第7話 村での一歩

 「これ、どこに置く?」


 蜂雀がリュックよりも重そうな段ボールを軽々と持ち上げ、振り返る。その顔は汗一つかかず、無邪気に微笑んでいた。


 家から持ってきたもので足りないものは境介の祖父が用意してくれた。生活費や諸々の費用も面倒は見てくれるとのことだった。


 「……そこら辺でいいよ。」

 境介は畳の部屋の端を指差す。


 「んー、じゃあここね。」

 蜂雀はそのまま膝をついて段ボールを下ろすと、その場に座り込む。そして、リュックのファスナーを開ける境介のすぐ横に移動してきた。


 「これ、何?」「あ、こっちは?」


 境介が荷物を取り出すたびに、蜂雀が興味津々とばかりに覗き込んでくる。彼女の顔が近すぎる。


 「それは充電器だよ。スマホを充電するやつ。」


 そう答えると、蜂雀はそのモバイルバッテリーを手に取ってじっと眺める。


 「へぇー。便利な世の中になったんだねぇ。」


 彼女はその大きな胸を畳に押し付けるように寝そべりながら、ぼんやりと呟く。その姿勢が妙に気だるそうで、どこか現実感を欠いているように思えた。


 蜂雀は男の視線とかを気にしていないように、境介は感じた。


 「……年寄りみたいなこと言うなよ。」


 境介はそう茶化すが、蜂雀は気にした様子もなく笑う。


 「ネットでこんなもの、簡単に買えるだろ?」


 「いや、キミには分からないだろうけど、この村、ネットもろくに繋がらないんだよ。こういう機械、みんな苦手なんだ。」


 蜂雀がスマホの画面を覗き込んでくる。その距離感の無さに境介は思わず体を引く。


 (……プライバシーとか、そういう概念はないのか?)


 彼女の無邪気な仕草に、どこか引っかかるものを覚える。だが、それを言葉にするほどの確信はまだ持てなかった。


 荷解きを進める間も、蜂雀の距離感は変わらない。まるで、こちらの警戒心を削るように、次々と話しかけてくる。


 「あ、これ、何に使うの?」

 「それはUSBケーブル。スマホとかタブレットを繋ぐやつだよ。」


 「へぇー。全然分かんないや。コンセントもこの前できたばっかなのに、時代が進むのは早いねぇ。」


 蜂雀が頬杖をつきながら笑う。その視線がどこか境介を見透かしているように感じた。


 「お前、やけに機械に興味あるんだな。」

 「そうだね。でも、触るのは得意じゃないんだよ。この村の人たちって、みんなアナログ派だからね。」


 その言葉に、境介はふと疑問を抱く。


 (この子も、村の「人たち」の一員なのか?)


 普通に考えればそうなのだろうが、こんないい子が村の外に行かずにここにいるのは、なんだか違和感がある。これぐらいの歳の子なら、都会に憧れたりして、上京するものだろう。ここではあまりにも田舎過ぎる。


(いや、考え過ぎか。地元愛がある子なんだろう。案内してくれたし。)


 その考えを振り払うように、境介はリュックを閉じた。




 「これが、井戸水か……」

 境介は手押しポンプのハンドルを押し下げながら、冷たい水がじわじわと溜まっていくバケツを見つめた。


 最初はなかなか水が出なかったが、蜂雀の「最初に呼び水を入れてー!」という指示通りにすると、急にポンプが軽くなり、冷たい井戸水が勢いよく溢れ出してきた。


 「もっと早く押して。ほら、こうやるんだよ!」

 蜂雀が境介の背中から腕を抑えながら、ハンドルを一緒に上下に動かす。その顔は無邪気そのものだが、その動作は異様に軽々としている。


 (女なのに力強すぎだろ!これが田舎パワーか……!)


 背中越しに伝わる蜂雀の体温と、無駄に近い距離感に戸惑いながらも、境介はなんとか井戸水を汲み上げる。


 「これが、この村の水だよ。綺麗でしょ。出汁をとるのには持ってこいだよ。」

 蜂雀がバケツの中の水を覗き込みながら笑う。その視線の先には、透明でどこか冷たさを感じさせる水が輝いていた。


 バケツから湯呑で一杯掬うと、蜂雀がごくごくと飲んでいく。境介も一口飲んでみる。


「……やわらけぇ。これは、軟水か。それもかなりまろやかだな。」


「お?わかる?なかなかいい舌持ってるね。」


 蜂雀はニヤッと笑うと、湯呑に描かれている絵を見せてくる。


「この山は超軟水よ。そのおかげで色々降ろせて便利なのよねー。ミネラルウォーター欲しいなら、コンビニで買って来てね。」


「はぁー。なるほどね。神事に使うには持ってこいという訳か。」


 軟水は水の中のマグネシウムイオンとカルシウムイオンの含有量が少ない。つまり、純粋な水に近いのだ。


 お茶をいれるのも、コーヒーをいれるのも軟水の方がいい。

 特にうちの家系では、神事によく水を使う。酒を使うところの方が多いので、これはうちが特殊なのだろう。


 この村を取り囲む地形が作り出す水。これから、世話になるその味を感じながら、もう一杯飲み干すのだった。




「さて、さすがにガスコンロは使うか……。」

 境介は井戸水を鍋に入れ、ガスコンロで火をつける。すると、蜂雀が台所の隅に置かれた大きな薪ストーブを指差した。


 「あっちの方が似合うんじゃない?この村に来たんだしさ。」

 「5月に薪ストーブなんてつけるかよ。」


 境介が呆れたように言い返すと、蜂雀は肩をすくめて笑った。


 やがて、湯が沸き、カップ麺の容器に注がれる。その湯気が狭い台所に広がると、蜂雀が目を輝かせながら寄ってきた。


 「これがカップ麺か……お湯を入れるだけで食べられるなんて、ほんと便利だね!」


 蜂雀がそう言いながら、箸を手に取る。しかし、箸の持ち方が妙にぎこちなく、境介は思わず眉をひそめた。


 (……何だ、この持ち方。)


 「いただきまーす!」

 蜂雀は湯気の立つカップ麺に顔を近づけ、大きく一口すする。


 「おいしいね!」

 その言葉に、境介は思わず目を見張った。


 彼女の口元は笑顔でいっぱいだが、どこか違和感があった。

 まるで「初めてカップ麺を食べた人間」みたいな……いや、考え過ぎか?


 境介はそんな思考を振り払うように、自分のカップ麺をすする。

 「まあ、こんなもんだよな。」


 自分の中で母親と過ごした貧しい日々がよみがえる。カップ麺の安っぽい味がその記憶を引き戻し、彼の心にじわりと重さを落とす。


 だが、隣の蜂雀はそんな境介の気持ちなど気にもせず、楽しげに麺をすする音を立てている。


 境介自身、昔からカップ麵には世話になった。母親が料理をしてくれたことなんてほとんどない。


云わば、恭介にとっての思い出の味と言っても、差し支えないほど食べてきた。しかし、いざ母親から離れてみれば、なんだか寂しいような気もする。それを紛らわせてくれる蜂雀という存在は、今の境介には救いだった。


 「あー、おいしかった。やっぱりこれ、便利だねぇ!」

 蜂雀が嬉しそうに言いながら、空になった容器を手に取る。その顔には、どこかあどけなさがあった。


 「そりゃ良かったな。」

 境介はそう答えながらも、内心で胸の奥に広がる暖かさを噛み締めていた。


 境介の視線が蜂雀の楽しげな表情をじっと捉える。その目に映るのは、笑顔で畳にごろごろと転がる可愛らしい少女。


 だが、その無防備さを指摘する前に、蜂雀が先に立ち上がった。


 「さて、キミ。これからやること、いっぱいあるからね!まずは掃除、頑張ってね!」


 そう言い残して部屋を出て行く蜂雀の後ろ姿を見つめながら、境介は深いため息をついた。


(最後まで手伝ってくれるわけじゃないのね……)

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