第7話

 舞は、仕事の電話を終え、蔵之介とのデートを中断して仕事へ向かった。


 彼女の表情は再び真面目なものに変わり、次の仕事先へと急いでいる。


 スマホを相手を確認して、仕事の段取りを頭の中で組み立てる。


「やっぱり仕事は楽しい…」


 自分に言い聞かせるように、そう呟いた。いつもなら仕事に集中することで気持ちが切り替わるのだが、今日はどうも違う。


 頭の片隅に、蔵之介との時間がちらついて離れない。


「なんであんなに気を遣ってくれるの…」


 舞はスマホをしまうと、彼と別れた場所で立ち止まった。そこでふと、今日のデートを振り返り始める。蔵之介の優しさや、不器用ながらも自分に向けてくれる気遣いを思い出し、胸がキュッとなる。


「名前で呼ばれたとき、なんだかドキドキしたな…」


 舞は俯きながら、蔵之介の言葉や表情を思い返していた。


 あのカフェでの会話、彼が自分の話にちゃんと耳を傾けてくれていたこと、自分のことを心配して忠告してくれたときの優しい眼差し。舞の頬が少しずつ赤くなっていく。


「彼氏ってこんな感じなのかな…」


 仕事に対して一生懸命な自分にとって、恋愛やデートは未知の世界だった。


 いつも周りから「彼氏を作らないの?」と言われても、「今は仕事が一番大事」と強がってきた。けれど、今日のデートで初めて感じた、心がふわっと温かくなる感覚は何だったのだろう。


「ああ、ダメだ…ニヤけてる…」


 舞は気持ちを落ち着かせるために、目を閉じて深呼吸をした。仕事に戻らなければならないのに、どうしても蔵之介のことが頭から離れない。


「でも、あの子…大丈夫なのかな」


 舞は心配そうに眉を寄せる。


 蔵之介の無邪気な笑顔を思い出しながら、彼が永久就職を本気で望んでいること、働きたくないと言いながらも彼の純粋さを感じたこと。思わず口元に微笑みが浮かぶ。


「まったく…純粋すぎるんだから」


 舞は自分にツッコミを入れるように、そう呟いた。自分が彼を心配して忠告したことも、彼の優しさに照れたことも、すべてが不思議な感覚だった。


 仕事に追われる日々の中で、初めて自分が他人にドキドキするという経験をした。


「よし、次のデートも…」言いかけて舞はハッとする。「違う、次の仕事も頑張らないと」


 強引に自分の気持ちを切り替えようとするが、どうしても笑みがこぼれてしまう。


「彼氏…か、悪くないかもね」


 そう呟いて、舞は再びスマホを手に取った。次の仕事に向かう足取りが、なぜかいつもより少し軽い気がした。


 ♢


 立ち去っていく舞さんが見えなくなるまで、蔵之介は見送っていた。

 デートが終わり、蔵之介は一人で駅のホームへ向かった。


 足取りは軽いような重いような、なんとも言えない感じだ。


(はぁ、やっと終わった……)


 ずっと緊張の連続で、カフェや公園、ショッピングと、どれもありきたりなデートスポットを巡っただけだった。


 だが、それは蔵之介にとっては人生初のデートだったので、どの場所に行っても、ずっと緊張しっぱなしだった。


 しかも相手は年上の美人さんとなれば、緊張の度合いが跳ね上がる。


 いくらDMでやり取りをしていたといっても、初対面で、自分とは正反対の仕事ができて、美人で、大人っぽくて……正直、蔵之介などが一緒に過ごしていい相手ではないと思ってしまう。


 スマホの画面に映った時計を眺め、気がづけば、あっという間に数時間が経っていた。


(うわぁ、何やってんだ俺……帰らないとな)


 心の中で頭を抱える。舞さんを喜ばせようと、普段は使わない大人っぽい言葉を無理して使ったり、背伸びして気の利いたことを言おうとしたり、必死に大人ぶってた自分が恥ずかしい。


(名前呼びをいきなりしたのは不味かっただろうか? それに俺のことも蔵之介君って)


 蔵之介は二人のやり取りを思い出しては、気恥ずかしで悶えていた。

 会話では何度か名前を呼び間違えそうになったし、顔は真っ赤になっていたと思うからだ。


(でも……)


 舞さんの顔を思い浮かべる。ずっと大人びた態度を崩さなかったけど、ふと見せる笑顔や、何気ない仕草が印象的だった。


(楽しんでくれてた、よな……?)


 あの笑顔は、お世辞や社交辞令じゃなかったように思う。


(少しでも楽しんでくれたなら、よかったんだけど……)


 蔵之介は、自分の背伸びした言動がうまく伝わったのかどうか、不安でいっぱいになった。全ては、舞をを楽しませようとしたことであり、自分の頑張りも報われたと思う。


 ホームに立ち、冷たい風が頬をかすめる。


 背伸びして大人ぶった自分が恥ずかしくて仕方ないけれど、次に会うときはもう少し自然体でいられるといいな、と心の中で小さく願った。


 ♢


 舞は、オフィスのデスクに座り、書類に目を通していた。いつものようにバリバリ仕事をこなす自分。それが彼女の常だった。だが、今日はどうも集中できない。


(蔵之介君から……連絡、来てないかしら……)


 そんなことを考えながら、ふと机の端に置いたプライベート用のスマホに視線をやる。彼と別れてから、彼からメッセージは来ていない。


 こちらから送るのも気が引けて、もんもんとした気持ちだけが募っていく。


(仕事中にスマホのことなんて気にするなんて、私らしくないわ……)


 彼女は仕事にかまけてきた。何かに夢中になれることは良いことだと、ずっとそう信じていた。


 なのに今は、どうしてこんなにも心が落ち着かないのだろう。つい先日、彼と過ごしたデートのことが頭をよぎる。


 背伸びをしつつも舞のことを気遣ってくれたあの優しさが、どこか心に引っかかっていた。


「おーい、舞?」


 不意に声をかけられて、舞ははっと顔を上げる。

 そこには、同僚の田中里奈がニヤニヤとした笑みを浮かべて立っていた。


「何?」

「あんた、さっきからスマホばっかり気にしてるけど、どうしたの? 何かいいことでもあった?」


 里奈のからかうような口調に、舞は思わず顔を引きつらせる。できるだけ平静を装って、軽く首を振った。


「別に何もないわよ。たまたまスマホの通知が気になっただけ」

「へぇ〜、そっかぁ?」


 田中はじっと舞を見つめる。その視線に、舞は少しだけ居心地の悪さを感じた。


 普段の自分なら、こんなふうにスマホを気にするなんてことは絶対になかった。だけど、蔵之介と会ってから、どうも様子がおかしい。


「……何よ、その顔。何か言いたいことでもあるの?」


 舞が問い詰めると、田中は笑みを深めて言った。


「いやぁ、なんか舞がいつもと違うな〜って思ってさ。だって、普段のあんたなら仕事中にプライベートのスマホなんて見向きもしないでしょ?」

「そ、それは……」


 言葉に詰まる。確かに、仕事中にスマホを気にするなんてことはなかった。今まで、誰からの連絡も気にしたことがないし、気にする必要もなかったからだ。


「もしかしてさ、何かあったんじゃないの? 例えば、彼氏とか?」

「なっ……! そんなことあるわけないでしょ!」


 慌てて否定する。だが、田中は「怪しい〜」と更にニヤニヤしてくる。いつもならさらりと受け流せる彼氏ネタに、今日は何故かまともに反応してしまう自分が、もどかしかった。


「ふーん。じゃあ、好きな人でもできたの?」

「……っ!」


 図星を突かれて、舞は無意識に顔を赤くしてしまった。あまりにも田中の言葉が核心をついていて、何も言い返せない。


「おお! マジで!?」


 田中が驚いて大きな声を出す。舞は周りの目が気になり、慌てて彼女の口を手で塞いだ。


「声が大きい……! 周りに聞こえるでしょ!」

「ご、ごめん。でも、舞がこんなふうに顔を赤くするなんて珍しいからさ……!」


 田中の瞳は輝いている。普段、恋愛に関して無関心を貫いてきた舞が、こんなふうに動揺する姿を見たのは初めてだったからだろう。


 彼女は舞の肩を軽く叩き、「良かったじゃない!おめでとう!」と心から祝福してくれる。


「……ありがとう、でも……」


 舞は視線を下に落とす。田中の祝福が嬉しい反面、胸の中に一抹の不安が広がる。彼との関係は、あくまで「1日彼氏」だったのだ。


(蔵之介と付き合うってことは、私が彼を永久就職させるってこと……)


 彼女の頭には、彼が投稿していた「永久就職希望」の言葉がちらつく。もし本当に彼と付き合ったら、自分は仕事を続けながら彼を養うことになるのだろうか。それで本当にいいのか?


(彼と一緒にいると、あんなにもドキドキして楽しかったのに……)


 心が揺れる。舞はどうしたらいいのかわからなくなり、ただスマホの画面を見つめた。そこに蔵之介からのメッセージはまだ届いていなかった。

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