第5話

 待ち合わせの場所に向かう途中、月島舞はスーツの襟を直しながら、ため息を一つついた。


 デート、というものに馴染みがない彼女にとって、今の状況はかなりの緊張を伴うものだった。


(やっぱり、少し服装を変えるべきだったかしら……)


 舞は、自分がスーツで来てしまったことを少し後悔していた。


 しかし、普段仕事ばかりしている彼女にとって、カジュアルな服はほとんど持っていない。自分なりに精一杯の「おしゃれ」をした結果が、このいつも通りのスーツ姿だった。


(でも、初対面の男性相手に変に力を抜くのも……これでいいのよ)


 自分に言い聞かせ、なるべく平静を装って待ち合わせ場所である広場に立った。


 彼女は真面目で、何事も計画通りに進めたがる性格だ。


 この初めての「デート」も、どうすれば好印象を持ってもらえるか頭の中でシミュレーションを何度も繰り返していた。


(大丈夫。いつも通り、きちんとしていればいいのよ)


 そんな彼女の内心とは裏腹に、表情はいつもの冷静で凛としたものだった。そこへ、緊張した面持ちで蔵之介がやってくる。


「あ、あの……月島さんですよね?」


 舞は、声をかけられて一瞬ドキッとしたものの、表情には出さずに軽く頷いた。


「はい。あなたが安藤さん?」


 彼女の声は、普段の仕事モードの落ち着いたトーン。だが、実際には胸の奥が少しだけ高鳴っているのを感じていた。


 相手が思った以上に若々しく、清潔感のある服装をしているのに少し驚いていたのだ。


「そ、そうです。今日はよろしくお願いします!」


 安藤のぎこちない挨拶に、舞は口元をわずかに緩めた。彼が緊張しているのが伝わってきて、少しだけ肩の力が抜けた気がした。


「こちらこそ、よろしくお願いします。……それにしても、安藤さん、素敵な服装ね」


 そう言った後で、彼女は内心で焦りを感じていた。


(私、今自然に褒められた? これで大丈夫かしら。デートってこんな感じで進めるものよね?)


「そ、そうですか? ありがとうございます! あ、月島さんはスーツなんですね」


 彼の言葉に、舞は一瞬目をそらしてしまった。まるで面接のようにスーツを選んだ自分が、少し恥ずかしくなったのだ。


「ええ、普段は仕事でこればかりだから……カジュアルな服ってほとんど持ってなくて」


 彼女は自然体を装って答えたが、内心はどう受け取られるか心配でたまらなかった。せっかくのデートなのに、仕事の延長みたいに見えたらどうしよう。


 そんな不安がちらりと顔をのぞかせる。


「いや、すごく似合ってますよ! なんか……かっこいいというか、綺麗で!」


 彼の不意の言葉に、舞は思わず視線を下に落とした。


 褒められることに慣れているはずなのに、デートという状況では少し違うように感じる。


「……ありがとう」


 それだけを言うのが精一杯だった。頬が少しだけ熱くなっているのを感じながら、気を取り直す。


「それじゃあ、どこか行きたい場所はある?」


 彼の提案に対し、舞はゆっくりと息を吐いた。落ち着いて、自分らしくいれば大丈夫。今は、彼との時間を楽しむことを心がけるべきだ。


「そうね、どこか近くのカフェでもどうかしら?」

「カフェですね! じゃあ、ちょうど近くにいいお店があるので、そこに行ってみましょう」


 彼が少しでも自分をリードしようと、前向きに振る舞ってくれるのが嬉しかった。


 彼の背中に続く形で歩きながら、舞は心の中で少しずつ緊張がほぐれていくのを感じていた。


(これでいいのよ。まずはリラックスして……彼がどんな人か、知っていけばいい)


 それでも、まだどこか堅苦しい自分に気づきつつ、彼女は慎重に一歩一歩を踏み出していった。


 蔵之介に案内されて訪れたカフェは、ちょっと落ち着いた雰囲気のお店だった。


 店内にはほんのりとコーヒーの香りが漂い、木のテーブルとソファが並んでいる。


 お洒落で居心地の良さそうな空間に、舞は少し緊張を和らげた。


(こんなところ、普段はあまり来ないわね……)


 仕事が忙しい彼女にとって、カフェでゆっくりする時間などほとんどなかった。ましてや誰かと一緒に過ごすなんて初めてだ。


 そんな状況に、舞は少し戸惑いながらも、蔵之介の後を追って席に着いた。


「ここ、いいですよね。なんか落ち着くというか……」

「ええ、そうね。確かに雰囲気が良いわ」


 気の利いた返事をするつもりが、どこか堅くなってしまう自分に気づき、舞は内心で反省する。(もっとリラックスしないと……)


「月島さん、窓側の席って落ち着かないですか?」


 蔵之介が、舞が座った席を気遣うように尋ねてくる。


 店内の様子をさりげなく見渡して、彼女の居心地を確認している姿がなんとも自然で、舞の心に少しドキッとするものがあった。


「え? いえ、全然……大丈夫よ。ありがとう、気を使ってくれて」

「いえいえ、月島さんがリラックスしてくれたらいいなって思っただけです」


 にっこりと笑って答える彼の言葉に、舞は思わず視線を外してしまう。


 舞は純粋に自分のことを考えて、カフェを選んで席を確保してくれている彼のことに今更ながら気づいた。


 今まで仕事で会う男性たちは、舞を《できる女》として見てばかりで、こんなふうに純粋なデートして接して来られたことはなかった。


 学生時代は全てお付き合いを断っていたし、社会に出ても仕事の相手としてみていない。だけど、彼は私を仕事を抜きに女性としか見ていないのだ。


(なんだか、凄く恥ずかしいわね。こんなにも年下の男の子に)


「そうだ、メニューは見ましたか? ここ、ドリンクが種類豊富なんですよ。月島さん、何が好きですか?」

「私?! そうね、カフェラテがいいかしら」


 蔵之介はメニューをのぞき込み、少し考えたあと、店員を呼んで二人分の注文をした。


「じゃあ、カフェラテと……僕は抹茶ラテをお願いします」


 注文を済ませて、ふと舞の手元に目を向ける蔵之介。彼女がテーブルの端に置いていた小さなハンドバッグの留め金が、少しだけ開いているのに気がついた。


「あ、月島さん……バッグ、少し開いてますよ」

「え? 本当……」


 言われて舞は慌ててバッグの口を閉じた。普段なら見逃してしまうような細かなことに気づいてくれる彼の優しさに、舞の胸が少し高鳴った。


(なんでこんな小さなことまで……気づくのかしら?)


 内心でドキドキしつつも、なんとか平静を装い続ける。


 これまで男性と二人でこんな風に過ごした経験がない舞にとって、この状況は初めての感覚だった。自分が一人の恋愛対象として扱われる。


 それは新鮮であり、気恥ずかしくもあった。


「それにしても、月島さんって本当にお綺麗ですよね。あった時から緊張してしまって」


 唐突に言われた褒め言葉に、舞は一瞬言葉を失った。


 仕事では褒められることがあっても、どうせお世辞だとわかっているので、聞き流すことができる。だけど、蔵之介から素直な感想を伝えられているのが理解できる。


 こんな風に純粋に見た目を褒められるのは久しぶりだった。


「そ、そうかしら……ありがとう。でも、そんな風に言われると……ちょっと恥ずかしいわね」


 彼女の頬がわずかに赤く染まる。


 緊張と不慣れな感情が混じり合って、自分でもどうしていいのか分からない。そんな彼女の様子に気づいたのか、蔵之介は少し優しい声で続けた。


「あ、すみません、変なこと言っちゃって。でも、素直にそう思ったから。月島さんみたいな人とこうして一緒にいられるなんて……僕、ちょっと夢みたいです」


 その言葉に、舞は一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。どこかぎこちないけれど、真っ直ぐな彼の言葉が、不意に彼女の心に響いた。


「……あなたって、不思議な人ね」


 そう言った自分の声が、少しだけ震えていたことに気づき、舞はますます動揺してしまう。しかし、彼の笑顔を見ると、不思議と心が少しだけ軽くなったように感じた。


(こんなふうに誰かと過ごすの……悪くないかも)


 彼女の心に芽生えた初めての感情に、戸惑いつつも少しだけ期待している自分がいた。

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