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  ◆


 気付いたら眠っていたらしい。掛け布団を胸の辺りまでかけて腕を出した体勢でスヤスヤと布団に潜っていた。壁掛け時計の秒針が刻む音に視線をやると、時間はそろそろ夜中の2時に差し掛かろうとしている。お腹に重さを感じて視線を落とすと、いつの間にかに腹の上でクロが丸まって寝ている。頭を撫でてやるとゴロゴロと喉を鳴らしながら顔を擦り寄せて来た。

 部屋の周りで家族が見張りをしてくれているというのに、自分だけ寝るのは申し訳ないと思い、家族たちの様子を感じ取ろうとしてみる。


 台所からは母親が包丁を研いでいるような音が微かに聞こえる。何か、料理でもしているのだろうか。シャリシャリと砂利の混じったような擦れる音を立ててゆっくりじっくり、包丁を研いでいる。母さんは案外手先が不器用な人で、俺が生まれてから沢山料理の勉強をしたらしいと、いつも父親から愚痴混じりに思い出を聞かされた。そう言われてから食べる生姜の利きすぎた唐揚げは、確かに母さんらしい大雑把さの表れなんだとその度に感じられた。だから、包丁仕事も苦手で、研ぎはいつも父親に頼んでいる。

 玄関の方からは父親が鼻歌を歌っている声が聞こえる。父親は気前も良くて優しい人ではあるが、やはりその豪快さの表裏一体で少し気も短い、特に、今夜のような時は、グッと色々な気持ちを我慢してくれているのは分かるけれど、多少なりともピリピリした雰囲気を漂わせる。襖の向こうから聞こえている、どこか酩酊して呂律が回っていないような鼻歌は、偶に鼻から出るシシシという聞いた事がないような笑い声を伴って、早くこの面倒くさい夜が明けて、全てが上手くいくような期待に膨らませた胸を抑えきれていないようだ。

 仏間からは音は聞こえない。しかし、真っ暗な欄間から独特な線香の香りがふわりと香って来た。小さい頃からよく嗅いでいた、我が家の仏間の香りだ。


 気付くのにそこまで時間はかからなかった。


 「・・・引き締めてくぞ。」


  ◆


 まずは台所から来た。母親の声だ。

 「ね~ぇ~、美味しいお料理ができたんですけど、味見してみない?」

 「どんな料理?」

 「お肉を焼いたの、とっても美味しいわよ~。」

 「そうなんだ。」

 「今お皿で手が空いてなくて襖が開けられないの~。お願いだから開けてくれないかしら~。」

 「ゴメン。僕は今はいらないし、眠いから今日はもういいよ。」

 「開けて~!」

 大きくなっても母の声。

 きっぱり言わなければダメだろうか。

 「開けない。」


 それっきり台所の方からは音も気配も消えてシンとなった。


  ◆


 「・・・。」

 一先ずは、切り抜けた。

 と、一息つくや否や、今度は玄関の方から父親の声が飛んできた。

 「お~い。今、なんかそっちから声がしたけど大丈夫かぁ~?」

 「大丈夫、心配しないで。」

 「本当か~?心配だな~。」

 「大丈夫だよ。」

 「心配だな~。お父さんが一緒に守ってやれば安心だぞ~?」

 「開けない。」

 「・・・。」

 これで・・・

 「お前は親の言う事を聞け!俺はお前の事を心配しているんだ!」

 「『夜のうちは外から開けろと言われても開けなくていい』と言ったのは父さんだよ!」

 「・・・。」

 「・・・。」

 「あ、そうかそうか。ごめんな。じゃあ父さんはずっとここで見守ってるから。」


 襖の向こうの音と気配が消え、再び居間に仄暗い静寂が戻って来た。

 一息つくと、壁掛け時計の秒針がコクコクと動き続ける音だけがポカンと浮き出たように居間に響いていた。


  ◆


 クロの方を見る。クロはなんだか大した事ないようにまだ自分の膝の上で丸くなっている。その様子に凄く安心させられる自分がいる。

 次に来るとしたら恐らく祖母の方だと思い覚悟していると、案の定、仏間の方から祖母の声が聞こえた。

 「翔ちゃん元気か~い?」

 にこやかな声色が欄間越しに投げ入れられてきた。

 「うん、大丈夫だよ。」

 「良かった良かった。」

 祖母の言葉から遅れるように、仏間から線香の香りがひらひらと漂って来た。思えば、先程から祖母が仏壇に刺していた線香の香りは、自分の慣れ親しんだ仏間の香りとなんら変わらない。

 「なんだか風が出て来たねぇ。」

 「風が吹いてるの?」

 「うんだ。こりゃあ雨が降るかもなァ。」

 祖母の言葉に反して、この部屋にはそんな音も風も無ければ雨を予感させるような湿気も匂いも無い。まるで箱の中に閉じ込められたみたいな気分だ。やはりこの部屋が異様な状況にある事に、何となく察しがついた。

 「うん、そうだね。」

 ただ、それは祖母には関係のない話だ。


 「昔から、こういう感じの時だった・・・。」

 「・・・それって、どういうこと?」

 「・・・人が、あの川に喰われる時さぁ。」

 「おばあちゃんも見た事あるの!?」

 「ワシの小さい頃はなぁ。本当は話しちゃいけねぇって村の皆で掟があったんけんど、こんな時じゃ。」

 「・・・教えてくれないですか。」

 「・・・。」

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