第一章
第17話 頂上で朝食を
時刻は午前8時。
リヒトは、エレナ邸から車で10分ほどの地点にある高層ビルの、最上階に居た。
ここは展望レストランになっている。店名はリストランテ・アッティコ。某タイヤ会社から星を複数もらうほどの有名イタリア料理屋である。
開店は昼からのはずだ。
「これ、入って大丈夫だったの?」
リヒトが対面のエレナに問いかける。
エレナは、銀皿に盛られた大粒のイチゴをひとつ手に取り、ルビーのような
「大丈夫よ。話はつけてあるから」
ヘタを取り、一口かじる。素手でフルーツを食べているだけなのに、所作のひとつひとつがおしとやかだ。こういうとこはお嬢様っぽいな、とリヒトは思った。
「私はここの常連なの。シェフのご厚意で、こういうことも許されてるのよ」
一応お金も払ってるしね、とエレナは言った。庶民派のリヒトは金額が気になったが、聞かなかった。金銭感覚の差を知ったら、少し畏縮してしまいそうだった。
「それに、こういう場でないと言いにくくて」
フィンガーボウルで指先を洗い終えたエレナが、姿勢を正してリヒトを見据える。
「隠し階層の魔人の発見・討伐について、準A級探索者として、心から感謝しています。本当にありがとう。今朝は私がごちそうするわ」
凛然と礼を言うエレナに、リヒトは少々たじろいだ。
「あぁ……いいよ、別に。あんぐらい楽勝だったし。それに、奢ってもらうのは気が引ける。幸い僕もそこそこ稼げてるし、ワリカンにしよ」
「あら、意外と
どう切り出したものか、と一瞬を考えてから、意を決したように口を開く。
「あなた、なんで女体化してるの?」
「あぁ、配信のためだよ」
何気なく答えるリヒトの声は高く、甘い。彼もとい彼女は、黒髪ロングの少女の姿に変身していた。
背は男性のときより頭ふたつ分小さい。目鼻立ちは据え置きだ。しかし骨格が華奢になったため、目が大きくなり、鼻は小さくなり、顔全体が小さく丸く、ふっくらした。
地味かわ女子、という感じだ。
「……配信と女体化に何の関係があるのか見当もつかないのだけれど」
「いやね? 昨日の夜、『明日は天花寺エレナさんとコラボ配信の予定です』ってつぶやいたら、『野郎が白雪姫とコラボするな』という御意見を多数頂戴してね。じゃあなっちまえばいいじゃん、レディーに、と思って」
「そんな無茶苦茶な」
「意外と受け容れてもらえてるよ。お、言ったそばからファンアート発見。いいね付けちゃお」
「やめときなさいよ。ナマモノ絵師は引っ込み思案だから、本人が巡回するとすぐ消すわよ。界隈での内紛の原因にもなるし、見て見ぬフリしたげなさい」
「君がそう言うならそうしとくけど……ヤケに詳しいね」
エレナがさっと目を逸らす。
「それにしてもさ。『会長との待ち合わせまで時間あるから朝食にしよう』、って言ったのは僕だけどさ。こんなイイトコじゃなくても良かったんだよ? いくら僕と言えど、ちょっと遠慮しちゃうよ」
「別にあなたのためじゃないわよ。一仕事終えた後はいつもこの店って決めてるだけ」
エレナはナイフとフォークを器用に操り、カプレーゼをきっかり一口分だけ取り分ける。トマトの輝く赤、バジルの深い緑、モッツァレラチーズの純白が、まさにイタリア国旗のように鮮やかだ。
オリーブ油とバルサミコ酢の芳醇な香りを楽しんでから、口へ。咀嚼、嚥下。その後で、エレナは「それに」と二の句を継ぐ。
「少しも遠慮しているようには見えないわよ」
大理石製のテーブル上には、リヒトの注文した料理が所狭しと並べられていた。和牛のボロネーゼ、
「意外に大食漢なのね」
「今は『漢』じゃないけどね。【変身】の魔力消費は軽微なんだけど、その代わりにお腹が空くんだよ。食べれるときにはなるべく多く食べたいんだ」
リヒトはフォークで巻いたボロネーゼを口に運んだ。和牛の脂の深いコクと、完熟トマトソースの果実めいた甘酸が口内に広がる。噛むたびに肉汁がほとばしり、歯ごたえのあるアルデンテパスタと絡み合う。
「おいし〜!」
リヒトが顔をほころばせる。配信のコメント欄は、
:かっわ
:リヒたむかわい〜
:いっぱいたべるきみがすき
:リヒトちゃん美味しそうに食べるなぁ
:リヒト、毎朝俺の手作り味噌汁を食べてくれないか?
大好評だった。
「なぜなの……」
「バ美肉おじさん現象だね。元は男とわかっているからこそ、気兼ねなくコメントすることができるんだ。ほんとの女の子相手だと緊張しちゃう男性も少なくないからね」
「そういうものなのね……」
男心については理解できないが、リヒトの食べっぷりは確かに愛らしいかもしれない。眺めていたエレナの頬もついつい緩む。慌てて手で口元を覆った。
「ゆうべはレーションだけで平気そうだったじゃない」
「アレはちょっとした痩せ我慢」
「あら、そう。なら、いいのだけれど。それはそうと……」
エレナは視線を右斜め上へ。魔王アニマが、空中に寝転がるような姿勢でふわふわと漂っている。
「アニマは浮かんでないで座りなさいよ、椅子あるんだから」
「無理じゃ。
「それなら仕方ないけど、あんまりふわふわされると気が散るのよ」
「だって床に寝転がるわけにもいかんじゃろ……」
「それはそうだけれども……」
口ごもるエレナと所在なさげなアニマを差し置いて、リヒトは黙々と食べ進める。ボロネーゼを完食し、次はカルパッチョへ。3ミリ厚にスライスされた桜鯛は、上品な甘さと
アニマはまだふわふわ漂っている。食事に混ざれないのが寂しいのか、空中で
リヒトが声をかけようとした途端、急に起き上がった。
ロクでもないことを思いついたのだ。エレナはそう直感した。
「よし、百合営業しようぞ。妾とエレナと主様で、ペアルックならぬトリオルックで写真撮ろうぞ」
直感が当たった。
「お、いいね。ちょうど配信終わろうと思ってたし」
「いや良くないわよ。私、着替え持ってきてない、し……」
言い終わる前に、アニマとリヒトが着替え終えていた。白いリボンの黒セーラー。エレナと同じ服装だ。
「はい準備完了」
「えっ」
「エレナ、ポーズぞ。ポーズ」
「えっえっ」
「僕は指ハートにするからエレナはダブルピースにして」
「えっえっえっ」
戸惑いながらも指示に従う。
「はい、チーズ!」
カシャ、と何処からともなく音が鳴る。こうして配信は終了した。
◆
「私のイメージが毀損された気がする……」
「ギャップ萌えってことになってるよ。トレンドにもなったし、結果的には万々歳だね」
軽く答えるリヒトは、既にいつもの姿に戻っている。その表情はいつになく華やいでいた。
『いつになく』。
自分の感じ方について、エレナは不思議に思った。
(会ったばかりなのに、どうして私はこのふたりと打ち解けているんだろう?)
リヒトとアニマに会ってから、まだ半日も経っていない。睡眠時間を除けば、せいぜい4時間ほどだ。だというのに、まるで旧知の仲のようにすら感じられる。
『仲を決めるのは過ごした時間の長さではなく密度』と父は言っていた。母がそれを引用するのもよく聞いた。このケースはそれに当てはまるのかもしれない、とエレナは思った。
後は、吊り橋効果だろうか。いや、それは恋愛に関する話だったか。
(私、恋してるの?)
自分にはまだ縁遠いと思っていたので、うまくイメージできない。
とりあえずリヒトを眺めてみる。長くも短くもない黒髪。光を反射しない黒瞳。特徴が無いのが特徴と言っていいほど、平々凡々たる顔立ち。凝視する。左目の下に泣きぼくろがあるのを見つけた。
この男が泣くところは想像できないな、とエレナは思った。
「どしたの、そんなジーッと見て」
「いえ、なんにも」
「エレナ、主様に惚れよったか」
「あら、嫉妬してるの?」
「なんぞ!!!」
「やめてよぅ、僕のために争わないでよぅ」
リヒトの鼻の下が伸びた、その瞬間。
青く輝く蝶が1匹、ひらひらと舞い出てきた。
(風流じゃな)
アニマはそう思った。
(微妙に魔力こもってるな)
リヒトが見抜いた。
「あぁ、最悪……」
エレナがうめいた。
直後、青い蝶と入れ替るようにして、ひとりの女が現われた。
正確には、落ちてきた。
どしん、という音。落ちてきた女は「いてて」と尻をさすりながら立ち上がった。
ぶかぶかの白衣の下によれよれのキャミワンピを着た、ボサ髪の小柄な女性だった。
女性はリヒトを眺め、「おぉ〜」と感嘆の声を上げた。
「
リヒトが返事するより早く、エレナが女性のスネを蹴飛ばした。踏まれたカエルのような声を上げ、女性が痛みに飛び跳ねる。
「自己紹介」
エレナの冷たい声に従い、女性が気をつけの姿勢を取り、敬礼する。
「A級探索者、兼、技術開発研究部主席研究員、
貸し切りの高級レストランに、場違いな声が響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます