第3話 見えない手
UDIラボの会議室は、朝日が窓を照らし始めているにもかかわらず、夜の闇を引きずったような重苦しい雰囲気に包まれていた。全員が一度に動きを止め、神倉所長の口から出る言葉を待っている。彼の手元には、たった今届いた厚生省からの封書があった。
「調査中止の要請……というより、指示だな。」神倉は封書を開き、その内容を静かに読み上げた。「『現在進行中の調査を速やかに中止し、結果を外部に公表しないように』。そして、これだ……補助金の打ち切りが示唆されている。」
部屋に静寂が訪れる。全員の心臓が一瞬にして高鳴った。補助金の打ち切り。それは、UDIラボの存続を根底から脅かすものだった。神倉が封書をテーブルに置く音が、やけに大きく響いた。
「つまり、厚生省は私たちが何かに触れてはいけない領域に踏み込んでしまったと認識しているということですか?」ミコトが冷静に問いかけたが、その目には鋭い光が宿っている。
神倉はミコトを見つめ、そして視線をメンバー全員に巡らせた。「どうやらそうらしい。レプコンワクチンの調査をこれ以上進めると、我々のラボが危険にさらされるということだ。」
「だったら、なおさら放っておけないだろう。」中堂が語気を強める。「奴らが隠したい何かがある。だが、それは俺たちが明らかにしなければならない真実だ。」
中堂の言葉に、全員の視線が彼に集まる。彼の目には炎のような情熱が宿っていた。神倉は深くため息をつき、再び封書を見つめる。目の前にあるのは、国の命令とも言える文書。それを無視することは、組織の存続を危うくする。だが、彼らの目的は何かを思い出す。
「厚生省の意向に従えば、真実は闇に葬られる。」神倉の声には、今までにない重みがあった。「しかし、このラボの使命は、不自然死の真相を明らかにすることだ。」
彼はそう言って、封書を手で握りつぶした。それは、一瞬のうちに部屋の空気を変えた。神倉の決断が全員に伝わり、彼らは新たな決意を胸に抱いた。
「所長……本気で戦うのですね?」東海林が不安げに尋ねた。
神倉は力強く頷く。「我々がここで立ち止まれば、次の犠牲者が出る。そうだろう?」
その言葉に、東海林は目を伏せて深く頷いた。久部もまた、静かにうなずく。彼の目にも決意の光が宿っていた。UDIラボの存続を懸けて、彼らは戦う覚悟を決めたのだ。
「まずは厚生省からの情報提供を求めるわ。レプコンワクチンの臨床データ、開発過程、すべての関連資料を手に入れる必要がある。」ミコトが次のステップを冷静に提示する。その声には一切の揺るぎがない。
「だが、相手は簡単に情報を渡すとは思えない。むしろ、我々を妨害するための手段を講じてくるだろう。」中堂が厳しい現実を指摘する。
「それでもやるしかない。」ミコトは中堂に向き直る。「私たちの調査はもう始まっている。このまま引き下がるわけにはいかない。」
全員が一斉に動き出す。中堂はワクチンの成分を詳細に分析するため、実験室に向かう。東海林は外部の医療機関と連携し、レプコンワクチン接種後の症例をさらに集めるために奔走する。久部は、過去の症例データを再度精査し、新たな手がかりを探し始めた。
神倉は一人、会議室に残り、厚生省への対策を練り始める。彼は電話を取り上げ、厚生省の担当者に直接連絡を取るつもりだ。彼の頭の中には、どれだけの障害が立ちはだかるかという覚悟がすでにできていた。だが、それでも彼は進む。このラボを守るために。
一方で、ミコトは顕微鏡を覗き込む。その視界に映る細胞の崩壊を見つめ、彼女の頭の中にはひとつの仮説が浮かび上がる。それはまだ確信には至らない。しかし、この仮説が現実だとすれば、ワクチンによる免疫応答が、予想以上に激しく身体を蝕んでいる可能性がある。
「見て、これが本当なら……」ミコトは独り言のように呟いた。
だがその時、彼女の携帯が鳴った。画面には「非通知」の表示。ミコトは少しの間ためらった後、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「……調査を止めるんだ。」低く、掠れた声が響く。背筋に冷たいものが走った。「これ以上深入りすると、お前たちは危険だ。」
その言葉にミコトは一瞬息を飲んだ。「誰ですか?あなたは……」
「ワクチンは……手を出すな。すべてが終わる前に……」途切れ途切れの声が聞こえた後、通話が切れた。
「ミコト、どうした?」中堂が彼女の異変に気付き、駆け寄ってきた。
「今、匿名の電話が……。私たちに調査を止めろって。」ミコトは呆然と携帯を見つめていた。
「……奴らが動き出したってことか。」中堂は鋭い目をし、ラボ全体を見回した。「だが、俺たちは止まらない。」
彼のその言葉に、ミコトはわずかに頷く。そして、自分の手の中にある資料を握りしめた。何者かが彼らの動きを監視している。だが、それが何だというのだ。このラボの存在意義は、見えない死の真相を暴くことにあるのだ。
「行きましょう、中堂さん。時間がない。」ミコトの声には、確かな決意があった。
彼らの戦いは今始まったばかりだ。そして、この戦いがどれほどの危険を孕んでいるのか、彼らはまだ知る由もなかった。ただ、真実のために進む。闇に包まれた現実を、光のもとに晒すために。
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