第16話 満月、エレナの夢

「絶対にすぐ動き出すよ、魔人たちは」


 リヒトの断言の後、数秒間の静寂が訪れる。リビングに響くのは、時計の秒針が刻む小さな音だけだ。


 やがて、エレナが静かに息を吐いた。


「──驚いたわ。ただの力自慢じゃないとは思っていたけれど……ここまでの策士とは思わなかった」


「同じようなことを会長さんにも言われたよ。ま、僕はアサシンだからね。本来はこういう心理戦が専門なんだ」


 リヒトはライトグレーのレザーソファに身を預け、穏やかな声で答えた。そのいずまいは、戦闘時や配信時とは別人のように落ち着いていた。


 こっちが彼の素なのかも、とエレナは感じた。


「そう言えば、そうだったわね」


「そう言えば、ってこたないだろー? 最初から言ってたのに」


 リヒトが笑うと、エレナも薄く微笑んだ。優美な笑顔だったが、何か別の複雑な感情を覆い隠しているようにも見えた。


「……ねえ。あなたは」


 リヒトは黙したまま続きを待つ。エレナはしばし視線を宙に漂わせ、不意に壁掛け時計の方を指さした。


「いつ寝るつもりなの? もう日付が変わっているわ」 


「ん? ああ。そうだね、もう寝室へ行くよ」


「そう。そっちの廊下の突き当りに空いているベッドルームがあるから、そこを使って。じゃ、おやすみなさい」


「うん、おやすみ」


 短く挨拶を返して、リヒトはリビングを後にする。エレナはその背中を見送り、彼が部屋を出ると同時に、深くため息をついた。





 リヒトは長く無機質な廊下を、足音も衣擦れも無く歩く。かたわらには、アニマが浮遊している。


「気を遣われたのう。アレで中々、奥ゆかしい女じゃ」


「アレで、っていうのは失礼でしょ。いやぁしかし、そういうのを予防するために自称したつもりだったんだけどなぁ」


 ボヤき、後頭部を掻く。きっとしばらくの間エレナを悩ませてしまうだろうな、とリヒトは思った。


 廊下の壁に嵌め込まれた大窓からは月光が溢れ、リノリウムの床に幾何学的な影を描いている。いつの間にか少しうつむいて歩いていたリヒトは、意識的に顔を上げ、前を向いた。


「ま、いつか話すべきときが来るでしょう。そのときには、ちゃんと話すよ」


「……そうじゃな。それがよかろう」


 アニマが頷く。気付けば、リヒトは寝室へ通ずるドアの前に立っていた。真鍮製のノブに手をかけ、音を立てずに中へと入った。



 今じゃない。

 ベッドの中で天蓋を見上げながら、エレナはそう思った。


 レースカーテンは夜風と月光を受け、揺れる影をエレナの顔に落としている。


 暗殺者。アサシン。暗がりにて殺める者。そう名乗るリヒトが奪った命はきっと、魔物や魔人のものだけではない。


 仲間として聞いておくべきだ。


 けれど、今じゃない。


 自分にそう言い聞かせながら、エレナはベッドに深く身体を沈める。シルクシーツが肌に触れる心地よさを感じながら、そっと目蓋を閉じた。

 これから一緒に暮らすことになったのだから、いつか聞く機会も訪れるだろう。そのときに、リヒトの口から伝えてくれればいい。


 確かな決意のその後で、エレナは眠りへ引き込まれていく。庭では、柔らかな春風が芝生を撫で回していた。




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




「独り占めはよくない、ってことさ。パパが言いたいのは。わかるか? エレナ」


 夢を見ている。幼い頃の夢。


「わかるよ、パパ」


 まだ父がいた頃の夢。


「よぉし、いい子だ。さすがは我が天使」


 食卓を挟んで対面に座る父は、サングラスの鼻当てを押し上げ、満足気に続ける。


「人より持ってるってだけなら別にいいんだ。パパだってどんな男よりもカッコいいしな。ただ、それを独り占めするのはよくない。だからパパは毎朝毎晩ウォーキングをして、近所のみんなにこの御尊顔を見せてあげている。おすそわけの精神、ノブレス・オブリージュだな。これぞヒーローってモンだ。パパはエレナにもそうなってもらいたい。パパだって、エレナのものを分けてほしいと思うときがあるからね。わかるな?」


「だからわたしのプリンたべちゃったの?」


「うん……でもな、」


「はいはい、そこまで」


 母が食卓の上に鍋を置いた。ビーフシチューのふくよかな香りが漂う。


「チハル、子どもを煙に巻こうとするのはやめなさい。父親として、というか大人として恥ずかしいわよ」


「うっ……ごめんよイルゼ」


 母は父に目もくれず、シチューを取り分けながら言う。


「私じゃなくて、エレナに謝って」


「ごめんなエレナ……お前のパパは実は、食いしんぼうのイカサマ師かもしれん」


「いいよ、知ってるから」


「そんな……」


「明日、リアおばさんのお店で一番高いケーキ買って」


「そんな!」


「チハル、今夜は晩酌禁止」


「そんなぁ!!」


 父は変わった人だった。幼い私にとってさえそうだったのだから、町の人たちにとっては、なおさらそうだったのだと思う。

 南ドイツの小さな田舎町で、父・天花寺千春を知らない者は無かった。東洋人というだけでも目立つのに、ギンギラの金髪、サングラス、アロハシャツと胡散臭いファッションをしていたので、余計に目立っていた。


 でも、父を悪く言う人はひとりもいなかった。

 父はとにかく陽気で、お人好しで、働き者だった。本業の翻訳家も忙しいはずなのに、いつもどこかで誰かを手伝っていた。

 春は牧場で牛のお産を助け、夏と秋は土まみれになってジャガイモを掘り、冬は毎朝のように町のどこかで雪かきをしていた。

 人一倍働いて、人一倍おしゃべりで、人とは桁違いに飲み食いする人だった。


「いつも助かってるよ」


 町の大人たちは皆そう言っていた。


「エレナのパパ、おもしろいし優しいよね」


 友だちもそう言ってくれていた。


「バカなのよ、チハルは」


 母はしきりにそう言っていた。が、その声はいつもどこか誇らしげだった。


「ヒーローなのさ、俺は」


 父はいつも口癖のように、そう応えていた。


 父と、母と、それから町のみんな。幼い私にとっては、それが世界のすべてだった。





 世界は一夜で奪われた。


 直前の記憶は曖昧になっている。

 目が覚めたとき、私は夜の闇の中で、母に背負われていた。見渡す限りに火の手が回っていて、そこかしこでバケモノが暴れまわっていた。煙。血の臭い。悲鳴。誰かを呼ぶ金切り声。幼い私は状況を理解できず、息せき切って走る母に揺られながら、ぼうっと周囲を眺めていた。


 そのときの光景を、何かの映画みたいに覚えている。


 お隣のシュミットさん一家は竜の吐いた火で家ごと燃やされていた。リアおばさんは血溜まりの中でうずくまって動かない。いつも一緒に遊んでいたミラとミア、ふたりの兄のルカが並んで倒れていて、そこに小鬼たちが群がっている。


 私は町の人みんなを知っている。

 私の知っているみんなが、動かなくなっている。


 死。

 私はその概念に生まれて初めて触れた。


 ただ、幼い私が死の恐怖を実感するには、目の前の光景はあまりに非現実的だった。


「ママ……」


 おぼろげな不安は、母への呼びかけとして漏れ出た。


「大丈夫よ。もうすぐ、もうすぐだから……」


 母は足を止めない。生まれ育った町を出て、バケモノたちの目をかいくぐり、裏路地を抜け、そして、


「パパ!」


 父を見つけた。


 父は私たちに背を向けている。目の前には傷だらけの巨大な狼がいる。肩で息をする父とは対照的に、狼は微動だにしなかった。もう死んでいるのだろう。


 何人かの人々が、父に対する感謝の言葉を涙ながらに述べていた。父に助けられたんだろうか?


「パパ!!」


 私がもう一度叫ぶ。そのとき、狼が息を吹き返した。


 狼が大口を開けて牙を剥く。父は人々を突き飛ばして前へ出る。金属的な歯音。狼は何故か、煤のような黒い粒になって消えていく。


 人々は一目散に逃げていった。


 その後に、父が落ちてきた。

 上半身だけの父が落ちてきた。


 あの狼に下半身を食いちぎられたのか、と私は思った。


 絹を裂くような絶叫が響き渡る。それが母のものだと、すぐには気付けなかった。母は私を背負ったまま父へ駆け寄る。


 父は腰から下を失っていた。傷口からは、まるで給水栓が吹き飛んだみたいに、大量の血が噴き出している。


「エレナ……」


 父の声はかぼそく、震えていた。


「しゃべらないで!」


 母の声は悲鳴のようだった。


「エレナ……見てたか……?」


 母は父の意図を察してか、すすり泣くだけで止めようとはしなかった。


「パパは……ヒーローだったろ? 最後まで、さ……」


 父はゆっくりと口角を釣り上げ、笑みを作った。その笑顔はいつもと同じだった。


 でも、『最後』と言った。


 最後。

 もう何もできなくなるから、最後。

 パパは死ぬ。ここで死ぬ。今に死ぬ。シュミットさん一家やリアおばさん、ミラやミアやルカみたいに死ぬ。


 今夜のことをまるで理解できていなかった私の頭の中で、父の現状と、これまで見た惨状とが組み合わさった。私はそのときになって初めて、死の恐怖を実感した。


「パパ……」


 涙があふれた。まぶたの中では熱いくらいなのに、頬を伝うときは無闇に冷たかった。


 パパを助けなくちゃいけない。


「パパ! 死なないで!」


「はは……」


 父は笑った。今際の老人が吐く最後の一息のような笑い声だった。


「むちゃな……お願いだね、エレナ……」


 私は父の傷口へと手を伸ばした。流れ出る血を今すぐ止めなければ、と思った。

 けれど、いくら傷口を抑えていても血は止まらない。生温かい血はすごい勢いで噴き出して、あっという間に冷たくなっていく。失われていく温もりは、命そのものだった。


「ああ、かみさま、かみさま! おねがいします! おねがい、どうか、どうか……」


 それは幼い子どもの無茶な願いだった。

 しかし、神はそれを聞き入れてくれたみたいだった。


 溢れ出る血が凍った。傷口が凍った。胴が凍り、胸が凍り、首元まで凍りついた。


「エレナ……」


 父が私を凝視する。その瞳には驚愕の色があったが、すぐにいつもの温かい光が灯った。


「ありがとう。またな」


 その言葉を最後に、父は氷の胸像となった。


 それからは目まぐるしかった。すぐに父の旧友を名乗る日本人の一団が現れ、私たち親子を保護してくれた。彼らは探索者を自称した。私たちは安全圏を求めてさまよい、襲い来るバケモノの群れに苦心しながら、地獄と化した西ヨーロッパを横断した。

 数日間の旅程でも、凍った父は溶けずにそのままだった。探索者のみんなは父を捨て置こうとはせず、綺麗な布で包み、代わる代わる背負って旅をした。

 私たちはずっと父の話をしていた。私は父が魔術士として生まれついたこと、天花寺家の一族から追放されたこと、野良の探索者として世界中で魔物退治をしていたこと、母は戦友だったことを知った。


 旅の果てに、私たちはイギリスへ辿り着いた。そこには探索者協会の支部があった。私たち親子は当分の間、そこにある寮に腰を落ち着けることになった。


 そして、何年も経った。

 私は母を含む大人たちから、学校で身に着けるべき知識を教わった。英語も普通のイギリス人と同じくらい使えるようになった。テレビやラジオでは荒れ狂う世界の悲惨なニュースが引っ切り無しに流れていたが、私自身が被害を受けることは無かった。


 でも、仲良くしてくれていた大人が「探索に行く」と言ったきり、帰ってこなかったことは何度もあった。


 だからこそ、私は探索者になるべきだと思った。


 その思いを母に伝えたのは10歳のときだった。母は猛反対した。私を怒鳴りつけ、声を上げて泣いた。説得には何日もかかった。でも、


「パパならきっとそうしたと思う」


 と言ったら、最後には受け入れてくれた。


 それから、母は一切の容赦なく私を鍛え上げた。私が音を上げるのを期待していたのかもしれない。でも、私は挫けなかった。そんな日々が4年も続いた。


 14歳のとき、私はついに母に勝った。

 そして私は日本へ渡り、探索者の資格を得た。



 四十雀シジュウカラの鳴き声で目を覚ました。エレナは目をしばたたかせ、ゆっくりと体を起こす。

 天蓋のレースカーテンをくぐり、ローテーブルの上に置かれた保温ボトルに口をつける。特製のホットドリンクが胃腸を温める頃には、起き抜けの頭も冴え渡っていた。


 軽くストレッチをしてから、棚の上の写真立てを手に取る。幼いエレナを抱えて頬擦りする父と、そのすぐそばで笑う母が映っている。


 しばし眺めてから、そっと置き直す。そして、パジャマから制服へと着替えた。


 エレナの一日が、また始まる。




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