芙蓉館

 古来より人間たちに崇められる霊峰富士の山麓には、辺り一体を神域たらしめんとする奇妙な力が宿っているとされる。そうしてそれは、旅館『芙蓉館』の所在するここ金根温泉が一等甚だしいという話であるが、ふむ確かに、全く違いないことだと私は自信を持って断言できる。

 近辺の鉱山労働者によって源泉が発見され、江戸の終わり頃になると登山客の増加とともに宿屋が乱立し出したのがそもそもの始まりだというこの土地は、これまで実に多種多様なお客様をもてなしてきた。良い客もいれば、嫌な客もいた。なにも人間に限った話ではない。まこと奇妙なことだけれども、獣も、亡者も、神さえも、ここでは等しく客だった。そうして等しく奇妙なことに、彼らは人の姿でやってくるのだ。

 一等濃ゆい霊峰富士の奇妙な力がそうさせるのだと人は言い、この地を『曖昧の里』と親しみを込めて呼ぶ者もいる。事実、街にいるその大半が人ならぬ者であり、一見すると誰が人やらわからない。否、誰が人やらわからなくとも別に良いのがこの街なのだ、とわかってきたのはここ最近になってのことだ。

 金根温泉に暮らし始めて早三年の月日が経った。

 人ならぬ者があふれたこの地には珍しい、私はただの人である。



『芙蓉館』は富士山麓の金根温泉街に位置する江戸中期に創業した老舗旅館の一つである。創業当初は部屋数も十に満たない小さな宿屋であったと言うが、時代を重ねるとともに増改築も重ね続けられた結果、今では二十八もの部屋を備えるまでに大きくなった。縦にも横にも巨大化した館内は意図せぬ迷路として出来上がり、迷子になったお客様から帳場に電話がかかってくることもしばしばある。私自身も、仲居として働き始めてからこの建物の間取りを覚えるまで実に三ヶ月もの時間を費やした。今でも時折方向感覚を失ってしまいそうになるほど、芙蓉館は複雑怪奇な造りをしているのだ。

 さて今日は、東館と南館を繋ぐ回廊で迷われていたお客様一組をお迎えにあがり、正面玄関までご案内して無事にお見送りすると、私は東館三階の露の間へと真っ直ぐに向かったのだった。

 露の間は、一昨日の夕方から軒下様という御方が宿泊していらっしゃる客室だ。

 軒下様はいつも髪を綺麗に撫でつけている洒落た三十路頃の美男子である。毎年梅が咲く季節になるとふらっと現れ、しばらく滞在されたかと思えば、またふらっとそよ風のように芙蓉館を後にする渡り鳥のような方だ。滞在中は煙草を吸うか、ぼんやりするか、街を散歩をするかで大方決まっており、時折そこに囲碁が混ざって他のお客様と碁盤を挟みながら休憩室で向かい合っていることもある。起床は遅い。春だから眠りが深いのだ、と以前ご本人がのんびりした調子で茶を啜っていたが、昨年の秋に滞在された時も同じことを言っていたので季節はあまり関係なく、ただ性分が気ままなだけなのだろう。したがって朝食をお運びするのもやや遅めの時間帯であり、その頃他のお客様たちはというと丁度お帰りの身支度をしているなんていうのもザラだった。

 今朝、膳をお運びした際には寝ぼけ眼をしぱしぱとして、しなやかな髪もまだぴちりと固められていなかったけれども、今頃の具合はどうかしら。そう思って膳を下げるついでにチラリとそのご様子を窺ってみれば、軒下様は部屋奥にある広縁の籐椅子に腰掛けて、煙草の煙を優雅にふうと吹いていらした。

「やあ。いつも悪いね、キヨ子さん」

 こちらへわずかに視線を投げて、白くなった煙草の先を潰すように灰皿に押しつける。その弾みで耳元からこぼれ落ちた黒髪はまだポマードの鮮やかな艶を纏っていないようで、毛先を身軽にあちこちへ揺らしていた。

「今朝の食事はお口に合いましたか」

「ああ、とても美味しかったよ。ここは朝から湯豆腐が出るのがいいね。体が温まる」

「四月と言っても、まだまだ寒いですものね。冷えるようでしたら羽織をお持ちしましょうか」

「いや、結構。暖房もつけているから平気さ」

 軒下様は開けていた硝子窓を丁寧に閉じると、卓上の湯気立つ湯呑みにそっと口をつける。その様子はまるで燕のようであるとつい形容したくなるけれど、実際このお方の正体は燕なのだからと思い出すたびに、私はなんだか不思議な気持ちになった。

「そういえば、あの子が見当たらないんだ。どこかへ出かけたのかな」

 そう言って、眠そうに首を傾げる軒下様はやはり優雅で、燕の姿よりも人間の姿の方が生きている時間が長いだろうことを思わせる。

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