第15話
麗華は幼い頃から周囲の期待に応え続けてきた。名門お嬢様学校に通い、習い事や社交の場でも常に優等生として振る舞い、完璧でなければならないというプレッシャーに耐えていた。
しかし、それは表面上の姿であり、心の中ではいつも孤独と不安を抱えていた。
ある中学生の頃、麗華は家族の都合で参加しなければならないパーティーがあり、極度の緊張に襲われてしまう。
完璧に見せなければならないという焦りから息苦しくなり、その場から逃げ出すように会場を飛び出した。
夕暮れ時の閑散とした公園のベンチに座り込み、涙を堪えようとしていた。
その時、公園の木々の間からふと姿を現したのが中学生の男の子だった。
彼は家にいることがストレスになるからという理由で、気分転換をするために散歩をしていたのだ。
公園のベンチで震えるように座る麗華に気づき、彼は立ち止まった。
「……大丈夫?」
中学生少年のその一言に、麗華は思わず顔を上げる。
見知らぬ少年の優しい声に、不意に涙が溢れた。泣いている姿を見られるのが嫌で顔を背けたが、見ず知らずの少年の言葉に、堪らずに泣いてしまった。
少年は、彼女の隣に腰を下ろし、持っていたハンカチを差し出した。
「無理に話さなくてもいいよ。でも、ここを君の逃げ場所にしちゃえばいい。俺もよくここに来るんだ」
麗華はその言葉に驚いた。彼の声には、どこか安心感があった。まるで彼がすべてを受け入れてくれるような、包み込むような温かさを感じたのだ。
彼の隣で泣いても、恥ずかしいとか、醜いとか、そういう感情が一瞬だけ消えていくのを感じた。
「……逃げても、意味なんてないのに」
やっと絞り出した言葉。麗華の声は震えていたが、少年はじっと耳を傾けていた。
「そうかな? たまには逃げたっていいと思うよ。俺なんて、いつも逃げてばっかりだしさ。」
「……どうして、そんなこと……」
麗華は、不思議そうに少年を見た。彼の言葉には、今まで周りにいた大人たちとは全く違う温かみを感じた。
その瞬間、彼の中に彼女にはない何かを見つけたような気がした。少年は、少し遠くを見つめるようにしながら語り始めた。
「俺の祖母がね、昔こんなことを言ってくれたんだ。『あんたの祖父や両親は働き通しで、人生を楽しむ余裕がない人たちなんだ。だから、あんたは自由に生きなさい。世の中の期待や、誰かの期待に応えなくても、自分の好きなように生きていいんだよ』ってさ」
少年の瞳はどこか懐かしそうで、優しさに満ちていた。
彼は小さな頃から周囲の大人たちが仕事に追われている姿を見てきたという話をした。
祖父も、両親も、仕事に誇りを持ちながらも、人生を心から楽しむ余裕を見せたことはほとんどなかった。
そんな姿を見ていた少年にとって、祖母の言葉は救いだったと。
そして、麗華の両親も海外を飛び回るほど忙しく、麗華と会うのはパーティーや用事のある時だけだった。
「だから、俺はあんまり世間の期待とか、周りに合わせるとか、気にしないようにしてる。自分が無理しない生き方を選ぶ方が、人生を楽しめると思うんだ」
麗華はその言葉に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
彼女の中で、周囲の期待に応えなければならないという考えがいつしか「当たり前」になっていた。
しかし、目の前の彼はそれを気にすることなく、自分の人生を楽しむことを選んでいる。
初めて「無理をしなくてもいい」と言ってくれる存在に、心が救われる気がした。
「……ありがとう。あなたは、誰なの?」
麗華は小さな声で呟いた。少年は少し照れくさそうに笑って答えた。
「ただの、自由に生きたい身勝手な奴だよ。君が辛くなった時、ここでまた会えたら、その時に話そうね」
その言葉を残して、彼は去っていった。麗華は彼の名前も何も知らないまま、ただ彼の後ろ姿を見送っただけだった。
それからしばらく、彼と会うことはなかった。
しかし、その時の彼の言葉は、彼女にとって心の支えとなった。
彼女は完璧を求められる日常に戻りつつも、彼の「自由に生きていい」という言葉が、胸の中で生き続けた。
そして、いつしか彼女はその言葉の意味を考えるようになり、自分の心に耳を傾けることができるようになっていた。
時が流れ、大学生となった麗華。ある日、ふとSNSを眺めていた彼女は、かつてのあの公園で出会った少年を思い出すような。
《永久就職希望! 養ってくれる彼女募集》
「なんて自由な発想をする人なんだろう」
少年の存在が、自分を支え、変えてくれた。
自分も親の決めた人生ではなく、少しだけ反抗してみたい。
そんな想いを胸に、麗華は偽の恋人になるという提案をDMに込め、彼にメッセージを送った。
「私にとって、あなたは運命の人。今度は、私があなたの自由を支えたい……」
♢
麗華の部屋は、高級ホテルのスイートルームと見間違うほど豪華な作りをしている。
窓からは都心の夜景が一望でき、部屋のインテリアは落ち着いたブラウンとゴールドを基調にしている。
柔らかいカーペットに、大きなキングサイズのベッド。サイドテーブルには、夜に読むための文学書や小説が並んでいた。
広いクローゼットには、デザイナーズブランドの洋服がずらりと並び、ドレッサーにはさまざまな高級化粧品が整然と並んでいる。
彼女はベッドに仰向けに倒れ込み、天井を見つめた。
安藤蔵之介からの返信が来るたびに、少しだけ笑みが浮かぶ。
「こんな気持ち、いつぶりかしら……」
麗華は楽しいと感じていた。
何か悪いことをしているような。
安藤蔵之介は、今まで出会ってきた男たちとは違うことを願ってしまう。
偽恋人として雇ってくれと言ったときも、躊躇いながらもその依頼を受けてくれた蔵之介。その反応が面白くて、だからこそ興味が湧いた。
「でも、彼が私のことをどう思ってるかなんて、まだわからないし……」
気持ちが不安定になる。誰かをお金で買うようなことをするのは初めてだ。
正式に仕事として雇うのとはまた違う。
自分から誰かを追いかけるという経験はほとんどなかった。
麗華は幼い頃からお嬢様として育ち、求めれば何でも手に入る環境にいた。しかし、蔵之介に関しては、どうしてもそう簡単にはいかない気がしている。
麗華はベッドの横に置かれた高級シャンデリアをぼんやりと見つめ、指で軽く頬をつつく。自然と蔵之介の姿を思い浮かべてしまう自分に気づいて、少し照れたように笑う。
「私、どうかしてる……こんなことで舞い上がってるなんて」
けれど、彼との次の約束を取り付けたことで、心の奥にあった不安は少しだけ薄れた。麗華は自分の気持ちに素直になりたかった。
豪華な部屋の中に一人でいても、誰かと繋がっているという実感があるだけで、こんなにも心が温かくなるのだと初めて感じていた。
「もう少し、彼と仲良くなれたらいいな……」
麗華はベッドから起き上がり、ドレッサーの前に座る。
鏡の中には、いつもの自分とは少し違う、どこか柔らかな表情の自分が映っていた。彼に会うための服を考えながら、次はどんなメイクにしようかと思案する。
一瞬だけ、自分の頬が紅く染まるのを鏡越しに見て、麗華はクスリと笑った。
そして、少しだけ高揚した気分のまま、部屋のカーテンを閉め、ベッドに身を投げ出すように寝転がる。
「会うのが楽しみね」
彼女の胸の中で、わずかな期待と不安が入り混じりながらも、次に蔵之介と会うことへの想いが膨らんでいく。
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