第9話 逃走
この場所がおかしいのではない。こいつがおかしいのだ。
境介は心の中でそう結論づけた。この村に入ったときは、少なくともまだ何も起きていなかった。だが、蜂雀に会ってから、何かが確実に狂い始めている。
「入れて」という言葉をうわごとのように繰り返す彼女。その行動がすべてを物語っている。現に自分は普通に神社に入ることができたし、その瞬間には何の異常も起きなかった。
スマホの止まった時間、木の影の動かない夕日、すべてを繋ぎ合わせた結果、境介が導き出した結論は一つだった。
「……一番やべえのはこいつか。」
境介は冷静を装いながら姿勢を落とし、問いかける。
「なあ、ここって、ほかの村人もいるんだよな?」
蜂雀の笑顔が一瞬揺らぐ。その反応は微かだったが、確かに見逃せないものだった。
「……え?うん、いるけど。それがどうかした?」
その一瞬遅れた物言いに、境介の疑念はさらに深まる。
「あー、俺、バス停に忘れ物したかもしれない。」
「ええー!?大変じゃん!じゃあ、取りに行かないと。一緒に行こう?」
蜂雀が嬉々としてこちらに手を伸ばす。その指先が妙に白く細いことに、境介は違和感を覚える。そして何より、その指先が決して鳥居を越えようとしない事実に気付いた。
「ああ、だけど、お前の助けはいらない。道を開けてくれ。一人で行く。」
その言葉を聞いた瞬間、蜂雀の目から光が消えていく。
「ねえ、一緒に行くって言ってるじゃん?なんで無視するの?」
蜂雀の声が微かに低くなる。その音にぞわりとしたものを感じながらも、境介は冷静を保とうと努める。
「道を開けろって言ったんだ!」
「一緒に行くって言ってるでしょ!」
二人の声が村に響く。しかし、いくら大声を出しても、周囲からは誰一人現れる気配がない。
(やっぱり、そうだ。この村には──いや、この世界には人がいないんだ。)
境介は背筋に冷たい汗を感じながら思考を巡らせる。
(何時からだ?何時からこんな場所に迷い込んだ?)
少なくともバス停に降り立ったときには、普通の世界だったはずだ。バスの運転手がこの女とグルだとは考えにくい。だとすれば、蜂雀と初めて会った瞬間、自分は見えない楔か何かを打ち込まれたのではないか?
(そして、今完全に、現実から隔離され始めている。)
一度神社を出たのは、この空間を隔離するためだったのだろう。考えれば考えるほどファンタジーじみているが、こんな不気味な空間を目の当たりにして「常識でものを考えろ」という方が無理がある。
(人口一人の村なんて、あってたまるか──。)
境介は苛立ちと恐怖が入り混じる中、頭の中で最善の行動を考える。元々おかしかったのだ。煙たがられていた自分が、いきなり村の神主になることになったことも、全てが説明できる。
(この女がいるから担い手がいなかっただけだ。俺は、ただの生贄だったってわけだな。)
境介は小さく吐き捨てる。
「ゴミ野郎どもが……。」
その言葉は虚しく宙に消え、彼の胸にどす黒い感情を残した。
鳥居から石段までの距離はおよそ10メートル。境介は目の前の蜂雀を睨みつけながら、冷静に状況を見極めていた。
(村を出るには、こいつをどうにかしなきゃいけない──。)
姿勢を低くし、足元の砂利をいくつか掴む。少女の姿をした蜂雀だが、すでに彼女が人間でないことは明らかだった。
「どいてくれる気はあるか?」
境介は短く問う。最後に確認するために。そして、自分の覚悟を固めるために。
蜂雀は小さく首をかしげ、無邪気な笑みを浮かべた。
「ないよ。君を逃がす気もね。」
その言葉と同時に、彼女の背中から昆虫の脚が生える。鋭利な先端が光を反射し、不気味に揺れた。その異形の姿に、境介の心臓が一瞬跳ねる。
(神社の中にいれば安全かもしれない──でも、それもいつまで持つかわからない。)
境介は砂利を軽く握り直し、冷静に計算する。チャンスは一度きり。力の差を考えれば、掴まれれば終わりだ。
「行くぞ、俺……!」
投石と同時に境内を飛び出し、石段を駆け下りる境介。だが、すぐに背後から異様な音が聞こえてくる。
「君は逃げられないよ──。」
蜂雀の声と共に、カツカツと石段を叩く昆虫の脚の音が近づいてくる。彼女は人間離れした速さで境介を追いかけてきた。
(早い……追いつかれる!)
恐怖と焦りに駆られながら、境介は頭を回転させる。視界の端に、石段の途中にある古びた石柱が映る。
(あそこを……使うしかない!)
境介は意を決して石柱に飛びつき、その勢いで体を旋回させる。
一撃。
カウンター気味に入れ込んだ会心の蹴りだった。
追いすがる蜂雀の脚の一つが石柱に絡みつくように踏ん張り、彼女の動きが一瞬止まる。
「おもしろいことするね。でも、君がどこに逃げても同じだよ。」
蜂雀は軽く柱から脚を外すと、再び境介を追い始める。その目は先ほどの少女らしさを完全に失い、獲物を狩る捕食者そのものだった。
(クソ……!次だ!)
境介は振り返ることなく全力で走り続ける。だが、階段の踊り場の先に見えるのは、村の出口ではなく、どこまでも続く階段だった。
「……おかしい。」
境介は走りながら異様な感覚に気づく。どれだけ走っても、石段は続き、景色が変わらない。足元の砂利道も、最初に見た鳥居も繰り返し目に入る。
(ここは……ループしている?)
蜂雀の声が、すぐ背後から響く。
「君は僕の空間にいるんだよ。この村から出るなんて、無理なんだから──。」
ご丁寧に蜂雀は教えてくれた。だが、その情報で境介はある確信を得る。
「なんの!」
境介はそのまま手元に残っている最後の砂利を上に投げ上げる。
「……?」
最初と違い直接の攻撃ではなかった。
だがそれにより、一瞬蜂雀の視線はそちらに向いてしまう。彼女は人間ではないが、思考回路は大分ヒトに近い。
だから、境介はこの一石に賭けた。最初の攻撃はブラフ。投石がこちらの唯一の遠距離攻撃手段だと印象付けた。そして、二投目は本命の意識を引くためのもの。
人はわからないものを前にしたとき、自然とそれを理解しようとしてしまう。なまじヒトに近いせいで、蜂雀は思考回路の隙を生んでしまった。
そして、それを見逃す境介ではない。
「おお……!」
今まで下っていた階段を急に切り返し、階段の上に向かってタックルを繰り出す。
「ぐっ……この!」
蜂雀も止まろうと足と脚で力を籠めるが、やはり一手遅い。
そのまま最上段に押し上げるが、それでも境介は止まらない。
「まさか……!」
蜂雀の額に汗が滲む。彼女の後ろにはもう鳥居しかない。
「そのまさかだ……!」
境介は止まらない。
「だめ!嫌だ!」
「自分の異形を悔いろ!」
そのまま鳥居まで押し込むと、彼女の体が何か透明な壁で止まる。
「あああ!」
接触部分が赤く光り、蜂雀の体が崩れていく。境介の作戦は空間の突破ではない。空間を支配する彼女を無理やり倒すためのものだった。
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