今日が雨だと知っていたなら
もも
ノンフィクション
一瞬、空気がひやりとした。
夕方前でまだ外は明るいはずなのに視界はやや灰色掛かっていて、物の明度が下がっている。
雨が近い。
生憎、折り畳み傘は2ヵ月程前に壊れたままだ。こんな日に遭遇する度に「早く買っておけば良かった」と後悔している。
湿度が極限まで上がり、水分を含んだ雲が「もう
今日が雨だと知っていたなら、出掛けたりしなかったのに。
数分後、限界を迎えた空からばらばらと雨が降り落ちてきたため、仕方なく近くにあった書店で雨をやり過ごすことにした。
「今もこの作家のこと、好きなんだね」
5年前に別れた相手と再会したのは、書店で平積みになったミステリーの新刊を見ていた時だった。
同じ作家が好きで、特に好きだった作品のタイトルも同じ。教室の前後の席に座り貸し借りした本についてあれこれと話したり、お気に入りの作品が実写映画化した時には公開一週目にふたりで観に行った。
鑑賞直後に入ったカフェでは、あのキャスティングは間違っているだとか、二人目殺害の時のトリックの映像化はやっぱり無理があっただとか、原作にはなかったあの演出は不要だったとか、そんなことを弾丸が飛び交うような勢いで喋り続けた挙句「実写には向いていなかった」と結論付けた僕たちは、盛り上がった気持ちをそのまま互いの唇にぶつけた。
あの時、僕たちは確かに笑っていたんだ。
なのに、今となってはどんな風に笑顔を交わしていたのか、思い出そうとしてもその顔にはペンでぐしゃぐしゃと消したような跡が出来てしまい、上手く描くことが出来なくなっていた。
僕に向ける笑顔の質が、どこかのタイミングで変化していたのだろう。今でも上手く言えないけれど、昨日と今日が切り替わるその瞬間、想いの核のようなモノがぽとりと抜け落ち、二度と届かない淵に沈んでしまったような、そんな笑い顔だった。
違和感を覚えた時、それがどれだけ深い場所であろうとも、僕はすぐにそれを拾いに行くべきだったのだ。
僕たちは何を間違えてしまったのか分からなかった。浮気をしたり、心変わりをしたり、そんな分かりやすい理由があれば良かったのにと思うぐらい、決定的なことが見えなかった。だからこそきちんとさよならを言うことも出来ず、ただ物理的に距離をとるしかなかった。
仕方ない、僕たちはただの本が好きな高校生に過ぎなかったのだから。
本の中身について言い合うことは出来ても、お互いの想いを言葉にするには過剰な自意識が邪魔をした。
僕たちが好きだった作家は当時と変わらず第一線で活躍を続け、彼の新刊は売り場の一番目立つ場所に書店員のオススメの一言と共に平積みにされている。
一番上の本を手に取り、帯を見る。
『僕たちは、出会わなければ良かったのか――』
あの熱は一体何だったのだろう。社会に出て、世の中の仕組みを具体的に感じるようになった今、当時のように真っ直ぐな感情だけでは乗り切れないことも知った。
だから僕は、こんな帯の言葉ひとつにもケチを付けてしまったんだ。
「こんなよくある文句に煽られるヤツなんている?」
同じタイミングで誰かと声が重なり、思わず隣を見た。相手も僕を見て、お互いに驚いた顔をした。
「なんで」
僕たちの住んでいた街から遠く離れたこの場所に、どうして君がいるんだ。
相手も何かを尋ねようとする気配がしたけれど、出てきた言葉は違った。
「今もこの作家のこと、好きなんだね」
柔らかく僕に笑いかけるその表情は、5年前に僕が見ていたどの笑顔とも違った気がした。
突然過ぎて、何を話していいのか分からないし、そもそも話し掛けていいのかすら分からない。逃げるように去るのも悪い気がしてどうにも出来ず、動けないまま心だけ忙しなく動かしていると、向こうが口を開いた。
「この人さ、昔よりもペースは落ちてるけど、今もずっと書き続けてくれるの、嬉しいよね」
帯はイマイチだけどと言いながら、新刊を手にパラパラと頁を繰る。
「読めば一瞬でその世界にダイブ出来るのがフィクションのいいところだよね」
ぱたんと本を閉じる。
「思い入れが強い本ほど、読んでいた当時の自分の気持ちなんかも思い出したりしてさ」
向こうがどういう意図でこんな話をしているのか、いまひとつ読めない。
僕は相手が喋るままに、ただ聞いていた。
「一緒に観たあの映画、覚えてるかな。今度はアニメーション映画になって、来月公開されるって知ってた?」
「あぁ、うん」
僕がその情報を知ったのは、つい先日のことだった。
「観る?」
「いや、まだ何も考えてなかった」
「そっか」
そう言うと、向こうはふわりと笑って時計を見た。
「そろそろ行かないと。じゃあ」
「うん」
相手は新刊を手に、レジへ進む。
お互いに「またね」とは言わなかった。
今の話は何だったのだろう。
僕から映画に誘われるのを待っていた?
そんな訳はない。
僕らがここで出会ったのは本当に
現実はフィクションのように都合良くは進まないのだ。
僕は売り場をひとめぐりする。
文庫の棚で、あの作家の本を見付けた。カバーが映画バージョンに変わっている。
『後悔など、後ろに立たせておけ』
本に登場する探偵の決め台詞が、帯に大きく書かれている。
恰好良さそうな響きの癖に、よく考えると意味がいまひとつわからない。こんな勢いだけの台詞が山のように出てくる小説なのだ。だから僕たちは、実写よりもアニメーションでのファンタジックな演出の方が合っていると思ったのだった。
カフェで話した時の、あの凄まじい熱量を思い出す。
実写からアニメーションへ。
当時の僕たちが作品に感じた印象は間違っていなかった。
なのに、君への違和感については間違いを繰り返すのか。
スマートフォンを見ると、別れてから10分程が経過していた。店を出て、右と左。どちらに行ったかすらも分からないけれど、今行かなければ僕の中の損なわれた部分は、もう二度と修復するタイミングを得られない気がした。
自動ドアの開く速度にもどかしさを感じながら右を見て左を見たら、いた。しかもすぐ近くに。
「傘を忘れてしまって」
大粒の雨が地面に叩きつけられる音が耳に刺さる。書店の軒下で雨宿りをしていたらしい。バツが悪そうにへへと笑う顔が、僕の記憶の中で塗り潰されていた顔と重なった。
そうだ。
こんな風にはにかんだ笑顔が、僕は確かに好きだったんだ。
「公開週の週末、空いてるかな」
雨音にかき消されないよう、僕は言う。
フィクションの世界ではなく、現実を動かすために。
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