第12話 一炊の夢

 己が抱える悪辣な習い性を自覚し、自嘲的な笑みを浮かべるリヒト。


 その瞬間、


『なにをニヤついとるんじゃ』


 魔王アニマの声が脳内で響いた。

 姿は無い。アニマは霊体化したままだった。


『なんでもないよ。てかなんでずっと顔見せてくれないの?』


『はー? 言わねばわからぬか? はー、さようかさようか。このっとーへんぼくっ! 自分の胸に聞いてみよ!』


 ふむ、とリヒトは小さくうなった。


(なんかヤキモチやきになっちゃったな。まあ今は幼女なんだし、仕方ないと思うべきかな?)


 精神は肉体に引きずられる、という説がある。リヒト自身には覚えが無いが、アニマの場合はそうなのかもしれない、と思った。


『パートナーである君の意見を仰がずにエレナとの同居を受け入れたのは謝るよ。僕が無神経だった。あのときは、話を長引かせるとこちらが不利かもと思ったんだ』


『べーっつにー。気にしてないぞよ。せんかたなきことよ。せんかたなし、せんかたなし。主様も男じゃ。豊満を好むも、せんかたなきことじゃ』


『いや別に僕にそういった意図とかヨコシマなアレコレとかは全然ないんだよ現時点では彼女との同居が最善であると判断しだだけであってだね』


『じゃあ、エレナを見てみてたも』


『え?』


『さっきから一瞥いちべつたりともせんではないか。エレナの方を見てたもれ!』


 言われた通り、隣席のエレナへ視線を向ける。


 エレナの横顔は、絵画のようだった。

 うなじ辺りで切り揃えた水色のショートヘア。前髪は真ん中分けのアップバング。髪型はボーイッシュだが、凛然とした目鼻立ちは女性的に思える。

 涼やかな眉。銀糸の睫毛。瑠璃の瞳。鼻筋は高く真っ直ぐで、鼻頭は小さく形が良い。しなやかな薄紅の唇は、上品かつ健康的だった。

 

 横から眺めて各部の立体感を実感したせいか、はたまた話が一段落して落ち着いたせいか。リヒトは改めてエレナの美形ぶりを確認した。


『胸でっかいのう。セーラー服のボタンが今にも飛んでしまいそうじゃ』


『それ言うなよぉ……気にしないようにしてたのによぉ……!』


 本音言うとそこばかり気になっていた。横から見ると立体感というかサイズ感が強調されて凄かった。何なら視線移動の経路は胸→顔→胸だったが、凝視は失礼だし本人気にしてそうなので程々にしたのだった。


 これからの暮らしで慣れときたいけど無理だろな、とリヒトは嘆息した。


「ねえ」


 エレナが前を向いたまま、出し抜けに呼びかけた。リヒトは肝をつぶしたが、平静を装って応える。


「なに?」


「誤解していると思うのだけれど、同居と言ってもホテルの隣室で暮らすようなものよ。あなたが妄想たくましくしてるような事態にはならないわ。あいにくね」


「『あいにく』ぅ? なぁ〜〜んか良くないニュアンスを感じるなぁ。ご自身のAPPを少々高く見積もりすぎというか、率直に言って自意識過剰なんじゃないの?」


「ハッ、よく言うわ。胸ばっか見てたくせに」


「全然見てないしマジ見てないし仮に視線行ってたとして制服見てただけだし」


「主様は胸→顔→胸の順で見ていたぞよ!」


「今出てくんのナシだろアニマァ!」


「Du Perverser(ヘンタイ)」


「誤解だ!」


 焦りをあらわに騒ぎながら、リヒトはふと脳裏で思った。


(僕が漠然と求めていた自由って、案外こういうのだったのかもな)


 同年代の人とふざけ合ったり、からかい合ったりすること。普通の少年少女のように振る舞うこと。暗殺者としての習い性を忘れて過ごす時間。かつての自分が想像だにしなかったような平和。


 夢みたいだ、とリヒトは思った。

 そしてそれは、この世界に来てからずっとそうだ。信頼できる仲間。全世界に轟く栄光。公的な承認。安住できる宿。すべてがまさしく夢のようだ。


(……そう。これは、一炊いっすいの夢だ)


 やがて覚めてしまう。やがて失われてしまう。平和とは争いの隙間に付いた美称でしかなく、決して長くは続かない。おぞましい暗殺者として振る舞うべきときは、きっとすぐにやって来るだろう。


 それでも、この瞬間は幸せだと思える。この瞬間には、手を伸ばすに足る価値があったと感じられる。


 女子ふたりと言い合いながら、リヒトはちらりと前を見た。

 フロントガラスの向こう、桜並木は緩やかにカーブしている。その果ては、薄明かりに溶け込んでいて、よく見えない。


 逆に言えば、どこまでも続いているようにも見えた。





『まもなく、目的地です』


 カーナビの声を聞いたリヒトは、改めて車窓の外へと目をやった。


 超高級住宅街だ。

 庭付きの大豪邸が整然と立ち並んでいる。ひとつひとつの面積が凄まじい。1軒に10人が暮らしていても、広々と使えるだろう。各家の庭の広さと言ったら、象だって飼えそうなくらいだ。


(にしては警備がザルだな。よほど治安が良いのかな?)


 ついつい抜け穴を探してしまうリヒトの隣で、車の扉の開く音がかすかに響いた。


「着いたわよ」


 エレナはラグジュアリーな街並みに目もくれず、車外へと踏み出した。リヒトとアニマも、それにしたがい降車する。三人が降りると、無人自動運転車は来た道を引き返すように去っていった。


「ここがこの女のハウスか」


 鈴を転がすような声で、アニマが言った。

 一言突っ込んでおこうか、とリヒトは思ったが、何も言わなかった。エレナの自宅の外観に少々面食らっていたのだ。

 エレナの自宅は、全面鏡張りだった。ガラスファサードとかカーテンウォールとか言うのだろうか。外壁の鏡面は信号機や月星の光を受け、淡い反射光を夜闇へと投げかけている。


「えーと、氷属性らしい家だね」


「露出狂らしい家じゃのう」


「次に無礼があったら二人まとめて追い出すから」


 エレナに半眼で睨まれ、アニマは首をすくめた。リヒトは(僕の発言は別に無礼じゃなくない?)と思ったが、黙っておくことにした。


「ってか、これ玄関どこなんじゃ? 門も扉も見当たらんが」


「ここよ」


 エレナが指差したのは、鏡張りの外壁の一面だった。当然、ドアノブがあるわけでもないが、エレナの手が触れた途端、壁が消え玄関が現れた。


「光学迷彩と各種生体認証よ。私の許可を得ている者なら自由に出入りできるわ」


 言って、エレナはローファーを脱いで靴箱へ収めた。


「お邪魔します」


 リヒトは革靴のままかまちをまたぐ。足が空中にある一瞬のうちに、履いていた靴が消える。靴下で着地。


「あなたねぇ……」


「あぁ、ゴメン。癖になってるんだ、脱ぐ代わりに消すの」


 事実だった。

 スキル【変身】を使えば、身に着けているものを自由に消せる。仮に消さずに脱ぎ去れば、それは敵にとって重要な手がかりになりうる。故に、服飾品を脱がずに消し去る癖が、リヒトにはあった。


「そうじゃないわ」


 エレナは小さくかぶりを振った。


「ここは今夜からあなたの家でもあるんだから。言うべき言葉は別にあるんじゃないかしら?」


 リヒトは瞠目した。そして視線を右往左往させてから、少し顔を伏せ、遠慮がちにエレナへ視線を向ける。


「……ただいま」


 控えめな声を聞いたエレナは、あたたかく微笑んだ。


「ええ、おかえりなさい」


 前へ向き直り歩み出したエレナの背を、リヒトは静かに追いかける


(『ただいま』なんて言ったの、いつぶりだろう。はじめてかもな。……妙な気分だ。悪くはないけど)


 リヒトは既に、いつもと似た薄ら笑いを浮かべていた。だがその表情は、少しだけいつもより晴れやかに見えた。


 少なくとも、アニマの瞳にはそう映った。







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