第11話 閑話 地獄になりかけた世界

「はい、ありがとう。じゃあ、またな。」


 スマホを返してくれた少年は、そのまま軽い足取りで去っていった。その背中を見送りながら、俺は手元のスマホを握りしめる。これまでになく混乱し、疲れていた。電車の駅で起きた騒動、そして俺が痴漢とされる動画が、すでにSNSでいくつも拡散されていた。


 何度もスクロールして表示される投稿。そこには断片的に編集された動画がいくつも並んでいた。「駅で痴漢逮捕されかけた奴www」「このキモ男が女の子泣かせてる」といった悪意のあるコメントが目につく。


「……やっぱり、俺の人生終わったのか。」


 現場での混乱で逮捕は免れたものの、社会的にはもう終わりだ──そう感じた。スマホを手の中で力なく握り、ため息をつく。


 だが、その中に、一際長い動画が投稿されているのが目に入った。


 境介が投稿した動画を発見する

 タイトルには「駅での真実」とだけ書かれている。その再生時間は他の動画とは比べ物にならないほど長かった。恐る恐る再生してみると、そこには事件の最初から最後までが克明に映し出されていた。


 俺が倒れた女性に駆け寄り、助けを試みる様子。彼女が突然悲鳴を上げ、周りの人々が誤解して騒ぎ立てる場面。そして、最後には駅員室に連行されかける俺の姿──。


 しかし、この動画の一番の違いは、その後の少年の行動も全て映し出されていたことだった。彼が冷静に状況を分析し、俺に鞄を渡すふりをして言葉をかけ、逃走を助けるまでの一部始終。


「……俺を……助けてくれたんだ。」


 俺の胸にこみ上げてきたのは感謝と安堵だった。彼が救ってくれたのは現状だけではない。その後の俺の立場の事すらも考えて、彼はこれを残していったのだろう。どんなに世の中に誤解されても、少なくとも彼は俺の無実を信じ、証明してくれる材料を残してくれた。その気持ちが痛いほど伝わってきた。


 スマホを握りしめたまま、俺は立ち上がった。この動画があれば、きっと自分の無実を証明できる。状況を正しく理解する人たちがいるはずだ。


「……よし、遅れたけど、出社するか。」


 なにかする気力が湧いた。今はまだ、こんな動画一つで人生が変わるとは思えない。でも、動かなければ何も始まらない。俺は気を取り直し、自分が勤める会社『日照会』に向かった。



 会社の重い自動ドアを通り抜けると、すぐに上司の声が飛んできた。


「おい、あれ大変だったな。」


「えっ、何のことですか?」


「とぼけるなよ。例の駅の件だよ。お前、動画が回ってるぞ。」


 上司の言葉に、男は一瞬で顔が強張る。助けてもらった動画がここまで拡散されているとは思わなかった。


「ま、無実の証拠が出てるんだから良かったじゃねぇか。それより、ちょうどいいタイミングだ。二人に任せたい案件があるんだ。おい、灯り。ちょっと来てくれ。」


「二人?」


 男が怪訝そうに聞き返すと、後ろから軽快な足音が聞こえた。振り向くと、同僚の女が歩いてくる。


「やぁ、本郷さん。遅刻かと思ったけど、ギリギリ間に合ったみたいだね。」

 そう言いながら、彼女は軽く手を振る。


 彼女はこの部署では一番若手の有能なエージェントで、業務能力は高いが少々口が悪いことで知られている。


「お前ら二人で調査に行ってもらう。今から資料渡すから準備しとけ。」



 上司が差し出した資料を受け取り、二人でそれを覗き込む。そこには調査対象地の概要が簡潔に記されており、最後のページには数枚の写真が貼られていた。調査員として本郷修司ほんごうしゅうじ宮野灯みやのあかりの名前が書かれている。

「……!」


 男の目が見開かれる。その写真に写っていたのは、ついさっき別れたばかりの少年、境介の顔だった。


(あの子だ……間違いない。)


 だが、隣に立つ灯りの反応も妙だった。


「この顔……。」


 彼女は少し眉をひそめ、何かを思い出すような表情を浮かべている。


 修司は疑問を抱くが、言葉にはしなかった。そんな些末なことよりも、彼にまた会えるかもしれない。その嬉しさが上回っていたからだ。


「というわけで、この村に関する異常を調査してこい。詳しい内容は現地での確認が必要だが、君たち二人なら問題ないだろう。」


 上司は簡潔に指示を出し、二人に外出準備を命じた。


 灯りが資料を片手に言う。


「まあ、見た感じ静かな田舎の村っぽいけど、どうせまた厄介な案件なんだろうね。」


 修司は何も答えず、ただ境介の写真を見つめていた。あの短い時間で自分を助けてくれた少年。その彼がなぜ異常報告の対象になっているのか、疑問が募るばかりだ。


「行こう。」


 そう呟いて、男は歩き出した。

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赤く滲んだ約束 小土 カエリ @toritotan

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