第9話

 夕暮れ、肌寒い風が吹く中、商店街の一角で蔵之介は買い物を終え、古い家へと戻る途中だった。


 彼の視線の先には、小柄で華奢な女の子が一人、道端で何か困った様子で立ち止まっているのが見える。


 制服姿から察するに、近くの高校に通っている女子高生のようだが、彼女はスマホを見つめ、辺りをキョロキョロと見渡していた。


「……迷子かな?」


 蔵之介はその様子に気付き、声をかけようか少し迷ったが、放っておくのも気が引けた。彼は大きく息を吸い込んで、勇気を出して近寄ってみた。


「えっと……どうかしましたか?」


 突然声をかけられた女の子は一瞬驚いたように肩をすくめたが、すぐに彼の方を振り向いた。


 クリクリとした大きな瞳、整った顔立ち。普段見かける近所の子とは一味違う華やかさを持っている。


「……ちょっと、道に迷っちゃって……」


 警戒しつつも、彼女は困った様子で答えた。


 彼女はある事情から、普段から多くの人に声をかけられることには慣れている。

 だが、どこかいつもとは様子が違う態度で、声をかけてきた男に戸惑いの表情を見せていた。


「ああ、それは大変だね。えっと、どこに行きたいのか教えてもらえますか?」


 蔵之介は至って普通に接し、彼女を見つめる。


 その様子に彼女は不思議そうに首をかしげた。蔵之介はまるで彼女のことを知らないかのようだ。


 彼女は、芸能界に属していて、テレビを見ていれば自分のことを知らないはずがないと思っていたので、彼の態度は彼女から見て驚く状況だった。


「……あの、私、橘美咲って言います」


 彼女は自分の名前を名乗ることで反応を確かめようとした。これで気づくはず、そう思いながら。


「橘さんね。了解、じゃあ橘さんはどこに行きたかったの?」


 蔵之介は全く動揺する様子もなく、彼女の名前をあっさりと呼んだ。それだけではなく、彼女の名前に特別な反応を示すこともない。


「……え?」


 美咲は思わず口を開けて彼の顔を見つめた。彼女の名前を聞いても驚かない? 


 この男は一体なんなのだろう。彼女の頭の中にはそんな疑問がぐるぐると巡っていた。


「えっと、どうかした? 急いでるなら案内するけど」


 蔵之介の無邪気な問いかけに、美咲は一瞬戸惑ったが、ふっと面白そうに口元を緩めた。この男、私を知らない。


 そんな男がいるなんて、少し意外で……なんだか面白い。


「……うん、案内してもらおうかな」


 彼女はニヤリと笑い、心の中で小さないたずら心が芽生えた。


 芸能人として扱われないこの状況、いつまでこの男が気づかないのか、ちょっと試してみたくなったのだ。


「じゃあ、こっちだね。すぐ近くだから、案内できると思うよ」


 蔵之介は彼女の返事を聞くと、にこやかに微笑んで先導し始めた。


 美咲は彼の背中を見ながら、どこかワクワクした気持ちを抑えきれずに彼の後をついていく。


「ふふ……どれだけこの人、私のこと知らないのかしら」


 彼女は内心、クスクスと笑いながら、これから始まる小さなゲームに胸を躍らせるのだった。



 美咲は学校でも、芸能界でも、常に注目の的だった。


 学校に行けば、男子から告白されるのは日常茶飯事。


 仕事に行けば、マネージャーやスタイリスト、スタッフたちに囲まれて賑やかな日々を過ごしている。


 CMだって流れているし、話題にもドラマにも出演して、自分では有名になったつもりだった。


 だけど、そんな毎日が彼女にとっては少し窮屈だった。


 誰もが自分を特別扱いし、気を遣ってくる。時折、一人になりたいと思うのは、彼女の密かな願いでもあった。


「たまには一人で歩いてみたいな……」


 その日は学校も仕事も早めに終わり、ふとそんな気持ちが彼女の胸に湧いた。


 いつもは送迎車で移動しているが、今日は一人で街を歩くことにしたのだ。


 しかし、慣れない道を歩いているうちに、美咲は自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。


(あれ……ここ、どこだろう?)


 辺りを見回しても、見覚えのない風景ばかり。スマホの地図を開こうにも、電波の入りが悪い。


 困り果てた美咲がどうしようかと立ち止まっていたその時だった。


「えっと……大丈夫ですか?」


 聞き慣れない声に、彼女はびくっと反応し、振り返った。


 そこには、カジュアルな服装の青年が立っていた。彼女を見つめる眼差しは、どこか真剣で優しい。


 変なファンや、自分を知っている人は興味を持った瞳を向けてくる。


 だけど、純粋に困っている人を助けようとしている態度だと感じられる。


「あ、あの……少し迷子になっちゃって……」


 普段は滅多に見せない弱気な表情で、美咲は答えた。


 芸能人としてのプライドからか、誰かに頼ることはほとんどなかったが、今の彼女にはどうすることもできなかった。


「そうなんだ、どこに行きたかったのか教えてもらえれば、案内するよ」


 彼は親しみやすい笑顔を浮かべ、美咲に話しかけた。


 その態度には一切の遠慮や特別感がなく、彼女を「ただの女子高生」として見ているようだった。


(この人……私を知らないの?)


 心の中で驚きを隠せない美咲だったが、それが少しだけ心地よくも感じた。


 彼は自分に全く興味を持たず、ただ目の前の「困っている子」に手を差し伸べている。普段のチヤホヤされる自分とは違う扱いに、美咲は不思議な感覚を覚えた。


「あ、ありがとう……。えっと、こっちの方に行きたいんだけど……」


 彼女は少し戸惑いながらも、目的地を伝えた。すると、青年は「じゃあ、こっちだね」と手を差し伸べて、美咲を導いた。


(なんだろう……この感じ)


 彼女は彼の後ろを歩きながら、彼の顔をどこかで見たことがあるような気がしていた。けれども、その思いは言葉にはせず、しばらく彼の後をついていくことにした。


 そして、目的地に着くと、彼は美咲に向き直ってにっこりと微笑んだ。


「ここで合ってる?」

「あ、うん……助かりました。ありがとう!」


 美咲は普段の彼女とは違う、自然な笑顔で彼にお礼を言った。


「いやいや、大したことないよ。それじゃ、気をつけてね」


 そう言って青年は去ろうとする。彼が本当に自分を知らない様子に、少しだけ寂しさを感じた美咲は、咄嗟に声をかけた。


「あ、ちょっと待ってください!」


 彼は振り返り、美咲に視線を向けた。美咲は少し迷いながらも、お礼をしなければという気持ちが強く、彼に提案をした。


「その……助けてもらったお礼をしたいのです! だから、よかったら連絡先を教えてくれないですか?」

「え? ああ、別にそんなことしなくていいんだけど……」

「だめです! これは私の気持ちだから、お願いします!」


 美咲の真剣な様子に、彼は少し困ったように笑って「わかったよ」とスマホを取り出した。


 そして、美咲と連絡先を交換する。


 ふとした瞬間、美咲は彼の名前が画面に表示されたのを見て、一瞬何かが引っかかる。


(蔵之介……?)


 その時、美咲の頭の中で何かが繋がった。


 最近、スタイリストさんと話しているときに耳にした話。


「永久就職募集」の、SNSで話題に上がった人だ。


「……まさか、あなたが……」


 彼女は驚きを隠しつつ、平静を装って彼を見つめた。彼は全く気づかず、ただ彼女に手を振り、自然体のまま去っていく。


「またね、橘さん!」


 彼の姿が見えなくなってから、美咲はスマホを握りしめ、少し笑みを浮かべた。


(へえ、あの「永久就職希望」の人……面白そう)


 彼女の中で、普段の生活では得られない新鮮な興味が湧き上がっていた。


 そして、これから彼とどんな関わりを持つのかを想像して、少しワクワクする自分に気づくのだった。

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