可視光線波長タイプ:青
@wlm6223
可視光線波長タイプ:青
「これは何?」
「リンゴ」
「何色のリンゴ?」
「分かんない」
看護師は次のフリップを葉月に見せた。
「これは?」
「バナナ」
「何色?」
「分かんない」
またも看護師は新たな一枚を葉月に見せた。
「じゃあ、これは?」
「海。お魚が飛んでるやつ」
「海は何色?」
「青」
医師は頭を抱えながら「何度やっても結果は同じですね」と呟いた。
「視力は両眼とも1.5です。問題ありませんね」
「先生、葉月は色が見えないんですか?」
私はまごつきながら訊いてみた。妻の京子も心配そうにその返事を待った。
「いや、色弱とはちょっと違いますね」
「というと?」
「色は見えているようなのですが、その色が青以外のものは認識できていないようなんです」
京子が医師に訊いた。
「要するに、見えてるけど、脳でそれが理解できていないと?」
「そこまではうちの検査では何とも言えません。ロールシャッハテストの結果は問題ありませんしたが色覚検査表はパスしませんでした。しかし、よくよく観察してみると青と紫はちゃんと見えています。先天赤緑色覚異常の可能性があります。しかし……」
医師は一旦言葉を区切って続けた。
「異常に眩しがる時があるんですよね」
京子が食らいつくように応えた。
「ええ。日光には慣れていますが、家の照明を替えた時に『今までと色が違う』と言いだしたんです」
「そこが腑に落ちないところなんです。もっと専門的な治療を試してみますか?」
私と京子は「お願いします」と言った。
「J医科大の眼科へ紹介状を書きますので今後の治療はそちらへとなりますのでご理解ください」
「はい」
とうとうその時が来たか。
葉月はまだ四歳の幼稚園児だ。葉月の異変に気が付いたのは、その「お絵かき」だった。
他の子が沢山の色を使っているのに、葉月の画は青色ばかりが使われていたのだ。
「どうして青ばかり使うの?」
「青にしか見えないから」
「他の子は他の色も使ってるけど?」
「見たままなの」
「他の色は?」
「絵の具にない色だから描けない」
そこで始めて葉月の色覚の異常に気付いたのだ。
妻の京子と私は葉月の色覚異常を疑った。しかし「絵の具にない色」とはどういう事だ?
そこで眼科へと葉月を連れてきたのである。
しかし、町医師ではどうにもならない、との結論が出た。
葉月の中で何が起こっているのか、親としては非常の気掛かりだ。
ある晩、一家揃って夕飯を摂りにファミレスへ行った。
そこで葉月は頻りに「眩しい」と言って目をしばたたかせていた。
「はっちゃん、どうしたの?」
京子は心配そうだった。
「色んな色が沢山光ってる」
四歳の語彙力ではそれが精一杯だ。具体的に何がどう見えているのか、そこまでは根掘り葉掘り聞き出せなかった。
そして葉月の「眩しい」はファミレスを出た後にも続いていった。葉月は自動車のライトを嫌がり、しかし外灯には無頓着だった。
葉月の「眩しい」はどうにも解せない。
しかし不思議な事に日光にはその「眩しい」は言ってこなかった。
色覚異常。我々夫婦はそれを疑った。
しかし町医師でお手上げを食らうと、もう難病認定されたかのような気分になった。
愛娘をどうにかしてやりたい。親ならそう思って当然だ。
当の葉月はそんな事はお構いなく日常生活を送っている。つまり、色覚異常だとしてそれほど深刻な状態ではないのでは? という希望的観測も持てた。
ネットによれば、色覚異常は具体的な治療方法がないのだそうだ。
しかし人の親としてはできうる限りの事はしてやりたい。
その翌週の木曜日、私と京子は仕事を休み、葉月を連れてJ医科大へと向かった。
「一応、一般的なテストはもう一度受けてもらいます。どこかで何があるか、再テストですね」
五十代と思われる医師はそう言って町医師と同じテストを葉月にした。
結果は同じく、「青と紫しか見えない。ただし、それ以外の何らかの刺激に反応する」というものだった。
「もうちょっと精密に検査してみましょう」
我々夫婦は不安に思ったが、それ以上に葉月が不安そうだった。
得てしてそうなのだが、病院は白を基調とした内装で、その中に普段は見慣れない白衣を着た医師と対面する。医師は何に使うのか分からない器具類や装置を使って患者の状態を正確に把握しようとする。その非日常的な光景が余計に患者の不安を掻き立てる。病院はそれだけで患者に心理的圧迫を与える場所なのだ。
その不安に葉月は打ち勝たなければならない。四歳児には少々酷なのは承知だが耐えてもらうしかない。
医師は看護師(恐らくこの大学のインターン)に指示して隣室の準備をさせた。
「お父さんお母さんも立ち会ってください」 我々は隣の部屋へ入った。
そこは小さな暗室で部屋の中央に眼鏡屋にあるような大きめの検視器があった。
「じゃあ、ここに顎を乗せて」
看護師は葉月を優しく促して検視器の調整をした。葉月は少々戸惑っているようだった。
「それではテストを始めます。君」
と医師は看護師に声をかけ、室内の照明を落とした。
その瞬間から室内は暗黒になった。
光が一切ない。すぐ隣にいる京子の姿さえも見えなかった。正に暗室だ。
医師の声で
「その覗き窓から見える色の名前を言ってね。色は沢山出てくるから、見えた色を教えてね」
「うん」
葉月の返事の声色からすると、少々怯えているようだった。
「これは?」
「黒」
「これは?」
「黒」
しばらくの間、葉月は「黒」しか言わなかった。
「これは?」
「薄い青」
「じゃあ、今度は?」
「濃い青」
検査は順調らしかった。
「これは?」
「赤!」
葉月が青以外の返事をした!
「これは?」
「黄色!」
その後も葉月は次々と色の名前を連呼した。そう。葉月は色弱ではなかったのだ。これが私たち夫婦にどれほど安堵を与えた事か!
その後も葉月は微細な色調も判断できるらしく、元気に色の名前を挙げていった。黄土色・錆鉄色・濃い緑等々……。
検査は順調に思われたようだった。葉月は何らかの障害ではなく、ちゃんと色覚が正常に機能しているのが私を安心させた。
我が子が色の名前を発する度に私は内心でほっとした。恐らく京子も同じだろう。
「それでは眼そのものの検査を行います。網膜・視神経乳頭に刺激を加えて視神経の反応をみますから、眩しさに応じてレバーを上下させてください」
医師はそう言うと、葉月の手をガイドしてレバーに手を掛けさせた。
この検査に会話はなかった。ただ検視器の動作するモーター音だけが部屋に静かに響いた。
この検査は長く続いた。かれこれ三十分は経っていた。
「○○君、照明つけて」
「はい」
検査は無事に終わった。
我々は元いた診察室に戻った。葉月は京子の膝の上に座った。医師は肘掛け椅子に凭れかかり、いま調査した結果データを一瞥して不思議そうにしていた。
「先生、うちの子はどうなんですか?」
医師は一呼吸してから応えた。
「いや、非常に珍しいケースでして」
「どうなんですか?」
「まずこちらをご覧ください」
医師は背後のPCのモニタを示した。
「人間の目が見えるのは――要するに光ですね――可視光線といって、人によってばらつきはあるんですが、波長は下限は360nmから400nm、上限は760nmから830nmです」
PCのモニタには横長の帯があって、左端が白で「マイクロ波」と書かれている。その右隣に「赤外」とある。更にその右隣に赤・橙・黄・緑・青・紫の順で帯が並んでいる。その最後の紫の右隣がまた白くなっていて「紫外線」とあり、その右隣が「X線」と書かれている。
「これが普通の人が見える光の波長の分布です」
医師は赤から紫の間を示した。なるほど。
「波長というのは?」
「例えば音であれば低い音や高い音がありますよね。低音ほど波長が長くて高音にいくに従って波長が短くなります。あまりにも低すぎる音は人間には聴こえませんし、高すぎても聴こえません。光も同じで、波長が短すぎても長すぎても人間には見えないんです。その人間の見える範囲内の波長によって見えてくる色が変わるんです」
光も音と同様という訳か。
「そこで葉月ちゃんがどの波長に敏感かを調べました」
医師がマウスをちょっと触ると横長のグラフが現れた。
そのグラフは左端が低く、丁度青の辺りから急に上向き、「赤外線」と書かれたところまで真っ直ぐ高くなっていた。
「こちらをご覧ください。葉月ちゃんの目がどの辺りで刺激を感受できるかをグラフ化したものです。大体400nm当たり、青まではほぼ見えていませんが、そこを境に急に感度が良くなっているんです。普通の色弱であればこういうグラフにならないんですが、葉月ちゃんの場合は最も波長の短い紫を飛び越えても感度が落ちないんです。つまり、赤外線も見えてるんです。その代わり、波長の短い赤や橙が見えていません」
京子が絶句した後、医師に訊いた。
「つまり人には見えない波長でも見えるって事ですか」
「そういう事になります」
我々夫婦は俯いてしまった。
「根本的な治療法はありますか」
医師は静かに応えた。
「治療方法はありません。何故こうなったかは不明ですが、相手は目ですし下手に手術などできません。それにこのような症例は私の知る限り初めてです。ですが……」
我々夫婦は次の言葉を待った。
「偏光グラスを使う、という手があります」
「それは何ですか?」
「特殊加工したガラスを使って長い波長を短くする技術です。簡単に言いますと、普通の人が見える範囲の波長を、葉月ちゃんが見える波長に変換する眼鏡です。しかし、弊害もあります。まずこのガラスを使った眼鏡を使用すると視力が低下します。加えて通常見えない波長をカットするフィルター加工も必要になります。葉月ちゃんはまだまだ成長期ですから今後どのように症状が変化していくか分かりません。成長と共に普通の波長が見えるようになるかもしれませんし、そうではないかもしれません。もしこの症状が続くようであれば定期的に眼鏡をその時の見え方に合わせて作り直す必要があるかもしれません」
対処療法という訳か。
「弊害は目が悪くなるだけですか?」
京子の質問に医師が応えた。
「症例が極端に少ないので何とも言えません。ですから、どんなトラブルが発生するかも分かりません。これは私の予想ですが、眼鏡をした時と外した時とで物の見え方がまるで違ってきますから、偏頭痛や肩凝りなどが起こるかもしれません。加えて色に対する変化に上手く順応できるか、これは脳の働き具合によりますが、どちらが本物でどちらが偽物なのか、判断がつかなくなるかもしれません」
人間が得る情報の約七割が視覚情報だと聞いた事がある。その七割が眼鏡一つでAにもなりBにもなるのだから、幼い葉月にはどちらが真でどちらが偽であるかの判断がつかないだろう。
しかし、実社会の生活において、物が見えるのと見えないとでは雲泥の差がある。葉月の場合は見えはするがどちらの情報が正しいのか判断を迫られるということか。
例えば信号の色。歩行者用であればピクトグラムが書いてあるから光っている方を見れば赤か青か(正確には緑か)判定がつくが、車の運転ではそうはいかない。そもそも葉月が信号の色の明滅が正しく感受できるかどうかも疑わしい。
これが単純に弱視や色弱なら今度どういった教育をしていけば良いのか、親としてどう行動すべきか、いくらでも先例があるから(こう言ってはなんだが)その判断は楽だ。
しかし葉月の場合は確かに見えているのだ。
ただ見えている色の種類が人と違っているに過ぎない。
こんな話を思い出した。
普通の人の聞こえる音の周波数は大体20Hzから20kHzだ。だがその人は30kHzまでクリアに聞こえてしまっていたそうだ。可聴範囲が広いのだから良いじゃないか、とも思われるが、本人はそうではなかった。普通、聞こえない音まで聞こえてしまうため、どこへ行っても煩すぎて仕方ない、という事だった。
これは葉月にも良い当てはまるのではなかろうか。
紫外線が見えるという事は、人よりも眩しく感じるであろうし、そのため目の疲労も人並みではなかろう。つまり、見る事そのものが苦痛になりはしないだろうか。人間が感じ取る約七割の情報を「煩い」と感じるのは生活していく上にとって大変な疲労を齎すだろう。
私は葉月に訊いてみた。
「はっちゃん、眼鏡する?」
「メガネ?」
「物が見えやすくなるんだってさ」
「いらない」
意外な返答だった。
「なんで?」
「今でもちゃんと見えてるから」
「それがね、はっちゃんが見えてるのは、普通の人と違うものなんだってさ」
「じゃあ、もっといらない」
「どうして?」
「どうしてみんなと一緒じゃないといけないの? はっちゃん、ちゃんと見えてるもん。いろんな色、見えてるし、ちゃんと誰なのかも分かるし、物もちゃんと見えてるもん。みんなと一緒じゃなくても大丈夫だもん」
葉月はそういった自覚はないのだろうが、自分の体に己のアイデンティティーを覚っているのだろう。しかし、それが成長に合わせて変化もするだろうし、社会人ともなればまた考え方も変わってくるに違いない。
ここは本人の希望に合わせて、その偏光グラスを今すぐ用いるのは止めにしておこう。いつかまた葉月の心変わりがあるやもしれぬ。葉月は自分の目のせいで辛い思いをする時もあるかもしれない。しかし、いくら幼児とはいえ親がその症状を「改善」という名目で強制するのは憚られた。
京子の膝の上で葉月は京子にしがみついた。恐らく葉月は産んでくれたそのままの状態でいることが母親への敬意でありそれが自分の持って産まれた天賦の才能でもあるかのように思っているのだろう。
その才を父親が理解していない。そう直感したのだ。
葉月には葉月の人生がある。その視覚のせいで今後の人生がどうなるのか、いやきっとそのままなら茨の道を行くのだろうが、それを救済する術はあるのだ。
それならその時になって治療しても遅くはないだろう。
親子とは言え別個の人間なのだ。葉月には葉月の選択があり、葉月の将来がある。
私は葉月が成長していくに従って、その選択も変化するかもしれない。その時になればまた違った判断を下してもおかしくない。
私は葉月の結論を尊重する事にした。何故ならそれは葉月が自分のために下した判断なのだから。
可視光線波長タイプ:青 @wlm6223
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