【第2話】クラスの「イケメンくん」の正体
次の日の朝――
「千郷ちゃん」
学校に向かう千郷に声を掛けたのは、爽やかな笑みを浮かべたマサだった。
「マ、マサくん! おはよう」
「うん、おはよう」
ごく自然に隣に並んで歩く。同じ学校に行くのだ、そりゃ勿論道は同じだ。しかし、わざわざ隣を歩くとは……今までこんな事は無かった!
ドキドキしている千郷。隣に好きな人が歩いているのだから、緊張しない訳がない。
そんな時、見計らったようなタイミングで何処からか伊織が歩いてくる。
「おい、千郷」
「あぁ、伊織。おはよ」
伊織は相変わらず不機嫌そうな表情だ、千郷の返答も明らかにマサへの態度と違うし、なんであれば向けた顔も大分違う。こうも分かりやすい彼女に、マサは小さく笑いながら伊織に顔を向ける。
「おはよう、伊織くん。今日も会えて嬉しいよ」
「御託は結構だ。とっとと行くぞ、千郷」
「ちょ、待ちなさいよ! なんでわざわざ手引くのよ!」
しかし、問答無用に先に進む。横目でマサを一瞥する伊織の目は、誰がどう見ても分かる程に敵意があった。
「睨まれてしもうたか。狐の眼は鋭いのぉ……」
一人置いていかれてしまったマサは、ひっそりと呟いた。
「お、マサ~! おーはよっ」
「あ、おはよう田中くん。今日も元気だね」
「おうよ! 今日朝ごはんに残りのカレー食ったんだ、元気もりもりだぜ」
「ふふっ。それは何より」
後ろから走って来た男児と共に、いつもの道を辿った。マサには、既に大分先を歩いている伊織と千郷の言い合いの声がはっきりと聞こえていた。
今日の学校で、千郷はソワソワして仕方がなかった。なぜこんなにも落ち着きがないのかと言えば、昨日転校生というていで学校に乗り込んで来た伊織が、今日はやけに引っ付いてくるからだ。
話しかけられる訳ではなく、無駄に絡んでくる事もない。本当にただ傍にいる。移動教室の時も、特段何か話す訳でもないのに横に歩いている。偶然やら同じ場所に行くからとかではなく、どう見たって意図的に一緒に行動してくるのだ、気味が悪いったらありゃしない。
一日そんな調子で、帰りの時間にまで行ってしまった。帰り道も当たり前のように一緒にいる伊織に、千郷はずっとずっと一つ言ってやりたかったが、伊織から発せられる威嚇のような険しい雰囲気で、話しかけられるような空気感では無かったのだ。
しかし、不自然な同行も一日続けば我慢も出来なくなる。
「ちょっと! 今日一日なんだったのよ!」
伊織と出会った場所と同じ神社。転校生の伊織くんの実家と設定されている續結神社で、千郷は大人の姿になった伊織に抗議した。
あんなに付きっ切りでは、付き合っていると思われてしまうではないか。伊織から放たれる不機嫌オーラで、ヤンチャ者達は絡んでこなかったが、絡んでこなかっただけだろう。
そんな千郷は、威嚇する小猫のようだった。であれば伊織は、その相手をしてやる大型犬だろうか。
「お前、本気でマサがただの小学生だとでも思ってんのか」
「ぅえ?」
呆れたような表情で振り向いた伊織に、千郷はそんな素っ頓狂な声を漏らした。
冗談を言われたような雰囲気ではない。しかし、言われた言葉の内容は今一頭に入ってこなかった。
この男、何と言ったか。その言い草ではまるで、マサが本当は人間じゃないようではないか。
「マサくんが……いや、マサくんは人間でしょ! どう見たってそうじゃない、何言ってんのよ!」
必死の否定だった。しかし、伊織は更に呆れ顔を深めて溜息をつく。
「お前、俺という存在を知って尚それを言えるのか……おめでたい頭だな」
そう言った伊織は、そこらにいる成人男性……いや、普通より大分顔が良いが。とにかく、人間となんら変わりない形をしている。
そう、彼も「どう見たって人間」なのだ。
千郷は、なんとも分かりやすくハッとした。伊織が人間でないのなら、あの「マサくん」だって、同じ事が言えてもなんら変ではない。
「気付いたのなら、あの男には警戒する事だ。仮にもお前は、俺と『繋がった』女なんだ、他所に横取りされちゃ困る」
相変わらず俺様な物言いで告げると、彼は煙に巻かれるように姿を消す。
しかし、意味深なお告げで納得できるような千郷ではない。マサが本当は何者なのか、警戒しないといけないような相手なのか、きちんと説明をしてくれないと合点がいかない。
「ったく、何がなんだかよく分からないわよ」
ぼやきながら境内から出る為踵を返す。するとどうだ、直ぐ後ろの足元に、真っ白な蛇がいるではないか。
「へ、ヘビ……!?」
「ははっ。蛇だなんて、初めて言われたな」
改めて見てみれば、そこにいたのは蛇なんかではなくマサだった。一度家に帰った後のようで、ランドセルは背負ってない身一つだ。
警戒しろと言われた相手にこうも早速出くわすとは。いつもと違った意味でたじろいでしまう。
「マサくん……ご、ごめんね。なんか、変な見間違いしちゃった」
「いいよいいよ。それにしても、放課後に千郷ちゃんに会えるなんて、今日の僕はちょっと付いているね。千郷ちゃんは、お参り?」
「ま、まぁそんな所!」
「そっか。と言う事は、恋愛祈願かな? ふふ、千郷ちゃんにも可愛い所があるんだね」
片想い中の相手に可愛いの類いの言葉を言われて、顔を赤くしない乙女はいないだろう。
「知ってる? ここの神様って今でこそ縁結びの役割を持っているけど、一昔前までは『子孫繁栄』だったんだよ」
ぽぽっとした顔を背けた彼女の横まで歩み寄り、尋ねてくる。
「少し前までここにいた神様はね、沢山の妾を抱えていたんだ。勿論、子どもも沢山さ。子孫繁栄を司るだけあるよね。沢山の美しい女の子に囲まれて、沢山の子どもを残して。その代わり、後継者争いは尽きなかったようだよ」
「それ、本当の話……?」
「さぁ、どうでしょう?」
わざとらしい笑みを浮かべ、首を傾げる。
千郷の訝し気な表情を横目にマサは彼女を通り過ぎ、社の前に立つ。
「さて、折角遊びに来たんだから、僕もここの神様に挨拶しておかないとね」
お賽銭を投げ、お参りをする。神社に来たのなら普通の事だ。しかし、千郷はなぜだかそこに妙な違和感があるように思ってしまった。
合わせた手を離し、立ち尽くす千郷の前に戻ってくる。
「ねぇ千郷ちゃん、この後少し遊びにいかない? 確か、猫好きだったよね。近くに野良猫ちゃんがよく集まっている場所があるんだ。一緒に行こうよ」
流れるようなお誘いに、千郷は言葉を迷わせた。
片想い中の相手とデートできるチャンスだ。しかし、彼は人間ではないという情報がずっと頭の中にグルグル回っている。
数秒の沈黙が流れる。そこに現れたのは、小学生の姿をした伊織だ。
「その話、俺も行かせてもらおう」
「あぁ、伊織くん。だけど、お手伝いがあるんじゃなかったっけ? 大丈夫なの?」
「あれはガキを追い払うための虚言だ。俺も行かせろ、それが千郷を連れまわす条件だ」
「ふふっ……そうかい。いいよ、伊織くんも一緒に行こうか。いいよね? 千郷ちゃん」
話しは千郷に降りかかって来る。千郷は頭がこんがらがったまま、こくりと一つ頷いた。
そうして始まった放課後デート(?)。例の場所は公園の裏のようで、何の用途かはよく分からない建物の裏側に猫が溜まっていた。
猫は三人が来るとぞろぞろと顔を上げ、餌をくれるかどうかの品定めをし出す。そんな中で、マサが静かに猫用にぼしの袋を取り出せば、彼等は目の色を変えてマサに群がった。
「にゃーにゃーぁ!」
「はいはい、順番だよ皆。千郷ちゃん。ほらこれ、あげてやりな、野生動物はご飯をくれる人に懐くんだ」
器にした手ににぼしをじゃらじゃらと注ぐ。すると、野良猫達は千郷の手に一斉に顔を突っ込み、思い思いにおかしを食す。
「ちょ、やめ、あははっ、くすぐったいくすぐったい!」
「ははっ、やめなさいよもうっ!」
猫のざらざらした舌がこしょばゆくて、千郷は耐え切れずに笑い声を漏らした。手を逃がそうとするが、そこににぼしがある以上、猫は「もっとくれ!」と執念に追いかけられ、それがなくなった頃合いに解放される。
「はぁ、はぁ……猫の舌ってくすぐったいのね……ちょっと伊織! 何よその顔、言いたい事があるなら言いなさいよ!」
伊織は、なんとも言えない微妙な表情をしていた。ドン引いている訳でもなく、大笑いしている訳でもない。そんな反応をされるくらいなら馬鹿にして笑ってくれた方が幾分かマシだ。
「いや……色気のねぇ女だなって」
伊織はふいっと顔を逸らして言う。彼の足元にいた猫が、「にゃぁ」と呆れたような表情で鳴いた。
「んだよ、お前こそ言いたい事があるならはっきりと言ったらだろうだ?」
「んにゃぁ」
「こらこら、伊織くん。子猫相手に威嚇しないの、大人気ないんだから」
マサが笑う。伊織は大人気ないという言葉に反応して、彼を睨んだ。
またこれだ。背後の空気でお互いが牽制しあっているこの感じ。間にいる身としてはとても居づらいからよしてほしい。そんな千郷の心情を察してか、マサは気を取り直してそこにいた猫を抱え上げ、伊織もバツが悪そうに顔を逸らす。
「伊織くん。素直になりなよ」
「黙れクソ蛇。お前に指図される筋合いはない」
「ははっ、蛇だなんてもう。面白い冗談だね、青狐くん」
しかしまたこの調子だ。もう彼等はこれで良いのかもしれないと、千郷は小さく息を吐きながら猫を撫でた。
猫と正当に戯れたのは千郷くらいだっただろう。伊織はなぜだか猫と睨み合っているし、マサに関してはニコニコしたまま猫に触れようとしない。猫を撫でに来たのではないのか、伊織に関してはなぜ睨んでいるのだ、猫の何が気にくわない。言いたい事は山ほどあった。
「ったく、変な男達……」
「にゃぁ」
同意をしたいのか何なのか、撫でられている猫はその一声と同時に頷いた。
ちらりとマサを見る。絶賛片想い中の相手のはずだが、今は恋心とはまた別の意味で意識している節が千郷の中にあった。
これは、何だろうか。やはりさっき、伊織にあんな事を言われたからだろうか。いっそのこと、訊いてしまえば楽なのかもしれない。しれないが……。
(「マサくんは実は人間じゃないの?」なんて、聞けるわけないじゃない! 伊織が変な事言うから……っ!)
八つ当たりのように伊織に怒ってみたが、この意識が無くなる訳ではない。背後で伊織が不服そうに顔を顰めていたが、千郷は知らずに猫を撫でていた。
そんなこんなで放課後を過ごした三人は、その場で解散とし家に帰る事になった。
「それじゃあ、また明日学校で」
「うん。また明日ね、千郷ちゃん」
伊織は言葉を発さずに、ふんと一つ息を吐いて申し訳程度に手でバイバイとした。そうして千郷の背が遠くになった時、マサは小さく振っていた手を下げる。
「それじゃあ、僕も帰ろうかな。また明日ね、伊織くん」
「待て。老害蛇」
続けてマサも足を進めたが、伊織は彼を呼び止める。
マサはぴたりと脚を止めると、口元にのみ笑みを浮かべ振り返る。
「年長者を老害呼ばわりとは。生意気になったものじゃの、青狐よ。しかし、目を瞑ってやろう。我の容姿は『ナウなヤング』に『バカ受け』するイケメンじゃからのぉ。して、何用じゃ」
分っているだろうに、彼はゆらりと瞳を細める。
「あの娘に手を出すな。あれは、俺のモンだ」
きつく睨んだ伊織も、彼からすれば可愛らしく威嚇する子狐に見えていたかもしれない。彼はその眼に何も動じる事なく、ゆっくりと伊織に歩み寄る。
「うむ。しかし伊織よ、アレに先に目を付けたのは我じゃ。横取りは関心せんのぉ」
「先かどうかはどうだっていいんだよ。アレは俺と『繋がった』、それがだけが事実だ」
静かに牽制しながら告げると、細めていた目を開き、小さく一笑する。
「ほう、『繋がり』とな。結局、汝もあの男の血か」
その一声に、伊織は顰めた顔を更に険しくさせ、拳を握る。しかし、その手を振るう事はなく、息を吐くと同時に緩めた。
「父様の事は言うな」
「忠告は、したからな」
最後に一つそう告げると、直ぐ横を通り抜け、狐火に撒かれるように姿を消す。
「ほほほ……来縁こえんよ。汝の子は、まだまだ小僧のようじゃの」
そんな彼の背を見送ると、「蛇」は堪えきれなかった笑いを漏らし、亡き友を呼んだ。
同じ日の夜、千郷は母親の用意した夕飯を食してお風呂に入り、既に寝る準備がバッチリの状態だった。パジャマ姿でベッドに横なり、音を口ずさみながら音楽の教科書と睨めっこをしている。明日の歌のテストに向けて練習をしているのだ。
彼女が身に付けたピンク生地とデフォルメされたウサギの可愛らしいパジャマは、数日前に父が「千郷こういうの好きっだったよね!」と言って買って来た物だ。ハッキリ言って、今の千郷の好みでは全く、可愛らしい服が好きだったのは小三までだ。が、しかし折角買って来てくれたモノだ。家族以外の誰かに見られるような物でもないし、肌触りはいいから普通に着ている。
「しぃーのーびぃーねもぉらぁすー……なつーぅはぁきーぬぅ」
ごろりと横たわり、フレーズを口ずさむ。
歌は嫌いでは無いが、歌のテストは苦手だ。何せ皆の見ている前で一人で歌わなければいけない。恥だ、こんなの公開処刑だ。しかしこれもテストだ、やらなければいけない。
「はぁ。まだ春なのに何で夏の歌なのよ」
正直に言えば、明日の学校は気が乗らない。あのヤンチャ共がからかってくるのは目に見えている、ならばギャフンと言わせるほど上手い歌を歌えば良いのだが……千郷の歌声は、そう、個性的なのだ。
一年前のテストでは、ヤンチャ共に「え、今のなんそれ? お経?」と言われる始末。彼の言葉の語尾に(笑)という文字が見えたような気がして、思わず殴りそうになってしまった。マサがいる前だと堪えたが、あれは本当に危なかった。そんな事もあるせいで音楽はすっかり苦手になってしまったが。唯一歌のテストで良い所は、マサの歌声が聞ける所だ。彼の透き通ったという表現がピッタリだろうか、例え彼に好意を持っていなくとも聞き入ってしまうのだ。
「あー。あのクソガキ共さえいなければ解決なんだけどなぁ……」
ぼやきながら、教科書をベッド横の机に放る。まぁ仕方がない、腹を括って歌ってやろうと、千郷は部屋の電気を消して眠りについた。
寝る前にそんな事を考えていたせいか、千郷は夢の中で歌っていた。
正確に言えば、歌おうとしても声が出せていなかったのだが。どこか分からない水辺の岩に腰を掛け、歌おうとしてみれど音にならず、不発の空気が漏れ出る。
(歌えない……歌えなきゃいけないのに……)
夢の中で千郷は困り果て、はぁと息を吐く。そんな時、足元にしゅるしゅると音を立て、蛇が這いよってきた。
――水をおのみよ。
蛇は千郷を見詰め、そう告げる。実際蛇が喋った訳ではない。しかし、千郷にははっきりとそんな声が聞こえたのだ。
――水をおのみ。「蛇の大君」の水。案ずる事なかれ。憂いははれる。
蛇は伊織の足に巻き付き、その体によじ登る。
気が付けば、手の中に赤い盃があった。これが蛇の言う水なのだろうか。そう思いながら、千郷は盃に口を付ける。そうしてその一口嚥下しようとした時、一匹の狐が草陰から飛びついてきて、喉を下る前に咽出してしまった。
そんな所でハッと目が覚め、勢いよく起き上がる。
妙な夢だったと思うと同時に、喉の渇きに気が付きベッドから足を下ろす。両親を起こさないように静かにリビングまで下り、蛇口をひねった。
(喉がかわいてたから、あんな夢みたのね……)
しかし、引っかかる部分は大きい。蛇の大君というのは何だろうか、夢の中に知らない単語が出てくるほど自分が想像力のある奴だと思っていなかったが。
一杯分の水が次々と喉を通る。そんな中、千郷の脳裏に浮かんだのは、マサの顔だった。
「いやいやいやっ! 何考えてるのよ、そんなわけないじゃない!」
咄嗟に声を上げ思考を掻き消そうとするが、夕方の事が追い打ちをかけるように思い出される。
伊織は、マサの事を吐き捨てるように「クソ蛇」と呼んだ。そして自分の目に、彼はほんの一瞬だけ途轍もなく大きな蛇に見えたのだ。
「まさか……え、だけど……」
人間社会ですらろくに知らぬ少女がそんな異世界染みた事を理解出来る訳がなく、もう寝てしまおうと自室に戻った。
(そいえば、マサくん。伊織のこと「青狐」って呼んでたわね……)
寝る直前、そんな思考をぽつりと浮かべ、彼女は再び意識を落とした。それからは夢を見る事もなくいつもの時間にすっきりと起き、不思議な夢の事は一切忘れていたのだ。
都合の悪い事に、その日の音楽の授業はほぼ最後に近い五時間目だ。その日の千郷は憂鬱に思いながら一日を過ごし、
「千郷のお経、楽しみだなぁ」
「ははっ! 誰が死んだんだっての!」
ヤンチャ共のムカつく会話を耳に、殴ろうかどうかを悩んでいた。
このヤンチャ共、無駄に頭のいい事にしっかり教師がいないタイミングで話しているのだ。先生さえいれば注意してくれるのだが……いや、先生が注意した所で聞きやしない、このヤンチャ共は。彼等はただ、反応してくれるのが楽しくてやっているのだから。
「おい、お前等」
わなわなしている千郷を横目に、小学生姿の伊織は席を立ち、ヤンチャ共に寄る。
「ん? どしたん伊織」
「決まった文を読み上げなきゃ経とは呼ばねえ。それに、千郷は出家できる程出来た女じゃねぇよ」
これは、千郷を庇ったのだろうか。坊さんになるつもりは一切ないのだが、それでも少しムカつく言葉だ。遠回しに侮辱されている気がして止まない。
「悪かったわね出家できないような人間で!」
「こらこら、伊織くん。仏門は誰に対してでも開くんだから、そんな事言っちゃダメだよ。大丈夫千郷ちゃん、君にその気があるなら、知り合いの伝手で出家させてあげるよ」
だから出家する気は一切ないと、そうツッコむ前に、伊織が怪訝そうに言う。
「おい待て、ただでさえ色気のねぇ女だってのに丸刈りにさせるモンがあるか。髪は女の命だぞ、伸ばすべきだ」
「はは、冗談だよ。僕も、千郷ちゃんはセミロングくらいが似合うと思うな」
「いーや、ロングだね。女の髪は腰の上くらいは必要だ」
「そんなに長いとお手入れが大変なんだよ? 千郷ちゃんの事も考えると、セミくらいが丁度良いんだ。……まぁ、それを考慮しなければ、僕もそのくらい長い方が良いんだけどね」
「それ見当た事か! 手入れなど従者にさせりゃいい話だ」
「うん、確かにそうだ」
いつの間にか髪の話にすり変わり、結果そこで着地したようだ。途中からついていけなくなったヤンチャ共は、唖然とした様子でマサと伊織を見ていた。そもそも、現代日本人の観点において従者にやらせるというワードが小学生の口から出てくる訳がないのだが。
一方、話題の中心にいながら会話に入れていない千郷。ちなみに今の彼女は、ボブより少し長いがセミロングという程でもない微妙な長さの髪を少し上の方にまとめている。
困惑する千郷。しかし、彼等のお陰でその日ヤンチャ共はそれ以上突っかかって来ることがなく、歌のテストの時も妙に大人しかったのだ。まぁ、相変わらず千郷の歌声は音痴であったのだが。
テストでは音楽の先生が出席簿を見ながらランダムに指定した人が歌う。なぜ出席番号順ではないのかと聞けば、最初の人はどの授業でも最初に選ばれがちだから不憫でしょうという理由みたいだ。ちなみに、音楽教員である彼女の苗字は相沢である。
「はい。石原さんありがとうございます。次は、上結くん」
千郷が歌い終わり、内心恥に悶えながら席に戻ると、次は伊織が指名された。
先生がピアノを弾き、さんはいと合図を出された後で歌いだす。最初のフレーズを耳にすると同時に、「マサと同じ」だと思った。澄んだ湖のような透き通った歌声、聞いていると何だか心が落ち着くような感じがする。マサもそのような歌なのだ。
心なしか、先生もピアノを弾きながら聞き入っているように見える。
「もう合唱コンクール伊織とマサだけで歌えばよくね?」
「なー」
後ろの席のヤンチャ共がそうぼやいているのが聞こえる。そう思えてしまう程、彼等の歌は素晴らしいのだ。しかし、合唱コンクールは皆で歌わなければ意味がないモノなのだが。
「上結くんありがとうございます。それでは次は……」
先生は名簿の上結伊織の所にチェックを入れ、次に歌う人を選ぶ。そのようにして、その日の音楽の授業はテストだけで終わり、残った時間は流された日本の伝統音楽を聴く事になった。雅楽というらしく、その如何にも和と言った雰囲気満載の音はどこかで聞いた事あるような気がしたが、いつだかに神社とか行った時に聞いたのだろう。千郷はそう思いながら、ぼーっとそれを聞いていた。
そうしている内にチャイムが授業の終わりを知らせ、日直の号令で終了となる。
「あんた、歌上手いのね」
「ガキん頃嫌でも仕込まれたんだよ」
教室に戻る道。妬み交じりで伊織に言うが、彼は、どこか嫌そうな顔をした。
「はは、懐かしいね。君も最初はそれでこそお経だったよ」
背後から会話に入って来たマサは、爽やかな笑みを携えて言うと、伊織はガラ悪く「あ?」と声を漏らす。しかし、そんな彼は無視してマサは同じ笑みを千郷に向ける。
「千郷ちゃんも練習すれば上手く歌えるようになるよ。何なら……僕が教えてあげようか? 僕の家、友達招いてオッケーなんだ」
「え、いいの?」
正直音痴がコンプレックスだった千郷はその申し出にこれでもかとくらいに食いついた。それに、歌の練習を抜きにして……気になるあの子の家に遊びに行けるなんて、これ以上もないチャンスじゃないか。
「待てお前、まさか」
マサは、目を開いた伊織にニコリと笑い、「次の授業遅れちゃわないようにしないとね」と千郷を促した。それを言われ、彼女は「やっば!」と急いで教室に戻って行った。授業と授業の間の十分間は、とても短いのだ。
水曜日の六時間目の授業は全クラス共通で教室で学活となっている。目前と迫った廊下には、今やマサと伊織しかいなかった。
「世の中、早いもの勝ちじゃぞ。伊織よ」
何かの感情で立ち尽くす伊織の耳元で、低く静かな声でそう囁くと、マサは千郷を追うように先を進んだ。伊織は小さく牙を噛んだが、直ぐさま首を振って気を取り直すと、自分も遅れてしまわないように足を動かした。
宣戦布告されたのなら、応じるのが礼儀。そうだろう?
学活の授業と言うと今一ふわっとする。これの目的は色々あるみたいだが、まぁ今回に関しては児童同士の親睦を深める為だろう。今週は特に、伊織が転校して来たばかりであるから。五年生の時とメンバーは変わらないのにクラスメイトの前で自己紹介をする、と言う納得しがたい内容も、伊織がいるお陰で皆がまぁそうだろうなと思える内容となっていた。
名前や趣味、好きな食べ物嫌いな食べ物、その辺りの無難な自己紹介がテンプレートとして黒板に書かれ、その横にその他という文字か並べられる。これは何かあれば付け足してもよいという意味でのその他だ。ちなみにこれは男女混合の方の出席番号順でやるそう。よって千郷は、相崎と安藤に続いて三番手となる。女子だけの出席番号順だと千郷は一番手になる為、こう言った時に混合の方の番号を使ってくれるのは地味にありがたい事だ。
比較的大人しい部類に入る相崎と安藤の自己紹介はあっさりと終えられ、千郷の番が回る。主にヤンチャ共のお陰で、あまりこう言うのは得意ではないが、何もどうしてもできない訳ではない。
「ちっさとー!」
「ヒューヒュー!」
相変わらずのヤンチャ共の悪ノリは先生に軽く注意されたが、効果は成さない。千郷もそこまで気にしていない為、先生も軽い注意だけで流し、話せるタイミングが出来た所で千郷は紹介を始めた。
「私は石原千郷、好きな食べ物は焼き魚で、苦手な食べ物はきゅうり。あと趣味は……あ、そういえば最近裁縫をやり始めたの。ママが教えたんだけど、結構楽しくて、休みの日にやってたりしてる」
そう言えば、ヤンチャ共の「千郷のクセにかわいらしい趣味じゃぁん!」といった類いの煽りが飛んでくるかと思ったが、意外な事に男子共は何も言わなかった。なぜか。理由は簡単。彼等は千郷の紹介が始まった所から目に見えて発せられた、あからさまに不機嫌なオーラを醸し出している伊織が気に成って仕方がないのだ。
何も伊織が意としてそんなオーラを放っている訳ではなく、クラスメイトの自己紹介を左程興味もなさそうだがしっかりと聞いていると言った様子だ。しかし、何だろうか。彼の周りの空気がトゲトゲしている感じだ。そんな人がいる中で、近くの席の者はどうして自己紹介に集中出来ようか。
席に戻ると、伊織からノートの切れ端が渡される。こちらをノールックで「ん」とだけ言って手に突っ込んで来たその紙には、整った文字で「止めておけ」という文字が書かれている。
千郷は不思議に思い、同じ紙に「なにを?」と書いて伊織に渡す。すると直ぐに、「マサの家に行く事だ」と付け足された。
この時千郷は、正直「は?」と思った。なぜ伊織にそんな事を言われなければならないのか。そこまで考えて、思い出した。マサは人間ではないと言う、彼の言葉を。
(だけど、歌を教えてくれるだけだし……いくらマサくんが人間じゃなくたって、問題ないんじゃないの?)
伊織を見れば、やはり険しい顔をしている。小学生の姿だからあまり感じないが、大人の伊織の姿であればかなり気迫のがあっただろう。
何をそんなに不機嫌なんだ。なんて、今は聞かないでおいた。上結である伊織は直ぐ後に呼ばれ、前に出て行ったから。
「つい先日も言ったが、俺は上結伊織だ。好物は特にないが、強いて言うのであれば、油揚げにチーズとかを乗せて焼くやつがあったろ、あれが好きだ。食えないモノは基本ない。趣味は、あえて言うなら人間観察だ。特に若い男女の色恋沙汰は、見ていて愉快だ」
ここまでだけでも小学生らしくないと自己紹介であった。そもそも、普段の会話で愉快と言う語彙がスッと出てくる奴は中々いないだろう。仕方のなし、彼は姿を幼くしただけで、中身はあの伊織そのままなのだ。
「お前等もやがて経験する事になるだろうから、一つ俺からアドバイスをくれてやろう。何をどうしようが変えられないモノは多くあり、恋というのは一時の感情の昂ぶりに過ぎない事が大半だ。よって俺は、自然体である時に精神が馴染む者を選ぶことを勧める」
意外な事に、彼はその他の項目も続けて話した。
先生は、半場驚いたようにぽかんとその言葉を聞いていた。そりゃそうだろう、小学生の言う事ではない。いくら最近の子どもはマセているとは言えだ。ベクトルが違う。格好つけて言っているのならまだしも、彼はごく自然にそれを告げているのだ。
(伊織の奴、本当に小学生に紛れるつもりあるの……?)
心の中で首を傾げると、マサの笑いを堪えているような顔が横目に付く。なんでだか分からないが、千郷はそんなマサを見て「同じ事を考えている」と思ったのだ。
続けてヤンチャ代表格の半場おふざけタイムの自己紹介がされ、特記すべき事もないごく普通のクラスメイトが次々と前に立って自分の事を話す。そんな中で女子達が期待していたのは、マサの自己紹介だったろう。今回の学活において一番の見どころはイケメン転校生である伊織だろうが、クラスの人気者であるマサもそうなのだ。
呼ばれたマサは、男子の「よっ、人気者っ!」という煽りに笑顔で答え、皆の前に立つ。
「こんにちは、僕は宮兼マサ。改めて、よろしくね。伊織くん」
ニコリと伊織に笑いかける。この自己紹介は半場伊織の為だろうから、自然と言えば自然な言動だっただろう。伊織はふいっと顔を逸らしたが、気にせずに先を進める。
「僕に食べ物の好き嫌いは特には無いかな。だけど、お肉の中では鶏肉が一番好きなんだ。鶏ももと長芋を煮たものを食べた事はあるかな? あれ、とっても美味しいからお勧めだよ」
「あとは、趣味だけど。実は僕も人間観察は結構好きなんだ。中々同じ趣味の人はいないから、伊織くんと会えて嬉しいよ」
マサは好青年の如く微笑んでいたが、そこに別のモノを感じたのは、伊織を除けば千郷だけだっただろうか。きっと、少し前なら千郷もそこの女子と同じく黄色い声を漏らしていただろう。
伊織の内側から、微かに不機嫌オーラが増して出て来た。表情でこそスンと澄ましているように見えるが、その後ろで狐が牙を剥いて威嚇している、ような気がした。
なんでこんなにも険悪なのか。千郷は柄にもなくオロオロしている間にも、授業時間も帰りの会も終わってしまい帰宅となった。
(ぜんっぜん内容が頭に入らなかった……)
幸い、大事な事は一つも言われていない。クラスメイトの自己紹介も千郷からすれば今更であるから、聞いていなくたって問題はないのだ。
放課後、ランドセルを背負った千郷に、マサが声を掛ける。
「ねぇ千郷ちゃん。昼に言った事だけど、僕の家くる?」
「あ、うん! 行きたい!」
答えると、マサは嬉しそうに微笑み「じゃあ行こうか」と口にする。
その時、たったの一瞬の間に教室に誰もいなくなっている違和感に、なぜだか千郷は気が付かなかった。
恋は盲目、世にはそんな言葉があるらしい。がしかし、それだけではこんな事にはならないだろう。
教室の中では、直ぐ帰宅した者もいるが半数ほどの児童達が未だ帰る気配もなく駄弁っている。その中で、千郷とマサが姿を消した事を解っている者はいない。
「……ッチ。クソ蛇が」
唯一事態に気が付いた伊織は小さく舌打ちをし、煙に巻かれるように姿を消す。それでもまだ、児童が異様な事態を察する事はなかった。
知らずに、千郷はマサと一緒に不気味な程誰もいない通学路を歩いていた。
途中までは道が一緒であるから、マサが帰宅する所を見た事はあるが、流石に家まで付いて行くなんてストーカー染みた事はしていない。
千郷はこれ以上もない程にワクワクしていた。好きな人の家に遊びに行く時昂らないしない女子がいるだろうか、いないだろう。
(洋服、もっとおしゃれなの着て来ればよかったかな……。いやいやいや! 歌を教えてもらうだけじゃない! そんな張り切ってどうするの! そう、これは入口よ。ここからなんだから!)
気合を入れる千郷は、傍から見れど丸分かりで。なんとも分かりやすい娘だと、マサは微笑む。
「ここが僕の家だよ」
立ち止まったそこは、ごく普通の一軒家だった。
「さ、おいで。千郷ちゃん」
「あ、うん。お邪魔します!」
入口を開けると、意外な事にその内装は和風で、田舎町にある屋敷といったイメージだ。それに、外は二階建てだと言うのに、見渡す限りここに階段は無い。
(あれ、平屋……? 外からだと、二階建てだったけど……)
疑問に思いながらも、マサについて靴を脱ぐ。本格的に家の中に踏み入った時、先を行こうとするマサの背が目に入った。
「近頃のおなごは警戒心が強いと聞いておったモノじゃが、どうやら汝は余程我に惚れていたようじゃ。じゃが、少しは警戒した方がよい。ま、もう今更じゃがの」
その声は、マサであってマサではない。成熟した大人の声だった。
千郷の頭に、伊織の警告が過る。「あの男には警戒しろ」と告げられた声と、切れ端に書かれたマサの家に行くのはやめろという言葉。
その時、ようやっと恋熱から冷めた千郷の本能が告げた。「逃げなさい」と。
再び顔を見せたマサはゆらりと目を細め、その「本性」を見せた。
成長して大人に成ったマサと言った雰囲気の成人男性だが、目元には紅があり、灰がかった髪は白さを増して腰ほどまで伸びている。伊織とはまた違う系統の、和装の美しい男性だった。
男は高い目線を合わせるように、千郷の顎を上げ、マサと同じように微笑む。
「何、恐れずとも良い。おなごを食う趣味はあらぬ。熟さぬ実は甘くなかろう? 我は獣ではないのでの、しかと待ってやろう。じゃが、囲うくらいは良かろう」
「ぅぁ……え、えーっと……マサ、くん。えっと、え?」
困惑、千郷の脳内はその一言で占められていた。
なぜこうなった。何でマサが大人の姿になって、和服を着ていて、そして求愛染みた事を囁いてくるのか。確かに千郷は「マサくん」に惚れていたが、だからと言ってこの状況は頭がこんがらがる。
後退るがそこは壁で、それは自らを追い詰める愚行になってしまった。
「うむ、マサと呼ばれるのも悪くはないのじゃがの。折角じゃ、雅みやびと呼んでくれぬか?」
「え、あ、うん。みやび、くん……?」
本当に、顔がいい。最早顔に押され、千郷は雅を呼び掛ける。
「良かろう。ほれ、こっちへ来い」
手を引かれ、そのままされるがままに彼の後を追った。
握られた手は割れ物でも扱うように優しく、振りほどこうと思えば振りほどけたかもしれない。しかし、それは出来なかった。鳴らされた本能の警報よりも、高なかった胸の恋心の方が大きかったからだ。
奥の部屋は、他と同じく畳の部屋で、壁に蛇が描かれた掛け軸がある。座布団を出され座るように促されると、千郷はそこに腰を下ろした。正座は苦手だからしなかったが、雅は気にしていなさそうだ。
「うむ、実に愛い娘じゃの。少し昔であれば、今すぐにでも娶りたいモノじゃが。時代に追いつけぬようじゃ本当に老害になってしまう。我を老害呼ばわりするのは青狐だけで結構じゃ」
「めとる……?」
「要するに、お嫁さんにすると言う事じゃ」
「おっ……!」
驚きと恥ずかしさで顔を赤くする。何せ千郷も乙女だ、濁さず直球にそんな事を言われたら固まってしまう。
「反応がまんま生娘じゃの……じゃから待ってやると言っておるのじゃよ。感謝せい、全盛期の我なら構わず食ってたじゃろうからの」
この食ったというのが比喩的な意味で、所謂チョメチョメであると言う事は分かる。思わず想像してしまい更に赤くなる千郷にころころと笑う。
「案ずるな、今日は歌を教えるだけじゃからの。まずは喉を潤すがよい」
雅が手を動かすと、呼ばれるように一匹の蛇が「失礼します」と現れる。
――大君、お持ちしました。
蛇の背にはお盆が乗せられ、そこに一杯の杯が置かれている。器を満たしているのは透明な水だ。
手に取った時、千郷は今朝の夢を思い出す。蛇の大君の水、確か蛇はそう言っていた。夢の中では、飲もうとした瞬間に狐に蹴られ、結局喉は通っていないのだが。
その事が過った途端、千郷は急に青ざめる。
「これ、人間が飲んでいい奴なの」
不安になって尋ねれば、雅は驚いたように浮かべていた笑みを取りやめ、また目を細める。その笑みを目にした途端、幽霊を見た時のように背筋がゾッとし、千郷は勢いのまま立ち上がる。
「ご、ごめんね。私、一回帰るね! そう言えばママにも遊びに行くって伝えてないし、早く返らないと心配かけちゃう、し……ね」
絞められた襖に後ろ手をかけた時、足元から大きく太い何かが足を取っている事に気が付く。鱗のざらざらとした感覚が肌から伝わるが、痛みはなくこしょばゆい。その先を見れば、それは雅から生えた尻尾であった。
その時、意味ありげな笑みを浮かべる雅を目にしてようやっと、千郷の中での警報が盲目を超えた。
千郷は他の女子より肝が据わっている方だ、ホラーは苦手でもホラーサイトの安っぽい驚かしにはキャーキャー騒がないし、虫だって黒いアレ以外は騒ぐほどではない。だけど今回ばかりは、恐怖を抱いてしまった。雅は己の好いているマサと同じ笑みを浮かべるが、その瞳の奥にあるヒトではない「ナニカ」の本性は、恐怖を感じさせるの十分なモノだ。
「千郷よ。我は、熟さぬ実も美味しく食える質での。必要とあらば待つ事はせぬ。何が言いたいか、分るかの?」
「大人しくしておれ。さすれば、不要に手を出す事はせぬ」
脚を巻きつけていた尻尾が解け、最初から無かったように消え去る。
――大君、恐怖での支配は時代遅れかと。彼女はまだ童子。女としてではなく、子どもとして愛でるべきだと。
「言うようになったのぉ……じゃが、汝の言う通りじゃ」
膝をついて立ち上がり、千郷の傍に寄る。
「ほれ、千郷よ。すまなかったの、怖がらせるつもりはなかったのじゃ」
優しい手付きで頭を撫でて来た。恐らく、蛇が言っていた事に倣っているのだろう。確かに、子どもを愛でると言えばなでなでなのだろうが。六年生にもなり多少大人としての自認がある千郷は、それはそれで不服に感じる。
「下がって良いぞ」
――御意。
蛇は頭を下げると、千郷の足元を横切り、襖をすり抜けて行く。
そんな蛇を目に映し、千郷は今だ拭えぬ恐怖を心に尋ねる。
「マサくん。マサくんは、何者なの?」
「であるから、我は雅であると言っておるじゃろ? 何者かは、そうじゃのぉ。『蛇の大君』『幸金の主』『金招きの白鱗』……覚えているのはこの辺りかの。ま、どれも遠い昔の呼び名じゃ」
「蛇神様って、事?」
「うむ、そうとも言う。じゃが、汝はそのまま雅と呼んで良い。それら呼称は、周りが取って付けた綽名にすぎぬ。我は、ちいとばかし大きいだけのどこにでもいる蛇じゃよ」
その時雅が顔に浮かべた笑みが千郷には自嘲に見えてしまい、千郷は思わず手を伸ばした。
千郷の少女らしい手が彼の頬に触れると、彼は見開かれた目で彼女を見る。
「あ、ごめん。なんか、つい……」
「構わぬ。汝から触れてくるなど、思ってもなかったものでの」
言いながら、雅は微笑みを浮かべ、手を絡めるとその甲に小さく口付けをした。
まさか手にキスをされると思っていなかった千郷。動転しそうにもなったが、それは困惑の目を向けるだけに留まる。
「このくらいであれば、子を愛でる範囲内であろう」
苦笑を浮かべ、そのまま絡めた手を引き彼女の身を腕に入れ込む。それは我が子を可愛く思い抱きしめる親がするハグと同様のただの抱擁であったが、そこに含まれている意味はそれとは多少違ったのだろう。
「あまり煽らないでくれぬか。自制は効くが、我とて雄じゃ。まだ枯れてはおらぬのでの」
耳の直ぐ近くでそう告げられ、千郷はぽぽっと顔を赤くする。同時に、ちょっとした怖さもあった。
そんな時、襖が勢いよく開かれる音が部屋に響く。
「隠居老人が。その歳してガキに欲情できんのか、気色悪い」
吐き捨てるように口にした伊織の声。千郷が雅の腕からハッと振り向けば、そこには心底嫌そうな顔をした大人姿の伊織がいた。
グイっと千郷の手を引く。優しさの欠片もない勢いだったが力はそこまで籠められておらず、痛くはなかった。
「そうあからさまに嫌悪するでない。本気で手を出す訳なかろう、汝の父とは違うのじゃ」
「だから父様の事は言うなと言っている! 千郷っ、ここから出るぞ。再三俺の忠告を無視しやがって」
「し、仕方ないじゃない! 大体、あんたよりマサくんの方が信用あるに決まってるじゃないの!」
「ごちゃごちゃ言うんじゃねぇ! 大体マサも胡散臭い男だろうが、アレのどこか良いんだよ!」
「顔と性格に決まってるじゃない! 顔だけ良いあんたより点数は高いわよ!」
「あ? 俺の性格が悪いっていいたいのかぁ! このガキ!」
「逆に良いと思ってんの!?」
ギャースギャース言い合う二人に、置いて逝かれた雅は少しそれを眺めた後、堪えきれず吹き出す。
「ふはっ、はははっ……若いのぉ……」
漏らされたその言葉には、裏も表もなさそうで。伊織は隠す気も無く舌打ちをした。
「チッ……クソ蛇、今度またコイツに手出ししてみろ。そん時は、容赦しないぞ」
感情が剥き出しにされた鋭い目が雅に向けられる。しかし、彼は動じることなく、ただゆらりと瞬きをした。浮かんだ細い蛇の瞳孔の一部が瞼に被さり、長い髪がゆったりと揺れる。
「何、ほんの戯れじゃ」
答えられた時、さざ波が引くかのように景色が無くなり、いつの間にか彼等は續結神社の境内に立っていた。そこには千郷と伊織だけが立っており、雅もマサの姿もなかった。
逃げ切った事が解れば、伊織は千郷の手を開放してやりフイと体を背ける。
「これに懲りたら、下手に神の縄張りに入らない事だな」
「だったら、ここも伊織の縄張りじゃないの」
「俺はガキに興味はねぇよ」
若干鼻につくような一笑をすると、伊織は反論も聞かずに姿を消す。
「何よムカつく男ねっ!」
石畳を強く踏みつけた千郷だったが、その怒りは本人に届いても軽くあしらわれるだけだろう。実際、彼女はまだ「女」に成りきれない子どもなのだ。
そんな彼女の足元から、チリンと鈴の音が届く。気が付くと、千郷は不思議だと思いながらも転がった鈴を拾い上げる。
「お守り? けど、ここにこんなの売ってないはずよね……」
根付紐に付けられた小ぶりな鈴は、フワフワとした狐の尻尾のような飾りも付けられている。これが何か千郷は分からなかったが、何とはなしにそのままポッケに突っ込んだのだった。
〇
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