第6話
片付けを終え、トイレに行っていた一瞬のうちに萌夏が店内から消えていた。
先に外に出ているんだろうか。不思議に思いながら店内の照明を落とすと、どこかから「ぎにゃっ!」と声がした。
その直後にガンッと何かがぶつかる音がする。
驚きながら電気をつけると、テーブルの下から頭をさすりながら目に涙を浮かべた萌夏が出てきて立ち上がった。
「う……いだい……」
「だっ、大丈夫か!?」
俺は慌てて萌夏に駆け寄る。
「ん、大丈夫……一応見てみて」
萌夏が頭頂部を見せてくる。見た感じ怪我はしていなさそうだ。
「大丈夫そうだな。気分悪くないか? 目眩とかふらつきとか」
萌夏の周りをぐるりと一周して様子を確認する。
「うん、何ともないよ。けど……すごい慌てようだね。そんなに心配?」
萌夏は嬉しそうにはにかんで尋ねてくる。
「べっ、別に……うちの店で怪我をされたら俺の責任問題になるからだよ」
萌夏は「ツンデレ〜」と言って笑う。
「そもそもなんで隠れてたんだよ……」
「や、驚かそうかと思って」
「この一連の行動に驚いたわ……」
「なら成功だね」
ニィと笑って萌夏が店から出ていく。
萌夏を追うように外に出ると、外の空気はひんやりとしていて、秋らしさを感じた。
「秋だなぁ……」
萌夏が空を見上げて呟く。
「そうだな。そこの公園に金木犀の木があるんだよ。まだ時期じゃないけどその時期は仕事帰りが楽しみなんだよな」
「ふぅん……金木犀かぁ……」
俺が店の近くにある公園を指さしながら教えたのだが、萌夏は大して興味なさそうにそう言った。
「金木犀は好きじゃない?」
「や、ニュートラル」
「なるほどな」
「好きになれるかどうかは匠己さん次第」
「嫌になるくらい嗅がせてやるよ」
笑いながらそう言うと萌夏は足を止めて俺の目を見てくる。
「匠己さん、好きにさせてくれる?」
萌夏は頬を赤らめてそう言った。金木犀以外の意味はないはずなのだが、照れながら言うので変に意識させられてしまう。
「きっ、金木犀のことだよな?」
「ん。金木犀のことだよ」
「じゃあなんでそんな照れてるんだよ」
「私、金木犀にツンデレだから」
「どういうこと!?」
「そのまんま。この季節限定だし、本物はすごく良い匂いなのに香水や芳香剤は再現度が低くてげんなりするから悲しくて。だから好きになれない。いなくなったらまた1年待たないといけないんだからさ」
「人間の技術力の問題なんだな……」
不思議な感性をしているけれど、それ故のアーティストなんだろう、と勝手に納得する。
「今年は金木犀が咲いたら、匠己さんがたくさん遊んでくれるんだろうなぁ。そうしたらいい思い出になるから、金木犀も好きになるんだろうなぁ」
「ちゃっかり予定を組み込みやがったな……」
萌夏はふふっと笑い、隣から俺を見上げ「お腹空いた」と呟いた。
◆
萌夏はコンビニで飯を、俺はお茶を購入。
二人で金木犀のある公園まで戻ってきてベンチに座って萌夏の食べっぷりを眺める会が開催されることになった。
萌夏は無表情のまま袋をガサガサと漁り、中から一本の巻き寿司を取り出した。ラベルには『納豆巻き』と書かれている。
器用に膝の上でフィルムを剥がして巻き寿司の形を整えた萌夏は納豆巻きにかぶりつく。
小さい口を広げて必死にかじりついている様がリスのようで可愛らしく思わずニヤケてしまう。
萌夏は納豆巻きを噛みちぎらずに咥えたまま俺の方を向いた。
「な……何?」
「ふぁふひはん、ふぇふぉひへへひへふ」
「何!?」
「ふぁふひはん」
「……匠己さん?」
萌夏が納豆巻きを咥えたまま頷く。
「ふぇふぉひへへひへふ」
二文目の解読がかなり難しい。
「ふぇふぉ……けど?」
萌夏が首を横に振り「ふぇふぉひ」と言う。
「エグい?」
萌夏は首を横に振る。
「エモい?」
萌夏はまた首を横に振る。
「ふぇ! ふぉ! ひ!」
「それ食ってから話せよ……」
萌夏は急いで納豆巻きを噛み千切り、高速で咀嚼をして飲み込む。
「や、現行犯で捕まえたかったから」
「現行犯?」
「エロい目で見てた」
ふぇふぉひへへひへふ……エロい目で見てる!?
「何が!?」
「私が納豆巻きを食べてるところを見ながらニヤけてたよ」
「そっ、それは単に……なっ、なんだ! あれだよあれ!」
「あれ?」
変態扱いされるよりはマシだろう。本当の事を言うしかない。
「そのー……小動物感が可愛かったと言うか……それだけだからな!? エロい目でなんか見てないからな」
「そっか。ま、エロい目で見ても気にしないけど」
「俺はお客様に手は出さないからな」
「そうなの? 前に言ってなかった?」
「何て?」
「『俺のォ店にいる間はお客様だァ。けどォ……店を一歩出たらァ、そんときゃァ一人の女だァ』って」
萌夏は渋い顔をして低い声を作って言ってもないことを捏造した。
「言ってねぇよ!?」
「あれ? そうだっけ?」
萌夏はすっとぼけながら口元だけで笑う。
「ま……けど……そっか。私可愛いのか」
萌夏は両手で持った納豆巻きをかじり、真顔でもぐもぐしながら呟く。
「小動物感が可愛いってだけだぞ」
「『だけ』じゃない可愛さとは?」
「うっ……いや……まあ……色々だろ!?」
萌夏はニヤリと笑って「逃げたね」と呟いた。
何を言っても絡め取られそうなので黙っていると、甘そうなフルーツオレをゴクゴクと飲み、萌夏が空を見上げた。
「ね、匠己さん」
「なんだ?」
「昨日、ありがとね」
「別に……大したことはしてないぞ」
「ううん。あの後、ピアノが弾けたんだ。ちょっとだけ」
「良かったな」
「それだけじゃない。あのお店にいると新しい曲のアイディアも湧いてくる。もちろん前ほどスムーズじゃないけど、ちょっとだけ頑張れるんだ」
担当マネージャーだとかそういう設定を無視して萌夏が気持ちを吐露してくれる。
萌夏は身体ごと俺の方を向くように座り直し、ベンチの背もたれに肘をついた。
「匠己さんなのかなって思ったんだ。スランプ脱出の糸口」
今日一番にいい笑顔で萌夏がそう言う。普段の無表情とのギャップに小動物感以外の可愛さを感じた。
「そっ……そんな単純じゃないだろ」
「まぁね。けど何がきっかけになるか分からないから。これからも付き合ってよ、こういうの」
「……いいぞ」
「それで……匠己さんに1個質問があって」
「なんだ?」
「彼女……いる? こういう女がまとわりついてくるとやたらと嫉妬しちゃうタイプの彼女」
「そういうタイプもサバサバしたタイプもいないな」
「了解」
萌夏はそう言うとニッと笑って前を向いた。
「質問の趣旨はなんなんだよ……」
「匠己さんも一つだけ私に聞いて良いよ。質問の趣旨も何も気にしなくていいから。私も素直に答える」
「そうだなぁ……」
彼氏の有無は聞いてしまった。歌手でボカロPもやってるヨネの中身ですか? と言うのもありだが、それを聞いたところでどうなるわけでもない。
俺のことどう思う? と聞くのも気持ち悪いし、何ならヒゲを剃ったら好みだとまで言われている。
あれ? 聞くことなくね? 趣味とか聞けばいいのか? ありきたりすぎるか。うーん……悩ましい。
「なぁ萌夏ちゃん」
「なっ、何?」
俺の質問が始まると察したのか、萌夏は改まって髪の毛を整えて姿勢を正した。
「納豆巻きにフルーツオレって合うのか?」
俺の質問に萌夏はポカンとしてしまう。
自分が手に持っているフルーツオレのボトルと袋に片付けた海苔巻きのラベルをじっと見つめ、やがて顔を上げた。
「そんなに合わないかも。匠己さんと私の方が相性いいよ、少なくとも」
萌夏は真顔でフルーツオレのパッケージを見ながらそう言った。
「納豆巻きとフルーツオレの組み合わせに負けてたらもう芽はないよな」
「そうだね。今の私達は……おにぎりとお茶じゃない?」
「それって最上位じゃないのか!?」
「や、最上位はアンパンと牛乳」
「あー……それには勝てないな」
「匠己さん。私達で頑張って目指そうね。アンパンと牛乳」
「俺が牛乳な」
「や、匠己さんはアンパン」
「俺が牛乳だろー。なんつっても喫茶店のマスターだぞ?」
「や、私みたいなクソ引きこもり女にはアンパンは荷が重いよ。アンパンって主人公だし。それにほら、乳もあるよ」
萌夏は必死に両脇から乳を寄せるように抱きかかえて上下に揺らす。だが、慎ましい胸は大して動かない。
「低脂肪乳だな」
萌夏は「匠己さん、いつか低温殺菌してやる」と言って頬を膨らませる。
次の瞬間、萌夏は「あっ! あっ!」といきなり手をバタバタさせて慌てだした。
「どっ、どうしたんだ!?」
「きょっ、曲が降りてきた」
萌夏は慌てながらスマートフォンの録音機能で鼻歌でメロディーを記録していく。
何度か撮り直しをして、ひとまず頭の中にあるアイディアを吐き出すことはできたようだ。
ひと仕事終えた萌夏が俺の方を向く。
「あ……で、なんだっけ? 私の胸が低脂肪乳って話? や、これは着痩せしてるだけだからね。見せてやりたいところだけど付き合ってるわけでもないし匠己さんは早く私を落とすべきだよ。今すぐにでも」
「乳を見せるために必死すぎるだろ……」
「いつか分からせてやる……言うほど低脂肪じゃないことを……!」
ひたすらに中身のない会話。それでも曲のアイディアが降ってくるように萌夏のリハビリになるなら、と思いながら夜更けまで公園で話し続けるのだった。
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