第27話 模擬戦
見えていた動きを見失う事がある。
上下左右の動きが小さいときと、初速と終速の差が小さいときがそうである。
野球で言えば、前者が直球で後者がジャイロボールだ。
「つってもわかんないかな。野球とかあんま見ないよね?」
問うリヒトの表情は、顔の造りこそ女性的にはなっているものの、いつも通りの薄笑みだ。呼吸にも心拍にも、服装にすらも乱れはない。
ただ、その手のひらにはエレナの右耳が載せられていた。
(目突きだ)
エレナは自分が何をされ、どう反応したのかを理解していた。
(目突きを受けた私は、横にとんでかわそうとした。でもかわしきれなかった。リヒトの指先が私の耳をひっかけて、引きちぎったんだ)
では、何故かわしきれなかったのか。その術理をエレナは知っている。
「無拍子……」
「お! よく知ってるね」
リヒトが笑った。屈託のない笑みは、女性となった今こそ映えていた。
「膝の力を抜いて、体が沈む勢いに任せて動く。等速直線運動っぽくなるんで、相手からすると反応が難しい。まあテクニックとしてはありふれてるんだけど、磨き抜けば光る技ですよ」
言いながら、リヒトは耳を投げつけた。
「くっつけなよ」
エレナはリヒトから視線を切らず、一分の隙も見せず、ゆっくりと屈む。そして、千切れた耳を傷口に押し当てた。
魔術による身体強化の初歩として、自然治癒力の向上がある。エレナほどの実力者であれば、千切れたばかりの耳を癒合する程度は簡単だった。
エレナは肩で耳を固定しつつ、ゆっくりと構える。その様子を眺め、リヒトは満足げに微笑んだ。
「……それでいい。隙を見せたら仕掛けるつもりだったよ」
言いながら、散歩するような足取りでエレナへ迫る。エレナは拳を握りしめ、息を整える。
「はじめは動画にするつもりだったんだ。そのときに男の姿のまま君を殴ると映りが悪いんで、こうやって女体化した。で、どうせならと思って各種身体情報を君と同一化した。パパっと終わらせるつもりだったんだけど……君の伸び代は想像以上だ。楽しくなってきちゃったから動画は無しにしよう」
エレナは肩の力を抜き、構え直す。違和感こそあるものの、耳は治った。痛覚も五感も備わった幻覚の世界。ここで死んだらどうなるのだろうか。エレナはそれを考えずにはいられなかった。
「心配しなくても、死んだら現実で目覚めるだけだよ。それを終了条件にしよう。あと、ギブアップも認める。僕は【電脳】をこの空間の維持のためだけに使う。攻防のためには使わない。【変身】による身体強化も行わない。君に傷つけられても『
合理的な提案だ、とエレナは思った。
リヒトの体からは魔力が漏れ出ない。通常の魔物や魔術士であれば、スキルの発動から身体強化、果ては感情の揺らぎに至るまで、戦闘中のあらゆるタイミングで大なり小なり魔力が漏れる。それを観察するのが、エレナの癖になっている。
裏を返せば、魔力を漏らさない敵への対応に手間取る。魔人を相手にする事を踏まえれば、悪癖とすら言える。
魔力漏出の無いリヒトと戦えば、その悪癖を直せるだろう。
エレナは静かにリヒトを見つめ返した。その瞳には冷たい火が灯っていた。
合理的な提案ではあるが、リヒト側の縛りが多すぎるように感じられた。
「……随分と低く見られたものね」
「だといいんだけど」
気の抜けた応答が、開戦の合図となった。
エレナの魔力が溢れる。リヒトが動き出す。接近より早く、おびただしい数の氷柱が空中に装填された。
「景気いいねぇ!」
斉射。
飛び交う氷の矢を、リヒトは不規則な走法でかわす。
(この矢に追尾機能は無い。単に射出されてるだけだ。生き物の形をしてない氷は自律的には動かせないんだね)
的を絞らせないように動きつつ、リヒトはエレナへ迫っていく。
対するエレナは注意深く観察する。
(やっぱり近づいてきた。【変身】に遠距離攻撃は無いものね。正直体術で組み伏せてやりたいけど、わざわざ相手の土俵に立つのはバカバカしいわ。距離を保って勝負する)
かわしながら近づいてくるリヒトが手を振った。付着していた血液がエレナの顔へ飛ぶ。
(距離を──)
エレナはわずかに顔をそむけた。
(保って──)
向き直るより早く、リヒトは徒手の間合いに潜り込んでいた。
無拍子。
(疾い!)
中段突き。エレナは腕を交差して受ける。重い。岩が落ちてくるのを受けたようだった。
「ナァ〜イス」
痺れを感じる間も無く、第二撃が顔へ。エレナは上体を逸らしつつ左手で受け止める。そのまま両手でリヒトの腕を掴んだ。
凍結が始まる。
リヒトが身をよじる。エレナは放さない。それが
ミドルキックがエレナの五臓六腑に響いた。咳き込み後退るエレナの膝を、リヒトの横蹴りが踏み抜く。痛みに息を呑む。骨は無事だが靭帯を損傷した。
リヒトは膝に置いた足を引き戻さず、
(骨砕いちゃお)
しかし、踏んだのは地面だった。エレナは膝を曲げ足を引いていた。引いた足をリヒトの足に絡め、押し倒そうとする。
(テイクダウン──そりゃそうか。触れたものを凍らせるんなら、立技よりも寝技だよな)
得心しつつ、踏みとどまる。既に絡め取られた脚がが凍結し始めている。
エレナは勝機と感じたが、油断はしない。重心を巧みに操り、リヒトを逃すまいとする。
刹那、視界が爆ぜた。
リヒトの肘が、エレナの顎を打ち上げていた。
脳震盪に瞳の焦点がブレる中、エレナはリヒトを睨む。
リヒトはいつも通りの表情のまま、自らの額をエレナの鼻面へ思い切りぶつけた。
頭突き。
最も簡単で、最も威力の高い打撃。
ふたりの顔が鮮血に塗れる。
エレナの鼻骨が砕けた。
が、
(倒れない! 負けん気強いなぁ)
感嘆するリヒトを余所に、エレナはリヒトの襟を掴む。絞め技をかけながら、凍結を続ける。
(このまま押し切る)
そう思ったエレナの
(寸勁──!)
遠のく意識で答えに辿り着く。しかし体は崩折れる。下がる頭を、リヒトの爪先が蹴り上げようとする。
その動きが止まった。隙を逃さずエレナが飛び退く。
仕切り直しだ。
リヒトが蹴り足を眺める。爪先が少しだけ凍っている。エレナの手元を見る。氷の短剣が握られていた。
「……凍結の効果発動条件は『肌との接触』じゃなかったっけ」
「あなたが勝手に勘違いしたんでしょう? 正しくは『体との接触』よ。……私はこの短剣を自分の体の一部みたいに操れる。だから、この短剣に触れても凍るわよ」
「いいね! 拡大解釈こそスキルの成長だ。君やっぱセンスあるよ」
エレナは答えない。短剣をリヒトに向けたまま、よろけつつも立ち上がる。
「……それでいい」
リヒトは静かに言った。
「近接戦で僕みたいに素手にこだわる必要は無い。刃物を使えるなら絶対に使った方が良い。通常技がガード不能になるんだから。……近距離になった時点でそれを使えば良かったのに。言ったろ、『殺す気で』って」
「軽々しく言わないでよ!」
「重々しいと思えないんだよね」
答えるリヒトの声には、真剣な戸惑いが含まれていた。
「この練習で君は強くなる。この幻覚の中で僕が死んでも、現実の僕はノーダメージ。何を重くとらえる必要があるの?」
エレナは答えない。彼女の美貌は、複雑な感情に歪んでいた。
ごく短時間ながらも、濃密な攻防だった。触れ合いは時に、言葉を尽くしての語り合いよりも多くの事を伝える。
リヒトの技は優れていた。本当に優れていた。その裏側にある経験の豊富さに、思いを馳せずにはいられなかった。
経験。
殺人の経験。
私と同い年の彼は、何人を殺したのだろう。何を思って殺したのだろう。どんな顔をして殺したのだろうか。
思いを馳せずにはいられなかった。
「余計なことを考えちゃいけないよ」
リヒトの声は諭すようだった。
「もう始まってるんだから。今は勝つことだけ考えなきゃ」
エレナは短剣の柄を握り直した。
「……私が勝ったら、あなたの過去について教えて」
リヒトの表情が硬直した。そして、目を細めた。
「いいよ。じゃあ、僕が勝ったら──」
言い終わる前に、エレナが肉薄した。
突き。ジャブのラッシュの要領で、十を超える刺突が一瞬の内に放たれる。そのことごとくが、リヒトを透り抜けたように見えた。
錯覚だ。最小限の動作でかわされているがゆえにそう見えるだけだ。
しかし、それほどの技量差があるのは事実だった。
歩幅や腕の長さ、刃長から大まかな間合いを測り、体の捻りや踏み込みを見て微修正。視線や呼吸からタイミングを見計らう。
結果、ミリメートル単位での見切りが可能となる。相手よりも細かく動くことで、相手の隙を突きやすくなる。
エレナが短剣を振りかぶるより早く、リヒトは拳を振りかぶっていた。
(これが五分の見切り──そこを突く)
振りかぶった短剣の刃が、エレナの背後で伸びる。
(成形後の伸延! これはちょっと予想外……)
リヒトがとっさに飛び退く。しかし、ぎりぎりを攻めていたのが災いした。
(逃げ──きれない!)
切っ先がリヒトの鼠径部を裂いた。
ダメージ自体は小さい。が、鼠径部が凍ったためその先の脚が動かせない。
逃げられない。
エレナは長剣と化した氷の剣を薙ぎ払った。
空を切った。
リヒトの脚は凍ったまま、切り落とされ放置されていた。
自切。
トカゲの尻尾のように切り捨てたのだ。
ここに来て、リヒトは【変身】の新たな応用法を披露した。
無瑕疵化にて瞬時に脚を生やし、リヒトが迫りくる。エレナが構え直す。リヒトは切り捨てた脚に触れる。脚が消える。リヒトの手には白い剣が握られていた。
白い剣が振り下ろされる。氷の剣で受け止めた。
「生まれつき手足が無い人もいるからね。そういう姿に変身することも、もちろんできる。……特定の部位を無くすときは、『自切』の他に、細胞単位で消滅させる『自壊』がある。自切した脚の大腿骨以外を自壊させて、研ぎ澄ますように自壊を繰り返せば、骨の剣を造れるってワケ」
リヒトがさらに力を込める。エレナはじりじりと押される。負けじと押し返す。
「それ、ほとんど別のスキルみたいなものじゃない!? というか、無瑕疵化は使わないんじゃなかったかしら?」
「『君に傷つけられても』ってちゃんと言ったろ。僕が自分で切り落としたのを無瑕疵化で元に戻すぶんにはルールの範疇だ」
「減らず口!」
「光栄だよ」
言い合いつつ、エレナは自らを押し込んでいく。刃ではなく、自らの体を。柄を握る両者の手が触れ合った。
凍結が始まった。
「もう迷わないわ。あなたが引いたら叩き切る。引かないならこのまま凍らせる。だから、あなたのことを教えなさい」
静かながらも力強い言葉に、リヒトは微笑んで返した。
「喜んで。じゃ、最初に君に見せた技を使おうかな」
言うや否や、骨の剣から手を放す。エレナは一瞬だけ自失したが、すぐさま氷の剣を振り下ろす。その剣速より疾く、リヒトの手がエレナの頭に触れた。
脳をミキサーにかけられたような感覚。
シバリング。
特定部位を超高速で震動させる技。
リヒトがエレナに見せた、最初の技だった。
(攻撃にも使えたなんて……)
敗北を悟ったエレナの意識は、そこで絶たれた。
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