濡れた靴

濡れた靴①  

 マンションのエントランス前で空を見上げた。濁って重さを感じる厚い雲から、絶え間なく雨粒が落ちてくる。


 防水スプレーなんて、何の足しにもならなそう。


 足元の黒いパンプスを見て、心底嫌な気持ちになった。舗装された道に点在する水溜まりの大きさにも嫌気が差す。どれだけ気を付けていても、5分も歩けば水滴でストッキングがまだらになるだろう。  


 恥ずかしい。

 居心地が悪い。

 誰にも見られたくない。


 もう、行くのを止めてしまおうか。

 一瞬そう考えたが、生来の気の小ささが邪魔をした。


 今日が雨だと知っていたなら、就活の予定など入れなかったのに。


 私は大きく息を吐くと、傘を広げて地下鉄の駅へ向かった。

 

 同じ部のメンバーで最初に内定を貰ったのは、チャラチャラと軽薄な雰囲気が苦手でロクに話したこともない男だった。


「いや俺、結構前から準備してたし」


 少し離れた場所から聞こえる話し声に、無意識に聞き耳を立ててしまう自分が嫌だった。暗い髪色をした仲間たちの中で笑い声をあげている、とびきり明るいピンクベージュの頭をした男。


「自己分析もめちゃくちゃやったもんね。あ、面接の練習とかやってやろっか?」


 あんたは全部終わってるからただ経験を喋ってるだけのつもりかもしんないけど、周りはまだ就活真っ最中なんだよ。ほらよく見なよ、おめでとうとか言ってる周りのヤツらも内心じゃ「何でお前が第1号なんだよ」て思ってる顔してるだろ。まぁあんたみたいなふわふわした人間じゃ、そんなことすら気付かないんだろうけど。


 改札を抜け、ホームに立つ。ちらほらと、似たようなスーツを着た学生の姿が目に入る。あの子たちも自分と同じ会社を受けるのだろうか。


 リクルートスーツを初めて着た時は、素直に「恰好良いな」と思った。普段と違うパリッとした姿にもテンションが上がった。店員に言われるがまま鞄や靴などを一通り揃えると、ただの大学生という存在から違うステージへ進むのだという根拠のないやる気だけが無駄に湧いた。


 企業説明会に参加したり、適性検査の問題を解いたりするのは、知らない世界や知識に触れるようで楽しかった。


 就活、うまく出来そうな気がする。


 何故かそう思ったのだ。

 でも、楽しかったのはそこまでだった。


 どんな会社に行きたいのか、そこで何がしたいのか、どんな仕事をしたいのか。

 自分が働いている姿を思い描くことが出来ない。

 当然ながら、エントリーシートへの記入も全く進まなかった。


『学生時代に力を入れたことは何ですか』


 勉学に励むのは当然のことだから、力を入れたことにはならない。

 部の活動も与えられた役割を果たすのは普通のことだ。

 ボランティアで誰かを救えるような高尚な人間でもなければ、他人の役に立てるほど有能でもない。

 ただ講義を受け、真面目に大学生活を過ごしているだけの学生なのだから、他人様に自慢出来ることなど何もない。


『当社のどのような点に魅力を感じますか』


 自宅から通えそうな距離にあるからと書く訳にはいかないので、特段気に入ってもいないのに「御社の商品がとても好きなため」と綴る。


 自分をよく見せるために文章を盛る。

 ほんの少しでも思っていることがあるなら、それをポジティブ表現に拡大解釈する。

 ラブレターを書くようにエントリーシートを書く。


 吐き気がした。

 どれだけ良く言ったところで、結局は嘘じゃないか。

 本気でその会社に入りたい訳じゃない。

 ただ『就職活動をしている』と言える理由として選んだだけだ。

 大体、こんなアンケート項目で私の何が分かるというのだろう。


 地下鉄に揺られながら、車両内にいる人々を眺める。蛍光マーカーでラインを引いた書類を見返しているあの女性は、何を思って今の仕事をしているのか尋ねてみたいと思った。


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