第10話 帰宅
「……最初から狙っていたのかい?」
崩壊する自分の体を見下ろしながら、蜂雀が問いかける。しかし、境介は何も答えなかった。
「君で最後だろうね。結界を抜けてこちらに来れる人間は……ああ、寂しくなるね。」
そう呟くと、彼女の体は完全に崩れ去り、空気に溶け込むように消えていく。
空間にひびが走り、止まっていた時間が再び動き始める。電子機器は正常に電波を受信し、時計の針が音を立てて進んでいく。止まっていた太陽も山に沈み、境内を明るく照らした。
「……帰ってきた、のか。」
肩で息をつきながら、境介は呟いた。目の前の異様な景色は消え、現実の音や光が戻っていることにわずかな安堵を覚える。
神社の中に戻ると、玄関内側に立て札が掛かっているのが目に入った。そこにはさっき見つけた木簡がいくつも吊るされている。
その中の一つに「芥蜂雀」と記された木簡を見つけ、境介は目を止めた。
「もっと早くー。」「それは何?」彼女と過ごした短い時間が頭をよぎる。あの無邪気な笑顔が脳裏に浮かび、境介の手が自然と木簡に伸びる。
「……蜂雀、か。」
木簡には全て赤い文字で名前が書かれていた。そして、木簡を裏返すと、そこには黒い文字で同じ名前が記されていた。
「……」
境介はスマホを取り出し、地図アプリを開く。そして、ここに来る途中で見かけた荒れた田んぼが広がる土地を思い出した。
荷物をその場に放置したまま、玄関を飛び出す。誰に会いに行くべきか、それを考える必要はなかった。
最後の力を使い果たし、静寂が訪れる。
朽ちた廃屋の中、埃まみれの畳の上に芥蜂雀は倒れていた。薄暗い部屋には、割れた障子から差し込む夕陽の光がかろうじて届いている。
「……これで……いいんだよね……。」
か細い声で呟く。だが、それは誰に向けた言葉なのか、彼女自身にもわからなかった。
ゆっくりと瞳を閉じる。人とこうして話したのは、一体どれくらいぶりだっただろうか。
この廃屋も、かつては人の温もりが満ちていた。家族の笑い声、湯気の立ち上る囲炉裏、そして、日々の生活に追われながらも穏やかに流れていた時間。それが、いつから変わったのか。
空を鉄の鳥が飛ぶようになってからだ。たくさんの人々が、疎開と呼ばれる名のもと、この村に流れ込んできた。
彼女のような「人にあらざる者」も、混ざりながら何とか共存していた。だが、それも長くは続かなかった。領域を守るもの同士がいがみ合い、やがて衝突し始めた。
そして、空から降り注いだ大量の黒い球──。
それが、全てを破壊した。
その球が落ちるたびに、多くの命が奪われ、村は瓦解していった。そして、残されたのは、死者たちの怨念。それは、この地に取り残された者たちを歪めていった。形を与え、名を奪い、再び名を刻んだ。
その時、芥蜂雀という存在が「目覚めた」のだ。
人の姿を持ちながら、人ではない。それは、かつてこの村に生きていた誰かの断片であり、彼女自身もまたその一部でしかない。
「境介……」
朦朧とした意識の中で、彼女はたった一つの名前を呟く。
それは、初めて名前を呼んでくれた人間の声だった。
「見つけたぞ。芥。」
その声に反応して、彼女は顔を上げた。廃屋の扉を開けた境介が、薄暗い室内に立っていた。
「なんで……」
「芥ってのは、水はけが悪くて稲作には向かない土地を指す言葉だ。昔の人はそういう土地を嫌った。悪い田んぼが転じて『芥』になったんだ。お前を探すのは、そんなに難しいことじゃなかった。」
境介はスマホを取り出し、地図アプリを蜂雀に見せた。
「……なんでそんなことを知ってるの?」
蜂雀が問いかけると、境介は視線を外しながら答えた。
「昔、どうでもいいことばっかり知ってるやつに教えてもらっただけだ。それより、これに見覚えがあるか?」
境介は神社から持ってきた木簡を蜂雀に見せる。瞬間、彼女の目が一瞬だけ揺らぐのを境介は見逃さなかった。
「やっぱり、見覚えがあるんだな。」
境介は確信するように頷いた。
「じいちゃんから聞いたよ。あの神社は、人ならざる者──怪異を抑え込むためのものだってな。」
蜂雀の視線が床に落ちる。
「そうだよ……僕たちは、あそこに閉じ込められてるんだ。村の外に、許可なく出ることはできないようになってる。」
「そうか。」
境介は軽く頷くと、蜂雀を真っ直ぐに見つめる。
「まあ、それはどうでもいい。重要なのは、お前は俺をあの空間に閉じ込めたかったわけじゃないんだろ?」
蜂雀は少し驚いた顔で、しかし素直に答えた。
「……うん。僕は、ただ……忘れてほしくなかっただけだよ。」
彼女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「君が最後だと思ったんだ。もうずっと長い間、外から人が来なかった。誰も僕たちを覚えていないかもしれない……そう思うと、怖くてたまらなかった。」
蜂雀は、こらえるように唇を噛んだ。
「変だよね。僕は人間じゃないのに……でも、ただもう一度、人間の暮らしを間近で見たかったんだ。誰かと一緒にいたかった。」
境介は一歩、彼女に近づいた。
「そうか。じゃあ……帰るぞ。」
「え?」
蜂雀が驚いて顔を上げる。
「だから帰るんだよ。」
「でも、僕は君を──!」
「それがなんだ?」
境介は間髪入れずに言い放つ。
「久しぶりにバカ騒ぎしただけだろ。それだけのことだ。」
蜂雀が反論しようとするたびに、境介は軽く言葉で切り返す。
「僕、君を騙してた……!」
「そうか。面白かったぞ。」
「君を怪我させた……!」
「俺も石を投げたし蹴ったからチャラだな。」
「でも、それに──!」
「いいよ。」
境介は彼女の言葉を遮る。
「言っただろ。ただのバカ騒ぎだ。それだけだよ。」
その手を差し出す境介に、蜂雀は縋るように手と脚を伸ばした。
「うう……! うあああ……!」
蜂雀は立ち上がると、そのまま境介の胸に倒れ込んだ。
誰にも忘れられた、芥蜂雀。彼女の最初の一歩は、この廃屋の中で踏み出されたのだった。
蜂雀は手を繋いだ境介の顔を見上げる。その目にはまだ戸惑いが残っていた。
「……なんで、許してくれたの?」
境介は一度目を閉じ、深呼吸をしてから答えた。
「この世界で生きていくなら──。」
彼はその言葉を、かつて自分が救われた瞬間を思い出しながら紡いだ。それは、彼の指針となり、今の彼を形作るものでもあった。
「筋を通せば、あとは何してもいいんだぜ?」
蜂雀の目が大きく見開かれる。その言葉に込められた、揺るぎない信念と優しさが、彼女の胸に染み渡るようだった。
彼女が見た境介の顔は、子供のように純粋でまっすぐな笑顔だった。それは、芥蜂雀が誰かから初めて向けられた、嘘偽りのない、温かい表情だった。
周囲の風景は、彼らを包み込むように静かだった。神社の古い鳥居が夕日に照らされ、その影が境介と蜂雀を覆う。
蜂雀の手が、境介の手をさらに強く握り返す。
「……ありがとう。」
それは、彼女の長い孤独を終わらせた、最初の一歩となる言葉だった。
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