第6話 着任
バスの揺れが心地良いという人もいるかもしれない。だが、この揺れは違う。
境介は窓の外に目を向けながら、荒れた道路に揺さぶられる自分の体を支えるのに必死だった。
アスファルトはひび割れているのが当たり前で、ところどころ舗装が剥がれている場所も見える。バスがその上を通過するたびに、大きな音を立てて車体が揺れる。
「はぁ……」
溜息が漏れる。隣には誰もいない。むしろ、バスには自分以外に乗客はいなかった。
運転席のラジオからは、雑音混じりの古い演歌が流れている。だが、トンネルに差し掛かるとその音も途切れ、代わりにエンジン音だけが耳を打った。
トンネルの出口が近づくと、薄暗かった視界が一気に広がる。だが、その先に広がる景色はどこか異様だった。
田んぼや農道が広がるエリアを抜けると、次第に周囲は深い緑に覆われた山間部に変わっていった。
車窓の外には古びた電柱が立ち並んでいるが、その間隔が妙に広く、電線も垂れ下がっているように見える。
そして、視界に現れた標識に目が留まる。
「……動物注意?」
錆びついた標識には動物の絵が描かれている……はずだったが、その輪郭は朽ち果て、どんな動物だったのか判別するのは不可能だった。
「こんなところ、誰が通るんだよ。」
小さく呟いてみるが、自分の声がやけに響いた気がして、少しだけ背筋が寒くなる。
バスは山道を登るように進んでいく。車内に他の乗客はいない。運転手の後ろ姿が、境介の視界に小さく揺れているだけだった。
「もうすぐ終点ですか?」
退屈しのぎに運転手に声をかける。すると、運転手はバックミラー越しにこちらを見て、気の抜けた笑みを浮かべた。
「そうだね、もう少しで着くよ。でも、君みたいな若い人がこんなところに来るのは珍しいね。」
「そうですか?」
「そうさ。この村に来る人なんて、最近じゃめったにいないんだ。」
その言葉に、境介は少しだけ違和感を覚えた。
(……なら、このバスは誰のために走ってるんだ?)
だが、問い詰めるのも面倒だったので、それ以上言葉を返すことはしなかった。過疎状態でも村には足が必要だ。
勝手に境介は決めつけると、それで話を切り上げた。
数分後、バスが速度を落とし、終点に到着した。
「終点です。乗客の方は降りてください。」
運転手の声が響く。
境介は座席から立ち上がり、リュックを肩にかけ直す。降り立ったバス停は、山間にぽつんと佇む小さな建物だった。
朽ちかけた木造の待合室が一つあるだけ。周りには人影も建物も見当たらない。
風が吹き、遠くで鳥の声が聞こえた。それ以外は何もない。
「……静かだな。」
そう呟くと、背後から突然声が聞こえた。
「ありゃ、見ない顔だねー。”外”から来たの?」
振り返ると、ショートヘアの少女が笑顔を浮かべて立っていた。
「あー、君が新しい神主さんか。話は聞いてるよ。新人さんが来るって。案内してあげる。行こ?」
少女はそのショートヘアを揺らせて、振り返る。陽の光を浴びているのに、何処か薄気味悪さを覚える笑顔だった。
何処か、現実が揺らぐような、不思議な雰囲気があった。
「……ああ。
少女はさっきよりも瞳孔を開きながらこちらの目を射抜く。
「
変わった名前、というのが最初の感想だった。苗字が一文字で、名前が二文字。おおよそ普通ではないその名前は、なぜか耳に残る独特なものだった。
「キミ、どっから来たの?」
蜂雀がショートヘアを揺らしながら振り返り、にこやかに問いかけてくる。
「……どっからって、まあ普通に都会だな。」
境介は歩きながら、リュックを肩にかけ直す。
村に着いた瞬間から、どこか異様な静けさが彼の中に引っかかっていた。だが、それを口にするのはためらわれた。目の前の蜂雀の無邪気な笑顔が、まるでこの村の空気と矛盾しているように思えたからだ。
「都会ねえ……そういうの、ちょっと羨ましいよ。」
蜂雀が呟きながら道端の棚田に目を向ける。
棚田は整然と段々に広がっていたが、その間に生える雑草やひび割れた石垣が目についた。トラクターの入る余地はなく、手作業での農作業が主流なのだろう。そんな状況が、この村の時間の流れがどこか止まっているように感じさせた。
「……手作業で農業やってんのか、ここ。」
「まぁね。でも、どこの家ももう人数が減っちゃって、全部を手入れするのは無理みたい。」
蜂雀が肩をすくめるように答える。
道端には古びたポストが立っている。赤い塗装は錆びついていたが、回収日時が上書きされた紙が貼られており、どうやらまだ機能しているようだった。
「こういうのも、誰が管理してんの?」
境介がポストを指差して聞くと、蜂雀は笑いながら言った。
「決まってるじゃん。村の人だよ。でも、キミみたいに真面目に気にする人は少ないけどね。」
道が少し広がり、神社の鳥居が見えてくる。その手前で、蜂雀が足を止めた。
「ねえ、キミさ、神主の仕事ってどれくらい知ってる?」
「……まあ、正月とか、おじいちゃんの手伝いはしてたからな。この村のとは規模は違うだろうけど、神事くらいはだいたい分かる。」
境介は自信なさげに答える。
蜂雀が驚いたように眉を上げる。
「へえ、意外。そんなに大きな神社で手伝ってたんだ?」
「ああ。だけど……こんなに静かな神社は初めてだな。」
蜂雀はその言葉にクスリと笑う。
「だろうね。この村はさ、形だけの祭事が多いんだよ。昔からやってるけど、もう意味が分からないものばっかり。」
「意味が分からないのに、なんで続けてんだ?」
境介が問い返すと、蜂雀は少し遠くを見るような目をして答えた。
「……まあ、そういうもんじゃない?お年寄りたちは意味があるって言うし、誰もやめようとはしないのさ。」
二人は少しずつ坂道を登り、やがて古びた鳥居が姿を現す。
苔むした石の土台と、ひび割れた木材の柱。年月を感じさせるその姿は、どこか現実感を欠いた雰囲気を漂わせていた。まあ、こんだけ田舎にあるんだ。こんなものだろう。
「ここが神社の入り口。さ、入ろう?」
蜂雀が振り返り、そう促す。
境介はリュックを肩にかけ直し、中央から逸れて鳥居の前で一礼する。
これは小さい頃、祖父に教えられた神社を訪れる際の礼儀だ。中央は神様が通る道、絶対にそこを通ることはしてはならない。
「……どうした?」
鳥居をくぐろうとした境介は、振り返って立ち止まる蜂雀に気づいた。
蜂雀は鳥居の前でこちらを見つめたまま動かない。
「ねえ、キミ。」
「……なんだ?」
「私、入っていい?」
その一言に、境介は一瞬眉をひそめた。
(なんだ、その質問……?)
神社の鳥居をくぐるのに、いちいち許可を求める必要なんてあるだろうか?普通なら、そんなことを考えもしないはずだ。どこか引っかかるものがあったが、神主以外は許可なく立ち入ってはいけない等の理由があるのかもしれない。
「……別に、いいんじゃないか?」
境介は少し戸惑いながら答える。
「そっか、じゃあ。」
蜂雀は笑顔を浮かべ、境介の隣をすり抜けて鳥居をくぐる。
だが、その時、一瞬だけ境介の視界が暗転した。
(……なんだ?今の眩暈か?)
鳥居をくぐる蜂雀の背中には、陽光を浴びているはずなのに、どこか影が差しているように見えた。ただの日差しの見え方の問題。それが気のせいであることを願いながら、境介も彼女の後に続く。
二人は鳥居をくぐり、境内へと入っていく。
「……意外と手入れされてるな。」
境介が境内を見回しながら呟く。
雑草はほとんどなく、地面はきれいに掃き清められていた。建物の古さは目立つが、最近まで管理されていた形跡がある。
「うん、そうだよ。少なくとも、ここだけはちゃんと守られてるんだ。」
蜂雀が少し儚げな顔で誇らしげに言う。
境介は拝殿を見上げる。柱の木目は色褪せ、神社全体がどこか時間に取り残されたような佇まいをしている。だが、それでも崩れそうな危うさは感じられなかった。
「普通の神社、だな。なんか祭ってるのがいっぱいあるけど。」
なんだろう、よくわからない石像が祭壇に四つ。
(明らかに人じゃない。虫、のような石像。あと、鳥?蜥蜴?最後の一個は、なんだあれ?)
風化が進んでいるのもあって、よくわからないものがある。だが、どの石像も祭られてからかなりの年数が経過しているように見える。
「──でも、綺麗だな。」
何気なく口にしたその言葉。それを口にした瞬間、どこか得体の知れない違和感が彼の背筋を走る。村のどこかからか、凍てつくような視線があった。鳥居の向こう、村の中から来た感覚だった。
(なん、今のはっ……?)
誰かに、いや、何かに見られた。そんな感覚だ。だが、あまりにも一瞬のことで、何が起きたのかわからなかった。嫌な汗が背中を伝う感覚だけが、それが境介を貫いたのだと告げていた。
「どうしたの?」
「え?ああ、いや、なんでもない!それよりも、今日から俺が暮らすのは、そっちの建物か。」
蜂雀が笑いながら振り返る。
「その通り!ここがキミの新しい家だよ。」
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