第21話 魔人ハスラウ
「ひさしぶりだね、リヒト」
魔人ハスラウがそこに居た。
(幻覚だ)
リヒトは即断した。
今、リヒトは
加えて、すぐそばに座っている凪とエレナが反応していない。リヒトの異変に戸惑うのみだ。ハスラウはふたりには見えても聞こえてもいない。
これはハスラウのスキルによる幻覚だ。魅了の魔眼によって、視聴覚情報を脳に流し込まれているのだ。
先ほど感じた頭部を貫かれるような感覚は、ハスラウによる脳髄へのアクセスを【電脳】によって知覚した際のものだ。
リヒトはそう理解した。
「君からするとそうなのかな、ハスラウ」
返答と同時並行で推理し続ける。
ハスラウにこちらの位置が割れているか?
ハスラウからはエレナと凪が見えているか?
ハスラウはこの通信において主導権を握っているか?
【電脳】は魅了の魔眼と共通した部分がある。故に、スキルの仕様や限界をある程度まで直感的に理解できる。ハスラウには攻撃の意志も手段も無い。リヒトはそう判断した。
そして、アニマに念話で伝言を頼んだ。
「主様はスキルを駆使して魔人ハスラウと会話しておる。こちらの状況はハスラウには見えも聞こえもせん。主様は自分が見聞きしている光景を
エレナと凪が顔を見合わせる。そして、決意に満ちた顔で頷いた。
「その意気や良し!」
アニマが小さな両手を打ち鳴らす。破裂音とともに、エレナと凪の視界にもリヒトの前に立つハスラウの姿が現われた。
「こいつが……!」
エレナが震える声で言う。
「ハスラウ──!」
凪が低い声で言った。
リヒトが映像を共有したため、先刻からリヒトの脳を通じてほんの
と言っても、まさしく僅差である。例えるならば、大気中の二酸化炭素濃度が、ほんの数千分の一だけ高まったようなものだ。
しかし、人体はその僅かな差を鋭敏に感じ取る。
リヒトの脳から漏れ出るハスラウの魔力は、現在、エレナと凪の認知閾値に達していた。
ふたりは漏出魔力からハスラウの力量を測ろうとした。
測りきれなかった。
エレナは動けない。完全に放心していた。体温・心拍数・呼吸数が低下している。擬死反射に酷似した状態だ。蛇に睨まれた蛙のように、捕食者に襲われた被食者は死に真似をする場合がある。それが無意識的に行われる場合、擬死反射と呼ばれる。
それほど絶対的な力量差が、エレナとハスラウにはあった。
エレナは目眩に襲われ、座位から背後へ倒れそうになる。その肩を、凪がしっかり抱きとめた。
「大丈夫だよ、エレナ。大丈夫……」
繰り返す凪の口調は
凪の全身は汗でしとどに濡れていた。極度の恐怖から来る精神性発汗で、しとどに濡れていた。
額から流れ落ちる冷や汗が目に入る。それでも凪は目を閉じなかった。閉じられなかった。ハスラウの幻影から目を逸らせなかった。
目を逸らしたら最後、全てを喪ってしまうかのような錯覚があった。
(マジか……。ここまで差があるもんなのかよ。覚悟はしてたけど、ちょっとイヤになってくるな……)
エレナの肩を抱く凪の腕に、自然と力が籠もった。
「大丈夫じゃ」
アニマが言った。
落ち着いていて、力強い声だった。
「主様と妾がおる。恐れる事など何ひとつ無い」
アニマに
「そっかー、キミからするとひさしぶりって感じはしないんだ」
ハスラウが声を上げた。その声色は依然として軽やかだった。
「そういやリヒトはこっち来たばっかだったね。ボクらはもう10年以上いるからさ。……ってか動画見たときはビックリしたよ。今さら帰ってくるとは思ってなかったから」
(やっぱ軽率だなコイツ。通信を維持して正解だった)
ハスラウは自分から、10年以上現世に滞在していることと、徒党を組んでいることを明かした。
このまま引き出せるだけの情報を引き出す。リヒトはそう決めた。
「しかし笑えるなぁ。暗殺者から配信者への転職って! 『不死身の死神』が丸くなっちゃったもんだね。もう魔物狩りに専念するのかな。人殺しは廃業?」
リヒトは答えない。
アニマも、凪もエレナも、誰も何も言わなかった。
予想していたことだ。
いつか誰かに指摘されるはずだったことが、たった今ハスラウに指摘された。
ただ、それだけのことだった。
ハスラウは沈黙するリヒトを前に、小首を傾げる。
「あれ? ……あー、そっかそっか。ニンゲンの群れでは同種殺しが嫌がられてるんだよね。でも意外だなぁ。キミはそんなん気にしないタイプだと思ってたよ。命とか善悪とかどーでもいいって感じじゃん? そのへんボクらと似てて好きだなーって思ってたんだよね」
「あぁ、そう。そりゃどうも」
「えー、なんか塩対応? あ! わかった! 自分が人殺しだってエレナちゃんに知られるの嫌なんでしょ! いま近くにいて話の内容を聞かれたから怒ってるんだ! そーでしょ絶対!」
はしゃぐハスラウを、リヒトは淡々と
「いいや。彼女はまだ寝てるよ。疲れてたからね」
「えー、ホントかなぁ。キミは嘘がうまいからなぁ。ま、いいや。しかし、いーよねーエレナちゃん。顔も体も、声も心も、全部が綺麗だ。特に目が綺麗だよね。ラピスラズリみたいで、すっごく綺麗。フラルゴに殺させる予定だったけど、もうフラルゴ殺されちゃったし、好きにしていいのかな? いいよね、きっと。いやダメなのかな? でもしたいなぁ。う〜、したいしたい……」
ハスラウは顎に手を当て、うんうん唸る。そして唐突に手を鳴らした。
「よし、決めた! エレナちゃん殺す! 両目を口に入れて、キャンディみたいにころころするんだ。絶対に幸せだよ!」
ひ、と短い悲鳴が響いた。エレナの声だった。彼女は自身を抱くようにして、震えを必死にこらえようとしていた。
リヒトはその様を見ない。振り向いて確認しようとしない。その必要は無いと考えていた。
「できないよ、そんなこと」
「できるよ?」
ハスラウがまた小首を傾げた。面布が少しだけめくれ、薄桃色の唇と真っ白な犬歯が除いた。
ハスラウは笑っていた。
同時、漏出する魔力の質が変わった。禍々しい殺気が毒霧のように纏わりつく。
凪とエレナは、そんな錯覚に襲われた。
「キミも予想ついてるんでしょ? ボクらはすぐに動くよ。地上で思いっきり暴れまわって、大勢の人を殺して食べるよ。戦いが長引けば、準A級のエレナちゃんにだって声がかかるでしょ。もしそうならなかったら、邪魔者を全員殺してからゆっくり探すよ」
ハスラウが笑い声を漏らした。子どもが友だちと談笑するような、気安い笑い声だった。
「楽しみだなぁ。時間はかかっちゃうかもだけど、きっとそのぶん美味しいよね。空腹は最高のスパイスらしいよ。あ、そうだ! ニンゲンは脳に、精神的フカ? をかけると味が良くなるんだよ! エレナちゃんの仲間の死体でお山を作って、エレナちゃんと一緒にそれを眺めながら、エレナちゃんを解体しよう! 絶対に最高の味になるよ!」
「だから、できないんだよそんなことは」
「だからぁ、できるんだってば。ま、言い合うつもりはないよ。2、3週間もすればわかることだからね。じゃ、そのときまた会おうね」
言って、ハスラウは
「エレナちゃんによろしくねー」
去り行くハスラウの足取りが、止まった。
頭がチクチクと痛む。こめかみを針先で突かれているような、小さいながらも鬱陶しい痛みだった。
リヒトが何らかの干渉をしているらしい。
「えー、なにしてんのぉ? ボク、一応いそがしーんだけどなー」
振り向いたハスラウに、リヒトは反応を示さず。ハスラウは呆れて嘆息する。
「情報を抜こうとしてんの? 無駄だよ。キミはよちよち歩きのヒヨコで、僕は悠久の空を飛ぶフェニックス! キミのスキルで僕の脳に干渉なんて──」
「手本が欲しかったんだよな」
リヒトの言葉は独語めいていた。
「デジタルデータと心的表象を『電子情報』として同様に扱う。そのイメージが中々うまくできなかった」
「なに言ってんの?」
「時間かかるのは仕方ないと思ってたけど、ちょうどよく君が来て、ほいほい手本を見せてくれた」
語るリヒトから送り込まれる情報が、少しずつハスラウの脳を刺激している。爪の先でなぞるように。ハッカーがセキュリティの脆弱性を探るように。
「……なにしてんの?」
「強化ガラスでも、ヒビさえ入れば案外簡単に割れる。いや、この場合はフット・イン・ザ・ドアが近いかな? まあともかく──」
リヒトが薄ら笑いを浮かべる。その瞳は驚くほど澄み渡った、宵闇のような黒色だった。
死ぬ間際の被食者しか知らぬ事実である────獲物を追い詰めた捕食者は、信じ難いほど静かな瞳をするものだ。
「これは、お前の落ち度だ」
堤防が決壊した。
リヒトの心的表象が、奔流となってハスラウの脳内に雪崩込む。ハスラウが構築した通信経路を通じて、ハスラウの脳を侵食している。
明確な攻撃だった。
「お、オマエ、なにしてるんだ……オイ! なにしてんだよ!」
狼狽するハスラウ。
リヒトは答えない。
「なんなんだよ!!」
リヒトは答えない。その頬が徐々に緩む。
「なにやってんだよ!!!」
リヒトは声を上げて笑った。
「『何やってんだよ』はお前だ間抜け。誰の仲間狙ってんだよ」
彼の笑顔は平時とは異なっていた。牙を剥く攻撃性を隠そうとすらしていなかった。
「言ったろ? 『そんなことはできない』って。あれはこういう意味だよ。──死神と再会したんだ。そのまま帰っちゃもったいない。せっかくだから、殺してやるよ」
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