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 脱衣所のタオル棚を開いた瞬間に充満から解き放たれた柔軟剤の香りが、一瞬積まれたタオルが崩れて顔に降って来たのではないかと思うほどに、まるで質量を持って顔に襲い掛かって来た。わざとらしい花の香りが鼻の奥に雪崩れ込んで来て、びっくりした粘膜が咳を誘った。

 別に柔軟剤を入れ過ぎた訳じゃないだろう。いや、母さんは多めに入れているかもしれないけど・・・。

 それくらい、自分の鼻や、自分の全身が、異様なまでに濃い自然の中に飛び込んで、こういう”人の匂い”から離れた所に居た事の反動が、こうして感覚器官を刺激しているのだ。

 「・・・やっと身体を洗える!」

 結局、昨晩タオルで軽く拭いた身体も土汚れや血生臭い香りですっかり上書きされてしまった。これを機にきちんと清潔な人の生活に戻る為にも、しっかり身を洗い流さないと。

 この3日ほど、自分も鈴ねぇも使わなかったせいで棚の中にギチギチに押し込まれたタオルの山の適当な下の部分から1枚引っ張り出す。一瞬崩れそうになった山を手が押さえてくれて、なんとか無事に引き抜く事ができた。

 「・・・ふぅ、取れた取れた。」

 手に助けられた。

 もう1枚小さめのタオルを取ろうと思ったら、手が人差し指を伸ばして「1」と促してくる。どうやらタオルを1枚欲しているようだったから、さっきより引き抜きやすくなった山からまた1枚引き抜いて、その長くて白い指に渡してやった。綺麗に整えられた卵型の白い爪がキラキラと脱衣所の灯りを反射して、感謝の意を表してきた。

 「あぁ・・・別に気にしないで。・・・。・・・は?」

 振り向くと、下着姿の鈴ねぇが立っていた。


 「うわぁ!」

 「わぁっ!」

 「いや、そっちまで何驚いてるの。」

 「・・・?」

 「いやいや・・・。」

 そういえばこういう人だった。この3日、全く同じような見た目の別人に同じ人として接されていたせいで頭が混乱している。すごく混乱している。そして、そういう感覚が急速かつ無理矢理引き戻されているとも感じる。

 「・・・!」

 なんだか一生懸命に両拳を胸の前に持ち上げて小さくピョンピョンしている。まるで駄々を捏ねてる子供みたいだ・・・。前回は脱ぎ始めを止められたから、学習して今回は下着になるまでは息を忍ばせていたらしいという魂胆までは察しが付くけれど、それにしたって気配が無かった。ずっと後ろにいたのだろうか、それともこの姿でここに転移のような力を使って来たのだろうか。


 「・・・まぁ、いいよ。・・・てか、そちらがいいなら、僕は、イヤじゃない・・・から・・・。」

 「・・・。・・・まぁ!」

 「あんまり嫌がるのも、情けない、って、思ったんだよ。・・・それだけだから。」

 なんでそんな事を言ったのか一瞬分からなかった。まぁ、度重なる経験で慣れてしまったのかもしれない。それに、案外口に出してみると、結局これが自分の本心なんだという説得が付いてしまう感覚もあるのだ。ただ、なんだか、とうとうこう言えてしまった自分に対して、自分の中で自然な変化を感じ切れていないような、そういう複雑なものがあるだけ。

 「・・・んふ。翔ちゃ~ん。」

 鈴ねぇが伸ばした両腕を首に絡めて来て、自分の顔を胸元まで抱え寄せて来た。今まで何度もこの姉には抱き着かれてきたけれどこんな艶っぽい雰囲気でされるのは初めてで身体が緊張してしまう。

 ただ、やっぱり、なんだか憶えがあるような感じもする。

 顎が半ば押し込まれるように柔らかい膨らみに乗せられ、その下で硬めのブラの生地が胸の反発を使って喉仏を軽く押さえて来た。温かい。そして仄かに、タオルからしたのと同じ柔軟剤の香りがする。なんだか、こんな状況でもホッとしてしまうのは、やはり今までの殺伐とした状況の反動だろうか。

 「怖くないよ~。」

 「・・・ふふ、別に怖くないって。」

 「良かった。・・・じゃあ!」

 「え?」

 肩を掴んでパッと突き放されたと思った瞬間、自分のTシャツの裾を掴んだ両手が目にも止まらぬ速さで自分の上半身から服を剥ぎ取った。

 「うわぁあ!」

 「ほらほら!汚れてるんだからサッサと脱いじゃお!全身ピカピカにしてあげるから!」

 「自分で脱げるから!」

 ズボンを下ろされる前に一歩引いて距離を取った。自分から奪い取ったTシャツをガッシリ掴んだ姉はそのままシャツを勢いよく洗濯機に投げ込んだ。2畳ほどしかない脱衣所の中でよくこれだけの動きができるなと感心してしまう。

 「ほら、ズボンも。」

 「・・・あぁ、うん。」

 今更恥ずかしがるのも馬鹿らしくなってしまった。汗やら山を登る時に植物から奪った朝露やらで不快な湿りを持ったズボンを脱いで、洗濯機の前を占領している姉に仕方なく手渡す。

 「パンツは?」

 「それは自分で・・・」

 「・・・わかった。」

 納得してくれたらしい姉が、一息着いて、自分の下着に指をかけた。

 目が離せなかったのは、姉もそういう仕草を明らかに自分に見せつけているようだったのもあるし、自分も、疲れを言い訳にしたいけれど、それを見ないようにする理性を働かせる体力がもうなかった。


 『やっぱりさ、泣いたり走ったりして疲れるのって、なんだかいい具合に、どうでも良くなるのかもね。』


 どこかで聞いたのだろう、頭に過ぎった言葉が、嫌なくらい腑に落ちてしまった。

 一糸纏わぬ姿になって摘まんでいた布地を洗濯機の上の籠に放った姉が両の手を絡ませてこちらを見てくる。待たせたらいけない、さっさと脱いで2人で浴室に入った。


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