兄の弟

 行方の知れなかった兄が数年ぶりに実家に現れ、今更何を言うかと思えば「金を工面してくれないか」などと頭を下げる。わけを聞いてみると、女の人を孕ませて子供を産んだは良いものの、自分には稼ぎが殆どないし、妻子に贅沢をさせてやりたいとは言わずともせめて身の丈にあった生活は失わせたくなくて、厚かましく情けなくも、実家を頼みの綱としてお願いしに帰ってきた、なんて涙ながらに言うものだから、これまでの兄の奔放さに毎度憤慨していた両親も流石に同情したらしく、今時どこからそんなものを用意できるのか、三、四十万、いや、五十万ほどの金を包んでやると、まあまず何か食べなさいと母が立ち上がって台所へ行き、今晩の食事の残りを温め始めた。一方で父は、洟やら涙やらでぐちゃぐちゃな汚い顔の放蕩息子にティッシュを渡して、ほれもう泣くな金はある、と言い小さく丸まった背を撫でる。もはや何年も顔を合わせていなかった兄の動向などは少しの興味もない私であったが、しかしあの身勝手な兄に巻き込まれた女の人のことを考えると憐れむ気持ちもあったので、この兄に、

「相手の人はいくつなの?」

 と聞くと、私より一歳下の、じゅうきゅう、などと弱々しく答える。

「大学生?」

「違う」

「そんなら仕事は?」

「二年くらい前からスナックで働いてる。アヤカとはそこで出会った」

「じゃ、そのアヤカさんの親御さんは兄貴とのこと知ってんの?」

「知ってる。けど放任主義だから、興味ないんだろう。誰も、何とも」

 私が半ば呆れ気味で話を聞いていると、喋るうちにまた自分の情けなさがぶり返してきたのか、兄はその明るい瞳に涙を溜め、肩を跳ねさせながら嗚咽し始める。いつものことで大袈裟なくらいの身ぶりだが、本人にとっては演技でないのだから、これこそ本当の役者でないか、と私は思ったりもする。

 母が遅すぎる夕食を兄のために運んでくると、兄はそれをこれまた大袈裟なくらいありがたがって、箸を口許に運ぶごとに鼻をずずっと鳴らして食べた。泣いて味などわからぬだろうに、美味い美味いと叫んで喜ぶから、父は三杯も飯と汁物とをおかわりさせると、今度は風呂に入って温まれと言い、そうして兄もまんまと入浴して、その間に母が私に納戸から来客用の布団を運んで部屋に敷いてやれと言うので、不本意だが、かつて兄と相部屋していた私の部屋に寝床を用意してやった。居間に戻ると両親が神妙な顔で机を囲んでいて、それにつられるように私も席に着くと、着くなり父が、

「宗介は今夏休みだろう」

 と脈略もなく言って、相違なし、私がうんと頷いてみせれば、

「なら明日、恵介について行って相手の人と子供の様子を見て行ってくれ」

 などと頼む。なるほどこれは兄の言うことが事実か、また事実としたらきちんと妻子にあの大金が渡るかというのを確認して来て欲しいと言う、両親たちのせめてもの責任ではないか。私は全てを理解すると、快くその頼みを了解した。

 次の日、私は兄と一緒に妻子の元へ向かった。鈍行に乗って、駅が最寄りに近づくたびに変な動悸がし私が顔色を悪くしていると、昨日とは見違えてけろっとした兄に、「寝不足か? あそこ空いたから座ろうぜ」と的外れな心配をされ、内心、お前のせいだよ、と思いながらも優しく手を引かれるまま座席に座る。こんな時にも兄らしい振る舞いをしてくるこの男には心底腹が立つ。五年前に家を出たきり連絡もよこさないで、どこをほっつき歩いてたんだと思えば女を孕ませたなんて言って帰って来て、そうして鈍行で事足りるくらいには案外近いところに住んでいて、本当に、何も教えてくれないこの最悪な兄は、どうして五年前大学を勝手に中退したのかと私が聞いても、やっぱり教えてくれないのだろう。

「お前、今も実家住み?」

「いや。大学のそばで下宿してる」

「そっかあ。宗介もついに大学生かあ。何になるかもう決めてんの?」

「うん。自衛隊」

「自衛隊? 危なくね? 今の世の中じゃ日本だっていつ戦争になるかわかんないだろ」

「いいんだよ。戦争になろうがなるまいが入隊する。パイロットになりたいんだ」

 兄はそれを聞いて、興味があるのかないのか、「ふうん」と曖昧な返事をすると、やっぱり興味がないらしく、逃げるようにスッと視線を逸らして窓を見た。するとそこが最寄り駅だったのか、飛び上がるみたいに眠たげな瞼を見開き、「ここだ。降りるぞ」と私の手を再び引いて駅を出る。

 人が多い。私が辺りを見渡すと、栄えた場所にある特有の密度の高いぬるい空気が鼻の奥に塗り込められる。

「結構賑わってるんだな。ここから家は近いの?」

「ちょっと歩く。寺の近くのアパートに住んでるんだ。隣が墓地だから安いんだよ。幽霊は出ないから安心しろ」

「何歳だと思ってんだ、馬鹿にすんな」

「昔はトイレにも一人で行けないで、『お兄ちゃんついて来てぇ』って夜中に俺を起こしてたくせに」

「それこそ何年前だよ。ったく……」

 これから自分が両親に泣いて頼んでまで暮らしたがった人に会いにいくというのに、この兄は一体何を勘違いしているのか、余裕綽々に私を揶揄って面白がったりしているのだから図太い。

 しばらく二人で歩いて、近道に墓地を抜けていくと趣のある二階建てアパートが見えて来た。入居者用の駐車場もあるようで、そこにはシルバーの軽自動車と白いバンが停まっている。すぐ上のベランダには洗濯物を干す部屋がまばらにあり、その一つに乳児用のよだれかけを見つけた。室外機が回っている。私はリュックのベルトを両手で握りしめて、階段を一段、二段と上がっていった。二階の角部屋まで連れて行かれると、兄は飛び込むようにドアを開けて、「アヤカー!」と叫ぶ。すると奥から、ひたひたと微かな足音がこちらに向かって聞こえてきた。

「今寝たところなんだから静かにしてよ、恵介」

 現れたのは兄から聞いていた通り、二十歳くらいの若い女性だった。目鼻立ちは何となく東南アジア系に見えるエキゾチックさがあり、背は小さく、髪は明るい茶髪に染めて根元がやや黒くなっている。くたびれ気味のシャツワンピースから覗く肌色の濃い手足はふっくらとして、仕草が重だるそうだった。

「ごめんごめん。弟連れて来た。これ、宗介」

 靴を脱ぎ揃えながら兄が私を顎で指す。私は居住まいを正して、

「あの、初めまして。菊池宗介です。兄がお世話になっています」

 これが正しい挨拶なのかわからないまま、とにかくお辞儀すると、アヤカさんも無愛想ながら「どうも」と顎を前に出すように会釈した。

「まあ、入ってください。今お茶出すんで」

 それだけ言い残すと彼女はまた奥にこもって行った。私は妙にはしゃいだ様子の兄に背を押されおずおずと部屋に入ると、狭いキッチンに立ち、冷たい茶をグラスに注ぐアヤカさんをまず捉えて、次に窓辺に目が移った。そこには小さな布団の上で赤ん坊が仰向けにバンザイの姿勢で眠っていた。私は、思わず息を潜める。金色だ、と声が出る前に口の形に沿って息が漏れた。赤ん坊の細い髪にはカーテン越しの夕陽が降って光り、驚くほど、綺麗な生き物に見えた。

「どうぞ」

 すると突然背後から腕だけが突き出され、麦茶が目の前に現れる。それに礼を言いつつ受け取ればアヤカさんは、

「じゃあ私これから仕事の支度あるんで。好きなだけゆっくりしてって」

 と言うと、さっさと洗面所に行ってしまった。

 部屋には私と兄と、それから赤ん坊だけが残された。そこには妙な気まずさが色となって現れるようだった。兄はアヤカさんの背中を惜しそうに目で追いかけながら、

「冷たいけど、本当は優しいんだぜ」

 と、まるで大切な秘密を打ち明けるみたいに私に囁く。

 確かにアヤカさんには、能天気ながら人当たりの良い兄とは対照的に、素気無いとも取れる印象をこのわずかな時間に感じた。手元の冷えた麦茶を見る。菊池家のものより少し薄味である。「本当は優しい」とか、兄の欲目を入れた評価が信用に足るかはわからないけれども、少なくとも二十歳の私より、よっぽどしっかりした生活能力があると言うことは確かだった。

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