第2話

「どうして、あなたがここに……!」


 ミカルが動揺した様子で声をあげる。

 エリノアは警備兵に取り囲まれていることも、槍を突き付けられていることも忘れて大輪の花のような笑顔で振り返った。


「クラウディオ様……!」


「一年振りだな、我が愛しの婚約者殿」


 そこにいたのはクラウディオ・ルイジ・フリーリア。エリノアの婚約者であり、フリーリア国の次期国王であり、ミカルの腹違いの兄が穏やかなッ微笑み浮かべて立っていた。

 警備兵たちを眼光だけで下がらせ、クラウディオは両腕を広げて歩み寄るとエリノアを抱きしめた。


「クラウディオ様、ご無事だったのですね!」


「心配をかけたね、エリノア。でも、大丈夫。君とこの筋肉のおかげで無事に帰って来れたよ」


 そう言って微笑むクラウディオは金髪碧眼の整った顔立ちをしている。ひと目で血が繋がっているのだろうとわかるほどミカルによく似ている。ただ、二十三才になるクラウディオは筋骨隆々、筋肉ムキムキと言うかバッキバキの体付きをしていた。

 まだ少年と呼んだ方がいい体付きのミカルはもちろんのこと、兵士のわりにひょろりとした警備兵たちと比べてもとんでもない体格差、とんでもない筋肉量、とんでもない鍛えっぷり、とんでもない仕上がりっぷりだ。


 一年振りに会う腹違いの兄を壇上から見下ろしてミカルは苦々しい表情で言った。


「また一段と筋肉ゴリラに……いえ、そんなことよりもどうして、ここに……王都にいるんですか、クラウディオ兄様」


 クラウディオはもう一度、エリノアを抱きしめてから腹違いの弟に向き直った。


「国境近くの貴族の屋敷に監禁されているはずなのに……とでも言いたげな顔だな、ミカル。お前の部下たちが川に落ちた私を見つけるよりも先に意識を取り戻していたのだ。川底に沈んでいたおかげでな」


「川底に沈んで!?」


「脂肪の少ない方は重くて水に浮きませんものね。最後にお会いした時よりもますます仕上がっていらっしゃいますし、この鍛え上げられた体が水に浮かないのも当然のこと」


 ぎょっと目をむくミカルをよそにエリノアはほほに手を当ててのんきに言う。


「一瞬、走馬灯が見えたがエリノアの歌を思い出してね。おかげでものすごい勢いで目が覚めた。もう少し遅かったら溺死していたところだったよ。ありがとう、エリノア」


「わたくしのちょっと下手っぴな歌が役に立ったのなら何よりですわ、クラウディオ様」


「あの歌声を〝ちょっと下手っぴ〟程度で済ますなと何度、言えば……!」


 エリノアの肩を抱いて銀色の髪にほおずりするクラウディオと、ほほを赤らめてはにかむエリノアを見下ろして、ミカルは苦虫を噛み潰したような顔になる。


「意識さえあればそこいらの護衛兵ごときに捕まったりはしない。私を捕らえようとしたお前の部下たちを逆に捕らえ、計画を聞き出し、大急ぎで王都に戻ってきたというわけだ」


「アイツら……!」


「彼らの名誉のために言っておくが、彼らは次期国王である私が命じても口を割ろうとはしなかった。お前への忠義を貫き通し、フリーリア国の兵士にふさわしい気概きがいを見せたよ。だから、命令でも苦痛でもなく愛で口を割らせたんだ。愛ある抱擁ほうようで!」


「……」


 そう言ってクラウディオがサイドチェストのポーズを取ると服を着ていてもわかるほどに大胸筋やら上腕二頭筋やらが盛り上がる。幽霊も肩を叩いてはげましそうなほどに虚ろな目でミカルは兄の筋肉を見つめた。


「クラウディオ様の筋肉に包まれたら心もオープンになってしまいますわね。でも、いくら計画を聞き出すためとは言え、わたくし以外を抱きしめるなんていてしまいます!」


「オープンになったのは心じゃなく酸素を求める口だし、スキあらばいちゃつこうとするな!」


「あらやだ、ミカル様。スキあらばって……わたくし、クラウディオ様に対してはスキしかありませんわよ」


「いろんな意味で寒気がするからあなたは未来永劫、黙っていてくれ!」


 クラウディオの胸筋をぽかぽかと叩いたかと思うと、今度は人差し指でハートを書きまくっているエリノアと、そんなエリノアの肩を抱いてニッコニコのクラウディオを前にミカルは地団駄を踏んだ。

 でも――。


「……ミカル」


 クラウディオが真剣な表情で自身に向き直るのを見てミカルは表情を引き締めた。


「なぜ、こんなことをした。次期国王の座が欲しかったか。和平交渉をつぶしたかったか。それとも……」


 また一歩、クラウディオは壇上へと近付く。

 そして――。


「それとも、ただ単純にこの兄が憎かったか。殺したいほどに」


 悲し気な目で壇上に立つ腹違いの弟を見つめた。


「そんな……!」


 悲し気な青い目を見つめ返してミカルもまた青い目を悲し気に揺らした。


「私が兄様を憎んでいるだなんて……殺そうとするなんてありえません!」


「ならば、どうしてこんなことを!」


「そこの魔女を……兄様を狂わせたソリメノの魔女を我が国から追い出し、兄様の目を覚まさせたかったからです!」


「わたくし?」


 ミカルにビシッと指を突き付けられてエリノアはきょとんと首をかしげた。


「クラウディオ様を狂わせた自覚はありますが、でも、それはお互い様。わたくしだってクラウディオ様に狂わされてしまいましたから。すべては愛ゆえ!」


「狂わせた自覚があるとかいけしゃあしゃあと言ってのけるところが個人的にも好きになれないとかはさておき! お前のせいで兄様はおかしくなったんだ!」


「私がおかしくなった? エリノアのせいで?」


 ミカルの言葉を繰り返してクラウディオは表情を曇らせる。


「それはやはり和平交渉のことか? たしかに戦いを避けるのは腰抜けがすることだが、それは私たち王族や貴族の言い分だ。国民たちから見れば家や店、田畑……何より大切な人たちの命を奪う災厄。そのことに気が付いたのはソリメノ国の辺境の村でエリノアと共に過ごした時間があったからだ」


 そう言いながらクラウディオは半歩後ろに立つエリノアに視線を向けた。

 国境近くの辺境の村にソリメノ国第三王女が滞在しているという情報をつかんだクラウディオが偵察のために旅人を装ってソリメノ国に潜入したのは五年ほど前のこと。そこにエレノアがいた。


「村人と共に畑を耕し、食事をし、子供たちに勉強を教え、遊び、笑うエリノアを見ているうちに愛しいと思うようになっていた。そして、もし今、戦争が始まったらこの村も村人も彼女も消えてしまうかもしれないと思ったら途端に戦うことが怖くなった」


「通りのすがりの旅人と思っていた方がフリーリア国からの侵入者で、しかも次期国王なんですもの。ソリメノ国我が国の王城で再会して、婚約を申し込まれた時には驚きました」


「エリノアに出会って私が変わったのは確かだ。それを腰抜けと言うかはお前たちの自由だ」


 困り顔で微笑む兄を見つめてミカルは悔し気に唇を噛んだ。


「なんで一国の王女が国境近くの辺境の村なんかに。お前がそんなところにいなければ兄様は今も変わらずに私の尊敬する兄様のままだったはずなのに……!」


 見解の相違はあるけれど兄を慕う弟の口から絞り出された言葉にエリノアは目を伏せた。


「引退して辺境で暮らす歌姫のもとに一年ほどお世話になっていたのです。ちょっと音程やリズムがズレる今のままのエリノアの歌声も魅力的だけれど、練習したらもっと魅力的になるだろうからと父に言われて」


「〝ちょっと音程やリズムがズレる〟って……天井知らずの肯定感の高さは父親に甘っ々に甘やかされた結果か!」


「その時、先生に……その歌姫に言われたのです。歌うときに何よりも大切なのは心、愛。屋敷にこもっていないで村に行き、村人たちと交流し、心を……愛を学ぶのです、と」


「その歌姫、歌を教えるのを放棄しやがったな! 完っっっ全に匙を投げやがったな!」


「そのおかげでクラウディオ様と出会い、今があるのですから先生の教えは正しかったということですわね」


「その歌姫のおかげで私はエリノアと出会い、大切なことに気が付けたのだからな」


「なるほど、よくわかった。すべての元凶はその歌姫。そして、やはりあなたのとんでも音痴だ、ソリメノの魔女め!」


「例え、腰抜けと言われようとも私は和平を結び、国民と……何より愛しいエリノアとの平穏な日々を守る! それこそが王族として、次期国王として私がするべきことだ!」


 ガシリと拳を握りしめるクラウディオと、その後ろでパチパチと拍手をする笑顔のエリノアをミカルは唇を噛んだ。


「フリーリア国の次期国王がそんな腰抜けでいいはずがない。もちろん、それも私がこんなことを……大好きな兄様を悲しませるとわかっていてこんな暴挙に出た理由の一つです。でも、何よりも許せないのはそのお姿です!」


「姿?」


「人目もはばからずいちゃつく姿のことかしら?」


「自覚があるなら自重しろ、というツッコミはさておき! 私が許せないのは兄様のその筋肉ゴリラっぷりです!」


「……筋肉ゴリラ」


「まあ、筋肉ゴリラだなんて失礼な!」


「一年前に城を出発する時にも筋肉ゴリラだなと思いましたがこの一年でさらに! ますます! とんでもなく! 筋肉ゴリラになっているじゃないですか! 妖精王とまで称された儚くも美しい兄様のお姿はどこに行ってしまったのですか!」


「こんなにも完璧に美しく魅力的に仕上がっているのに何が不満なんですか! ミカル様の目は節穴ですか!?」


「その完全に仕上がっちゃった筋肉が不満なんだよ! 見解の相違が凄まじい!」


 パシーン! と手のひらに扇子を打ちつけて抗議するエリノアに、ミカルもまたダンダダーン! と足を踏み鳴らして抗議する。

 かと思うと――。


「このパーティ会場にいる王侯貴族たちを――勇猛果敢な我が国の兵士たちを見よ、ソリメノの魔女よ!」


 両腕を広げてパーティ会場にいる人々を指し示した。

 礼服に身を包んだ王侯貴族たちも鎧姿の警備兵たちもすらりと細い者ばかりだ。剣を持ち、重たい鎧を身につけて戦える体付きではないが、それを可能としているのが歌姫たちの歌。女神シーガの奇跡を顕現けんげんする歌姫たちの歌だ。

 このパーティ会場でも歌姫たちの歌声は途切れることなく静かに響き続けている。戦場ではさらに盛んに、力強く、兵士たちを鼓舞し、兵士たちの肉体を強化するために歌い続けるのだ。


 王専属の歌姫ともなれば最も優秀な歌姫が就くのが習わし。そして、歌姫としてだけでなく王妃として王を支えるのも習わしだ。

 ところが――。


「兄様は歌姫ではなくその女を婚約者に……未来の王妃に選んだ。悪魔の断末魔もはだしで逃げ出すレベルで音痴なその女を! 肉体強化どころか精神やられるレベルな音痴のその女を!」


 というわけなのである。


「だから、クラウディオ兄様は筋肉ゴリラになった! 次期国王の婚約者でいずれは王妃となるあなたが肉体強化を見込めないどころか精神やられるレベルの音痴だから! ご自身の肉体と精神を鍛え上げ、死線ギリギリのところで踏みとどまれるようにと筋肉ゴリラになったんだ!」


「ミカル、もう少し表現に手心を……」


「この女に手心なんて必要ありませんよ、兄様!」


「悪魔の断末魔もはだしで逃げ出すレベルだなんて……父たちは悪魔も心安らかに眠れる素晴らしい歌声だと言ってくださいましたわよ?」


「ほら見ろ、これだ! お前の歌声で永遠の眠りについてるんだよ、その悪魔はぁぁぁあああ!!!」


 ひとしきり地団駄を踏み、金色の髪をかきむしった後、ミカルは肩で息をしながらエリノアを睨み下ろした。


「兄様を監禁している間にあなたをこの国から追い出し、ソリメノ国との戦争を始め、戦場に向かう途中でラウラ嬢が監禁されている兄様を助け出し、私はラウラ嬢の婚約者の座も次期国王の座も兄様に返し、妖精王と称された兄様と稀代の歌姫・ラウラ嬢が我がフリーリア国の王と王妃になる! これが兄様にとっても我が国にとっても最も正しくふさわしい形! 私はただ正しくふさわしい形に戻そうとしただけだ!」


「……ミカル」


 クラウディオは怒りに目をつりあげるミカルをじっと見つめた。エリノアはといえばラウラをじっと見つめた。


「……と、ミカル様は仰っていますが、ラウラ様。あなたは了承なさっているのですか?」


 ずっと悲し気に目を伏せていたラウラがハッと顔をあげた。でも、すぐに表情を引き締めるとコクリとうなずく。


「もちろんです。それがミカル様の望みなら、わたくしは全力で叶えるだけです」


 胸の前で手を組んで真っ直ぐに、あまりにも澄んだ目で自身を見つめ返すラウラ嬢にエリノアは肩をすくめた。


「これはどうあってもクラウディオ様の婚約者の座を譲るわけにはいきませんわね」


「乙女の恋心がかかっていなくても譲らないでもらいたいかな」


 クラウディオの目配せにエリノアはまばたきを一つ、二つ。


「もちろん。何があってもあなたの婚約者の座を譲るつもりはありませんわ」


 唇の片端をあげて強気に笑うとラウラと同じように胸の前で両手を組み合わせた。


「兄様に知られてしまった以上、作戦は失敗だ。でも、せめて兄様を狂わせた元凶だけは……ソリメノの魔女、お前だけは殺してやる! ラウラ嬢よ、歌姫たちよ! 〝戦歌せんか〟を!」


「歌姫と兵士の〝絆〟が結べていません。これではこの場にいる全員に歌の効果が……」


「構わない! こちらは多勢。兄様の肉体が歌で強化されても数で押し切れる!」


 ミカルの言葉を肯定するように槍を手にした警備兵だけでなく、王侯貴族たちも前に出た。礼服の上着を脱ぎ捨て、腕まくりをし、従者がうやうやしく差し出した剣を手に取る。この場にいる全員がミカル派だったようだ。


「ラウラ嬢」


「は、はい……!」


 胸の前で手を組んだ歌姫、ラウラは気持ちを落ち着かせるように深呼吸を一つ。勇ましく歌い出した。


「おお、さすがは稀代の歌姫!」


「戦場で何度となく歌姫の歌の効果を目の当たりにしてきたがこんなにも力が満ち溢れるのを感じたのは初めてだ!」


 ラウラの力強く美しい歌声に警備兵たちは槍を、王侯貴族たちは剣を片手で軽々と振り回した。両手でどうにかこうにか持ち上げていた先ほどまでとは雲泥の差だ。


「これが歌姫の……ラウラ嬢の力です。兄様もご存知でしょう? 歌の存在がどれほど大きいか。女神シーガの奇跡の力がどれほど偉大か」


「もちろん、よく知っているよ。女神シーガの奇跡の力も、歌の力も……愛の力も、ね」


 ミカルの挑むような目と、武器を手に襲い掛かる警備兵や王侯貴族たちをぐるりと見まわしてクラウディオは不敵に笑った。


「というわけで、エリノア。君の力を……君の歌の力を貸してくれるね」


「もちろんです、クラウディオ様。あなたを想ってこの一年の間に作った歌の中から珠玉の一曲をご披露いたします!」


 胸の前で手を組んだエリノアは不敵に笑うと胸を張り、深呼吸を一つ。


「それではお聞きください、〝ゴリラ賛歌〟!」


 勇ましく歌い出した。


「筋肉ゴリラなんて失礼なことを言うなと言いながら思い切り、お前もゴリラ扱いしているじゃないかぁぁぁあああ~~~やめろぉぉぉ~~~!!!」


「ひ、ひぃぃぃいいいっ! 悪魔だ! 悪魔に脳みそを、吸われ……て……」


「魂が抜け……る……っ、ぐふ……」


 パーティ会場は一瞬にして死屍累々の阿鼻叫喚、地獄絵図と化したのだった。


 ***


「あのね、パパがリリィのお耳をふさいじゃったからね、ちっちゃくしか聞こえなかったんだけどね。銀色の髪のお姫様がね、ゴリラさんのお歌を歌ったの」


 熱を出した母の代わりに父のエスコートでパーティに参加していた五才の小さな令嬢は屋敷に帰った後、この日の出来事を母や使用人たちにこう語ったという。


「そうしたらね、みんなみんな、寝ちゃったの。でもね、ゴリラさんとお姫様は最後まで起きてたんだよ。ゴリラさんのお歌だからかな。でもね、ゴリラさんもちょっと眠かったみたいでね、ふらふらしてた!」


 そして、にこにこの笑顔で最後にこう付け加えた。


「あとね、ゴリラさんはとっても繊細でね、だからすぐに下痢しちゃうんだって!」

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