知恵の実
酔いそうなぐらい連続したカーブを曲がり現地に到着した時には、既に雨がパラパラと降り始めていた。
「どうする」
「どうするって、せっかく来たんだからやろうよ。りっちゃんだって楽しみにしてたんだし」
妻は後部座席に顔を向ける。昨日8歳になったばかりの娘は、ジュニアシートに座ったまま眠っていた。
「雨降ってるけど」
「ちょっとぐらいなら傘差して出来るって。先に受付済ませといてよ。私の名前で予約してあるから」
重く濁った曇り空の様子からして、これが
今日が雨だと知っていたなら、リンゴ狩りなんて来なかった。
妻は言い出したら何が何でもやるのだ。その行動力に惹かれた時期もあった。
「りっちゃん起こしてから行くし、ほら早く」
「……分かった」
鞄の中に入ったままの折り畳み傘を取り出し、車を降りる。
毎年娘の誕生日前後に来ている観光農園はいつも多くの客で賑わっているのに、今日は天気のせいか閑散としていた。
「予約していた谷本ですが」
果樹園の近くにいた女性に声を掛ける。
「あぁ、谷本さん。今年もありがとうございます」
「お世話になります」
妻と付き合っていた頃から訪れているので、かれこれ10年になるだろうか。年に一度しか来ないというのに顔を覚えられている。
「60分食べ放題で、今食べ頃なのはシナノスイートとシナノゴールド、王林、ぐんま名月ですね。味の特徴とかはこっちにまとめてますんで、参考になさって下さい。と言っても、よく来ていただいてるんでもうご存じだと思いますけど」
女性はにっこり笑いながら、それぞれの品種の特徴が書かれた紙を差し出した。
「今が一番品種が揃ってる、いい時期ですよ」
俺は礼を言うと、リンゴ狩りに使用する道具一式が入ったバケツを持ち、駐車場を振り返る。レインコート姿の娘の手を引いて、妻がこちらへ向かって歩いていた。
「もう出来るの?」
寝起きでややぼんやりしているが、始まればすぐにテンション高くはしゃぐのだろう。
「りっちゃん、黄緑のやつ食べたい。歯ごたえが好き」
「味じゃなくて食感で言うとか、一丁前なこと言うじゃん」
妻が娘の頭をくしゃりと撫でる。得意気な顔をしている娘とその様子を見て笑う妻を、俺は今どういう気持ちで見ているのか自分でもよくわからなかった。
「青リンゴだったら王林だな」
俺はリンゴの木が植えられている園内へ足を向ける。湿った土を踏みながら、無数の生き物の死骸が微生物によって分解される様子を想像した。
雨に濡れた土から漂う死の匂い。
そこから育つリンゴの木。
成った時から既に死を背負っている、赤や黄緑の丸い果実。
「これがいい」
娘の声で我に返る。
「いい匂いする?」
娘は黄緑色をした実に鼻を寄せる。
「するよ」
「じゃあそれにしよ」
娘は青リンゴを両手で包むと、下から上に向かって持ち上げる。
「とれた!」
嬉しそうに喜んでいる。もう何度もしていることなのに、初めてのことのように笑う。その一連の様子をスマートフォンの動画に収める妻の動きも、俺の中ではワンセットだった。
「食べよ! お父さん、むいて」
「はいはい」
娘が青リンゴを差し出す。
タープの下に置かれていたテーブルを囲むと、俺はバケツに入っていたナイフを手に青リンゴを半分に割った。切り口の匂いを嗅ぐと、瑞々しくて爽やかな香りがした。
「どうぞ」
皮を剝き、8分の1にカットした青リンゴを娘に渡す。
娘は「ありがとう」と礼を言うと一口齧り、「美味しい! めちゃくちゃ美味しい!」と破顔した。
「ママも食べて!」
「食べていいの?」
「いいよ!」
「ありがと。いただきます」
妻がリンゴを口に入れ、噛み砕く。
「本当だ、甘くて美味しいね」
「でしょ」
ふふふと笑い合う妻と子。
娘は俺のことをパパではなくお父さんと呼ぶ。俺がそう呼ぶように幼い頃に言い聞かせたからだ。パパと言う度に「パパはいません。お父さんならいます」と訂正し続けた結果、お父さん呼びが定着した。パパという甘ったるい響きに、どうしても慣れることが出来なかったのだ。それに、今までの自分という人間がパパという別の存在になり、そのまま戻って来れなくなりそうなのも怖かった。
あっという間に一玉を食べ終えると、娘は次のリンゴを取りに行くと言って立ち上がり、ひとりで園内を探しに駆けて行った。
「いつから知ってた」
娘がある程度離れたところで、俺は切り出す。
「聞いても今更でしょ」
「……それもそうか」
テーブルに散らばったリンゴの皮を集め、バケツに入れる。心変わりをしたから別れて欲しいと切り出した時、妻から「いつ言い出すのかと思ってた」と返された。
妻ではない別の女性と俺がふたりで写っている大量の写真を突き付けた妻は「知ってたよ」と言って笑ったのだ。
「何なら、他にも何人か今までにいたのも知ってるから」
俺は妻の笑顔の意味が分からず、一体いくら慰謝料を請求されるのかと胃の辺りが痛くなった。
「気持ちのないまま一緒に暮らすのは、お前だって嫌だろ」
嫌いになった訳じゃない、ただ自分の中で情を向ける比率が変わっただけだ。今の相手に対するものが8割だとすれば、妻については2割もないかもしれない。更に言えば、そこに愛情と呼べるものがあるかも分からない。
「こんな関係じゃ家の中の空気もおかしくなるし、何よりあの子がかわいそうじゃないか。俺みたいなのはそもそも親として向いてなかったんだよ。今こんなこと言っても仕方ないんだけど」
俺はこれまで妻に伝えてきた説得の言葉を、ここでも繰り返す。
「分かってるよ、悪いのは100パーセント俺だってことは。養育費もきちんと払う。親として向いていなくても、責任はちゃんと果たすから」
タープ越しに聞こえる雨の音が、やけに耳をつく。雨脚が少しきつくなってきた。早く帰って、酒でも呑んで寝たいのに。本当、思ってもいないことの方が口から調子良く出てくるのはどうしてなんだろう。
「何回言われても別れないよ」
「何でだよ。お前だって俺のこともう好きとかそんな気持ちないんだろう。だったらいいじゃないか。お互い好きな道を選ぶことの何が悪い」
どう言っても笑顔でかわされることにイラついて、つい言葉が荒くなる。
「分からない?」
「何が」
「分からないならいいよ」
「良くない。気に入らないことがあるなら言えよ」
「言わない」
俺に気付けとばかりに試すようなことを言う。お前の中だけで通じる理屈を、俺に押し付けようとするな。
「この場所に来るようになって、何年になると思う?」
「……10年だろ」
「10年、あなたはリンゴを食べてきたのに、ちっとも知恵が付かなかったのね」
「リンゴ? 知恵? 何の話だ」
「それとも食べ過ぎて、
訳が分からない。自分の妻の言っていることが理解出来ない。
「ママー! お父さーん! 来て来てー!」
少し離れた場所から、娘が俺たちを呼ぶ声がする。
「私もりっちゃんも、他の女たちも、あなたの心の中には誰もいない。あなたは結局自分だけなの。知ってた?」
妻はそう言うと大きな声で「いいの見付けたー?」と叫び、椅子から立ち上がった。傘を開きながら、妻が言う。
「私が別れる時は、あなたの中に私とりっちゃんがいると思えた時だから。それまでしっかりお父さんやってよね」
ぱたぱたと雨粒が落ちてくる中、妻は娘のいる方へ走っていく。
俺の中にあいつと娘がいる時なんてあったかな。
思い出そうとしたけれど別の何かが頭をよぎるばかりで、俺は湿って黒い土が付いた靴の先を見ながら「早く帰りたい」とやっぱり思ったのだった。
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