第16話
夕暮れ時、薄オレンジ色に染まった空が少しずつ暗くなり始めたころ、蔵之介はホテルに向かって歩いていた。
今日は立花麗華との初めてのデートだ。
待ち合わせ場所は高級ホテルのラウンジ。偽の恋人を頼まれたとはいえ、場所が場所なだけに少しだけ気を引き締め、ジャケットを羽織り、普段よりも少しだけ良い服装で出かけていた。
「やっぱり、場違いじゃないかな…」
蔵之介は心の中でつぶやきながらホテルに向かう途中だったが、ふと目の前で何かを揉めている気配が感じられた。
ホテルにほど近い大通りの端で、数人の男たちが一人の女性にしつこく声をかけている。
「あれ、もしかして…」
蔵之介はその女性の顔をよく見た。彼女は、今日待ち合わせをしている立花麗華だ。写真を送ってもらっていたので、顔を覚えていてよかった。
麗華は、気品を保ちながらも、少し困ったような表情で男たちに対応していた。黒髪が夕日を受けて輝き、華やかでありながら落ち着いた雰囲気が漂っている。
しかし、明らかにナンパをしている男たちは引き下がる様子はなく、しつこく話しかけていた。
「なぁ、今からどこ行くの? ちょっと飲みに行こうよ!」
「一人なんだろ? 俺たちと一緒に楽しもうぜ」
そんな男たちの軽薄な言葉に、麗華は冷ややかに微笑みながら対応していたが、その目には明らかに不快感が漂っている。
蔵之介は、思わずその場に足を止め、少し考えた。
彼女が困っているのは明白だが、普通に考えれば、高級ホテルに向かう女性にナンパをするなんて、完全に場違いな連中だ。しかし、彼女は自分で解決できそうにない様子だった。
「やれやれ、どうなってるんだ…」
蔵之介はため息をつきながら、ゆっくりと近づいていった。
「失礼」
蔵之介は、男たちの前に立ち、穏やかながらも低く響く声で言った。男たちは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに蔵之介を一瞥し、鼻で笑った。
「なんだお前? この子の知り合いか?」
「あぁ、もしかして彼氏とか?」
男たちは蔵之介をからかうように笑っていた。
蔵之介は軽く肩をすくめ、そして麗華に向かってゆっくりと歩み寄った。
「ごめん、遅れちゃったね。待たせたかな?」
自然な流れで麗華の手を取った。麗華は一瞬戸惑いを見せたものの、すぐに蔵之介の意図を察し、微笑みを浮かべた。
「いえ、大丈夫です。さっきからちょっとしつこくされて困っていたところなんです」
麗華は少し落ち着きを取り戻し、優雅に振る舞った。
「悪いけど、彼女は俺と一緒なんだ」
蔵之介は冷静に男たちに告げた。男たちは少しムッとした表情を浮かべた。
「おいおい、お前みたいな奴と彼女が似合うはずがないだろ? 俺たちに譲れよ!」
蔵之介の肩を掴んで強引に振り向かせようとしたところで、蔵之介は男の手首を捻った。
「イテッ! 何しやがる!?」
「もう少し考えて行動したらどうだ? ここで揉めれば、ホテルの人間が見ていて、お前たちは警察行きだぞ。人数が多いお前たちに対して俺は正当防衛を訴える」
「チッ、つまんねえな」
蔵之介が手を離すと捨て台詞を残して去っていった。
「ありがとう、助けてもらったわね」
麗華は、蔵之介の手を握ったまま感謝の言葉を口にした。彼女の手は少し冷たく、震えていた。緊張感が残っているのがわかる。
「たまたまですよ」
蔵之介は照れくさそうに笑いながら答えた。
「ホテルのラウンジで待ち合わせって言ってたけど、まさかこんなところでナンパされるなんて思ってなかったよ」
麗華はその言葉に微笑み、蔵之介の手をそっと離した。
「私もこんなことになるとは思わなかったわ。でも、あなたがいてくれて助かった。本当にありがとう」
「まぁ、こんなこともあるさ。行こうか、時間もいい頃だし」
蔵之介は麗華を促し、二人で高級ホテルのラウンジに向かうことにした。
「でも、あの場であなたがあんなに自然に私を助けてくれるなんて、正直少し驚いたわ」
麗華は軽く笑いながら言った。
「まぁ、なんとなくね。ああいう連中には慣れてるんだよ」
冗談を言いながら、蔵之介は彼女と並んで歩き始めた。
ホテルに向かう道中、二人の距離は少し縮まったようだった。
ホテルのラウンジに入ると、落ち着いた照明と豪華なインテリアが迎えてくれる。
ラウンジ内には静かなジャズが流れ、上品な客たちがゆっくりと過ごしている。蔵之介は、少し居心地が悪そうに周囲を見回しながら、麗華と一緒に窓際のテーブルへと向かった。
「ここ、すごい場所だな…」
彼は小さくつぶやく。ジャケットを羽織ってきたとはいえ、このラウンジの高級感に圧倒されている様子が見て取れる。
「ここはお気に入りの場所なの」
麗華は微笑みながら答えた。落ち着いた態度を保っている彼女だったが、心の中では先ほどの出来事が何度も蘇っていた。
(どうしてあのアクシデントでも彼は毅然とした態度を保てたのだろう? そして、私を守ってくれた時の彼は…)
ナンパしてきた男たちを冷静に追い払い、自然に彼女を守った蔵之介の姿が、今でも麗華の心に残っていた。
普段は大人びていて冷静な自分が、少しだけ動揺していることに気づいている。まるで少女のように心がざわつく感覚が、不思議と心地よい。
二人が席に座ると、すぐにウェイターがメニューを持ってきた。
蔵之介はやや緊張した表情でメニューを手に取り、少し迷った後、無難なアイスコーヒーを注文した。麗華は慣れた様子でハーブティーを頼む。
「それで、今日の本題だけど…」
麗華は少し真剣な表情に切り替えた。
「偽恋人、ですね」
蔵之介は、気を引き締めたように彼女を見つめる。麗華は静かにうなずく。
「そう、あなたにお願いしたいのはそれなの。立花家は少し厳しい家庭なの。いろんな期待がかけられているわ。私もその期待に応えなければならないけど、正直、時々息苦しくなる時があるの。特に、親が私に結婚を急がせようとしていて…」
彼女の声には少しの緊張と、蔵之介に対しての信頼が混じっていた。
偽恋人としての役割を頼むというのは、それだけで普通の人には大きな頼み事だ。それでも、先ほどの彼なら引き受けてくれるかもしれないという思いが、彼女をこの場に連れてきた。
「なるほど… それで、俺をその恋人役にして、親を安心させたいってことか?」
蔵之介は真剣に話を聞きながら、少し顎に手を当てて考えている。
「そうよ。ただ、短期間でいいの。特に、今度家族が集まる大きなパーティーがあるの。その時に一緒に出席してほしいの」
蔵之介は少し迷ったような表情を浮かべていた。
「本当に困っているんだよね?」
「ええ、そうね。あまり男性の友人はいないの。それに知り合いはちょっと頼み辛くて」
「わかった。俺でよければ協力するよ」
その言葉に麗華はほっと胸を撫で下ろした。けれども、心の奥底では、それだけでは説明できない感情が湧き上がっていた。
(彼がいてくれると…不思議と安心する。先ほどもそうだったけど、ただの偽の恋人という以上に、彼に頼ってしまいたい気持ちがあるのかもしれない…)
麗華の胸が少しだけ高鳴っていた。
彼は目立つタイプではないけれど、必要な時には強く、そして優しく対応してくれる。ナンパされていた時の毅然とした態度や、自然に自分を守ってくれたあの瞬間の彼を思い返すと、胸が少しドキドキしてしまうのを感じた。
(どうしてこんなに…彼に惹かれているの?)
「ありがとう、安藤さん」
麗華は、いつもより少し低い声で言った。
「あなたにお願いして、本当に良かった。これからもよろしくね」
蔵之介は照れくさそうに笑いながら、「まぁ、頼りにしてくれよ」と軽く肩をすくめて答えた。
彼女の中で少しずつ広がる感情、それが何かは、まだ明確にはわからなかったが、ただの仕事以上のつながりを感じさせるには十分な瞬間だった。
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