しかし、実際に帰るのはその民家ではない。境内に入ると彼は神としての己に戻り、社の中に入る。
いつも通り、彼はそこで眠ろうと思った。
思った、のだが――
「よぉ末弟よ!」
中に先にいたその狐を目に、伊織は舌打ちと共にあからさまな嫌な顔を浮かべた。
「おいおい、んな反応すんなよ傷つくなぁ! お兄ちゃんのハートは繊細なんだぞっ」
黄色の毛並みを持つ大きな狐は、わざとらしく悲しむ素振りをしている。しかし、彼の座っているそこは紛れもなく伊織の布団であり、今まさに伊織が行こうとしていた定位置だ。
「どけ。そんでもって帰れ」
雅相手以上に冷たい目を向け言いつけるが、狐に効いている様子はさらさらないようで、ケラケラと笑って言った。
「あぁそうだ、末弟よ。おめぇ随分と気に入ってる娘がいるようじゃねぇか? お兄ちゃんは知っているぞぉ、石原千郷とかいう娘だろ? いやーあの子、俺も結構好みっ! だけどお兄ちゃん優しいから、お前の獲物は追わないのだ! ガハハっ、どうだ? 優しいだろ?!」
「そんでもって、そんな心優しいお兄ちゃん! お前の為に千郷ちゃんの悪縁一つ切っておいたぜっ! まだ復興の余地はある縁だったが、虐められちゃぁ可哀そうだもんなぁ。あぁこの俺、なんて慈悲深いっ!」
狐は一人でペラペラと喋り、滑稽なまでな動きを見せる。いつもならはいはいと流すのだが、伊織の耳にはそうとは流せない事が聞こえていた。
「待て。今、なんつったか」
「んー? あぁこの俺、なんて慈悲深いっ! って言ったぜ」
「その前だ!」
「俺が優しいってところかぁ?」
「悪縁切ったの所だバカ狐!」
「そこだったかぁー、惜しいっ! おう、切ったぞ切ったぞぉ~。見事にきっぱり、綺麗になっ!」
清々しいまでの笑みを見せる狐は、ひょいと飛び上がり顔をしかめる弟の足元に立つ。
「なぁに安心しろ、悪い事は起こらねぇ。ただそのー、正美? 正美とかいう奴が親の突然の転勤でお引越し! ってだけだ。これから波に乗った父親は給料上がって家族も幸せ、千郷ちゃんは虐めっ子の恐怖から逃れ、お前の憂いもなくなる、オールオッケーェ! って事だ、この心優しくも慈悲深い長兄に感謝しろよ末弟よ! それじゃあ、また会おう!」
狐は伊織の反論も聞かずに、宙でクルリと周りポンと姿を消す。
うるさいのが居なくなると一気に場は静まるが、伊織の中に沸いた感情は沸々と表に出てくる。
「クソ野郎が……っ」
それは、怒りだった。伊織は毒を吐きながら定位置に胡坐をかき、目を瞑って切ったと言う縁を確認した。
見るからに拗れていた腐れ縁。本人の言った通り、しっかりと綺麗に切られ、その糸はもう繋がっていない。
それは、本人が望むなら直ぐにでも切ってやった縁だ。しかし、本人は事実を知っても尚、心の底でそれは望んでいなかった。であるなら、それは彼女の成長の為のモノだったのだろう。言い換えれば試練とも言える、要するに、切らない方が良かった縁だ。
伊織には分からない。これは千郷の為になるのだろうか。そもそも、長い目で見た将来と今、優先すべきはどちらだろうか。糸の切れ口を指で挟み、真っ直ぐな断面を見やる。
「どっちにせよ、もうどうしようもねぇか」
切れたモノは切れたのだ、今更何を考えても意味はない。
それよりもだ。今気にするべきは、あの自由奔放な野郎の事だ。
(今更何しに来たんだ、あの野郎……)
考えて痛む頭を抱える。こうなったら、もう寝てしまおう。どうせ明日も休みだ、惰眠するくらいは許されよう。
不本意ながら、伊織は本相に戻って布団に横になった。兄が図々しく座っていた同じ場所では人の姿で横になりたくなかったのだ。何もそこに抜け毛があるわけではないが、気分的な問題だ。
月曜日、学校に行けば案の定、そこに正美の姿は見えなかった。そうして、朝の会で担任より告げられた、正美の親の転勤による突然の転校でクラス内はざわざわとする。そりゃそうだろう、そんな素振り一切なかったのだから。
横から疑念の目を感じた。伊織は頬杖を突き、俺のせいじゃないと千郷だけに聞こえるように伝えた。
正美の一件は、こうして何事もなしに事を終えた。半場強制的に終わらせられたようなモノだが。
同じ日の帰り道、千郷はこう言った。
「正美ちゃんの事、どんな反応したらいいのかわからないわ」
こんな風になって、すっきりと晴れる訳がない。人間関係は良いと悪いの二極端ではない、それが友達だと思っていた相手なら猶更複雑だろう。五年間積み重ねた友情は、一方的な思い違いだったとしても確かにそこにあったのだから。
「すまない」
「あんたがやった事じゃないんでしょ? それならあんたが謝る必要はないじゃない」
「身内の責は俺の責だ」
伊織の言葉には悔しさと責任感に似た何かを感じられた。千郷からすれば、初めて見るような彼の表情。その正体が何か、千郷には分からなかった。
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