第38話

 蔵之介は、舞から怒りをぶつけられて、気持ちは落ち込んでいたが、それでもケジメをつけなければならないと思って、橘美咲と再び顔を合わせることにした。


 ただ、それは強い緊張を感じる行為になっていた。


 出会った、美咲の表情は冷たく、蔵之介が彼女を裏切ったという感情がその瞳にありありと浮かんでいた。


 蔵之介はどうにか彼女に事情を説明しようと、言葉を探していたが、冷たい沈黙が場を支配していた。


「美咲さん、今日は…時間を取ってくれてありがとう。どうしても、正直に話さなきゃいけないことがあって…」


 蔵之介の言葉が切り出されるや否や、美咲は鋭い目で彼を睨みつけた。


「どうせまた、麗華さんとのことを言い訳するつもりなんでしょう?」


 美咲の声には怒りと冷たさが混ざり、蔵之介の言葉を一瞬で打ち砕いた。彼は動揺しながらも、意を決して続けた。


「いや、言い訳じゃないんだ。本当に正直に話すべきだと思ったから…」


 蔵之介は麗華の偽彼氏としての事情を話し始めた。


 彼女が婚約をしなくてはいけなくて、両親を安心させるために演じたこと、そして今後もその役を続ける提案があったこと。


 そして、他の永久就職を望んだ際に、他の女性とも交流があり、永久就職を目指していることをすべて話した。


 だが、美咲の表情はその話が進むにつれてますます険しくなっていった。彼女の目は、まるで炎のように燃え上がっていた。


「…そんな話をして、私にどうしろっていうの?」


 彼女の声が震えた。彼に対する怒りが込み上げてくる。


「あなた、私のことを馬鹿にしてるの? 麗華さんの偽彼氏だなんて…。それなら最初から、私に何も期待させないでくれればよかったのよ! あなたの優しさは結局偽物で、演技だったってことでしょ!」


 蔵之介は美咲の言葉に押し黙ってしまった。彼女が傷ついているのは明らかだった。


「永久就職がしたいって? ふざけないでよ」


 美咲は激しい怒りで体が震えているかのように見えた。そして、突然立ち上がり、彼に向かって一歩詰め寄った。


「永久就職なんて言うなら、私の奴隷になりなさいよ!」


 彼女は蔵之介を睨みつけながら、冷酷な笑みを浮かべた。


 その言葉には彼に対する怒りと失望、そして屈辱が込められていた。


 彼女は蔵之介に対して、ただ許しを求めるのではなく、彼に対して支配を強いることでその感情をぶつけようとしていた。


「あなたが本当に私に謝りたいなら、永久に私の言うことを聞いて、私の下で生きなさい。それがあんたのいう永久就職なんでしょう? だったら、私の命令通りに生きてみせなさいよ!」


 蔵之介は言葉を失った。


 美咲の言葉は彼を貫き、胸に強い痛みを感じさせた。彼は謝罪のつもりでここに来たはずだったが、彼女の怒りは彼が予想していた以上に深かった。


「…それは、できない。それを幸福に感じられる人もいるかもしれないけど、僕はそうじゃない」


 蔵之介は静かに、しかし力強く言葉を返した。


「僕は、そんな形で誰かに支配されるために永久就職を望んでいるわけじゃない。僕は誰かに頼りたいとは思っているけど、そんな形じゃ…」


 だが、美咲は彼の言葉をさえぎった。


「ふざけないで! あなたが本当に依存したいっていうなら、私に完全に従えばいい。それができないなら、永久就職なんて最初から考えるべきじゃなかったのよ!」


 彼女は冷たい目で彼を見つめた後、カフェを出て行った。その背中は、今まで感じたことのないほど冷たく、蔵之介はただその場で立ち尽くしていた。


 彼女の怒りは最もで、蔵之介は彼女のとの縁は完全に切れたのだと思った。



 カフェを出た美咲は、冷たい風が頬を打つのを感じながら、歩き続けた。


 怒りに任せて蔵之介に強い言葉をぶつけたが、その胸の中では複雑な感情が渦巻いていた。


 蔵之介を拒絶することで自分の心に整理をつけようとしたが、気持ちはますます乱れていくばかりだった。


(あの時間は嘘だったの?)


 彼と過ごした日々が、頭の中に次々と浮かんでくる。


 笑い合い、時には真面目に話し合ったその時間は、彼女にとってかけがえのないものだった。


 蔵之介の優しい笑顔や、何気ない仕草が好きだった。彼がそばにいるだけで、心が安らぎ、楽しかった。


(でも、結局は全部偽物だったんだ…)


 彼が麗華の偽彼氏であることを知った瞬間、美咲の胸には裏切られたという思いが一気に込み上げてきた。


 あの楽しい時間も、彼の優しさも、今ではすべてが嘘に思えた。彼は最初から別の女性に対しても同じことをしていた。美咲にだけ特別な感情を持っていたわけではなかったのだ。


(どうして私じゃなくて、あの子なの?)


 心の奥底から嫉妬が湧き上がってくる。


 蔵之介が麗華に偽の愛を捧げていたことが許せなかった。自分は彼にとって、ただの一人にすぎなかったのかという思いが、美咲をさらに苦しめていた。


(彼はいつも、誰にでも優しくしているのね…)


 彼の言葉や行動が、すべて他の女性にも向けられていると思うと、心が引き裂かれるような痛みを感じた。彼の優しさを信じていた自分が、ただ馬鹿だったのかもしれないと自嘲する。


(でも、あの時間は…本当に楽しかったのに…)


 どうしても、楽しかった時間の記憶が頭から離れない。蔵之介と一緒に過ごした瞬間、彼女は幸せだった。


 彼のそばで笑い、彼の話を聞き、彼女もまた、彼を信じていた。


 だが、今となっては、それすらも彼の偽りの一部だと思わざるを得なかった。


 彼女が抱いた期待や信頼が、すべて裏切られたと感じた時、心に深い絶望が広がっていった。


(私は…ただ、彼を必要としていただけだったのに…)


 蔵之介がいなくなったことで感じる喪失感。


 自分が一番になりたかったという気持ちが、美咲の心を苦しめ続けていた。嫉妬、絶望、そして蔵之介への依存が、彼女の心を支配している。


(どうして、こんなことになったの?)


 歩みを止めて、美咲は目を閉じた。


 蔵之介と過ごした日々は、今では消えることのない痛みとして胸に残り続けている。


 そして、彼が麗華の偽彼氏として選ばれたこと、その裏切りが、彼女の心をさらに苛んでいた。

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