東條幸信の話

 馬鹿が嫌いだ。視野が狭い上に思い込みが強くて顧みることがないから。俺の肌の色が自分と違うからという理由だけで嫌がらせをしてきた時は思考が幼稚すぎて虫唾さえ走った。

 頭が良くても気が弱い奴は嫌いだ。いつも他人の顔色を窺ってばかりで己を主張しようとしないのは心底苛々する。なぜ堂々と胸を張れないのか。

 醜い人間が嫌いだ。俺の容姿を妬んで石を投げてくるくせに、常に被害者の立場を陣取っているのが気に食わない。

 声が大きい奴も嫌いだし、善人も嫌いだ。もっと具体的なことを言えば腹違いの妹が嫌いだ。碌でもない生まれで、人格に欠陥を抱えた俺をわざわざ「立派だ」と形容して懐くなど頭がどうかしている。それとも嫌味で言っているのか?

 確かに、俺は人より器用だ。大抵のことは何の苦労もせずにこなせる。他人がわからないということが俺にはわからない。勉強は教科書を読んで少し考えればわかることだし、芸術は感じたままに表現すればよい。運動は生きていれば自然と出来るのだから、そもそも頑張る必要などないだろう。人付き合いは相手が望む自分を演じれば上手くいくし、他人に好印象を抱かせるというのは息をするのと等しく容易だ。

 幼い頃から人より飛び抜けて頭が良いという自覚があった。同時に天才じゃないという自覚もあった。だから、俺を天才だと持ち上げてくる人間を心底馬鹿だと思って見下していた。それっぽくしていればどんなに歪んだ人間性を有していても、周囲は人格者だと崇めてくる。そんな、外側だけで全てを決めてしまう人々に絶望感さえ感じながら生きていた小学生の時分だったが、俺の人生に転機が訪れたのも丁度その頃のことだった。

 学校から帰宅すると家の前には数台のパトカーと救急車が止まっていた。俺が戻ったことにいち早く気づいた近所のおばあさんは騒がしく駆け寄ってくると、「ユキちゃん大丈夫、おばちゃんがいるけんね。一緒にお巡りさんとこ行こ」と矢継ぎ早に唾を飛ばして、警察官のところへ俺を連れて行った。

 彼らの話を聞くに、どうやら母親が祖父母を殺害した後に首を吊って自殺したらしい。パトカーに乗り合わせたビール腹の目立つ中年の警官は、気遣わしげな表情を浮かべて俺の背中を摩った。多分、フロントガラス越しに遺体の乗ったストレッチャーが救急車に積まれるのを見ていたからだろう。確かに、残念だったかもしれない。悲しいかと聞かれたら、それはよくわからなかったが。だって涙は出なかった。

 まあ、そんな調子で、特に何か深く気を病むと言うこともなく着々と時は進み、俺は父親の実家へと住まいを移すことになった。

 父親とは生まれてこの方一度も会ったことがない。母を孕ませた後さっさと姿を消してしまった“極悪”だと言う情報しか祖母から知らされていなかったから、俺は一体どんなに軽薄なチンピラが来るのだろうと思っていたのだが、迎えに来た奴は思いのほか、たおやかな鹿のようにも見える上品な身なりの男だった。


「西尾幸信さんですか」


 その人は輪郭のはっきりした美しい声で俺に尋ねた。一人の人間として対等に扱うような敬称を使われたのはこれが初めてだった。


「どちら様ですか」

「僕はあなたの腹違いの兄です。東條信之助と申します」

「東條? 父が迎えにくるのでは」

「あなたと僕の父は今入院中でして。だから代わりに僕が来ました」


 信之助さんはタクシーの後部座席のドアを開けて、「とりあえず話は中で」と言いながら俺を乗車させると自身もその隣の席に乗り込んだ。〇〇駅までお願いします、と運転手に一言頼むと彼は俺に振り向き、幸信さん、とまるでガラス玉のように澄んだ瞳をこちらに寄越した。


「父の話はお母様から聞いていますか」

「祖母からなら、少し。母が妊娠した途端蒸発した……その、極悪だと」

「そうでしたか。西尾家の方々には酷い仕打ちをしました。本当に申し訳ない」


 自分が犯したことでもないのに信之助さんは生真面目にも強く責任を感じ続けていたようで、顔をくしゃりと歪ませると、そう言って俺に深く頭を下げたのだった。

 どうやら信之助さんが変わった人だと言うことに気づいたのは、東條家で生活するのにようやく慣れて来た頃のことである。

 最初、東條の家は俺を引き取るつもりなど毛頭なかったらしい。古くから続く由緒正しいこの家は、結婚も当然、同じような旧家との見合いで決めるのだそうだ。そのため、何処の馬の骨とも知れぬ女との間にできた子供などを迎え入れたくはなく、だから養育費だけ送って、あとは自治体施設に任せようとしていたのだが、次期当主となる信之助さんがそれを許さなかったのだと言う。

 信之助さんは俺を東條家に連れ帰った五年後、もう一人父の落とし胤だという子供を引き取って来た。それが俺の嫌いな六つ下の腹違いの妹である。

 これがまた厄介な子供で、活発と言えば聞こえはいいが、落ち着きがないとも捉えられる性質の持ち主だったのだ。いつも慌ただしく、おまけに不器用なのでよく脚がもつれて転ぶし、だから痣が絶えない。度を超えた甘えたがりで、「おにい、おにい」としつこいくらいにべたべたくっついては嬉しげにしている。中でも一番ムカつくのが、そんな甘ったれなのに賢いということだ。

 この子供は、俺と違って本物の天才だった。

 別に、何かの才能がある、とはっきり言い表せるものではない。しかしただ漠然と「ついに本物が現れた」と思わせるその存在感が、この子供の天才たる所以だった。

 俺は激しく嫉妬した。その才能にではない。才能が故に、信之助さんに一目置かれているという事実に嫉妬したのだ。例えるならば俺は信之助さんの前妻の子供で、あの子供は後妻の連れ子なのである。最愛の人と仲睦まじくしていたところに水をさしてきた間男なのである。

 けれども、邪険にはできなかった。何故なら信之助さんが俺とあの子供が親密になることを望んでいるからだ。あの人は優しいから、俺が嫌だと言えばきっと無理に親しくなることはないと言ってくれるのだろうが、内心悲しむに違いない。そんなことを望んでいる訳でない俺は、だからあの子供を慈しむことにした。

 なかなか上手くできていると思う。東條家の人間にも仲の良い兄妹と認識されているようだ。もっとも、あの人たちは俺たちを余所者という括りで見ているから、そう思わせるのも容易だったのかも知れない。見た目が彼らと異なるという点でもそれを強固にしていたのだろう。東條は冷たくはないが、温かくもなかった。

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