第16話
巴が休みを取り始めて一週間が経過。月曜日で無音の店内は無音とは思えないくらいに賑わっていた。
ひたすらキッチンとフロアの往復を繰り返し続け、やっと客足が途絶え始めた頃にはすっかり外が暗くなっていた。
カウンター席では、この店の席を埋めることで間接的に俺の体力確保に貢献してくれていた萌夏と鶴梨が各々の作業をしていた。
そんなわけで、閉店時間を過ぎてはいるが早々に2人を追い出すような気にもならない。
「匠己さん、お疲れさま」
俺が一息ついて水を飲んでいると、ヘッドホンを取り外して首にかけた萌夏が声をかけてきた。
「おう。今日は疲れたわ……」
「いなくなって分かる巴ちゃんのありがたみって感じ?」
「そうだなぁ……このところ平日もやけに人が来るし毎日一人だと案外しんどくてな。珍しくヘトヘトだよ」
「明日はお休み?」
「そうだな」
「じゃ、明日は夢の国に行こっか」
萌夏がニシシと笑ってそんな提案をしてきた。
「俺を殺す気か!?」
「や、夢の国って言ってるのに。殺すなんて言葉は似合わないよ」
「ならせめて足腰の悪い老人が使ってる乗り物で園内を回らせてくれ……」
「耳はつける?」
「つけない」
「フェイスペイントはする?」
「しない」
「ないない祭りじゃん」
「もっとこう……動かずに楽しめるところってないか?」
「だったらぁ……お風呂屋さんじゃないですか?」
鶴梨がそんな提案をしてきた。スパなら確かにゆっくりと癒せそうだ。
「あ、いいね。匠己さん、明日スパ行こうよ。前に行った近所のあそこ、岩盤浴もあるしさ」
「岩盤浴なぁ……岩の上に寝そべって何が楽しいんだ?」
萌夏は「はいはい」と言って笑いながら机の上にあるメニュー表を見始めた。
「ね、匠己さん。メロンソーダって美味しい? 私飲んだことないんだよね」
「マジかよ……飲んでみろよ。美味しいぞ。ほら、サービス」
俺はキッチンに行って2つのコップにメロンソーダを注ぎ、萌夏と鶴梨に出した。
萌夏はメロンソーダを一口飲んで笑う。
「同じことだね」
「何がだ?」
「試してみろよってこと。飛ぶぞ、疲れが」
「言うほどだろ」
「ま、個人差はあるかもしれないけど」
「へぇ……行ってみるか……鶴梨さんも行きますか?」
「んー……私は大丈夫です。お二人の邪魔になっちゃちますし。せっかくのスパデートなんですから、二人で楽しんできてください」
「べっ、別にデートじゃないですから!」
萌夏は「相変わらず引き出すのが上手いなぁ」と言いながらメロンソーダを口にする。
「メロンソーダ、うまいだろ?」
「や、知ってた。これ大好きなんだよね」
「騙したな!?」
萌夏はニヤリと笑って「ごち」と言って手を合わせてきた。
◆
スパの更衣室。いつもなら素っ裸になって風呂場に直行するところだが、今日は厚手の服に着替えて廊下に向かった。眼鏡を外したため若干視界がぼやける。
廊下では萌夏が先に同じ館内着に着替えて待っていた。髪色が特徴的なので顔で判断せずに良くて助かる。
「や、お揃いだね」
萌夏と合流するとニッと笑いながら声をかけてきた。
「皆おそろいだよ、そりゃ」
「だよね」
萌夏はそう言うと、自分の顎に手を当てて真剣な表情で俺の下半身をじーっと見てくる。
「なっ……なんだ?」
「や、今って匠己さんノーパンなのかって思っただけ」
「ばっ……見るな馬鹿!」
俺は股間を抑えて内股になり萌夏に注意する。
「それはもうツンデレ美少女がパンツを見られたときの反応なんだよね……って良く見たらメガネ外してるじゃん。新鮮だね」
「そうだけど……先に下かよ……」
「事前に用意してた会話だからね。『まずはノーパンをいじろう』ってさ」
「用意するのはいいけど取捨選択はしろよ」
「や、これは珠玉の一言」
「ならヨシ」
「それにさ、改めて思ったけど案外匠己さんの顔って見れないんだなぁって」
「そうなの!?」
「ん。気になる人の顔だから当然気になる。けど表情とか色んなことが気になりすぎて――ってなんでそんな睨んでるの?」
俯きがちに説明を始めた萌夏がふと視線を上げ、俺の顔を見てぎょっとする。
「目が悪いだけ。メガネ、してないから」
自分の目を指さしながら萌夏に敵意がないことを表すために営業スマイルを作る。
真顔で俺の顔を見た萌夏は「新鮮だね」とだけ言うと、岩盤浴の部屋を指さして歩き始めた。
◆
真夏の外くらいの暑さの中、硬い岩の上に寝そべること10分。
20人は入れそうな広い部屋だが、使っているのは俺と萌夏だけ。平日の昼間なのでこんなものなんだろう。
2人で並んで寝そべっているが会話は少なく、ヒーリングミュージックに耳を澄ます。
ふと隣が気になって顔を横に向ける。萌夏も同じことを考えたのか、俺の方を見ていた。
「顔、見れないんじゃないのかよ」
萌夏はニヤリと笑って人差し指を自分の口に添える。
「俺達の他には誰もいないよ」
萌夏は寝転んだまま周囲を確認する。絶対に部屋の中を隅々まで確認できた感じではないので本当に形だけなんだろう。
「や、見れないからこそ見たほうがいいんだよ。ドキドキして、血流が良くなって、岩盤浴の効果が高まりそうじゃない?」
「それ本当か?」
「科学的根拠はないよ。けど岩盤浴には科学的根拠はあるから。上に被せる理由は少々デタラメでもいいよね」
「なんだそれ」
2人でケラケラと笑う。どちらからともなく自然と身体ごと向かい合うように体勢を変えた。
萌夏は「ん」と言いながら手を伸ばしてくる。
応えるように腕を伸ばして手を繋ぐ。
床に手をおくと、床に直接肌が触れるためかなり熱い。
真夏のプールサイドから逃げるように手を持ち上げると、萌夏が「ふふっ」と笑った。
「プールサイドじゃん」
「同じこと思った」
「じゃ、あれも同じこと思ってたの?」
「あれ?」
「ノーパンだよ、ノーパン。『俺がノーパンの時、また萌夏ちゃんもノーパンなのだ』ってさ」
「性犯罪者のニーチェか?」
「わ、ニーチェに罪を擦り付けた」
「そもそも俺は考えてないからな!?」
「ニーチェも考えてないと思うよ」
「そんな変なこと考えてるのは萌夏ちゃんだけだよ……」
「じゃ、意識してみてよ。今、私はノーブラノーパンです」
「それ言い出したら普段の街中だって下着の下はみんなノーブラノーパンだろ。二重に履いてる人以外は」
「わ、天才じゃん」
「だろ?」
「『下着の下はみんなノーブラノーパンなんだよな』って考えてる喫茶店のマスターかぁ……」
「俺の理想像とは程遠いな……ってこれも萌夏ちゃんにけしかけられたからだぞ!?」
「わ、本当に意識し始めた?」
「別に……見た目には変わらないんだから単に妄想の中で剥ぎ取る布が1枚多いか少ないかの違いだろ?」
「剥ぎ取る……」
萌夏がその言葉のニュアンスを噛みしめるように微笑む。
「こっ、言葉の綾だよ!」
「モンハンでもしてるの?」
「ある意味じゃモンスターだな――いだっ!」
萌夏が頬を膨らませてデコピンをしてきた。
「女の子にモンスターとか言うな」
「別に萌夏ちゃんを念頭に置いてたわけじゃねぇよ……」
「へぇ……女の子の概念でまっさきに私が出てくるんだぁ……私は『女の子』としか言ってないよね?」
「うっ……」
萌夏は「ツンデレ〜」と言って俺の頬を突いて笑う。突いた直後、俺の汗の量にびっくりしたのか、汗を拭うように指を俺のタオルにこすりつけた。
「俺のタオルで指についた汗を拭くなよ」
「や、でも匠己さんの汗だし。私のタオルで拭くほうがおかしくない?」
「ま……言われてみたらそうか」
「そろそろ出よっか。休憩しよ」
萌夏がそう言って立ち上がり、床に敷いていたタオルを回収する。
俺も立ちたがりたいのだが、岩盤浴で血流が良くなりすぎて、立ち上がる前からアレが立ち上がってしまっている。別に萌夏のノーブラノーパンを意識しているわけじゃない。えぇ、そうですとも。
「お、おう。先に行っててくれ」
「どうしたの? ここでサイクルがずれると一生ズレたままだよ。顔を合わせるのはたまに。分速1700メートルで公園を走るたかし君と時速5キロで歩くしんや君が何回すれ違う? って問題くらいの頻度になっちゃうよ」
「そ、そうだよな! ちょ、ちょっと……待っててな……」
「や、今のはたかし君の走る速さが時速100キロ超えでえげつないってジョークなんだけど……本当、大丈夫? ふらふらしてない?」
萌夏が俺の横に来てしゃがみ込む。すぐ目の前にある汗の染み込んだズボンの下は――俺は慌ててノーパンノーブラと言う単語を頭から振り払う。
何度か深呼吸をすると少し収まってきた。
「あー……う、うん。いけるわ、いける」
萌夏に背中を向けながら立ち上がり、回収したタオルを丸めてそれとなく股間を隠す。
振り返ると、汗で髪の毛がぺたんと額に貼り付いた萌夏がいた。
汗をかいたからか、館内着の裾を持って身体に空気を行き渡らせようと扇いでいる。
その雰囲気や仕草に何故かまた意識してしまい、少し前屈みになる。
それを見た萌夏は「めっちゃ意識してるじゃん」と言い、笑いながら俺に自分のタオルを渡してきた。
◆
匠己さんと岩盤浴を堪能した後、汗を流すために浴室に来た。
平日の昼間の露天風呂を独り占めしていると、気づけば身体が小さな気泡に覆われていた。
自分が入っていたのが炭酸泉だとそこで気づく。
指でなぞったところだけ、メロンソーダから気が抜けるように泡が取れていった。
ふと思いついて『タクミミ』と書いてみる。恥ずかしくなり、黒板消しのように手で肌をこすってその文字を消した。
今度は太ももに漢字で書いてみる。左に匠、右に己。また恥ずかしくなってすぐに消す。
「タトゥーで恋人の名前を入れる人の気持ちはわかんなかったけど……これはちょっといい」
その時、壁を隔てて隣にある男湯の露天風呂から匠己さんらしき人の大きなくしゃみが聞こえた。
男湯に炭酸泉があったとしても、『萌夏』は画数が多いから多分身体には書けないんだろう。
いや、匠己さんのことだからジェットバスの吹き出し口に手を当てて水圧でおっぱいを疑似体験しているかもしれない。
そんなことを考えながら今度は下腹部を指でなぞり、逆さまのハートマークを描く。
「淫紋」
自分のお腹を見てぶはっと一人で笑っていると、また隣から匠己さんらしき人のくしゃみが聞こえた。
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