第18話
橘美咲は、静かな部屋の中で一人きりだった。
窓の外からは、夕方の淡いオレンジ色の光が差し込んでいるが、部屋の中はどこか冷たく感じられる。彼女は、両親のために用意された広いリビングで、いつも通りの孤独な時間を過ごしていた。
「お疲れさま、美咲。今日も頑張ったね」
彼女は、まるで誰かに語りかけるかのように、自分に向けてそう呟いた。
両親は仕事で忙しく、家に帰ってくることはほとんどない。たまに会うときも、彼女にかける言葉はビジネスライクで、家族としての温もりを感じることはなかった。
「お母さん、お父さん……」
彼らの名前を口にしても、何も返ってこない。
その度に、彼女は空虚さを感じた。美咲は自分でも分かっていた。彼女にとって、家は「家族のいる場所」ではなく、単なる「宿泊所」だった。
幼い頃は、両親に甘えたい、もっと話をしたいという思いがあったが、年を重ねるごとにその期待は薄れていった。仕事が優先され、家族としての時間はいつの間にか失われていたのだ。
「寂しい……」
心の奥底から、ぽつりと漏れた一言。それは、彼女が誰にも言えない、長い間抱えてきた感情だった。表向きは明るく、笑顔で仕事をこなしている彼女だが、心の中ではずっとこの孤独と戦ってきた。
美咲の両親は芸能界でも有名な存在で、成功を収めていた。
周囲から見れば羨ましい家庭に見えるかもしれない。しかし、その実態は冷たく、彼女にとっては孤独の象徴だった。
仕事に追われ、娘にかける時間がなくなった両親に対して、彼女はもう何も期待しないように努めていた。だが、その空虚さは埋められることなく、次第に彼女の心を蝕んでいた。
そんな中で出会ったのが、蔵之介だった。
「なんで……私のこと知らなかったんだろう?」
美咲は蔵之介と最初に出会った日のことを思い出した。あの日、迷子になっていた彼女を蔵之介は何のためらいもなく助けてくれた。
それだけでも不思議な出来事だったが、もっと驚いたのは、彼が美咲のことを全く知らなかったことだ。
「橘美咲? 誰それ?」
蔵之介の言葉が、彼女の耳に今も鮮明に残っていた。
美咲は自分の名前を知らない人がいるなんて思ってもみなかった。どこに行っても「橘美咲」として扱われ、特別視されるのが当たり前だった彼女にとって、それは衝撃的であり、同時に新鮮でもあった。
「私、ただの女子高生として見てもらえるのかな……?」
ふと、そんな期待が頭をよぎる。
蔵之介は彼女を特別視せず、普通の女の子として接してくれた。そのことが、彼女の中で新たな感情を芽生えさせていた。
彼に対して抱くこの感情は何なのか、自分でも分からなかった。だが、彼の前では無理をする必要がないことが、心地よかった。
「でも……」
美咲はスマホを手に取り、ため息をつく。
蔵之介にメッセージを送ろうとするが、指が止まってしまう。彼に頼りたい、もっと話したいという気持ちはあるが、彼女の心の中には一抹の不安があった。
「こんな私でも……本当にいいのかな?」
普段は芸能人としての顔を持ち、周囲に笑顔を振りまく美咲だが、心の中には常に「自分は本当に価値があるのか」という疑念がつきまとっていた。
両親に愛されず、ただ仕事の一部として扱われる自分。
誰も彼女自身を見てくれない。それが美咲の抱える最大の孤独だった。
「蔵之介君は……違うのかな……?」
彼だけは、彼女を「橘美咲」としてではなく、一人の人間として見てくれるような気がした。
彼が知らない世界で、自分が築いてきたものを彼に見せたいという気持ちと、そんなことをしたら彼も他の人と同じように自分を特別視してしまうのではないかという恐れが交錯する。
「……もっと、知りたいな」
美咲は再びスマホを見つめる。
自分の気持ちをどう伝えたらいいのか、何を言えばいいのか、答えが出ないまま時間だけが過ぎていく。
彼にメッセージを送ろうとしては止め、何度もその繰り返しをする自分に、ふと笑ってしまう。
「私……何やってるんだろう」
一人きりの大きな家の中、静かな夜に響く彼女の笑い声。それは、少しだけ悲しさを帯びたものであった。
♢
蔵之介は、午前中に家の用事を終えて、部屋でのんびりとコーヒーを飲みながら、ぼんやりとスマホを眺めていた。
普段はあまり芸能ニュースやテレビに興味がない彼だったが、ふと友人が送ってきたリンクを開いてみた。
「なんだこれ……?」
そこには、最近話題の若手女優・橘美咲の特集記事が載っていた。
大きく写る美咲の笑顔の写真が目に飛び込んでくる。華やかなドレスをまとい、インタビューに答えている彼女の姿は、どこか別世界の人間のように見えた。
「橘美咲……聞いたことあるような、ないような」
蔵之介はその名前を一度呟き、記事をざっと流し読みする。
17歳で、若手女優として大ブレイク中。映画やドラマに引っ張りだこで、学校と芸能活動を両立している。
そんな内容が目立っていた。
「ふーん……すごい子なんだな」
蔵之介は興味なさげに肩をすくめ、スマホを放り投げるようにテーブルに置いた。
芸能人だろうが有名人だろうが、自分には関係ない話だと感じていた。彼の世界は、もっと地味で平凡な日常が中心で、そんな華やかな世界に興味を持つことはほとんどなかった。
「まぁ、俺には縁のない話だ」
一瞬だけ、今日街中で助けた女子高生の顔が頭をよぎるが、蔵之介はすぐにその考えを振り払った。
どこかで見たことがあるような気もしたが、彼にとってはただの偶然だったし、あの子が誰であれ関係ないと思った。
「そんなことより、明日の仕事どうしようか……」
そう呟きながら、彼は再びコーヒーを口に運び、次のことを考え始めた。
不意に、スマホがSNSに通知が来たことを知らせる。
そこには先ほど雑誌を見た彼女とは違う。
綾瀬美咲から、「会いたい」とだけSMが送られていた。
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