第17話

 水曜日の夜、客はカップルが一組と萌夏、鶴梨の4人だけ。スパでチャージした元気も有り余るくらいの客足の少なさに、店内に流れるクラシック音楽に合わせて鼻歌が漏れる。


 すると、カウンター席に座ってパソコンと向かい合っていた萌夏が顔を上げてしかめっ面をした。


「どうした? タイピングの精度でも落ちたのか?」


「や、別のことしてたから。それより、鼻歌」


「あぁ……悪い。うるさかったか?」


「ううん。音程がズレてたから気になっちゃって」


「すげぇな。絶対音感か?」


「ううん。相対音感」


「何が違うんだ?」


「絶対音感は鳴ってる音の高さが自分の中で判別できること。相対音感は今流れてるパッヘルベルのカノンと、匠己さんのカノンの2つを比べてズレがあるかどうかを判別するんだ」


「自分の価値観を持っている人か、他人の価値観に依存している人かの違いってことですか?」


 鶴梨が隣から入ってくる。


「それ、だいぶ相対音感への風当たりが強い例えですね……」


「うふふ。そうですか?」


「ま、萌夏ちゃんと鶴梨さんの二人は絶対音感でしょうね」


 ちょっとした皮肉も込めて俺がそう言うと萌夏と鶴梨が目を合わせて微笑んだ。


「ところでぇ……匠己さん。乾いたタオルはありますか?」


「えっ……えぇ。ありますよ」


「2、3枚用意しておいた方がいいかもです……」


 鶴梨が心配そうにそう言う。


「なにかありました?」


「あったというかぁ……これから起こるというかぁ……」


 鶴梨がそう言って背後にいるカップルを振り返った瞬間、カップルの彼氏が彼女に向かってコップの水をかけた。


 相変わらず、鶴梨の観察眼は恐るべしだ。


 俺が慌ててタオルを用意している間、テーブルに千円札を置いて彼氏が店から出ていく。


 タオルを持って彼女が一人で取り残されているテーブル席に向かう。


「これ……良かったらどうぞ」


「ありがとうございます」


 その女性は普通の人の1.5倍速の速さで礼を言い、タオルを受け取ると、椅子から降りてしゃがみ込み、長い髪の毛から水が滴っている事を忘れて床を拭き始めた。


「ゆ、床は私が拭くので、お客様はご自分の服とかお顔とか……そっちを拭いてください」


「いっ……いいんですか?」


 女性はポカンとした表情で俺に尋ねてくる。目は大きいが、重ための長い前髪で見えたり隠れたりしている。


「大丈夫ですよ。隣の席、空いているので使ってくださいね」


 俺はニッコリと営業スマイルを作り、新しいタオルを女性に手渡し、隣の席へエスコートする。


 背後から「新規には優しいんだ」と萌夏の小言が聞こえた気がするが、ここはホストクラブではないので無視することにした。


 ◆


 水をかけられた女性はラストオーダーの時間までずっと椅子に座っていた。注文を取るためにテーブル席に近づく。


「ラストオーダーのお時間ですが何か頼まれますか?」


「あぁ……えぇと……はい。カフェラテを一つ。後……席って移動してもいいですか?」


「えっ、えぇ。構いませんよ。どちらに?」


 女性はカウンター席を指さした。


 俺が「どうぞ」と言ってキッチンの方に戻ると、女性がコップを持って萌夏の隣の席に座った。


 カウンターに立つと、右から女性、萌夏、鶴梨と三人が並ぶ形。


 順番に用意をしていって、カフェラテ、アイスコーヒー、ホットコーヒーと3人分の飲み物を出したところで女性が「マスターさん」と話しかけてきた。


「どうしました?」


「話、聞いてくれませんか?」


「えっ……えぇ。いいですよ」


 萌夏と鶴梨がニヤニヤしながら俺を見てくるので顔をしかめて威嚇し、女性の方を向く。


上島うえしま伊里いりっていいます。上島は普通に上の島と書いて、伊里は伊達政宗のダ、里芋の里で、伊里です」


 絶対に『伊』の字を説明するのにもっと適した歴史上の人物がいるよな、と思うも初対面の人にそこまでは言わない。


 伊里は俯きがちに話を続ける。


「水をかけていった人は彼氏で、上島うえじま優吾ゆうごといいます。名字の漢字は同じです」


 結婚したら読み仮名だけが変わるのか、と思うも水をぶっかけられた後なので結婚なんてワードは出しづらいところ。


「結婚したら読み仮名だけが変わるけど銀行口座の名義変更はどうしたらいいのかな? って話をよくしてたんです。他にも、少なくとも印鑑は同じものが使えるから楽だね、とか、職場で『ウエシマさん』って呼ばれたら都度『ウエジマです』って訂正して回らないといけないのか、とか」


 伊里は加速しながら話を続け、何故かここで俺に会話のボールを回すように顔を上げた。


「あー……はっ、はしご高の髙田たかださんが普通の高田たかたさんと結婚するよりは楽そうですね。漢字は同じだから……」


 正解が分からず声がどんどん小さくなっていく。伊里の隣にいる萌夏が俺に見えるように小さく首を横に振った。やはりこれは違ったか。


「あはっ……たっ、確かにそうですね……ぷっ……ふふっ……」


 だが伊里にはツボに入った様子。これは正解だったらしい。萌夏は小さく「音感にズレがある」と呟く。


「それで……上島さん達はなんで喧嘩をしていたんですか?」


「これです、この曲」


「カノンですか?」


 伊里は俺の質問にコクリと頷いた。


 今日はクラシックの名曲100選というプレイリストをランダム再生していて、パッヘルベルのカノンが短期間で2回目を迎えていた。乱数の気分でそうなっているんだろう。


「この曲の名前、なんでしたっけ?」


「カノンですね」


 萌夏が相手なら「さっき言ったろ」と突っ込んでいたところだがぐっと堪える。


「ですよね。彼は『カロン』だって言い張ってて。私が何度もカノンだよ、カノンだよって言ってたら水をかけられちゃったんです」


 俺が「なんで?」と言う前に聞き耳を立てていた二人が「なんで!?」と反応した。


 ここでやっと萌夏と鶴梨が参戦する大義名分が生まれた。伊里との会話は半分くらい意味がわからなかったので毒をもって毒を制す事しか対策が思いつかなかったのでこれは助かる。


「あのぉ……差し支えなければお仕事は何を?」


 何かを感じとったのか、鶴梨が話しかける。


「あっ……ふ、普通に会社員です」


「彼は?」


「彼はフリーター……っていうかバンドをしてるんです。インディーズで……まぁ全然売れてないんですけどね」


「アルバイトはしていますかぁ?」


「いえ。していないです」


「学生さんですかぁ?」


「いえ。大学中退です」


「職業訓練等は……」


「いえ。昼に起きて外にご飯を食べに行って、帰ってきたらギターを弾いて寝る生活です」


「では彼はニートですねぇ。もし生活費を伊里さんにみてもらっているならヒモでもありますねぇ」


 鶴梨が穏やかな声でバッサリと言い切った。


「前に冗談でそれを言ったら彼に怒られて……」


「水をかけられた?」


 俺の質問に伊里がコクリと頷く。無色透明無味無臭な液体なだけマシと思えるくらいには、この話でウエジマ氏のいいところを探すのに苦労してしまう。


「けっ、けど! 彼には私が必要なんです! ベッドのシーツも一人で整えられないし、たまに家で自炊するって言い出したと思ったら調味料を買い忘れるし、寝相も悪いし……だから、私が側にいて支えてあげないとって……」


 前半は似た体験をした記憶があったので萌夏の方を見る。萌夏は口をすぼめて不服そうに頷いて、口を開いた。


「や、多分だけどその人が怒ったのは浮気相手の名前がカノンだったからだと思うよ。花に音でカノン。間違いないね」


「多分なのか間違い無いのかどっちなんだよ……」


「多分絶対間違い無い。バンドマンなんてクズしかいないんだから。新しい恋、初めてもいいんじゃないの?」


 萌夏がそう言うと伊里は「新しい恋……ですか」と言って何故か俺の方を見てきた。


 俺はモテない喫茶店のマスターなんだ。それはないだろう。


 ◆


 閉店後、恒例行事となった萌夏の家まで続く道を二人で歩く。


「や、匠己さんのお店は飽きないね。行く度に何かしらハプニングが起こるんだから」


「ハプニングなぁ……」


「ん。ハプニングだよ。ま、面白いこととは言い切れないね。彼氏に水をぶっかけられてる悲しい人もいるわけで」


「上島さんなぁ……大丈夫なのか? あれ」


「や、ダメ男でしょ」


 萌夏はキッパリと言い切る。


 少し歩いて隣から萌夏がいなくなったことに気づいて振り向くと、萌夏が足を止めていた。


「どうしたんだ?」


「や、私も同じだなって。一人でシーツも整えられなくて調味料も買い忘れる」


「寝相も悪い?」


「それは……どうだった? 大人になってからは匠己さんしか知らないことだから」


「ま、普通だったな」


「誰と比較してかなぁ?」


「一般論だよ」


 ニヤニヤしながら聞いてくる萌夏をいなす。


「それに、萌夏ちゃんは違うだろ。売れてるんだし」


「それはそれ、これはこれだよ。売れるかどうかっていうのは、昔ながらの権力のある人や会社に愛されるか、動画サイトのアルゴリズムに愛されるかだから。私は後者からの前者。両方に愛されてる人も、片方に愛されてる人も、どっちからも愛されない人もいる。それと人間性が愛されてるかどうかは別だよ」


「ネガティブだな」


「そうだね。私も匠己さんに床を拭かせてるのかなって思っちゃった」


「自分が好きで床を拭いてるならいいだろ」


「伊里さんが同じこと言ってても同じこと言える?」


「言えないな」


「ほら」


 俺が言い返せなくなると、萌夏が俯いて動かなくなる。謎にメンヘラモードに入ってしまっているようだ。


 萌夏の目の前に行き、腰を屈めて顔の位置を合わせて再度話しかける。


「絶対音感だから」


「……え?」


「さっきの話だよ。この音程がぴったりなんだって。別にAの音が440ヘルツじゃなくてもいいんだよ。ここではズレた基準を基準にしてればいいだけだろ?」


 萌夏が顔を上げてふふっと笑う。


「詳しいじゃん」


「ちょっと調べた。帰り支度してる時に」


「マメだね。モテるんじゃない?」


「モテないんだよな、それが」


 顔を見合わせて笑い合うと萌夏が急に抱きついてきた。


「匠己さん、ハグしていい?」


「普通する前に聞くだろ……」


「じゃ、キスしていい?」


「ダメ。彼氏じゃないから」


「ま、そうだよね」


 萌夏が笑いながら離れる。じゃあ彼氏に、なんて話をするタイミングではないのは分かっているけれど心がチクリと痛む。


「匠己さん。ベッドのシーツがズレてるから直してほしい。後、添い寝して朝起こして欲しい。朝ご飯も一緒に作って、コーヒーも淹れて最高の一日をスタートさせてほしい。朝ご飯のメニューには目玉焼きを入れたくて、目玉焼きにかけるケチャップがないからコンビニに行こ。今から」


 萌夏がニッコリと笑ってそう言う。


「いいよ」


 俺が頷くと萌夏が俺の手を引いてコンビニの方へ向かって歩き始める。


 二人で夜道を歩きながらふと思う。


「ちょっと待てよ。目玉焼きにケチャップ? 醤油じゃなくて?」


「だってスクランブルエッグはケチャップじゃん。よって卵にはケチャップだよ」


「スクランブルエッグはスクランブルエッグだろ」


「や、スクランブルエッグは卵だから。それに醤油だとハートが描けないよ?」


「ハートも描くのかよ……今から朝が憂鬱だわ……」


 萌夏は「私が描いてあげるよ」とありがた迷惑な事を言いながら笑ったのだった。

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