第8話 ひずみ
蜂雀が去った後、境介はため息をつきながら立ち上がった。
「さて……掃除でもするか。」
玄関の土間に足を踏み入れると、空気がどこかひんやりしている。周囲を見回すと、埃が厚く積もった柱や靴箱が目についた。
そして、玄関の奥に、赤い紐で吊るされた木簡が並んでいるのが見えた。
「……何だ、これ。」
近づいて見ると、木簡の表面には名前が赤い文字で書かれていた。境介はその中に「芥蜂雀」という文字を見つけ、目を細める。
(蜂雀……なんでうちの神社のものに彼女の名前が?)
裏返してみると、同じ名前が黒い文字で刻まれていた。手作りの風合いがあるが、その作りは妙に整然としている。
(まあ、いいか。)
木簡を元の場所に戻し、境介は掃除に取り掛かることにした。
「……これ、どれくらい放置してたんだ?」
境介は埃を手で払いながら、小さく呟いた。食器棚の上、柱の装飾部分、床の隅……どこを見ても埃だらけだ。
「前の神主さんがどこに行ったか知らないけど、しばらく空き家だったみたいだな。」
境介は雑巾と箒を手に取り、とりあえず目につく場所から掃除を始める。
慣れない作業に悪戦苦闘しながらも、なんとか食器棚の上に積もった埃を拭き取る。だが、手が届かない高い場所や細かい隙間に残った埃が気になって仕方がない。
(……蜂雀がいれば、こういう古い家具の手入れの仕方とか教えてくれるのかもな。)
だが、彼女はお腹を満たすとどこかへ行ってしまった。誰に聞くわけにもいかず、境介はひたすら雑巾を絞って拭き掃除を続けるしかなかった。
掃除を続けているうちに、境介は心の中で決意を固めた。
(……とりあえず、掃除機を買うしかないな。)
埃だらけの手を見つめながら、境介はスマホを取り出し、ネット通販サイトを開く。村のネット環境が心配だったが、少なくとも注文くらいはできそうだ。
「掃除機なんて一生買うとは思わなかったけど……まぁ、必要経費だな。」
独り言を呟きながら、境介は検索画面をスクロールする。
掃除を終えた後、境介は再び玄関の木簡に目をやる。
「……蜂雀。」
赤文字が並ぶ木簡の中で、彼女の名前が異様に目につく。無論知っている名前だから、目につくのだろうが、どうにも心に引っかかるものがある。
(この村、いや、この神社……何かがおかしい。)
胸の奥に残る違和感を抱えながら、境介はふと窓の外を見る。夕陽が山の向こうに沈みかけ、境内が深い影に包まれ始めていた。
掃除を終えた境介は、汗ばんだ額を拭きながら縁側に腰を下ろした。
窓を開け放ち、部屋の空気を入れ替えるために外の景色を眺める。広がる田畑と山々。夕陽はその風景をオレンジ色に染めている。
「ふぅ……少し休むか。」
境介は伸びをしながら目を閉じる。
しばらくして目を開くと、寝る前と同じような景色が広がっていた。境介の体感では長い間寝ていたのだが、そんなに短かっただろうか?
だが、見れば見るほど、この景色の異様さが浮き彫りになっていく。
どれほど経っても夕陽の光は変わらない。
(……なんだ?やけに長い気がする。)
再び目を開けた境介は、縁側から見える木々の影に目を留める。だが、それは寝る前と全く同じ位置で止まったままだった。
「……!?」
境介は思わず身を乗り出す。木の影が動かない──その異常さに、全身が冷たい汗でじっとりとする。
(いや、そんなことあるか?)
慌てて縁側から立ち上がり、壁掛け時計を見る。だが、時計の秒針が同じ位置を行ったり来たりしているのを見て、息が詰まる。
「なんだよ、これ……!」
スマホの画面を見ると、表示は「圏外」に変わっていた。ついさっきまで、掃除機の注文をしようとしていたことが嘘のようだ。
(まずい。どうなってるんだ、この村。)
境介は焦燥感に駆られ、玄関へと向かう。
「何が起きてんだよ……」
境介は呟きながら玄関に手を掛けた。その瞬間、階段を上がる軽快な足音が耳に入る。
「やあ、しばらくぶり。」
顔を上げると、蜂雀がカゴを片手にこちらに向かって歩いてきていた。
「ちょっとした軽食持ってきたんだ。食べよう?入っていい?」
鳥居の向こうに立つ彼女の笑顔に、境介の中にほんの一瞬安堵が広がった。見知った存在というのがいるだけでも、孤独感は消えてくれる。さながら地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように、彼女の方に近づこうとする。
「蜂雀……ああ、い──。」
(待て──。)
そう言いかけた口が、自然と止まる。
さっきからここら一帯の景色には漠然とした違和感があった。だが、蜂雀のさっき一言で、その違和感が形になり始める。
(こいつ、なんで毎回鳥居をくぐる時に、わざわざ聞くんだ?)
家の中に入る時に許可を求めるならわかる。だが、神社に参拝する人間が鳥居をくぐる際に「入っていいか」など聞くだろうか?
(いや、聞くはずがない!)
境介の脳裏に、玄関の木簡や、止まった時間、圏外になったスマホが次々と浮かぶ。そこには逆光を受けて佇む蜂雀の姿があるだけだ。しかし、彼女がそのすべてに関係しているのではないかという疑念が、次第に確信へと変わっていった。
「どうしたの?顔、怖いよ?」
蜂雀は小首をかしげながら、少しだけ近づいてくる。その瞳は、不安というよりも「こちらの反応を観察している」ように見えた。
「僕、何かしたっけ?」
境介は言葉を返せないまま、彼女の顔をじっと見つめる。その視線に気づいたのか、蜂雀は少し寂しげな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「何かしたなら謝るからさ。一先ず、入れてくれない?」
蜂雀の声が一瞬、耳にこびりつくような音に聞こえた。それが気のせいだったのかどうかもわからない。ただ、その言葉に背筋が寒くなった。
(やっぱりこいつ、おかしい──。)
この場所がおかしいのではない。こいつがおかしいのだ
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