第23話 眠れる者と目覚める者

「前哨戦は、こっちの勝ちだよ」


 血塗れの顔で、リヒトは笑った。その身を抱えるエレナは、ある異常に気付いた。


「リヒト、あなた……ひどい熱!」


 なぎがスキルを用い、リヒトのバイタルを確認する。


「脳温度が46℃を超えてる。過剰使用によるオーバーヒート──!」


 凪は焦燥に唇を噛んだ。

 魔力によって強化された肉体がいくら頑丈だと言っても、限度はある。ましてや脳の物理的耐久限界は、多くの場合は非術士とそう変わらない。


 しかしリヒトは、気怠げに笑うのみだった。


「寝てりゃ治るよ。それより、ハスラウの位置情報の特定を……」


いな


 アニマの声には、有無を言わせぬ威厳があった。


「脳の過熱は後が怖い。今は回復を優先する。エレナよ、主様の頭を冷やしてたも。そなたであればたやすかろ」


「わかった!」


 即応するエレナに、リヒトはちらりと視線を向けた。


「膝枕で気道確保してよ、せっかくだし……」


 聞くや否や、エレナは制服のスカート裾を勢いよくたくし上げ、すぐさまリヒトの頭を乗せた。


 エレナのスキルによる冷却は、肌での接触を効果発動条件とする。合理的な選択ではあった。


 膝の上のリヒトの頭を両手で包み、必死に冷却する。


 リヒトは薄く笑った。


「そこは突っ込んでよ、『セクハラだ』って。調子狂うよ……」


「そんなこと言えないわよこんなときにっ!」


「ごめんて。冗談のセンスが鈍ったかな……」


 彼の表情はいつもどおりだったが、呼吸音は小さく、隙間風のようだった。


 エレナの脳裏に、12年前の記憶が過ぎった。今なお氷漬けのまま眠る父の姿が、眼の前の少年と一瞬だけ重なった。


 嫌な想像を掻き消すように声を上げる。


「どうしてこんなこと──!」


「勘違いしてない? ただ【電脳】の応用法を試したかったのと、ハスラウの位置を知りたかったのが理由だよ。君のためとかじゃ、ないから……」


「してないわよ、そんな勘違い」


「ごめんって。泣かないでよ」


「泣いてないし!」


 込み上げたような声を聞き、リヒトは苦笑した。


柳楽やぎらさん……。ダンジョンの入口まで、後どのくらいですか?」


「5分くらいだよ」


「じゃあ、着いて潜ったら今後の話を……」


「いーや、リヒトくんは寝てな。これはドクターストップです」


「でも……」


「何かあればすぐにわらわが起こそうぞ。ほとぼりが覚めるまで眠ってたも」


「…そうか。ありがとう」


 リヒトは瞬きを繰り返す。目蓋を閉じてから開くまでの時間が、だんだんと増していく。


「じゃあ少し、お言葉に、甘えるよ……」


 そして、眠りについた。





 目を覚ましたハスラウが最初に見たのは、青空を飛ぶ雲雀ヒバリの姿だった。が、雲雀は進行方向とは逆の方に流れ、視界の外へ消えていく。


 ハスラウ自身が移動しているゆえだった。


「ここは……?」


「隠蔽結界の中です。空を飛んでいます」


 先生が答えた。ハスラウが体を起こす。背を向けて立つ先生が一瞥する。が、すぐに向き直った。


「現在、逃走中です」


 平坦な口調で、端的に言った。


「いくら隠蔽結界と言えど、このように移動していては、微細な痕跡はどうしても残るでしょう。しかし、すぐに見つかることはまず有り得ませんので、そこは安心して大丈夫です。セーフハウスに辿り着くまでは窮屈で退屈でしょうが、まあ、気長に待ってください」


 ハスラウはぼんやりと辺りを見回す。景色が流れていくのがよく見える。手を伸ばすと、透明な壁に触れた。どうやら結界は、直方体であるらしい。

 下を見る。見知った風景ではない。奥多摩町の山間部からは、既にだいぶ離れているらしい。


「仔羊の輪の本部は、大聖堂は……」


「破棄します」


 ハスラウの小さな声に、先生は即答した。


「貴方の通信経路を結界術にて強制遮断した際に、私の魔力が漏れました。隠蔽結界内での魔術行使だったとは言え、大きな手がかりになってしまったでしょう。あの場所に留まる理由は最早ありません」


 元より動き出すつもりでしたからね、と先生は付け加えた。


 ハスラウは応えない。ハスラウは、自らの記憶を反芻している。気絶からの覚醒で混乱した意識に、断片的な記憶が、少しずつ蘇ってくる。


 声が、言葉が、光景が、苦痛が、屈辱が、敗北感が、蘇ってくる。


『「何やってんだよ」はお前だ間抜け』


『せっかくだから、殺してやるよ』


『魔人が殺気にビビったか』


『逃げろよ! いつもみたいに無様に!』


『逃げろって! 尻尾巻いて逃げ帰れ! 「人間様に殺されかけた」と仲間に伝えろ腰抜け野郎!!』


 リヒトに敗けた記憶が蘇った。


 ハスラウは絶叫し、拳を床に叩きつける。何度も何度も叩きつける。


 結界は強く、揺るがない。ハスラウの手から血が流れた。


 ハスラウの息が荒くなる。疲労からではない。怒りからだ。もとい、怒りを超えた殺意からだ。


「殺す……」


 先生が何かを感じ取り、ゆっくりと振り向いた。うずくまっていたハスラウが、よろけながら立ち上がる。


「殺す、殺す、殺す殺す殺す! あの野郎、絶対に殺してやる!!」


(ほう、やはり……)


 先生はハスラウを見つめ、目を細めた。


(私の仮説は正しかったようですね)


 信者同士を洗脳し、殺し合わせることで得た知見。精神的負荷が潜在魔力量を増加させるという発見。


 それは何も人間に限った話ではない。


 今、ハスラウの潜在魔力量は、目に見えて増加していた。


 そして恐らく、。先生はさらなる大志を抱いていた。


(魔術とはイメージに依拠する。数合理人という人格破綻者の存在を知った今、ハスラウが抱く人間のイメージは大きく変化したはず。魔人である自己に対するイメージも、魔術というものに関するイメージも、大きく変化したでしょう……パラダイムシフトによるスキルの拡張を、うまくいけば目の当たりにできそうです)


 予想以上の結果に、先生は笑みを隠しきれない。


(ダメだ……。まだ笑ってはいけない。ハスラウに余計な影響を与えたくはない)


 口の中を噛み、こらえる。滲む血の味すら祝福の美酒に思えた。


「先生」


 ハスラウが呼びかける。先生は平静を装い、アイコンタクトで続きを促す。


「ボク、なんでもする。もっと強くしてよ。……数合理人の殺し方を教えて」


 先生は驚喜に目を見開き、慌てて目を閉じ、喜色を抑えて静かに頷いた。


「ええ。私に教えられることなら、なんでも教授しましょう」


 そして、顔をほころばせた。


(……リヒト。前哨戦は貴方の勝ちです。貴方はハスラウの技を盗んで打ち負かし、我々へ通じる端緒を掴んだ。相も変わらぬ逸脱ぶりです。しかし、異類の成長性は貴方の専売特許ではない。すぐに一矢報いてみせますよ)


 笑顔を浮かべる先生。その笑みの真意に、ハスラウは気付けなかった。












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