第21話 魔人ハスラウ

「ひさしぶりだね、リヒト」


 魔人ハスラウがそこに居た。


(幻覚だ)


 リヒトは即断した。

 今、リヒトはなぎが使役する蝶の群れに載せられて移動中。速度は決して遅くない。ハスラウが実際に追跡しているとすれば、魔力の気配がしないのは不自然。


 加えて、すぐそばに座っている凪とエレナが反応していない。リヒトの異変に戸惑うのみだ。ハスラウはふたりには見えても聞こえてもいない。


 これはハスラウのスキルによる幻覚だ。魅了の魔眼によって、視聴覚情報を脳に流し込まれているのだ。


 先ほど感じた頭部を貫かれるような感覚は、ハスラウによる脳髄へのアクセスを【電脳】によって知覚した際のものだ。


 リヒトはそう理解した。


「君からするとそうなのかな、ハスラウ」


 返答と同時並行で推理し続ける。


 ハスラウにこちらの位置が割れているか?

 ノー。今はあくまで視聴覚情報を送り合っているだけ。リヒトがアクセス情報からハスラウの存在を特定したように、ハスラウもまたアクセス情報からリヒトを特定したのだ。ビデオ通話と同様である。両者ともに同等の通信経路隠蔽能力を有している。スキルによる位置情報の特定は不可能だ。


 ハスラウからはエレナと凪が見えているか?

 ノー。リヒトは自らの視聴覚情報のうち、適切な部分を選り分けてハスラウに送っている。エレナと凪についての情報は一切送っていない。


 ハスラウはこの通信において主導権を握っているか?

 ノー。リヒトが拒めば即座にこの通信は切れる。今は情報収集のために接続を維持しているだけだ。この通信は、双方の同意によって成り立っている。


 【電脳】は魅了の魔眼と共通した部分がある。故に、スキルの仕様や限界をある程度まで直感的に理解できる。ハスラウには攻撃の意志も手段も無い。リヒトはそう判断した。


 そして、アニマに念話で伝言を頼んだ。


「主様はスキルを駆使して魔人ハスラウと会話しておる。こちらの状況はハスラウには見えも聞こえもせん。主様は自分が見聞きしている光景をうぬらにも共有すべきか、と問うておる。どうする?」


 エレナと凪が顔を見合わせる。そして、決意に満ちた顔で頷いた。


「その意気や良し!」


 アニマが小さな両手を打ち鳴らす。破裂音とともに、エレナと凪の視界にもリヒトの前に立つハスラウの姿が現われた。


「こいつが……!」


 エレナが震える声で言う。


「ハスラウ──!」


 凪が低い声で言った。


 リヒトが映像を共有したため、先刻からリヒトの脳を通じてほんのわずかに漏れ出していたハスラウの魔力が、その漏出量を微増させた。

 と言っても、まさしく僅差である。例えるならば、大気中の二酸化炭素濃度が、ほんの数千分の一だけ高まったようなものだ。


 しかし、人体はその僅かな差を鋭敏に感じ取る。


 リヒトの脳から漏れ出るハスラウの魔力は、現在、エレナと凪の認知閾値に達していた。


 ふたりは漏出魔力からハスラウの力量を測ろうとした。




 測りきれなかった。


 エレナは動けない。完全に放心していた。体温・心拍数・呼吸数が低下している。擬死反射に酷似した状態だ。蛇に睨まれた蛙のように、捕食者に襲われた被食者は死に真似をする場合がある。それが無意識的に行われる場合、擬死反射と呼ばれる。


 天花寺てんげいじエレナの生存本能が、個体の自我を没却して死に真似を強制した。


 それほど絶対的な力量差が、エレナとハスラウにはあった。


 エレナは目眩に襲われ、座位から背後へ倒れそうになる。その肩を、凪がしっかり抱きとめた。


「大丈夫だよ、エレナ。大丈夫……」


 繰り返す凪の口調は譫言うわごとのようにも、自己暗示のようにも聞こえた。凪自身もそれを自覚していた。


 凪の全身は汗でしとどに濡れていた。極度の恐怖から来る精神性発汗で、しとどに濡れていた。


 額から流れ落ちる冷や汗が目に入る。それでも凪は目を閉じなかった。閉じられなかった。ハスラウの幻影から目を逸らせなかった。


 目を逸らしたら最後、全てを喪ってしまうかのような錯覚があった。


(マジか……。ここまで差があるもんなのかよ。覚悟はしてたけど、ちょっとイヤになってくるな……)


 エレナの肩を抱く凪の腕に、自然と力が籠もった。


「大丈夫じゃ」


 アニマが言った。

 落ち着いていて、力強い声だった。


「主様と妾がおる。恐れる事など何ひとつ無い」


 アニマにならい、リヒトへと視線を向ける。不動の立ち姿には、一片の動揺も無かった。


「そっかー、キミからするとひさしぶりって感じはしないんだ」


 ハスラウが声を上げた。その声色は依然として軽やかだった。


「そういやリヒトはこっち来たばっかだったね。ボクらはもう10年以上いるからさ。……ってか動画見たときはビックリしたよ。今さら帰ってくるとは思ってなかったから」


(やっぱ軽率だなコイツ。通信を維持して正解だった)


 ハスラウは自分から、10年以上現世に滞在していることと、徒党を組んでいることを明かした。

 このまま引き出せるだけの情報を引き出す。リヒトはそう決めた。


「しかし笑えるなぁ。暗殺者から配信者への転職って! 『不死身の死神』が丸くなっちゃったもんだね。もう魔物狩りに専念するのかな。人殺しは廃業?」


 リヒトは答えない。

 アニマも、凪もエレナも、誰も何も言わなかった。


 予想していたことだ。

 いつか誰かに指摘されるはずだったことが、たった今ハスラウに指摘された。


 ただ、それだけのことだった。


 ハスラウは沈黙するリヒトを前に、小首を傾げる。


「あれ? ……あー、そっかそっか。ニンゲンの群れでは同種殺しが嫌がられてるんだよね。でも意外だなぁ。キミはそんなん気にしないタイプだと思ってたよ。命とか善悪とかどーでもいいって感じじゃん? そのへんボクらと似てて好きだなーって思ってたんだよね」


「あぁ、そう。そりゃどうも」


「えー、なんか塩対応? あ! わかった! 自分が人殺しだってエレナちゃんに知られるの嫌なんでしょ! いま近くにいて話の内容を聞かれたから怒ってるんだ! そーでしょ絶対!」


 はしゃぐハスラウを、リヒトは淡々とあざむく。


「いいや。彼女はまだ寝てるよ。疲れてたからね」


「えー、ホントかなぁ。キミは嘘がうまいからなぁ。ま、いいや。しかし、いーよねーエレナちゃん。顔も体も、声も心も、全部が綺麗だ。特に目が綺麗だよね。ラピスラズリみたいで、すっごく綺麗。フラルゴに殺させる予定だったけど、もうフラルゴ殺されちゃったし、好きにしていいのかな? いいよね、きっと。いやダメなのかな? でもしたいなぁ。う〜、したいしたい……」


 ハスラウは顎に手を当て、うんうん唸る。そして唐突に手を鳴らした。


「よし、決めた! エレナちゃん殺す! 両目を口に入れて、キャンディみたいにころころするんだ。絶対に幸せだよ!」 


 ひ、と短い悲鳴が響いた。エレナの声だった。彼女は自身を抱くようにして、震えを必死にこらえようとしていた。


 リヒトはその様を見ない。振り向いて確認しようとしない。その必要は無いと考えていた。


「できないよ、そんなこと」


「できるよ?」


 ハスラウがまた小首を傾げた。面布が少しだけめくれ、薄桃色の唇と真っ白な犬歯が除いた。


 ハスラウは笑っていた。


 同時、漏出する魔力の質が変わった。禍々しい殺気が毒霧のように纏わりつく。


 凪とエレナは、そんな錯覚に襲われた。


「キミも予想ついてるんでしょ? ボクらはすぐに動くよ。地上で思いっきり暴れまわって、大勢の人を殺して食べるよ。戦いが長引けば、準A級のエレナちゃんにだって声がかかるでしょ。もしそうならなかったら、邪魔者を全員殺してからゆっくり探すよ」


 ハスラウが笑い声を漏らした。子どもが友だちと談笑するような、気安い笑い声だった。


「楽しみだなぁ。時間はかかっちゃうかもだけど、きっとそのぶん美味しいよね。空腹は最高のスパイスらしいよ。あ、そうだ! ニンゲンは脳に、精神的フカ? をかけると味が良くなるんだよ! エレナちゃんの仲間の死体でお山を作って、エレナちゃんと一緒にそれを眺めながら、エレナちゃんを解体しよう! 絶対に最高の味になるよ!」


「だから、できないんだよそんなことは」


「だからぁ、できるんだってば。ま、言い合うつもりはないよ。2、3週間もすればわかることだからね。じゃ、そのときまた会おうね」


 言って、ハスラウはきびすを返す。背を向けたまま手を上げ、別れを告げた。


「エレナちゃんによろしくねー」


 去り行くハスラウの足取りが、止まった。

 頭がチクチクと痛む。こめかみを針先で突かれているような、小さいながらも鬱陶しい痛みだった。


 リヒトが何らかの干渉をしているらしい。


「えー、なにしてんのぉ? ボク、一応いそがしーんだけどなー」


 振り向いたハスラウに、リヒトは反応を示さず。ハスラウは呆れて嘆息する。


「情報を抜こうとしてんの? 無駄だよ。キミはよちよち歩きのヒヨコで、僕は悠久の空を飛ぶフェニックス! キミのスキルで僕の脳に干渉なんて──」


「手本が欲しかったんだよな」


 リヒトの言葉は独語めいていた。


「デジタルデータと心的表象を『電子情報』として同様に扱う。そのイメージが中々うまくできなかった」


「なに言ってんの?」


「時間かかるのは仕方ないと思ってたけど、ちょうどよく君が来て、ほいほい手本を見せてくれた」


 語るリヒトから送り込まれる情報が、少しずつハスラウの脳を刺激している。爪の先でなぞるように。ハッカーがセキュリティの脆弱性を探るように。


「……なにしてんの?」


「強化ガラスでも、ヒビさえ入れば案外簡単に割れる。いや、この場合はフット・イン・ザ・ドアが近いかな? まあともかく──」


 リヒトが薄ら笑いを浮かべる。その瞳は驚くほど澄み渡った、宵闇のような黒色だった。

 死ぬ間際の被食者しか知らぬ事実である────獲物を追い詰めた捕食者は、信じ難いほど静かな瞳をするものだ。


「これは、お前の落ち度だ」


 堤防が決壊した。

 リヒトの心的表象が、奔流となってハスラウの脳内に雪崩込む。ハスラウが構築した通信経路を通じて、ハスラウの脳を侵食している。


 明確な攻撃だった。


「お、オマエ、なにしてるんだ……オイ! なにしてんだよ!」


 狼狽するハスラウ。

 リヒトは答えない。


「なんなんだよ!!」


 リヒトは答えない。その頬が徐々に緩む。


「なにやってんだよ!!!」


 リヒトは声を上げて笑った。


「『何やってんだよ』はお前だ間抜け。誰の仲間狙ってんだよ」


 彼の笑顔は平時とは異なっていた。牙を剥く攻撃性を隠そうとすらしていなかった。


「言ったろ? 『そんなことはできない』って。あれはこういう意味だよ。──死神と再会したんだ。そのまま帰っちゃもったいない。せっかくだから、殺してやるよ」






 


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