第20話

 蔵之介のDMは一ヶ月が過ぎると、極端にメッセージが送られてくることが減ってしまった。未だに冷やかしのようなメッセージは流れてくるが、それも少なくなった。


 話題なんていっときのもので、誰も見なくなれば意味がない。


 ただ、三人の女性と交流を持つようになった蔵之介は彼女たちから永久就職を勝ち取れるのか、もしくは無理であれば生きていく未来を考えなければならないと思っていた。


 そのための第一歩として、麗華との偽彼氏だ。


 報酬をもらって彼氏を演じる。そういう需要がどれだけあるのかわからないが、今回の要望に対してどこまで蔵之介は自分が答えられるのか、試してみようと思っていた。


「今日はよろしく」

「ええ、本当にいいの?」

「ああ」


 蔵之介は、麗華とパーティーにいくための練習をすることにした。


 ホテルの一室に設けられた優雅な空間で行われた。広々としたリビングルームに、落ち着いた音楽が流れている。


 部屋の中央には、マナー講師が用意したテーブルがあり、カトラリーやグラスがきちんと並べられている。


 蔵之介は、いつもと違う雰囲気に少し緊張していた。普段は全く気にしないようなマナーやエスコートの仕方を、これから学ばなければならないのだ。向かいに座る麗華は、優雅な姿勢で背筋を伸ばし、微笑を浮かべている。


「では、まず基本のエスコートから始めましょう」と、マナー講師が静かに言う。

「安藤さん、女性をエスコートする際、まずは女性にどう手を差し出すかが重要です。試してみてください」

「えっと……こうかな?」


 蔵之介は少し戸惑いながら手を差し出したが、どこかぎこちない。麗華はその手を見て、クスリと笑った。


「もっとリラックスしていいのよ、蔵之介さん。緊張しすぎよ」

「そ、そうか? 普段こんなことしないからさ……」

「大丈夫。私も最初はぎこちなかったわ」


 麗華は軽く笑顔を見せながら、蔵之介の手を取る。


「ほら、こんな感じで優しく手を取ってもらえると、安心できるわ」


 蔵之介は少し照れながらも、もう一度麗華の手をしっかりと支える。今度は少しリラックスできたのか、麗華の手が自然に彼の腕に絡んだ。


 講師も二人のやりとりを見て微笑みながら頷いた。


「素晴らしいです。その調子で次は、ドアの前でのエスコートの仕方です。女性が先に通るべき場合はどうしますか?」

「えーっと、ドアを開けて、通ってもらうんだよな?」

「そうです。開けてから軽く手で方向を示し、スマートにどうぞ、という感じで誘導してください」


 蔵之介はドアに向かい、麗華に先に通ってもらおうとしたが、ドアを開けるタイミングが少し早すぎて、麗華が歩き出す前にすでに開いてしまっていた。


「ごめん、早すぎた?」

「いえ、いい感じよ。でも、もう少しタイミングを見てからドアを開けるといいかもしれないわね」


 こっそりと麗華が笑顔でアドバイスするので、蔵之介はそれを意識して、彼女をエスコートする。


「でも、私を守ってくれてる感じがして悪くなかったわ」

「そ、そっか。なんか思ってたよりも難しいな、こういうの」

「大丈夫よ、慣れれば自然にできるようになるわ。私も、蔵之介さんがこんなに真剣に取り組んでくれてるのを見ると、少し安心するわ」


 練習が進むにつれて、二人の間に緊張感がなくなり、自然と和やかな雰囲気になっていった。


 テーブルマナーの練習に入ると、蔵之介はカトラリーの使い方で少し戸惑ったが、麗華がそのたびに優しく教えてくれた。


「フォークとナイフは外側から使うのよ、覚えてる?」

「そうだったな……つい、適当に使っちゃいそうになる」

「ふふっ、わかるわ。でも、こういう細かいところがパーティーでの印象に影響するのよ」


 二人のやり取りはまるで友達同士のようで、楽しげな空気が漂っていた。


 特に、蔵之介が少し不器用にナイフとフォークを使う様子に、麗華は思わず笑ってしまう。


「ちょっと、それじゃお肉を飛ばしちゃうわよ!」

「う、わかった……難しいな、これ」

「でも、がんばってるのが伝わるわ。きっと本番では素敵にエスコートしてくれると信じてるわ」


 麗華はそう言いながら、少し照れたように微笑む。蔵之介も、その笑顔に少しだけ顔を赤らめた。


「まぁ、これが終わったら、俺も一流のエスコートができる男になれるのかな?」

「もちろんよ。私が保証するわ」


 そう言いながら、麗華は楽しそうに笑った。


 食事のマナーを一通り学んだあと、二人は挨拶や立ち居振る舞いの練習に移った。パーティーにおいては、最初の印象が何より大切だとマナー講師が説明する。


「次は挨拶の仕方を練習しましょう。パーティーでは人との出会いが重要ですから、最初の挨拶が好印象を与えるかどうかを左右します」


 講師がそう言うと、蔵之介は少し緊張した表情を浮かべた。


「挨拶か……ただ挨拶するだけじゃダメなんだな」

「そうよ。まず、相手の目を見て、丁寧にお辞儀をするのが基本ね」


 麗華が軽く微笑んでアドバイスする。


「それから、握手をする時はしっかりと手を握って、軽く微笑むのがいいわ」

「安藤さん、手は軽く、でも力強く握ってください。ふにゃふにゃした握手は印象が悪いですし、逆に強すぎる握手も相手に不快感を与えてしまいます」

「なるほど……加減が難しそうだな」


 蔵之介は肩を回し、握手の練習を始めた。

 麗華が手を差し出し、蔵之介が慎重に手を握る。


「どう? これで大丈夫かな?」

「うん、ちょうどいい力加減ね。優しく握ってくれるのが好印象よ」


 麗華は嬉しそうに頷く。


「挨拶のタイミングも大事ですよ。相手と目が合ったら、すぐに挨拶するのがベストです。タイミングが遅いと、相手に無関心な印象を与えてしまうことがあります」


 講師の教えに従うように、麗華と目が合うと挨拶をする。


「初めまして、安藤蔵之介です」

「ふふ、いい感じよ」

「なるほど。つまり、挨拶はスピードと気配りってことか」

「その通りです。では、立ち位置や立ち方についても練習しましょう。パーティーでは自然に見える姿勢が大切です」


 講師は二人に立ち方の基本を教えた。足を揃え、背筋を伸ばして、自然に見えるように立つことがポイントだという。


「背筋を伸ばして、自然に……か。簡単そうに見えて意外と難しいな」

「そうね。緊張するとどうしても姿勢が崩れがちだけど、意識しているとだんだん慣れるわ」


 マナーと言っても動作だけでなく気配りなど、覚えなければいいけないことが多い。


「次は歩き方です。パーティーでは歩き方一つでも、エレガントさや自信を見せることができます。特に、エスコートする際は女性を引っ張るのではなく、優しくリードしてください」


 蔵之介は麗華の手を取り、ゆっくりと歩く練習を始めた。しかし、歩き方にまだ不慣れな彼は、少しぎこちなく見えた。


「おっと、すまん。速すぎたか?」

「いいえ、大丈夫よ。でも、もう少しゆっくり歩くといいかもね。エスコートする時は、相手の歩幅に合わせることが大切なの」

「なるほど……つい早足になっちゃうな。もう少し優雅に見えるように歩かないと」

「落ち着いて、自然に振る舞えばいいのよ。緊張しないで、リラックスして」と麗華は蔵之介の手を軽く握り返し、安心させようとした。

「俺がリラックスすると、逆に緩みすぎてしまいそうだけどな」


 蔵之介は苦笑しながら言った。


「ふふ、大丈夫よ。今のままでも十分よくできてるわ。でも、もう少し優雅に……そう、さっきの挨拶と同じように」


 その後も、二人はマナー講師の指導のもと、パーティーでの振る舞い方を細かく学んでいった。


 乾杯の仕方、名刺交換のタイミング、ドリンクの持ち方や、社交的な場での会話の進め方まで、様々なシチュエーションに備えて練習が進んだ。


 蔵之介が一通りのマナーを習得するために真剣に取り組む姿に、麗華はどこか微笑ましさを感じていた。


 普段は無頓着そうに見える彼が、こうして自分のために一生懸命学んでくれている姿は、心にじんわりと温かいものを感じさせた。


「次の練習では、二人で実際にパーティーに参加することになるわね」と麗華が言うと、蔵之介は少し照れながら返事をした。

「その時までにもう少し慣れておかないとな。でも、今日は結構楽しかったよ。思ったより面白かった」

「私も。蔵之介さんがこれだけ真剣に学んでくれるとは思ってなかったから、少し驚いたわ」

「まぁ、せっかく誘ってもらったんだし、やるからにはちゃんとしないとな」


 二人はそんなやり取りをしながら、穏やかな空気の中で次の練習へと期待を寄せていた。

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