第3話
季節は3月。
冬の名残がまだ感じられる冷たい風が吹く中、安藤蔵之介は、自室の机に座り、大学受験の結果通知を手にしていた。
封を開けてから数分が経つ。だが、その紙には「不合格」という現実が淡々と書かれているだけだった。
彼はただ、その一文を見つめていた。
蔵之介自身、まさか落ちるとは思っていなかった。
両親にとっては期待外れもいいところだろう。バイトもせずに塾に通わせてもらっていたのだから。
蔵之介は、心の中で両親に対して申し訳なさを感じつつも、どこか諦めに似た感情を抱いていた。
大学に合格すれば就職しなくても良い期間が、4年間という猶予になっていた。
だが、その目論見は外れてしまった。リビングに向かい、両親に結果を伝える。
最初は無言だった両親も、次第に険しい顔つきになり、蔵之介に冷たい言葉を浴びせた。
「就職をしろ。浪人させるつもりはない」
父親の厳しい声が、リビングに響く。蔵之介はそれに対して思わず反論した。
「どうしてだよ! 二人とも働いてお金には困ってないだろ?」
「お前のその考え方がダメなんだ。失敗しても次があると思っているんじゃないのか? その誰かに頼りきった考え方を直せ」
父親の言葉は鋭く、蔵之介の心に突き刺さった。
それから毎日のように、両親は「就職しろ」「バイトでもいいから働け」「現実を見ろ」と責め立てるように言い続けた。
だが、蔵之介はその度に、「働いたら負けだ」と反抗する。
「世の中は、働かなきゃ生きていけないんだよ!」
母親が声を荒げたその時、蔵之介はついに言い放った。
「だったら、俺は絶対に働かない! 社会に出て働くことなく、勝手に生きていくよ!」
その言葉が、家族の関係を決定的に壊した瞬間だった。父親は無言で立ち上がり、母親は怒りの表情を浮かべて彼に背を向けた。
数日後、蔵之介は両親からある通告を受けることになった。
「社会の厳しさを学べ」
そう言って、両親は蔵之介を家から追い出すことに決めた。
だが、ただ追い出すのではなく、彼に新たな住まいを用意していた。
祖父母が住んでいた町田の古い家。かつて、両親が働いている間、蔵之介がよく過ごしていた場所だった。
彼が新しい住まいとして与えられたのは、広いがボロボロの一軒家。外観こそ広さを感じさせるものの、近づくとあちこちに痛みが目立っていた。
玄関の扉を開けると、軋む音と共に埃が舞い上がる。
祖父母が亡くなって3年、この家はすっかり荒れていた。
「ここで生活しろってか……」
蔵之介は呆然としながら、両親から渡された生活費が入っているという封筒を開けた。中に入っていたのは、手紙と五万円だった。
「月々5万円。これで生活しろ」
封筒の中の手紙には、そう書かれていた。さらに、彼が二十歳になるまでの2年間、毎月5万円だけを支援するという旨が記されている。
祖父母の家も、二十歳になった時点で彼に相続されるという。
「その後は好きに生きればいい。親の義務はそれで終える」
蔵之介はその言葉を、ただ黙って読み進めた。
両親は確かに厳しいが、どこか優しさも感じさせる部分があった。
すぐに見捨てず、2年間の猶予と祖父母の家をくれたのだ。
しかし、それでも月々の生活費として与えられるのはわずか5万円。そこから光熱費、食費、保険料のすべてを捻出しなければならない。
蔵之介は考え込んだ。
今まで、そんな費用を払ったことがなかった彼は、何から始めればいいのかわからない。
仕方なく、ネットで「一人暮らしの始め方」を検索し、生活の知識をかき集める。
保険料と光熱費を払えば、残るのは1か月で5,000円ほど。家賃やローン、固定資産税は、両親が2年間は払ってくれるらしいが、それでも十分な額ではない。
貯金は300万円ほどあるが、それも両親が学資保険やお年玉で積み立ててくれたものだ。
蔵之介は、自分がこれまで両親の庇護にあったことを改めて思い知らされる。
「働かないなら、この金でどこまでやれるかだ……」
彼は呟いた。自分が決めたことだ。
「働いたら負けだ」という信念を貫くためには、今、何をすべきかを考える。
そして、彼の頭に浮かんだのは、SNSで恋人を募集することだった。
「永久就職希望」
それが彼の考えた投稿のタイトルだった。
世の中には、自分のような若い男を養いたいと思う女性がいるかもしれない。
そんな一億人に一人を探すつもりで、彼は投稿をすることを決意する。
彼は自分の写真を載せ、養ってくれる女性を募集するための文章を打ち込んでいく。
「メリット! 家事は、そこそこ出来ます。料理が好きです。古い家ですが、一軒家も持っています。住所不定で仕事はしたいけど困っている方なども応じるつもりです」
これがメリットになるのかわからないが、だが、蔵之介の出来ることはこれぐらいしかない。
「デメリット! 何よりも外に出て働きたくありません! ですから、養ってくれることが前提です」
デメリットが大きすぎると、彼も思っていた。
「性格は穏やかで優しいです! 働きたくないと思うほどめんどくさがりな部分もあります! そんな僕でよければ、我こそはと思う女性の方、DMをお待ちしております」
投稿してしばらくすると、通知が鳴り始めた。
いくつかのメッセージが届いた中で、彼の目に留まったのは一通のDMだった。
「あなた、変なことはやめなさい!」
いきなり送られてきたその一文に、蔵之介は思わずスマホを握りしめた。
送信者は舞という名前の女性で、プロフィール画像は可愛い猫だった。
文章は、どこか大人びた雰囲気が伝わってくる。
蔵之介は、胸がドキドキしているのを感じながら、どう返事をしようかと頭を巡らせた。
「すみません! びっくりさせてしまいましたか? 僕、ただ本気で養ってくれる方を探しているだけなんです」
送信ボタンを押した後も、彼の心は落ち着かなかった。
画面の向こうにいるのはどんな人だろう。真剣に心配してくれているのか、それともただの冷やかしなのか。
数分後、また彼女からの返信が届く。
「それは分かったけど……あなた、まだ18歳なんでしょう? 養ってもらうってそんな簡単なことじゃないわ。仕事もしないでどうやって生きていくつもりなの?」
彼女の言葉には、どこかお説教じみた雰囲気があった。しかし、その言葉の裏にある優しさを、蔵之介は感じ取っていた。
彼女は本当に自分のことを心配してくれているのだ。だからこそ、彼は正直に返すことにした。
「働くのがどうしても苦手なんです。でも、家事は好きで、誰かのために役立てるならって思ったんです。それに、舞さんみたいに心配してくれる人がいるだけで少し安心できる気がして……」
メッセージを送りながら、蔵之介は自分の気持ちが少しずつ整理されていくのを感じた。
彼女が自分に興味を持ってくれているわけではないかもしれない。けれど、こうして自分の気持ちに向き合ってくれるだけでも救われた気がする。
その後、何度かメッセージのやり取りをしていくうちに、彼女からこんな言葉が返ってきた。
「そう……なら、一度会って話してみる?」
「本当ですか!? ありがとうございます! お会いできるのを楽しみにしています!」
彼の返信に、彼女がどんな顔をしているのかは分からない。けれど、このやり取りを通じて彼の胸には、何かが大きく動き始めた気がしていた。
「俺の『永久就職』計画が、こうして始まったわけだ……さて、どうなることやら」
彼は少しずつ動き出すこの新しい生活に、わずかな期待と不安を抱えながら、次のステップを踏み出そうとしていた。
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